4 ゆりかご

 会社では散々だった。

 着くとすぐに所長と副所長に呼び出され、学生気分がどうのリスケがどうのリテラシーがどうのとほとんど意味の分からない説教を小一時間ほど受け、ようやく解放されたと思ったらテラスコンビにフラれた話をぐちぐちと弄られ、有休処理をしたらやっぱりまだ試用期間だから欠勤扱いになると言われ、挙句二十キロのファイバードラムを棚から降ろそうとして思い切り腰を痛めてしまった。

「もうやだやっぱり辞めるこんな会社…」

「まあまあ。ほら、ジクロフェナクの持続性テープあったよ。一日一回でいいって」

 真っ直ぐ伸ばせない腰を押さえながら、千尋は会社帰りに消炎鎮痛剤のシップを探しにドラッグストアへ来ていた。付き合ってくれているこずえはなぜか嬉しそうだ。人の不幸を喜びおって…このカマトト女め…

「それでいい?じゃあレジ行くよ、おばあちゃん」

「誰がおばあちゃんかっ…ててて…」

 ツッコミにも力が入らない。なんとも情けない格好で手を引かれていると、普段は気にも留めない棚の奥まで良く見える。パーボの貧相な店内を見慣れたせいか、とんでもない種類の品揃えとやかましいほど情報の詰まったパッケージに目がくらくらしてくる。

『のどの痛み・頭痛・熱・せき・たん・鼻水・鼻づまり・つらいカゼに 朝はシャッキリ 夜はグッスリ 一日二回でずっときく イブプロフェン配合 総合カゼ薬』

『ストレスで胃が痛い 日頃から調子が悪い 飲み過ぎ・食べ過ぎ・胃もたれ・胃痛・むかつき・胸やけに スーッと爽やか 漢方配合胃腸薬』

『早く治したい 頭痛・生理痛に 口の中ですぐ溶ける 水なし一錠 ロキソプロフェン配合頭痛薬』……

 どれもこれも至れり尽くせりだ。中にはいびきや薄毛に効くと謳っているものまである。ここにはOTC、いわゆる市販薬しか置かれていなくてこの有様なのに、総合病院付きの調剤薬局なんて行ったらどうなることか。千や二千では利かないだろう。この世界はかくも薬で溢れている…その時ふと棚に並んだ一つの商品に目が留まった。

「どしたの、おばあちゃん?なんかいいものでもあった?」

「…え?うん、何でもない。もう一人で大丈夫だから。これ、買ってくるね」

「そ?じゃあ鞄持っててあげるね」

 千尋は老体に鞭打ちひょこひょことレジへ向かう。この世界は薬が溢れている。誰でも簡単に手に入れられる。それが当たり前で不思議とも思わなかった。

 ほんの三日前までは。


「ただいまー…」

 誰もいない部屋に帰宅を告げる。途端に寂しくなり、やめときゃよかったと反省する。

 ―――でも明日には忘れてきっとまた言っちゃうんだろうな…

 などとどうでもいいことを考えながら、ドラッグストアでついでに買ってきた食材を冷蔵庫に放り込む。あー、マヨネーズあったんだ。同じの三本目だよ…貧弱な記憶力を自ら虚しく責め、立ち上がろうとして腰を押さえる。

「つ~~たたた…やっぱり先に貼っとこ…」

 スーツをハンガーに掛け、ブラウスを洗濯かごに投げる。

 ―――…あー外した。ま、いっか。

 一人暮らしの部屋はこうして乱れていくのだと薄々諦め、キャミソールとショーツの格好でベッドに腰掛け、もう一つの黒いレジ袋を開ける。

 ―――生理用品じゃないんだから…

 レジのおばちゃんに文句を言いつつ、袋の中からシップともう一つ、色とりどりの宣伝文句で埋まった箱を取り出し、千尋はそれにじっと目を落とす。

『せき・たん・ぜんそくに… 呼吸をラクにしセキをしずめる テオフィリン配合カプセル 第1類医薬品』

 ひっくり返すと箱の裏に成分名が列記されている。

〈テオフィリン300mg、dl‐メチルエフェドリン20mg、ノスカピン30mg、L‐カルボシステイン375mg、ブロムヘキシン塩酸塩6mg…〉

 ドラッグストアで目に留まり、つい手に取っていた。レジへ持っていき、薬剤師の説明を聞いて、お金を払って、それだけだ。たったそれだけで、必要な薬剤が揃ってしまった。これをステラに持っていけばリリーを救える。他の喘息患者も助かる。足らなかったら魔法で増やしてもらえばいい。パーボの評判だって上がる…

「…いやいやいや、なに考えてんのよ私は…」

 こんな妄想、こずえに聞かれたらまた馬鹿にされる。

 確かに私はあの世界で過ごしていた。それは間違いない。だが。

 ―――また戻ろうって言うの?せっかく元の世界に帰って来られたのに?

 再びステラに戻ってきた人は誰もいないとジョーは言っていた。その人たちの気持ちが今は良く分かる。話したって誰も信じちゃくれない。ステラ?魔法?パーボ?この世界でそんなものを信じていたらそれこそ宗教だ。私にだって守るべき生活がある。長い夢だったんだと言い聞かせて忘れるしかない。アクアも、マキナも、コルシュもフェッテさんもクロウ会長もジョーさんも、あの母娘のことも…

 ―――………できないよ…

 千尋は自分の手をじっと見詰める。ふわふわしたピンク色の髪の感触。はにかんだ笑顔。舌足らずで元気いっぱいの声…目を瞑らなくたってこの手に、目の裏に、耳の奥に蘇る。リリーは今もきっと呼吸が止まる恐怖に怯えながら暮らしている。母親は眠れぬ夜を過ごしている。忘れることなんてできやしない。

 千尋は腰の痛みも忘れてベッドから立ち上がり、カプセル剤の箱を手にトイレに向かう。ドアを開けると朝と同じ、何の変哲もないトイレがそこにある。だらしない格好だが構うものか。どうせ半裸まで見られているんだ。水洗レバーに手を伸ばす。行かなきゃ、約束したんだから…!

 レバーにかかった指が止まる。千尋の脳裏に嫌な想像が浮かんでくる。

 ―――…ちゃんとまた戻って来られるんだよね…?

 頭を振ってその想像を払い除け、もう一度レバーに指をかける。

 ―――行くのよ、私が行かなきゃリリーは…!

 …引けない。怖い。家族の、友達の、同僚の顔が思い浮かぶ。今日はたまたま戻って来られただけかもしれない、二度と戻れなくなったらどうする、あの世界に二度行った人はいないのだ、同じ方法で戻れる保証なんてない、そもそもトイレの水を流したら異世界に行くだなんて普通に考えたら馬鹿げている。なに考えてるの?私…

 ―――それでいいの?

 抱えたままのもやもやが耳元で囁く。震える指がレバーをカチャカチャと鳴らし、その音に冷たい汗が顎先から滴り落ちる。

「……無理だよ…!」

 千尋は一人で叫びトイレを走り出てそのままベッドに頭まで潜り込む。頭の中でアクアたちとこずえとリリーと両親と弟の顔が代わる代わる巡る。

 ―――無理だ、私には決められない、今ここで自分の人生を賭けるなんてできっこない、リリーのお母さんはいつまでも待つと言ってくれていた、リリーも今日明日でどうこうなる訳じゃない、マムノートだってあるし、パーボのみんななら上手くやってくれるかもしれない、それに私は明日も仕事があるんだし…

 我ながら卑怯な言い訳を繰り返し、ベッドの隅で膝を抱えて丸くなる。もはや全身を覆い尽くしたもやもやをシーツのひんやりした感触で誤魔化しながら、千尋は色のない夢の世界へと逃げていった…


「―――へっくし!」

 会社に向かうこずえの車の中で、千尋が豪快にくしゃみをしている。

「大丈夫?腰の次は風邪?気を付けなきゃダメだよ」

 こずえは次の日も朝早くから迎えに来てくれた。段々保護者みたいになってきている。

「ん~ちょっと冷えただけだよ。昨日下着のままで寝たから…」

「え。ちひろんって、家じゃいつもそんな格好なの?…フフフ」

「ちょっと。キモイ笑い方しないで。別に普通でしょ、一人暮らしなんだし」

「え~心配してあげてるのに~。このご時世、どこで誰に見られてるか分かんないんだよ?…で、普段はどんな下着着けてるの?やっぱり安心のフルバック?家でもおしゃれなローライズ?黒レースの小悪魔系ベビードールなんかも似合いそう。それともまさかのイチゴパンツ?それはそれで…」

「やめてよ。あんたが一番見てそうだわ。…パンツの話は置いといて、ちょっと聞いてもいい?」

「ん~なになに~?珍しいね、ちひろんが相談なんて。ドキドキ」

「いや、そんな大したことじゃないんだけど…例えばさ、仕事で急に海外に行かなきゃいけなくなったとして、それは自分にとって大事な仕事なんだけど、いつ帰れるか分からない、もしかしたら帰って来られないかもしれないってなったら、こずえならどうする?」

「え、うちの会社で海外に行くことなんてあるの?国内でさえちっとも売れてないのに」

「例えばの話だってば。うちの会社とかは置いといて。向こうはすごく困ってて、自分も必要とされてるんだけど、家族や友達や恋人と二度と会えなくなるかも、って状況で…」

 運転中のこずえが助手席まで顔を寄せてくる。

「ちひろん?それまた宗教でしょ、ステラとかいう。ダメだって言ってるじゃん?家族を捨てるなんてもっての外!」

「ちょ、前見て、前!もう、だからちがうって。あんまり真剣にとらないでよ。その…心理テストみたいなもんだから」

「そう?ならいいけど…」

 まだ疑い深そうに鼻の頭をしかめている。聞く人間違えたな、こりゃ…

「行く訳ないじゃん」

 まともな答えを期待していなかった千尋に、こずえはあっさりと言ってのけた。

「どうせメールもスカイプもできないってんでしょ?ま、たとえできたとしても絶対に行かないよ。ちひろんと会えなくなる可能性が1パーセントでもあるのなら、私はそんな道は選ばない」

「だから私はどうでも…」

 真っ直ぐ前を向いて運転するこずえの表情は真剣そのもので、千尋はそれ以上言葉を継げなかった。私かどうかはともかく、こずえは天秤にかける対象が常に明確だ。同じ立場になったとしても迷ったりしないだろう。千尋はそんなこずえが羨ましかった。


「おーい、大鳳氏。HPMC6・25キロ量ってきて」

 癇に障る呼び方をするのはテラスコンビの太い方、山家先輩だ。造粒室でキャスター付きの椅子をギシギシ言わせながらノートパソコンを打っている。

「ええっ?私、それで昨日腰やっちゃったんですけど…」

 千尋は同じ部屋で自分の背丈ほどもあるV字型のステンレス製容器を、箱型の単純な構造の本体にセットしている。V型混合機と言う見たままの名前の機械で、30リットルの容器がただただぐるぐると回転し中に入れた粉体を混合するためだけの製造装置だ。

「昨日のはL‐HPCだろう。今欲しいのはHPMCだ、全然違う。まさかいまだにその違いも分からないんじゃないだろうね?大鳳氏」

 エクセルで処方量を計算しているように見せかけて画面の端でマインスイーパーの記録に挑戦しているのが見えている。マウスがカチカチうるさいんだよ。

「…低置換度のヒドロキシプロピルセルロースは膨潤型の崩壊剤で、ヒドロキシプロピルメチルセルロースは水溶性の徐放基剤ですよね?そうじゃなくて、どっちのドラムも同じような重さで、同じような棚に置かれてるってことなんですけど」

 V字型の容器を腕より太い回転軸に差し込み、片手で持てない重さのクランプと折りたたみ杖のようなピンで固定する。一つ一つの作業がいちいち大掛かりで、その度にジクロフェナクのシップを三枚貼った腰がピキピキ言っている。

「分かってるじゃないか。なら取り違える心配もないな。だいたいぎっくり腰なんかで音を上げてたらこの先やっていけないぞ。俺なんかもう十年は膝の痛みを抱えているんだ。昨日今日の腰痛なんかとは年季が違うんだよ…あっ」

 挑戦に失敗したらしい。機嫌が悪くなりそうなのでこれ以上の抵抗はやめておこう。千尋は分かりましたよと素直に従い、空の台車を押して造粒室を出ていく。

「いいか、6・25きっかりだぞ、あと近くにHPC‐Lもあるから間違えるなよ、錠剤が崩壊しなくなるからな…」

 再戦を始めたデブが背後からまだ色々と言ってくる。はいはい、それは造粒に使う結合剤でしょ、分かってるって…

 造粒室の隣に電子天秤の並ぶ秤量室があり、その続きに原料保管室がある。ここには医薬品製剤を作るためのあらゆる原料、すなわち結晶セルロースや乳糖のような製剤を形作る基となる賦形剤、胃の中で速やかに溶かすための崩壊剤、それらがバラバラにならないように繋ぎ止める結合剤、錠剤や顆粒の表面に膜を作って様々な機能を付与したり有効成分を酸素や光などから保護するコーティング剤、錠剤を作る時に金属に粉体が付かないようにしたり顆粒同士がくっつかないようにしたりするステアリン酸マグネシウムやタルクといった滑沢剤、その他にもpH調整剤や増粘剤、色素などそれぞれ種類ごとに分類され、五列並んだ天井まで届く可動式の棚に収められている。

 ファイバードラムや袋体がぎっしり詰まった棚はハンドルに全体重を乗せないと動いてくれない。腰をかばいフーフー言いながらコーティング剤の乗った棚の通路を広げ、HPMCのドラムを探す。…あった。やっぱり20キロのドラムで、やっぱり上段に置かれている。

 またこれを降ろすのか…。一人でうんざりしていてもしょうがないので、拳で腰を叩き気合を入れ、両腕を一杯に伸ばしてドラムの底を抱え込む。

「よい…しょっ!…あぅっ!」

 一気に引き寄せ胸に乗せた途端、昨日の惨劇を再現するかのように腰に電撃が走った。力が入らない。やばい。引き寄せた勢いに任せて仰向けに倒れていく。まずい。このままだと頭から落ちる。まずいまずい…!為すすべなく目を閉じたその時、背中が硬い壁に当たって止まった。

「なにやってんの、大鳳ちゃん」

 壁かと思ったのはテラスコンビの細い方、藤澤先輩だった。千尋の胸の上でぐらついているドラムを受け取り、ひょいと台車に降ろす。

「あ…ありがとうございます。助かりました…あてて」

 千尋は棚に手をついて生まれたての小鹿のようにへたり込む。腰から下の力が抜けて立ち上がれないでいると、さながら英国紳士の如く手が差し伸べられた。

「ダンスでも踊っているのかと思ったよ。肩、貸そうか?それとも胸がいい?」

「胸って…ぜひ肩でお願いします…」

 掴んだ手をさわさわと撫でられ、助けてもらった恩をあっという間に忘れて千尋は背筋を震わせる。本人だけがさりげないと思い込んでいる仕草で肩に手を回され寒気が止まらない。生理的にムリなんだよなぁ…この人…

「こんな作業を女の子にやらせるとは、ムネにはフェミニズムが足りないな。あいつは女の子の扱い方を全然分かってない」

 お前もな。と言いかけて口をつぐむ。粉を量っている間も傍にいて手伝ってくれるのだが、ちょこちょこ触ろうとしてきて正直うっとうしい。

「まあ、裏を返せばジェンダーフリーってことなんだろうけど。ムネが女の子をこんなに信頼するのも珍しいよ」

「ええ?ただコキ使われてるだけな気がするんですけど…」

「それが信頼してるってことなんだよ、ムネの場合。自分でやった方が早いことでも、やらせて覚えさせようとしているのさ。実際、呑み込みが早いって褒めてたしね。本人には絶対言わないだろうけど。あいつ気に入ってると思うよ、大鳳ちゃんのこと。あ、でも俺はこずえちゃん一筋だから。悪いね」

「はあ…」

 何が悪いかは知らないが、褒められていたと聞いて嫌な気はしない。こんな自分でも頑張っている甲斐があるのだろうか…量り終わったHPMCのドラムを棚に返そうと苦戦しているのを、見かねた藤澤がまたひょいと戻してくれた。

「ムネもそうだけど、大鳳ちゃんも大概ぶきっちょだねぇ。もっと頼ればいいんだよ、周りの人間に。意外とみんな優しいからさ。あ、この貸しはこずえちゃんのプライベートショットで返してくれればいいから。じゃ、よろしく~」

 千尋の腰をポンと叩き、藤澤は去っていった。

 ―――もっと頼れ、か…

 ちょっと前にも誰かに言われたような気がする。ジンジンしている腰をさすりながら、しばらく千尋はそれが誰だったかを思い出そうとしていた。


「大鳳さん、ちょっと」

 終業時間の直前、居室のパソコンでデータをまとめていると副所長に手招きされた。ミーティング室を指差し、入れと言っている。通称『説教部屋』には昨日の朝も無断欠勤と社有車の事故の件で呼ばれたばかりだ。なんでこんな時間に…猛烈に嫌な予感がしたが無視する訳にもいかず、仕方なくついていく。

「失礼します…」

 ドアを開けると予感の通り、六人掛けの机の真ん中に所長が座っていた。ああ、また長くなる…今度は何やらかしたんだろ、私…。恐る恐る部屋に入る千尋に副所長が対面に座るよう促す。

「早く座りなさい。どうした、腰でも痛いのか?」

 動きが不自然だったらしく感づかれてしまった。

「いえ!…大丈夫です、ハハ…」

 労災にでもなったらまた安全衛生がどうのエビデンスがどうのガバナンスがどうのとねちねち言われるに決まっている。正直に言ったところで痛みが取れる訳でもなし、ここは我慢我慢…。引きつった笑顔でやりすごしてパイプ椅子に座ると、所長が神妙な顔で切り出した。

「大鳳くん…君は何年目だったかな?」

 頭の上に疑問符が浮かぶ。何年目…?入ったばかりの新人に社歴を問うはずないし、年齢が知りたいのかな?はっ、もしかして車の免許のこと?やっぱり事故の説教の続きか…

「所長所長、大鳳さんは今年の新入社員です」

 副所長に耳元で囁かれ所長はバツが悪そうに咳払いをしている。えええ…さすがにそれぐらいは覚えておこうよ…

「…ゴホン。それはともかく、君は我が製剤研究所で進行中の開発テーマの状況は把握しているかな?新薬は糖尿病のTZK‐98、シンセイ薬品との共同開発品のST‐12、後発は高血圧のTG‐108、高脂血症のTG‐109、抗がん剤のTG‐810…」

「はい、先週の全体会議で聞いたので大体は。えっと…TZK‐98は新規機序の糖尿病治療薬のファーストインクラスを目指して二十年前から開発が続いていましたが、ようやく昨年申請され結局七番手で上市予定。骨粗しょう症治療薬のST‐12は治験薬製造まで完了、しかしシンセイ薬品から契約解除が通達され現在ペンディング中。TG‐108は口腔内崩壊錠で処方設計されていましたが、崩壊時間が三分以上かかり普通錠の方が早いくらいで先日営業判断で開発中止が決定。TG‐109は配合剤にしたら室温一か月で安定性がアウトになって、TG‐810はそもそも高薬理活性物質の製造施設の許諾が降りていない…」

「もういいもう十分だそれ以上聞きたくない…!」

 会議メモを見ながらありのままを答えたら思いの外ダメージを与えてしまったようだ。机に突っ伏し泣き崩れる所長の肩を副所長がしっかりしてくださいと支えている。全て事実を述べたまでで、もちろん千尋に悪気はない。

「すまない、ショックでつい取り乱してしまった…君の言った通り、今期この研究所にはすぐに成果を出せるテーマが一つもない。本社の開発本部からも製剤関係の品目は上がってこないし、かと言って創薬研究所の新薬を待っていたら何年先になるか分からない。これはビッグイシューだ。この製剤クリフを乗り越えられるようなグランドデザインを所員一人一人がドローできなければステークホルダーからはトラストを失いドメスティックなクリティシズムをアボイドできないどころか研究所自体のレゾンデートルが…」

「所長所長、本題から外れております」

 最後の方、もうビジネス用語ですらないだろ。結局何が言いたいのか分からないまま副所長が話を引き継ぐ。

「とにかく、この状況を打開するにはドラスティックな改革を断行するしかありません。そこで、ランドマーク社と製剤開発のアウトソーシングについての新プロジェクトを立ち上げることにしました。要は受託研究です」

「え、ランドマークって…アメリカのですか?確か世界で三位か四位くらいの…」

「そう、そのランドマークだよ。幸いウチは研究所にも関わらず製造設備が整っている。ラボ用の流動層から200リットルのバーチカルまで揃っていて、有核錠打錠機も置いているような研究所は他にはなかなかないからね。これを使わない手はない。かねてから打診はされてはいたんだが…所長はその…英語がちょっと…」

 副所長は横目でチラチラと所長を窺いながら急に歯切れを悪くする。もしやこの人…

「何かね四宮君、僕に意見でもあるのかね?大体、ここは日本なのになぜ英語を使う必要があるんだね、ん?」

「いえとんでもございません所長のおっしゃる通りでございますハイ」

 あれだけ訳の分からない横文字を並べるくせに英語はできんのかい。赤点取った高校生みたいなこと言いやがって。

「と、とにかく、その新プロジェクトのメンバーに大鳳さんにも入ってもらおうと思っています。メンバーは他に開発チームの藤澤くんと山家くん、分析チームの桝田くん、江角さん、それに創薬研の原薬チームと信頼性保証からも何人か入る予定で、それにまだ先ですが、ランドマーク本社から一人、アドバイザーとして来てもらうことになっています」

「ちょ、ちょっと待ってください。私、七月まで試用期間ですし、まだこの社内のことさえ良く分かっていないんですけど…」

「それはもちろん承知しているよ。対外的な業務になるし、向こうとのやり取りは基本全部英語だ。アメリカ本国への出向もあるかもしれない。入社したばかりのあなたにはかなりのプレッシャーになると思う。でも、だからこそ若い力に期待しているんです。ここでキャリアを積んでおくことは、あなたにとっても必ずベネフィットになるはずだ。どうだろう、是非引き受けてもらいたいんだが…」

 話が唐突すぎてついていけない。今の練習試作でも残業してやっとなのに、そんな重要な仕事を自分がこなせるとは思えない。英語にしたって卒業旅行でハワイに行った時、ギフトショップでジャストルッキングさえまともに言えなかった。

「…正直、自信がありません。少し考えさせてもらってもいいでしょうか…」

「不安になるのも分かる。無理強いはしません。ただ、藤澤くんと山家くんからはあなたが絶対に必要だと強く推されているし、江角さんもあなたがやるならと言っているんだよ。…連休明けにキックオフミーティングがある。それまでに決めておいてください」

 ―――私が…必要…?

 ぼんやりと考え込む千尋に頼んだよと言い残し、所長と副所長はミーティング室を出て行った。

 ―――どうして私なんかに期待するの…?何もできないって言ってるじゃん…

 千尋は自分でも何故だか分からないが今にも泣き出しそうな顔になり、しばらく立ち上がれずにいた。


「お疲れさん。意外と早かったね。ひょっとして説教じゃなかった?」

 自分の席に戻ると、古塚がいつものように紙コップのコーヒーを差し入れてくれた。副所長に連れられていったのを見て、出てくるのを待ち構えていたようだ。

「はあ…なんかいきなり新プロジェクトのメンバーに入れって言われたんですけど…」

「お…!…そうか、すごいじゃないか。受託とは言え、ランドマークみたいなメガファーマと一緒に仕事ができる機会なんてそうそうないからね。しっかり頑張りな」

「あ…いえ、まだやるって決めた訳じゃなくって…」

「え!ちひろんやらないの?」

「わあっ!」

 机に置いた手の間から突然こずえがにょきっと顔を出した。どっから湧いてくるんだこの子は。

「なんだ、ちひろんがやらないんだったら私もやめとこっかな」

「いや、やらないとも言ってないんだけどね…でも正直、私には荷が重いっていうか、自信がなくって…」

「大鳳さん!」

 古塚がデスクに掌を叩き付け、勢いコーヒーが跳ね上がる。手の間のこずえもびっくりしている。

「なにをそんな弱気な!らしくもない!やる前から自分で決めつけてどうする?君の企業研究者としてのキャリアはまだ始まったばかりなんだ、例え失敗したって失うものなんてない、いや、君ならきっとできる、やるべきだ!」

 あ、熱い…こんなこと言う人だったんだ…拳を振るって熱弁する古塚さんは、なんとなく誰かに似ている気がした。

「そうだよ、ちひろんは自分のことを卑下しすぎだよ!」

 こずえまでその熱に当てられて千尋の腿をぽよぽよ叩きながら訴えだした。

「そりゃあイノシシに社有車ぶつけたしフラれたショックで無断欠勤もしたよ?でもちひろんはそれ以上に頑張ってるじゃん!毎日地味に遅くまで残ってるし、私にはとても持てそうにない機械だって一人で組み立てられるんでしょ?同期の子たちもみんなちひろんの真似はできないって褒めてるんだよ?」

「褒めてないよね?それ絶対褒めてないよね?だいたい、ここにきてからまだ二週間も経ってないんですよ?お互いの性格も人となりも大して知らないのに、どうしてそこまで言い切れるんですか!」

 二人の勢いに乗せられボリュームの上がる千尋の反論に、こずえと古塚がきょとんと顔を見合わせる。

「…単純だからだよな」

「…分かりやすいですもんね」

「誰にでも好かれる。困っている人がいたら放っておけない。自分より人のことが気になる。転んでもめげない。…朝ドラのヒロインかな?」

「頼まれたらノーと言えない。ひねたように見せたくても根が真面目だから結局安請け合いして一人で背負い込む。…動物占い、絶対たぬきでしょ」

「ぐ…そうだけど…」

 ずけずけと言い当てられあっさりとたじろぐ。そんなに単純で分かりやすい人間だったのか、私は…

「いいかい、大鳳さん。その仕事をやりたくてもやれない、やらせてもらえない人だっている。その人からしたらなんてうらやま…いや、簡単に諦めたりできないはずだ。もっと自分に自信を持て。自分の力を信じるんだ…!」

「古塚さん…」

 いいことを言っているつもりの自分に酔い、背後に何かキラキラしたものまで纏っている。千尋はなぜ古塚がこんなに親身になってくれているのか、ようやく分かった。

「…メンバーに入れなかったことひがんでますね」

「おかしいなあ、ボクチームリーダーのはずなんだけどなあ、分析チームの桝田さんは選ばれてるのにねえなんでだと思う?確かにこないだTOEIC受けたら驚異の200点切りだったよ?勘で埋めたってもっと取れるよ?奥さんにもお前にはがっかりだって言われたよ?でもちょっとくらい夢見させてくれてもいいじゃないかお願いしますボクにもお仕事くださいプリーズ」

「うるさいド変態」

「お前にはがっかりだよ」

 新人二人にとどめを刺された古塚は、今日も残業の夜に儚く散っていった。


「ただいまー…」

 誰もいない部屋に帰宅を告げる。

 ―――あ、また言ってしまった…

 昨日の反省を全く生かせず案の定、今日も寂しい気持ちに浸る。こりゃ、しばらく治らないな…

「おかえりー、って言ってくれる人でもいればね…」

「おかえり」

「うわあっ!」

 部屋の中に突如現れた人影に千尋はコントのようにひっくり返る。

「相変わらずリアクションがやかましいな、姉ちゃんは」

「い、いきなり人んちに現れないでよ、ケージ!」

 勝手に上がり込んでいたのは弟の蛍次だった。リビングのソファーで実家のようにくつろいでいる。

「モンスターじゃねえんだ、いきなり現れる訳ないだろ。合鍵、自分で家に置いてっただろうが」

 チャリチャリとキーホルダーを揺らすその手にはコンビニでもらえるプラスチックのスプーンが握られている。

「…あっ!プリン!楽しみにとっといたのに!なんであんたはいっつも人のもん勝手に食べんのよ!」

「別にいいだろ、社会人がケチケチすんなよ。減るもんじゃなし」

「いや減ってるし!食ってるし!初任給もシップと生活費で消えちゃったの!そのプリンだって散々迷って買ったのに…だいたい浪人生のあんたがなんでわざわざうちまで来てんの?家で勉強してなさいよ」

 蛍次は中学の時に買ってもらったベースにはまり、高校ではバンドを組んで自分でオリジナル曲まで作ったりして遊び呆けていたのに、三年になって急に医学部に入ると言い出し、音楽も一切辞めて猛勉強を始めたが結局全部滑り、今は地元の予備校に通っている。

「親父が心配だから見て来いってうるさいから来てやったんだよ。連休は帰るって言ってたくせに連絡もしてこないって、オカン怒ってたぞ」

 あ。そうだった。こずえの着歴に紛れて忘れていたが、実家からも何度か電話が来ていた気がする。

「し、仕事とか…色々忙しかったのよ。てか、もう社会人なんだから、そんなくらいでいちいち心配なんかしないでよね!」

「直接言えよ。俺は別に心配なんかしてないし」

 蛍次はプリンを食べ尽くすと、ポケットからポケモンのモンスターボールを平べったくしたような器具を取り出し、慣れた手付きでカバーを開きレバーを押し込みマウスピースを咥えて息を吸い込む。ディスカスという喘息薬の吸入器だ。

「…あんた、まだそれ使ってるんだね」

 見慣れた光景のはずなのに、どこか感傷的になってしまう。どうしてかは…自分でも良く分かっている。そんな姉の気も知らない弟は、キッチンのシンクで口に残った薬を濯ぎながらあっけらかんと言い返す。

「は?当たり前だろ。俺にとって命綱なんだよ、これは。特に今日は泊まりだしな。迷惑はかけられねえから」

「え?泊まってくつもりなの?そっか、もうこんな時間だもんね…確か敷布団と毛布は余分にあるはずだから、あんたはベッド使っていいよ。着替えとかは持ってきたの?それよりご飯は食べた?ちょっと待ってて、今から用意するから…」

「落ち着けよ。誰が好き好んで姉ちゃんちなんかに泊まるかよ。ツレが一人こっちの大学にいるから、そいつんちに泊めてもらうんだ」

「あ…そう…。そりゃそうだよね…」

 姉が言うのもなんだが、蛍次はバンドでフロントマンを務めていたこともあってか、やたらと人気があるらしい。事実、千尋の友達にもファンがいた。

 ―――ツレとか言って…きっと彼女なんだろうな…

 少し寂しそうにする姉を気にも留めず、ボストンバッグを肩に担いで部屋を出ていこうとする。

「…もう行くの?」

「元気だって分かればもう用はないよ。姉ちゃんだって俺がいたら邪魔だろう?」

 ―――そんなこと…

 言いかけて言葉を飲み込む。蛍次のことだ、本当にそう思っているだろうし、こいつに弱みなんか見せられない。見せたくない。引き留める理由を考えようとする自分を叱りつけ、毅然として見せて玄関まで見送る。プリンご馳走様、と靴を履く蛍次のボストンバッグの奥に、参考書が詰まっているのが見えた。

「…ねえ、あんたまだ国立の医学部目指してるの?」

「私大だと何千万と学費がかかるんだろう?奨学金もらえたって足りないし、流石にそこまで我が侭言えないよ」

「そうじゃなくて…なんで医学部なの?簡単じゃないことくらい受けてみて分かったでしょう?それに試験もそうだけど、入ってからはそれ以上に大変なんだよ?あんた本気で医者になりたいの?そんなの聞いたことなかったけど…」

「そりゃあ言ってなかったからな。俺が何を目指そうが勝手だろ」

「なによ、その言い方…心配してあげてんじゃない!他の学部なら十分入れたのに浪人までして!あんたならどこでも上手いことやっていけるでしょ…」

 ドアノブに手を掛けていた蛍次が振り返る。呆れているような、悲しんでいるような冷たい目に千尋はたじろぐ。この子…こんな顔もするんだ…

「…姉ちゃんはそんな気持ちで薬学部に入って、薬剤師になって、製薬会社に就職したのか?もしそうならがっかりだ。俺は本気だし諦めない。絶対に医者になってあの頃の恩を返す。そう決めたんだ」

「……」

 弟の強い言葉に何も言えなくなる。

 千尋には夢がなかった。子供の頃のケーキ屋さんになりたいだとかタレントになりたいだとか、そういう他愛もない夢はいつの間にか消え去り、ただ目の前の日常を無為に生き、十八歳になったら現実を突きつけられ、その現実から逃げるために勉強し、自分の身の丈に合った大学を選び、みんなに倣って大学院へ進み、当たり前のように国家試験を受け、ここしか受からなかったから入社した…

 思い返せばすべてが成り行きだった。なりたくて今の自分に辿り着いたのではない。詰られてもしょうがない。私には夢がなかった。…なかったのか?

「おい、本気にするなよ。返す相手がそんなんじゃ困るってだけ…ウ、ウン…なんだよ、ドアチェーンくらい直しとけよ、物騒なんだから」

「…ケージ…」

 照れ隠しに喉が詰まったふりをする癖。小さい頃から変わらないな。千尋は今日初めて小さく笑った。

「あと、投げっぱなしの服もちゃんと片付けろよ。そんなんじゃ結婚できねえぞ」

「…うるさい!さっさと行け!」

 こっちも照れ隠しに声を荒げる。いつの間にか呼んでいたタクシーに弟が乗り込むのを見届け、千尋は部屋の中に踵を返す。

 私には夢がなかった。なりたいものがなかった。色々失敗もしてきたし、これからも間違え続けるだろう。でもそれがどうした。受験の時は薬学部に入りたくて頑張ったし、合成の研究を続けたくて研究室に残った。インターンでお世話になった薬剤師の先輩に憧れたし、今日与えられた仕事にしたって誰もができることじゃない。私だっていつも『夢』を追いかけてきた。そして辿り着いた今の私がここにいるんだ。

 千尋はテーブルに置きっぱなしにしていたテオフィリンの市販薬を引っ掴み、トイレの前に立つ。

 行けるかどうかも分からない。行っても何もできないかもしれない。二度と戻って来られない可能性だってある。でも、それがどうした。

 ドアを開けると無機質な白磁が出迎える。

 私は単純なんだ。単純で分かりやすい人間味あふれるたぬきのヒロインだ。何もしないで後悔していたらそれこそ蛍次に笑われる。この先に、今の私の『夢』がある…!

 伸ばした手がレバーに触れ、躊躇いなくそのまま引き上げる。聞き慣れた流水音と共に白磁の中を渦が巻く。あれ、何も…思った拍子に目の前が眩い光に包まれ、そのめくるめく渦の中へと意識が吸い込まれ、吸い込まれ―――


 ―――背後でドアが激しくノックされている。独特の臭気。意識がはっきりしてきた。窮屈な部屋。薄気味悪いタイル。小汚い便器と奈落につながる黒い穴。

「チヒロ?いるのか?チヒロ!」

 知った声。来られた。やっぱり夢じゃなかった…!

 逸る心を抑えて身だしなみを確認する。同じ失敗は繰り返さないぞ。前と同じ民族衣装。上着も着ている。下もちゃんと履いている。はだけてもいない。よし、大丈夫…!

「アクア!戻ってきたよ!」

 チヒロは思い切りトイレのドアを開け放つ。なんなら胸にでも飛び込んでやるぜ…!感動の再会…!

「やっぱりチヒロか!ちょっ、どいてどいて…」

 アクアは広げた両手を軽やかなフットワークで躱しトイレに飛び込みドアを閉めると同時に高らかに排泄音を轟かせる。

「………」

 抱きつこうとした体勢で固まるチヒロの前をマキナとコルシュとフェッテが通り過ぎる。

「お、チヒロじゃん。元気?」

「あ、チヒロさん。お疲れ様です」

「おお、チヒロ殿。調子はどうですかな?」

 フランクな挨拶を残し、みんなそれぞれの作業に戻っていく。チヒロは頬を赤く染め、咳払いを一つしてから襟を整える。

「…ゴホン。…えー…と…」

「いや~ほんなこつしぬかちおもうた~工事長引いててまだウチの水洗使えなくってさ~チヒロもよりによってこんなタイミングで来なくたってね~もうちょっとでホントにウンがツきるところだったよハッハッ…はぅあっ!」

 千尋の投げつけたなにかとても尖ったものがアクアの眉間を貫いた。


「…なんだってのよいったいどれだけ悩んだと思ってんのなんで私ばっかりこんな仕打ちなのあの決心はなんだったのよだいたいみんなももっと喜んでくれたっていいじゃない私だけ一人で盛り上がってバカみたいぶつぶつ…」

 チヒロはカウンターの隅っこで椅子の上に体育座りして壁に向かってぶつぶつと呪いの呪文を唱えている。

「あによ、まだむくれてんの?」

 その側にマキナが寄って来て、隣の椅子にひょいと飛び乗る。

「悪かったってば。チヒロが戻ってきたらいつも通りに迎えようってみんなで話してたの。ちょっとやりすぎちゃったってだけで。あたしらだって嬉しいんだよ?ホントよ?まさかこんなに早く戻ってきてくれるなんて思ってなかったし…あ、あいつは放っといていいから」

 マキナが肩越しに指さす方では、アクアの額に刺さった尖ったものをフェッテが引っこ抜いている。

「あ、危なかった…ヘルメットがなければ即死だった…」

「うむ。そんなものないですし見事に貫いておりますぞ、三代目」

 ピューピュー血が出ているのを見て、ホンマや、などと言っている。きっとこの世界ではなくあの男だけがふざけているのだと信じたい。

「もっとちゃんと急所を狙うべきだったわ。…ありがと、マキナ。ちょっと拗ねてみただけ。私だってそれなりの覚悟で来たんだもん、これくらいでいちいち凹んでいられないよ。あ、そうだ。リリーの薬なんだけど…って、あれ?」

 ない。手に持っていない。服のポケットや袖の中をまさぐるがやっぱりない。

「どしたの?」

「あっちの世界でテオフィリンの市販薬見つけたから持ってこようと思ったんだけど…来るときに落としちゃったのかな?」

「へえ、チヒロの世界じゃ普通に手に入るものなんだ。でも持ってくるのは多分無理だと思う。世界のバランスが狂っちゃうから、異世界の物質は持ち込めないって知り合いの召喚士が言ってたし。呼び出せるのは精神とか存在とか、そういう概念みたいなものだけなんだって。だからこの世界ではチヒロは概念なんだよ」

 概念て…。この身体も服もこの世界が適当にあしらえたものだってことか。持って来られれば簡単だったのに、世の中そう上手くはいかないか…

 がっかりしてカウンターに顎を乗せると、目の前にマキナがガラスの小瓶をコトリと置いた。これは…?手に取って光に透かすと、ほんのわずかだがキラキラした細い針のような粒子が入っている。

「これって…もしかして…!」

「この二日間、あたしらが遊んでたとでも思う?まあ、頑張ったのはほとんどコルシュだけどね。フェッテが挽いた茶葉からやっとこれだけ取り出せたって」

 茶葉から取り出した無色の針状結晶なら間違いなくキサンチン誘導体の昇華精製物だ。たった二日でここまで…遊んでいたなんてとんでもない、これなら…!

「でも、まだ駄目なんだ」

 背後から小瓶が取り上げられた。コルシュだ。長い前髪に隠れた奥から小瓶の中の結晶を見詰めるその下瞼に、黒々と隈が浮き出ている。

「抽出量からして、恐らくこの結晶の中身はほとんどがカフェインだと思う。再結晶や昇華精製もしてみたけど、どうしてもテオフィリンだけにすることができないんだ」

「魔法は使えないの?分離するようなのってなかったっけ?」

 魔法か…チヒロはそんな単語が出てきても驚かなくなっていた。だがマキナの指摘にコルシュは首を振る。

「『分離スキゾ』はまだ習ってないし、どっちにしろそのものが単離できてなければ上手く行きっこないよ。『万物の目オムニスオクルス』が使える先生に昨日見てもらって三種類の物質が混じっていることは確認できたけど、マムノートにも分離方法までは書いてないし…」

「大丈夫」

 腕を組んで悩むコルシュの手からチヒロが小瓶を取り返す。

「抽出に使った溶媒はクロロホルム?確かシリカゲルもあったよね。マキナ、お願いしておいたカラムって…お、できてるじゃん。うん、これならできそう。大丈夫」

 チヒロは作業場にある薬品やら器具やらを確認し、ポカンとしているコルシュとマキナに向かって親指を立てる。

「私の『魔法』を見せてあげる」


「大事に扱ってよ?それ高かったんだから…」

 心配するマキナを尻目に、チヒロは作業台の上にガラス製の器具をガチャガチャと無造作に並べていく。チヒロがカラムと呼ぶピザ生地を伸ばす麺棒くらいの太さと長さの筒は、下端が先細りし途中にコックが付いていて、反対の上端は口がぽっかりと空いている。それをスタンドに垂直に立て、高さを調整してからクランプで固定する。その脇にマグカップほどの大きさのビーカーと格子状に組んだ木枠のラックをいくつか置き、ぶつ切りにした腸詰ボトゥルスのような試験管を山ほど立てていく。せっかく知り合いのガラス職人に腕を奮わせ個包装までしてもらったのに、ぶつけようが擦れようがお構いなしだ。あああ、もっと安物にしとけば良かった…

 マキナがハラハラと見守る中、チヒロはどんどん準備を進めていく。クロウ会長が調達してくれた変な臭いのするさらさらのオイルたち―――ガロン瓶にはクロロホルムやらメタノールやらヘキサンやらと名札が括り付けてある―――を計量カップでバケツに量り入れる。良く混ぜたその液をスポイトで吸い取り、コルシュが抽出した結晶の小瓶に垂らすと、結晶はあっという間に跡形もなく溶けてしまった。

 続いてチヒロは片面に白い塗料が塗られた花札ほどの大きさのガラス板を取り出す。白いのは塗料ではなくシリカゲルという乾燥剤をフェッテが砕いて粉にしたものだが、マキナにはペンキにしか見えない。結晶を溶かした液に髪の毛ほどの細さのガラス管の先をチョンと浸け、ガラス板の端の方に押しつける。するとガラス管に吸い込まれた液が白いペンキに染み込み、丸いスポットが描かれる。スポットした方を下にし、バケツで混ぜた液を少量入れたビーカーにそのガラス板を立て掛ける。

「これでオッケー、と。次はカラムね…」

 何をしているかマキナにはさっぱり分からないが、とにかく順調のようだ。チヒロは椅子の上に膝立ち、さっきスタンドに立てたカラムの口から固めた脱脂綿を落とし、長い棒を突っ込んでコックの上の先細りした部分に詰め、さらにその上に砂を敷く。

「フェッテさん、シリカゲルに展開溶媒を入れてかき混ぜてもらえます?」

 言われたフェッテがシリカゲルの真っ白な粉末の入った広口の瓶にバケツの液を加える。柄の長いスプーンでゆっくりかき混ぜると、綺麗な白濁液になった。受け取ったチヒロがカラムの上から静かに注ぎ、八分目ほどまで白濁液で満たす。

「そろそろいいかな。コルシュ、紫外線お願い」

 椅子から降りたチヒロは、先程ビーカーに立て掛けたガラス板を抓み上げ、二、三度振り乾かしてコルシュに差し出す。コルシュがそれに向けて『光線ラディウス』の魔法がかかったハンドライトをかざすと、白地の上に青紫色のスポットが三つ、うっすらと浮き上がった。

「なにこれ…きれい…」

 思わず声に出た。感心するマキナたちを見て、チヒロがフフンと鼻を鳴らす。

「やったね。勘だったけど一発で分かれたじゃん。冴えてるわぁ、私…」

 うっとりと自己陶酔するチヒロに、さすがのコルシュも引いている。どういう原理か知らないが、要はこの三つのスポットが結晶に含まれていたテオフィリンやらカフェインやらだということなのだろう。

 チヒロは今度はカラムをコンコン叩き出した。見ると白濁していたシリカゲルの粉が沈んでカラムの中程までを埋め、純白の層になっている。コックを捻ると先から液が流れてきて、上方に溜まっていた上澄みが減っていく。液面がシリカゲルの層に達したところでコックを戻して液を止め、最初に作った瓶の中の結晶の溶液をスポイトで吸い取り、カラムの界面に上から垂らして染み込ませる。その上にまた砂を乗せ、さらに液を追加してコックを捻り、ポタポタと流れる液をビーカーに受ける。

「Rf値からすると…カフェインで三十分くらいかな。一時間くらいから試験管に切り替えようか。フェッテさん、上の液がなくなりそうになったら追加しといてください。それから…」

「チヒロさん、僕がやってもいいですか?」

 腕まくりするフェッテを押しのけ、コルシュが手を挙げる。…そうか。コルシュ自身もチヒロの魔法に魅せられちゃったって訳ね。

「うん、もちろん!私は次の準備してるから、分かんないことがあったら聞いてね」

「じゃあ早速。この薄層のクロマトグラフィーですけど、どのスポットがどの化合物かってどうやって見分けるんですか?」

「ああ、それはね、極性ってのに違いがあって…」

 小難しい話を始めた二人から、マキナはそっと離れていく。その様子にフェッテがにっこりと笑い、黙って力こぶしを作る。二人の手伝いは任せとけってことか。…うん、お願い。頭が小さくて力もないホビットは退散するよ。

 作業場から店の方に出ると、準備中にしてあったにも関わらずアクアが接客していた。あちこち泥や血に塗れた革鎧を着けた三人組で、腰に棍棒やら小斧やら短剣やらを佩いている。身なりからして熟年の日雇い冒険者といったところか。

「おい、店主。売れねえってのはどういう了見だ?」

 アクアに向かって傷だらけの小汚い髭面が凄む。接客というには随分と穏やかではない。やれやれ、こんな時間に厄介なのが来たもんだ。

「ちょっと、お客さ…」

「言葉の通りです。うちには今、お客様にお出しできる薬はないんです」

 口を挟もうとしたマキナの足が止まる。…どういうこと?あの小心者のアクアが、怯むことなく丁寧に頭を下げている。

「なんだと、コラ!そこに沢山あるだろうが!」

「オレたちがこんななりだから売れねえって言うんだろう!この店は見た目で客を決めんのか?ああん?」

 喚き立てる仲間の二人も、揃って一週間は風呂に入っていないであろう脂ぎったぼさぼさの頭で、肩に纏ったマントはもはやボロ布だ。きっと洗濯という行為を知らないんだと思う。こんな輩、うちじゃなくてもお断りだよ。だいたい、そんなに元気だったら薬なんかいらないだろ。

「違います。うちには今、お客様に満足していただける薬がないと言っているんです」

「どこの店の薬だろうと一緒だろうが!こんなもん『やくそう』貼って『ポーション』飲んどきゃ治るんだよ!とっとと治して奴らにやり返しに行かなきゃ気が済まねえんだ!」

「しかし、ゴブリンとの戦闘での打ち身やスライムから受けた火傷に、そこにある『やくそう』や『ポーション』は効かないんです。効かない薬を売るのはこの店の道義にもとります。それにお代もお持ちでないようですので、申し訳ありませんが今日のところはお引き取りを…」

「ゴタク並べてんじゃねえ!客がいいって言ってんだからさっさと出しゃいいんだよ!金はお宝盗ってきたら払ってやるからよ!」

「それとも何か?お前んとこの薬は全部役立たずか?じゃあもういらねえよなあ!」

 髭面が背負っていた棍棒を振り回し棚に並んだ商品を叩き割る。アクアが止めようして蹴り飛ばされる。他の二人は乱杭歯を剥き出しにしてゲラゲラ笑っている。それでもアクアは、お願いします、やめてください、と繰り返し、身を挺して商品を守る。

 なるほど。そういうことか。どいつもこいつもチヒロの魔法にかかっちゃって…ま、あたしもそうなんだろうけど。マキナは足早に作業場へと戻り、作業台に並んだガロン瓶の一つを手にする。

「どうしたの?お店、騒がしいけど…」

 カラムを見守るコルシュの隣で小型の湯浴を準備しているチヒロが心配そうに尋ねる。

「ワタシの出番ですかな?」

 フェッテは上半身を脱いでポーズをとっている。気の早いやっちゃ。マキナは細口の瓶の中に脱脂綿を詰め、漏斗をくっつけてガロン瓶からドボドボと注ぐ。

「あんたが来ると余計にややこしくなるから。あたしとアクアに任せといて…大丈夫よ、チヒロ。心配してる暇なんてないでしょ?あんたの魔法、ちゃんと成功させんのよ?」

「マキナ…」

 瓶の口に差した漏斗を布切れで縛りつけ、たっぷりと液の浸み込んだ脱脂綿入りの小瓶を三本抱え店に取って返す。

「お客様、いかがなされましたか?」

 アクアの抵抗も空しく棚の商品はあらかた狼藉され、三人組は勝手に『エリクサー』のボトルを煽っている。あんにゃろう…高いんだぞ、それ。

 アクアは髭面の足元にしがみつきガシガシ踏まれている。一応手加減されているのか、まだ意識はあるようだ。この際、寝てくれていても良かったんだけどな。

「おい、ちっこい姉ちゃん。見て分かんねえのかい。ホビット風情が出る幕じゃねえんだ。ケガしねえうちに引っ込んでな」

 虫の息のアクアを蹴り除け、髭面が近付いてきたマキナに標的を変える。爪に垢の溜まった手でマキナの顎を抓み上げると、他の二人が下卑た笑い声を上げる。

「どうも、うちの店長がご迷惑おかけしましたようで。すみません、この人なかなか頑固でしてねぇ。お詫びと言っては何ですが、特別なおクスリをご用意しましたんで、お試ししてみませんか?もちろんお代は結構ですので…」

 そう言ってマキナは三人に瓶を恭しく差し出す。

「あん?…なんだこりゃあ?」

 髭面たちは受け取った漏斗付きの瓶を捻くり回す。マキナは口角を上げ、営業スマイルを欠かさない。

「その漏斗の部分を鼻と口に当てて、鼻からゆっくりと息を吸ってみてください。ゆっくりですよ…」

 エリクサーで半分酔っぱらっている男たちは、言われた通りに漏斗を当て息を吸う。こいつらバカだろ。青酸にでもしときゃ良かった。

「ぐ…うぇっふ、うぇ!なんだこりゃ、くせえ!」

「いや、くせえってより…甘いぞ。これぁ酒か?」

「言われてみりゃあ…なんか、クセになるな…」

 三人とも漏斗の口を着けたり離したりしながら、何度も瓶の臭いを嗅いでいる。転がっているアクアがマキナのズボンの裾を引き首を振る。

「駄目だ、マキナ…うちの薬はまだ渡せない…!」

 マキナはしっ、と口元に人差し指を立て片目を瞑る。いいからあんたは寝てなさい。

「お客様。それが数多のアルケミストたちが追い求め、ついに編み出すことに成功した、かの有名なでございます」

「エーテルぅ?なんだぁそりゃ?」

「いや…聞いたことがある。地水火風に加わる五番目の元素とかで、何でも天界の空気はそれで満たされているとか…」

「俺も知ってるぞ。天界どころかこの世界中を包み込んでいて、こいつのおかげで太陽の光が地上まで届くんだ。この前一緒にパーティーを組んだ賢者に聞いたから間違いねぇ」

 勝手に無駄な知識を深め合いながらスパスパ吸ってくれる。ホント、突き抜けたバカどもは扱いやすいわ。

「そろそろどうです?お身体の痛み、取れてきたんじゃありません?」

 言われて髭面が肩をぐるぐると回す。

「お?おおっ?痛くねえ!」

「オレの火傷も退いてきた気がする!」

「これぁいけるぞ!あの忌々しい小鬼どもにリベンジだ!」

 完全にデキあがり、酩酊状態になったバカどもは意気揚々とゴブリン退治に戻っていった。嵐が過ぎ、後に残されたのはボロボロで売り物にならない商品の山…はあ、これって保険効くのかな…

「マキナ、今のは何だ?あれもチヒロの作った薬なのか?」

 同じようにボロボロのアクアがよろよろと立ち上がる。目に青タンができているが、これには保険は下りないだろう。

「なわけないでしょ。言ったじゃない、エーテルだって。正式にはジエチルエーテルって名前らしいけど」

 ジエチルエーテルもクロウ会長が用意してくれたものだ。原薬の合成には欠かせない有機溶媒の一つらしいが、医者のジョーは以前から麻酔薬として使用しているそうだ。揮発性が高く、蒸気を吸っていると段々と酔っぱらってきて感覚が麻痺し、そのうちコトンと寝てしまう。話を聞いた時は半信半疑だったが、今正しく実証された。

「キエチルエーテルか…でも本当に治った訳じゃないんだろう?大丈夫か?騙されたってまた乗り込んでくるんじゃ…」

「ジエチルよ。消え散らないで。別に騙してないでしょ?本当にエーテルなんだし、痛みはとれたんだし。それにあの様子じゃどうせダンジョンに辿り着く前に寝ちゃうわよ。だいたい被害者はこっちじゃない。しっかりしてよ、パナケーア・パーボの店長さん」

 棚から落ちた商品の中から無事だった軟膏を拾い上げ、アクアの頬の傷に塗ってやる。

「…そうだな。新薬は出す。店も守る。両方やらなくっちゃあならないってのが店主の辛いところだな」

「覚悟はできてるって?どっかで聞いたようなセリフね」

 二日前の朝、チヒロが急にいなくなってしまい、マキナたちは正直迷っていた。マムノートをまともに理解することさえままならないのに、チヒロなしでリリーの薬を作れるとは思えない。ましてやクロウたちの要望に応えることなんてできっこない。マキナもコルシュもフェッテも半ば諦めていたが、アクアだけは絶対やり遂げると言って聞かなかった。心配して来てくれたクロウにも、できますやりますの一点張りで決めた道を曲げようとはしなかった。

 義理堅いチヒロのことだ。リリーの薬ができるまでは力を貸してくれるだろう。だがその先もいてくれるとは限らない。チヒロにこの世界に留まる理由はないのだから。いつまでもチヒロに頼りっぱなしでは、パナケーア・パーボの未来はないのだ。

「…それにしても派手にやられたものね。こりゃあ、しばらく休業かな?」

「いいさ。これからこの棚にはチヒロの、いや、僕たちの薬が並ぶんだ。片付けてもらって、ちょうど良かったよ」

 アクアが清々しく笑ってみせる。つられてマキナもクスッと吹き出す。

 もう一度ステラに来てくれたチヒロの決意は計り知れない。アクアもそれ以上の覚悟を見せてくれた。コルシュは毎日徹夜でマムノートの解読と実験に没頭しているし、フェッテはパーボのためなら己の全てを賭すだろう。あたしだけ置いてけぼりは御免だ。誇り高きホビット族、マキナ=スミスクラインの名に懸けて。

 一緒に夢、見てやろうじゃないの。


「う~ん、むむむむ…」

 ステラに戻ってきてから四日目の、まだ夜も明け切らぬ早朝。『改装中』の札が掛けられたパーボの奥の作業室から、チヒロの呻きにも似た声が漏れている。

 チヒロの前の作業台には一抱えほどのガラス製の水槽があり、温めのお湯が張られたその上で、鉤型のフックがガシャンガシャンと上下している。フックの先には金属製の網かごバスケットがぶら下がっていて、それがすっぽりと収まる厚地の容器ベッセルの中のお湯を揺らしている。バスケットは放射状に六つの部屋に区切られていて、その部屋一つ一つで溶けかけの錠剤が動きに合わせて浮き沈みしている。

 その眠気を催す単調な動きを血走った目で見据えながら、チヒロは胸の前で腕を組んで唸っている。横目でチラリと水槽に差してある温度計を見る。三十七度ちょうど。最初から全く変わっていない。一定の温度を保つように水槽に魔法が施されているのだ。

 ―――やっぱり魔法って便利ね…他の役には立たないけど。

 視線を戻すとバスケットの動きが鈍くなっている。チヒロは椅子から腰を浮かし、フックの脇についているゼンマイをギリギリと回す。いいかげん腕が痛くなってきた。なんでこっちは魔法でできないのかねぇ…

 カラム精製は上々だった。融点もぴったり一致し、滴定による定量でも99%以上の含量を示していた。得られた結晶はほんの数ミリグラムだったが、店中の茶葉とクロウ会長が調達してくれたカカオを元に、コルシュが習いたての魔法『複製コピア』でマヨネーズボトル一杯にまでしてくれた。マナを使い果たしたコルシュは三日ほど寝込むことになってしまったが…ともあれ、テオフィリンの原薬は完成したのだ。

 しかし。

 良かった、間に合った、後はリリーに投与するだけ…で済まされるほど、『薬』というものは甘くない。

 テオフィリンという薬剤は治療域が狭く、血中濃度が閾値を超えるとあっという間に頭痛や頻脈、けいれんなどの中毒症状―――つまり副作用が現れてしまう。治療効果は高くとも、下手をすると死に至る可能性だってある。もちろんそうならないように一錠中の薬物量は抑えるのだが、消化管内で一度に吸収されてしまうと危険だ。

 そこで必要となるのが『徐放化』と呼ばれる製剤工夫である。飲んだ後に体内で薬剤がじわじわと溶け出すような錠剤にするのだ。具体的には3時間で50%、8時間で80%のテオフィリンが溶出するように調整すれば良い。そうすれば有効血中濃度を維持しつつ、副作用の発現を抑えられるはずだ。はずなのだが…

 棚に吊るした懐中時計に目を遣る。秒針付きの時計はこの世界では恐ろしく高価だそうで、これはフェッテがドワーフの工房から借りてきてくれたものだ。五時半。始めてからかれこれ8時間になる。チヒロはおもむろに立ち上がり、上下しているバスケットを止めて溶けかけの錠剤を布巾の上に取り出す。一つ一つ丁寧に水分を拭い、上皿天秤に乗せる。こんな旧型を使うのは小学校以来だ。分銅を置いたり抜いたりし、揺れる目盛りを中央に合わせて重量をノートに記す。ノートには三十分おきに測定した六錠分の数値がびっしりと並んでいる。今の時間での平均値を計算し、初期値と比べる。計算機がないのでマキナに借りたそろばんを弾く。これも小学校以来だが、人生で初めて役に立った気がする。ちゃんと習っておいて良かった…計算結果は21・8%。錠剤の重量は78%ほど減ったことになる。

「ふう。…ん~~むむむむ…どうしよう…」

 一息吐くかと思いきや、チヒロの呻きは治まらない。

 錠剤重量の減少速度も安定していて、グラフはきれいな一次放出を描いている。三十六処方目にしてようやく目標値は達成できた。一番のネックは徐放基剤だったが、エチルセルロースとそっくりな性質の高分子が手に入ったのが大きかった。顔の広いクロウ会長とアクアが方々探し回り、海に棲む妖精セイレーンの間で昔使われていた化粧品の成分を見つけ出してくれたのだ。なんでも海藻由来の天然成分で、水の中でも落ちにくいとの謳い文句だったが、カーニバルで被る仮面バウータのような使用感が不評でちっとも売れなかったそうだ。もっともチヒロにとっては妖精がメイクをするという事実の方がびっくりだったが。

 それはともかく、原料も機器も何もないところからたった一週間でよくここまで仕上げられたものだ。もっと悦び勇んで良いはずだ。はずなのだが…

「あれ、チヒロまだいたの?今日帰るんじゃなかったっけ?」

 夜明け前の静謐にはまるで似つかわしくない呻き声を聞きつけ、作業室の片隅で仮眠を取っていたマキナたちがぞろぞろと集まってきた。

「あ…うん、八時までは大丈夫だから…」

 今日は向こうの世界は連休明けの初日になる。新プロジェクトのミーティングがあると言っていたし、さすがにもう無断欠勤はできない。だが帰り方は何度も確認してもう分かっている。要はあのトイレに一人で籠って何でもいいから液体を流せばいいのだ。連続で行ったり来たりはできないが、半日ほど置けばまた行き来できるようになるし、念のため一日前から向こうには帰らずにおいた。なのでギリギリまでこっちにいても問題はない。

「何よ、元気ないわね。さっきからうんうん唸ってるし。また五分で全部溶けちゃったの?」

「あ…いや、崩壊試験は大丈夫なんだけど…」

「どれどれ…今回が22%…いいじゃないですか…5時間からの減少率が15%で…本当だ、すごい…!完璧だよ、この処方!」

 横からノートを覗き込んだコルシュが軽く興奮している。魔法の使い過ぎでウィザーズハイになっているらしい。

「うん、そうなんだけどね…」

「やりましたなチヒロ殿!間に合いましたぞ!早速リリー殿たちに知らせなくては!」

 ダッシュで駆け出そうとするフェッテの襟首をチヒロが掴まえる。

「待って待って。まだ確かめなきゃいけないことがあるから」

 溜め息交じりの浮かない顔に、三人の表情も曇る。

「と、言いますと…?」

「…今は崩壊試験で間接的にしか確認できていないからね…溶出量が直接測れればそこまでする必要はないんだろうけど…液クロもUVもないんじゃあ無理だし…本当は血中濃度をちゃんと測定しなくちゃいけないものだからね…でも他に手段がなくて…とりあえず単回投与だけでも見ておかないと…」

 そろそろ三人も察してきた。チヒロが何を求めているのかを。

「チヒロ…確かめなきゃいけないことって、もしかして…」

「実際に飲んでみる…?」

 チヒロは無言でこくりと頷く。

「人体実験ってわけね…」

「せめて治験と言ってよ。投与するのは四歳のリリーだから、年齢や体重の近い人がいいんだけど…」

 チヒロの言葉に、みんなの目がマキナを向く。

「…えっ、あたし?いやいや、あたしはほら、年も離れてるし、小っちゃいって言ってもあたしホビットだよ?身体の造りとかがこう、人間のリリーとは違うかもしんないじゃない?いや、絶対違うし!それにほら、年で言ったらコルシュの方が近いじゃん!」

 マキナは両手をわたつかせて矛先をコルシュに向ける。気持ちは分かるがそんなに嫌がらなくても…

「そ…その理論だとボクもダメだね。ハーフエルフだから。きっと吸収も代謝もかけ離れてて参考にならないよ。それに魔法の使い過ぎで今日はすこぶる体調が…ゴホゴホ」

 コルシュはわざとらしく咳をして視線を逸らす。さっきまでのハイテンションはどこに行ったんだ。

「む、無念…!今日ほど年老いたドワーフである自分を恨めしく思ったことはありませんぞ…!申し訳ありませぬ、チヒロ殿…!お役に立てず…!」

「フェッテさん、顔がにやけてるにやけてる。…はぁ、だよねぇ…やっぱり私がやるしかないか…」

 自分で作った製剤なのに気が進まないのは、未知の物質に対する根源的な恐怖があるからだ。きっとみんなも同じだろう。でもこれをクリアしなければリリーに投与することはできない。やるしかない…!

「待ちなさい、チヒロ」

 意を決して錠剤を摘み口に運ぼうとしたチヒロの手をマキナが止めた。

「その薬を信用してない訳じゃない。でも最悪あんたが倒れたら、誰がこの薬を作り直すの?それにあんたには帰らなきゃいけない世界がある。そんな人をこのステラで危険に晒すなんてこと、あたしたちにはできないよ」

「マキナ…」

 コルシュもフェッテも笑って頷く。

 そうか…冷静に考えたら自分のリミットはあと三時間もない。血中濃度はこの徐放錠だと四、五時間で最大になるはずなので、今から飲んでも間に合わない。どうしよう、リリーとの約束は今日なのに…

「諦めちゃダメよ、チヒロ。まだ手段はあるわ」

 マキナが真剣な眼差しで作業室の勝手口に振り返る。みんなの視線もそちらに集まる。と同時に、そこから敏腕ウェイターのように両手に皿を並べた一人の男が登場した。

「みんなおはよう!今日は女子まっしぐら、ピンクのパンケーキピタヤ入りを焼いてみたよ!あまりの斬新さに僕はこれをPPAPと名付け…ん?なに?どしたの、みんな?」

 フェッテとコルシュに両脇を掴まれそのまま作業台の前の椅子に座らされる。不安そうにみんなの顔を窺う給仕の前にさながら自決用の銃のように錠剤を置き、マキナがチヒロに向けて意味有り気に頷く。

 …なるほど。忘れていたけど、この人も人間だった。

「体重はおおよそ六倍として、六錠で300ミリグラムか。もうちょっと増やしとく?」

「そうね、大人の方が半減期長いみたいだし、丈夫そうだから400ミリにしとこうか」

「誓約書とか書かせた方がいいかしら?一切の責任を問いません、とか」

「三代目、これも天命です。リリー殿のため、神妙になされい」

「あの、分かった、分かったからせめて説明を、説明だけしてくれないかなぁ?」

 後ろ手に縛られ大量の錠剤と水を前にしてさすがのアクアも涙目だ。

「アクア店長。薬っていうのはね、偉大な先人たちの尊い犠牲の上に成り立っているものなの。このステラでその一人に名を連ねられるなんて、とっても名誉なことだと思わない?言ったわよね?覚悟はできているって…」

「怖い怖い!マキナ!笑いながら肩に手を回さないで!何でもしますから命ばかりは!」

「うっさいわねぇ。大丈夫よ、いざとなりゃコルシュが魔法で何とかしてくれるから」

「いや、回復魔法とかまだ習ってないし。それにあれ、自己免疫と修復力を増進させるだけだから、副作用とかには効果ないんじゃないかな」

「いやあああ…!誰か助けてええ…!」

 パーボの面々が分かりやすいコントを繰り広げていると、店の戸を激しく叩く音が飛び込んできた。まだ夜も明けていないこんな時間に誰だろう。改装中の札も掛かっているはずなのに。もしや、昨日のごろつきたちが仕返しに…?

 悶えているアクアを置いて、四人はそれぞれモップやらバットやらを手に店の入り口に忍び寄る。戸は間断なく叩かれている。フェッテが手斧を構え、鍵に手を掛けたコルシュに頷き合図を送る。ごくりと唾を飲み込み、コルシュが鍵を開け放つ―――

「すみません!チヒロ先生!リリーが、リリーが…!」

 振りかぶった柄物には目もくれず飛び込んできたのは、リリーの母親だった。


「寝る前は元気だったんですけど、明け方から急に苦しみだして…」

 自室のベッドで寝ているリリーの唇が青紫に染まっている。酸素不足によるチアノーゼだ。力なく開いた口からは喘鳴さえも聞こえない。呼吸の度にパジャマの鳩尾辺りが大きく落ち窪む。完全に大発作を起こしている。

「今、フェッテさんにジョー先生を呼びに行ってもらっています。それまでは少しでも呼吸が楽になるようにするしか…リリー、大丈夫だからね、リリー…!」

 チヒロはリリーの上体を持ち上げやや前傾にして座らせる。ピンクの髪が汗に塗れ、こちらの呼びかけにもほとんど反応しない。ケージの時はここまでなったらすぐに発作止めリリーバーを使い救急に駆け込んでいた。今は何もない。コルシュにも回復魔法が使える先生を呼びに行ってもらっているが、コルシュ自身が言っていた通り魔法の効果は期待できない。何もできない現実がチヒロの胸に突き刺さる。

 ―――早く来て、ジョーさん…!私ひとりじゃ…!

「チヒロ、使おう?もう見てられないよ…!」

 リリーの背中を擦りながら母親以上に狼狽えたマキナが訴える。チヒロの手の中には薬包紙に包んだテオフィリン50ミリグラム錠が二錠。頓服用量だ。持っては来たが、安全性も分かっていない製剤を患者に使う訳にはいかない。ましてやこんな素人が作った薬だ、何かあったらどうやって責任を取ればいい?チヒロは目を瞑って首を振る。

「チヒロ…!」

 その時、支えていたリリーの肩がぶるっと震えた。喉の奥で湧き水のような音が鳴ったかと思うと、母親が咄嗟に差し出した小鉢に溢れそうなほど大量の痰が吐き出された。見たことのない緑がかった色に戦慄が走る。ケージでもこんなことはなかった。それに詰まっていた痰を吐き出したのに呼吸は弱々しいままで回復してこない。それどころか段々と細くなっていく息に、マキナが目に涙を溜めてチヒロに詰め寄る。

「チヒロ…!あんたができないんなら…!」

 握り締めた薬包紙を奪い取ろうとするマキナに、チヒロは無意識で抵抗してしまう。頭の中に血中濃度のグラフが浮かんでくる。

〈40μg/mL以上…ほとんどすべての患者で中毒域〉

〈60μg/mL以上…けいれん、または死亡〉

 リリーの体重が13キロ、とすると血液量はおおよそ1リットル、投与した100ミリグラム全てが吸収され血中に流れ出たら濃度は100マイクロに達する。…ありえない。ありえないが、血中濃度が60マイクロを超えてしまえば…

〈けいれん、または死亡〉

 …死亡…!

 駄目だ、たとえコンマ1%でも可能性があるのなら、やっぱりできない…!

「チヒロ殿!連れてきましたぞ!」

 絶望に暮れるチヒロに僅か光が射す。ジョーさんが来てくれた…!

「チヒロさん、容体は?」

 寝間着のままで寝癖を付けたジョーがベッドサイドに駆け寄り、水銀柱の血圧計をリリーの上腕に巻き肘に聴診器を当てる。

「呼吸困難で唇にも爪にもチアノーゼが起きています、呼吸は一分で二十回もないくらい、さっき緑色の痰を小鉢一杯吐きました…意識は…朦朧として…呼んでも答えて…」

 報告するチヒロの声が詰まる。涙が勝手に溢れて止まらない。

「チヒロさん、マキナさん、落ち着いて。そのために僕が来たんです。…95の45、これ以上下がるとショックが怖いな…チヒロさん。テオフィリン、あるんですよね?」

 ジョーはリリーの背中に枕を当てて寝かせ、足の下にもシーツを重ね高く上げる。チヒロは答えられず、手の中の薬を胸元に引き寄せる。

「投与しましょう。一刻を争います。まずは頓用に100ミリ、あとは様子を見ながら50ミリずつ追加…」

 チヒロはジョーの言葉を遮り、駄々を捏ねる子供のように首を振り涙を飛ばす。

「駄目です…!私なんかが作った薬…いえ、まだ薬でも何でもない…!そんなもののせいで何か起きたら…!怖いんです…!私…怖い…!」

「チヒロさん、責任は主治医の僕が取る。たとえ何かあったとしても、誰もあなたを責めたりなんかしませんよ」

「でも…!」

「大丈夫だ、チヒロ!」

 突然、必要以上に明るい声がリリーの部屋に響き渡った。誰かはすぐに分かった。いつもなら鬱陶しいくらいのその声が、その時チヒロには心強く感じられた。

「大丈夫、もう僕が飲んだ。三十分前に十二錠、倍量の600ミリグラムだ。これで何かあるとしたら僕からだろう?」

 600ミリ…!途端に涙が引っ込んだ。徐放錠でもぎりぎりの量だ。放出コントロールがちょっとでも狂っていれば確実に中毒が起きる。どうしてそんな…!

「おっと、どうしてなんて野暮なことは聞かないでくれよ。これはチヒロの作った薬であり、そして僕らの薬でもある。ちょっとは僕にもカッコつけさせてくれよ」

 ―――僕らの薬…

 チヒロの脳裏にみんなの言葉が蘇る。

『あんたもバカねぇ、一人で全部やるつもりだったの?』―――『会えなくなる可能性が1パーセントでもあるのなら、私はそんな道は選ばない』―――『周りの人間にもっと頼ればいいんだよ、意外とみんな優しいからさ』―――『みんなあなたが必要だと言っているんだよ』―――『もっと自信を持て、自分の力を信じるんだ』―――『姉ちゃんはそんな気持ちで薬剤師になったのか?俺は本気だし、絶対に諦めない』―――

「…アクア会長に重篤な異変が起きたら二人ともすぐに胃洗浄をかける。三時間を超えたらまず大丈夫だし、その頃にはコルシュ君の先生の『解毒アンチベノム』が間に合うだろう。いいかい、チヒロさん。患者を治すのは医者のボクでも患者の気力でもない。あなたの、あなたたちの薬が治すんだ。さあ、勇気を…!」

 ジョーが手を差し伸べ、アクアが、マキナが、フェッテが力強く頷く。

 ―――ああ、そうか…

 みんな、このことを言っていたんだ。私は私を、みんなが信じてくれる私自身を信じなきゃいけないんだ。私の夢。私たちの薬……

 胸の奥で木霊するケージの声が、チヒロに勇気をくれる。

『―――返す相手がそんなんじゃ、困るって言ってんだよ』

 チヒロは固く結んだ右手をそっと広げる。薬包紙に包まれた二粒の希望が、その手の中で微かに光を放って見えた。


 母親がレースのカーテンを下ろし、リリーの顔に伸びていた陽射しを柔らかく遮る。リリーはその穏やかな陽光に頬を染め、すやすやと寝息を立てている。

「…138の90。アクア会長、ちょっと血圧高いですねえ」

「はっ、まさか薬の副作用…?そういえばさっきから動悸が…!」

「それはマキナさんのジュース買いにパシらされたからでしょう?八時間以上経っているのに今更副作用なんて出やしませんよ。塩分控えてくださいね」

 ジョーにバッサリと斬られ、アクアがしょんぼりと落ち込む。

 念のため待機していてくれた魔法学校の先生もちょっと前に引き上げ、部屋には冗談を交わせるほど緩やかな時間が流れている。リリーのお母さんがベッドの縁に腰掛け、汗が引きふわふわに戻ったピンクの髪を優しく撫でる。

 峠は越えていた。

「…チヒロ先生、本当にありがとうございました」

 蒼白だった顔色が戻り、側で寄り添うチヒロにリリーの母親が深々と頭を下げる。

「いえ、そんな…私一人じゃ何もできませんでしたから」

 チヒロは慌てて首を振る。実際、テオフィリンの錠剤をジョーに渡した後はずっと励ましていただけで、チヒロ自身は特に何もしていない。

「…娘のために戻って来てくれたことも聞きました。ほとんど休まず薬を作ってくれたことも、娘の安全を第一に考えてくれていたことも…。何と感謝したらいいか分かりません。娘もすっかりチヒロ先生を信頼しているようですし…」

 チヒロの右手は、シーツの下でリリーの右手とつながっていた。握ったまま眠ってしまい、離してくれないのだ。

「…やっぱり『先生』はやめてください。こそばゆくって、慣れそうにないです」

 チヒロが頬を掻くと、母親は細めた目尻を下げ、もう一度深く頭を下げる。ますます照れ臭くなって、チヒロはじゃれ合っている二人にちょっかいをかける。

「ちょっとジョーさん、ホスピスに戻らなくていいの?患者さん待ってるんでしょ?」

「大丈夫ですよ、後輩たちも一通りの診察はできますから。それにリリーちゃんはボクにとっても大事な患者の一人です。他の人には任せられません」

「…ジョーさん…」

 アクアの額に聴診器を当てて遊んでいるジョーは、片時も離れずリリーとアクアの容体を見守ってくれた。やはり医師は心構えからして違う。決断も早かったし、常に冷静だ。ケージはこんな人たちを目指すのか。果たしてあいつに務まるのかな…

「分かりますよ、ジョーさん。アレ、ですよね」

「さすがアクア会長。アレ、ですとも」

「ケモ娘もいいけど…」

「もふもふピンク髪ツンデレ美しょう…」

「うるさい黙れこのド外道変態ロリコンども」

 チヒロの代わりにマキナが巨大な鈍器でステラのクズどもを始末してくれた。油断した。もうこいつらに二度と心動かされることはあるまい。チヒロはそう固く誓った。

「でもこれでパーボも忙しくなりそうね。少なくともジョーの患者はみんなウチに来るだろうし、新しい薬も増やしてかなきゃいけないし。…はあ、原薬はコルシュがやるとして、問題は製剤よね…フェッテは脳筋だし、アクアは期待するだけ無駄だし、コルシュにばっかり負担はかけられないし…やっぱりあたしがやるしかないか…」

 マキナが腕を組んで困っている。何を心配しているんだろう?得意な人がやればいいって言っていたのはマキナじゃん。

「マキナは今まで通りお店の会計やってくれればいいよ。製剤は私がやるから」

「そうなのよ、あたし計算は得意だけど化学も物理もさっぱり…って、え?今なんて…」

「だから、造粒とか錠剤化とかは私が…」

 マキナがチヒロの両肩をがしっと掴む。びっくりして仰け反るチヒロに小さな鼻が当たりそうなほど顔を寄せる。

「ホント?本当に?また来るの?ウチ、手伝ってくれるの?」

「えっ、そりゃあ乗りかかった舟だし、そのつもりで戻ってきたんだけど…もしかして迷惑だった?」

 マキナはぶんぶん首を横に振る。

「んなワケない!いてくれなきゃ困る!っていうか嬉しい!…じゃなくて、あ、いや、別に深い意味じゃないけど…と、ともかく!…なんて言うか…その……ありがと…」

 あまりの慌てっぷりにリリーのお母さんまで吹き出している。チヒロはそんなマキナがちょっと可愛く見えた。

「…私、最初に元の世界に戻れた時、ステラに来るのを何度も躊躇った。あっちじゃ嫌なことが続いてたし、夢じゃないって分かってたのに、それでもこっちに来るのが怖かった。二度と戻れないかもしれない、家族や友達に会えなくなるかもしれない…でも会社の人たちや弟に言われて気付いたの。怖いのは戻れなくなることなんかじゃなくて、この世界で必要とされなくなることなんだって…」

「…チヒロ…」

 マキナが今度はゆっくりと、首を横に振ってくれる。それにチヒロは笑顔で応える。

「だから居て欲しいって言ってくれて、私も堪らなく嬉しい。だってまた来ていいんだもん、この世界に。すっごく大変だけど、みんなで新しい薬を作るの、すっごく楽しいよ。それに…」

 シートの下で健気に握る小さな手を、チヒロはそっと握り返す。

「リリーにも、これから何度だって会いたいしね」

「チヒロ…!」

 マキナが首に縋りついてくる。もう、おばちゃんなんだか子供なんだか…チヒロはそのちっちゃな身体を抱き止める。こっちこそ、よろしくね。

「…あれ?そう言えば…」

「なに?マキナ」

「あんた今日帰んなきゃいけないんじゃなかったっけ?」

「……あっ!!!」

 マキナを突き飛ばし大きな声が出た。

「忘れてた!今何時だっけ!もう三時?どうしよう!また無断欠勤になっちゃう!今日大事なミーティングもあるのに!早く戻んなきゃ!あ、リリー?ちょ、離して…!」

 指を剥がそうとするチヒロにリリーはむずがって余計にしがみつく。

「相変わらず騒々しいな、チヒロは」

「まったくですね、チヒロさんは」

「うるさい!あんたらに言われたかないわよぉ!…お願い、会社に戻らせてぇ…!」

 リリーの部屋にチヒロの悪足掻きが空しく響く。ステラの仲間たちの笑い声も。

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