3 医者はどこだ!
「チヒロ…その、今日は一緒に外出して…みませんか?」
手を揉みながら恐る恐る顔色を窺うアクアを、チヒロが据わった目でぎろりと睨む。
「いやっ、そのっ、嫌ならいいんだ、もしかしたら気晴らしになるかなー、とかなんとか思っちゃっただけでして、その、ちょっと聞いてみただけで…」
アクアは頭を掻きながらすごすごと引き下がる。その様子を傍から見ていた従業員たちが一斉に溜め息を吐く。
「ほら、フェッテ。ボクの言った通りだろう。店長にそんな甲斐性ある訳ないじゃん」
舟形の受け皿の上で薬研を転がしている眼鏡の男の子がぼそぼそと言う。長い前髪に目元が隠れているが、はみ出た耳はわずかに尖っている。ハーフエルフという奴だ。受け皿に材料を入れ、薬研で擂り潰し、空き瓶に移す作業をワルツのリズムで飽きもせず延々と繰り返している。
「別にあんたが言わなくたってみんな分かってるわよ、コルシュ。アクアが女の子一人口説けないヘタレだってことくらい。それよりあの子なによ?異世界から来ただかなんだか知らないけど、身体も態度もデカすぎじゃない?」
奥の帳場でそろばんを弾くのは背丈が小学校低学年くらいの女性で、足が届かないのか椅子の上で胡坐をかいている。その体格に似合わない年齢と口ぶりがホビット族の特徴らしい。見た目は子供、頭脳は大人な彼女は一体何にイラついているのか、チェーン付きのモノクルをしきりに直しながらボーイッシュな緑色の髪を掻き毟っている。
「そりゃあマキナ殿からすれば身体はみんなデカいでしょうな。いけませんぞ、僻みは。まあ、三代目のヘタレっぷりについてはワシも全く同意見ですが」
浅黒い肌に真っ白な髪と髭を蓄えたドワーフのフェッテは、マキナほどではないが背が低く、それでいてシャツがはち切れんばかりに腕も胸もムキムキだ。マキナの反撃を軽く受け流し、自分と同じくらい大きさの粉袋を両肩に悠々と担ぎ倉庫へ運んでいく。
そんな周りのやりとりを聞いているのかいないのか、チヒロはカウンターに顎を乗せ足をぶらつかせ不貞腐れている。この世界に来てから三日目、いつまでたっても現実に戻れやしない。同じように時間が進んでいるのなら、今日は連休の合間で出勤しなくてはいけない。入社早々、無断欠勤になってしまう。確か試用期間中は有休にもできないんだっけ…どうしよう…カウンターの上でゴロゴロ頭を転がしていると帳場から小言が飛ぶ。
「ちょっとあんたも!いつまでそんなとこでダダこねてんの?仕事しないんなら奥にでも引っ込んでなさいよ!」
真っ当な指摘にカチンと来てつい言い返してしまう。
「あんたって何よ。私には大鳳千尋って名前があるんですぅ。だいたい客も来ないのに仕事も何もないじゃない。それに私はアクアがいてくれってうるさいからいてあげてるの。そんなに言うんならお仕事をお与えくださいな」
「なぁんですってぇ?ちょっとアクア!なんだってこんな役に立たない生意気な小娘置いとくの!とっとと抓み出しちゃってよ!」
レベルの低いいがみ合いに巻き込まれ、アクアはものの見事に狼狽える。
「こ、こら、マキナ…いや、その、だからね、お仕事というか、是非やってもらいたいことというか、チヒロにしかできないことがありまして、一緒に来てもらえないかな~、なんて…あ、ホント、イヤならいいんですイヤなら…」
「ダメだね、こりゃ」
「ええ、ダメですね」
コルシュとフェッテがやれやれと首を振るのを横目に、意外やチヒロは椅子から降りアクアに向き直る。
「いいわよ」
予期していなかった返事に、全員が目を丸くする。
「え?まさか…ホントにいいのかい?嫌なら断ってくれても…」
「なによ、別に行かないなんて言ってないでしょ。どうせここにいたって戻れもしないしやることもないし。いいわよ。行きましょう、アクア。それに、私がいるとお店の空気が悪くなるしね」
皮肉に頬を歪めるチヒロに、マキナは鼻を鳴らしてそっぽを向く。
「ま、ま、二人とも…これからこの店で一緒に働いていく仲間なんだからさ、そうカリカリせず仲良く…」
「御託はいいから。で?どこに行くの?」
「ああそうか、まだ言ってなかったね」
アクアが襟を正す。
「医者のところだ」
ステラには国という概念がなく、世界全体が一つの国家のようになっていて象徴的な王とそれに準ずる王家が治めている。王都イオニアを中心に五十の州とその周りを未開の地が囲み、パナケーア・パーヴォがあるこの街バーゼルはトランサルピナ州に属している。トランサルピナは大小二百余りの街や村を有する広大な地域で、その中でもバーゼルはイオニアに次ぐステラ第二の都市である。都心では機械や紡績を中心とした製造業から薬局のような小売業、それらを仲介する卸などの商業が発達し、郊外では大規模な農業や畜産が盛んで、交通や電気、通信、上下水道といった各種インフラまで整った百万を超える人々が暮らす大都会である…
…ここまでくるともう想像力とかの話ではない。窓の外を流れる映画のセットのような風景を眺めながら、チヒロはちょっと覚悟をした。
「こりゃ、夢じゃないかもね…」
「…と言う訳で、僕らパーボの従業員もみんなファルマギルドの会員になっていて…ってチヒロ?聞いてる?」
鼻の長い毛むくじゃらの小人(コボルトというらしい)が操る馬車に揺られ病院へと向かう道すがら、アクアがこの世界―――ステラのことについて解説してくれているが、チヒロは全くのうわの空で途中から相槌さえ放棄していた。
「…え?うんうん、聞いてる聞いてる。こっちの卵はガチョウが基本なんでしょ?」
「随分前にした話だな、それ…まあいいや。とにかく、今から行くのは僕らファルマギルドとは商売敵に当たる、メディクスギルドの会長のところだよ」
「ん?メディクスって医者のことでしょ?なんで医者と薬局が商売敵なの?」
「そりゃそうさ。医者が患者を治してしまったら、うちみたいな薬局には来てくれなくなるだろう?ちょっと前なら医者の領分は怪我や骨折や火傷の処置くらいに相場は決まっていたもんだけど、今じゃそんな棲み分けもなくなってきたからねぇ」
当たり前だろ、と言わんばかりにアクアが小首を反らす。…なるほど。そんな考え方もあるのか。でもあんな薬もどきしか置いてないんじゃあ、薬局に勝ち目はなさそうだ。
「…で、なんでまたその商売敵の会長のとこまでわざわざ行くわけ?」
反らせた首が今度はがっくりと落ちる。窓枠に肘を掛け、遠くの空を見詰める背中に哀愁が漂っている。
「…呼ばれたんだよ。うちを見れば分かる通り、バーゼルの薬局ははっきり言ってどこも落ち目なんだ。魔法屋や寺院で治してもらうと高いから、街の薬局は近所の住人や貧乏冒険者たちから人気があったんだけどね…最近は客足がぱったり途絶えてしまった。今年に入ってからももう何軒も店を畳んでいる。親父がいた頃は薬局なんか辻ごとにあって、人も商品も溢れんばかりに繁盛していたというのに…。メディクスギルドのクロウ会長はそれにつけこんでファルマギルドを併合…いや、乗っ取ろうとしているんだ」
「へえ…結構大変なんだね。でもそのクロウ会長は落ち目の薬局を乗っ取ってどうするつもりなの?客も来ないのにお荷物になるだけじゃん」
「落ち目と言っても商品や流通経路は使えるからね。誰が売るかの違いなだけで。今は薬局ごとに独自のレシピがあって調合も自分たちでしているけど、クロウ会長はそれを統合してどの店でも均質な薬を置くことを計画しているらしい…確かにそれはそれで一つのやり方かもしれない。でもそんなことになったら僕ら薬局で働く人間はお払い箱さ。レシピもいらない、調合もしなくていい、そんな薬局に薬師が必要とされると思うかい?きっと今日も三行半を突きつけるために僕を呼び出したんだ…ああ、このままだとみんなが路頭に迷ってしまうどうしよう…」
アクアはハンカチを噛みさめざめと泣いている。チヒロは複雑な心境だった。これって…現実の世界もあんまり変わらないんじゃないの?アクアが自分を連れてきた意味がなんとなく分かってきた。
「情けない声出さないでよ。薬剤師には本来高い専門性が必要なの。誰にでもできる仕事なんかじゃない。いなくなっていいはずないんだから…それにしてもなんでそんな大事なことにアクアが呼ばれてるのよ?もっと偉い人が行った方がいいんじゃないの?」
「…僕が会長だからね。ファルマギルドの」
馬車の中が束の間沈黙で満たされる。
「……えー!うそぉ?まさかぁ!アクアが会長?そんなワケないじゃん!冗談は顔だけにしときなよ!」
「まだ出会って三日そこそこの君にそこまで言われる筋合いはないんだけどな…いや、本当だから。僕だって最初からやりたかった訳じゃないよ。まだ若輩だし経験も少ないし。でも去年の会長選挙のくじ引きで三回連続当たりを引いちゃったからなぁ…その時はもう運命を感じたね。僕はなるべくしてなるんだ、神に選ばれたんだってね」
拳をぐっと握り締め、また遠い目をしている。それ絶対ハメられてるよ…なんだか可哀想になってきた。この人を生贄にするとは、ギルドもよっぽど切羽詰まってるのね…
「あ、ほら、見えてきた。あそこがクロウ会長の病院だよ」
郊外に出て住宅がまばらになり始めた頃、小高い丘の上に宮殿のような建物が現れた。街道の石畳も途切れ途切れになっているが、その病院までは馬車用の轍が一本道で続いている。
「あれが病院なの?ほとんどお城じゃん…こりゃ、とても敵いそうにないね」
「そうなんだよ…ああどうしよう…」
どうやら私の出番はなさそうだ。うなだれるアクアの肩を叩いて慰めていると、豪奢な入場門で馬車が止まる。御者の小人が門番と二、三言交わし、再び馬車が動き出した。が、正面に見える本丸には向かわず、途中の小道で折れていく。
「おい、方向が違うぞ。どこにいくんだ?」
アクアが窓から顔を出し小人に問い質す。
「今日はこっちだそうですぜ、旦那」
アクアが首を傾げるのも構わず、馬車はこじんまりとした別棟の前に到着した。
「やあ、ご足労すまないね。まだ外せないから、ちょっと待っていてくれないか」
木組みのベンチが並んだ待合室で座っていると、受付の奥から前髪が半分銀色の男性が顔を覗かせた。雰囲気に陰はあるが、まだ青年と呼べるほどの風貌で、アクアよりも背が高い。しかもかなりのイケメンだ。
「会長!いえいえ、どうぞごゆっくり!」
アクアが慌てて立ち上がりペコペコと頭を下げると、ニコッと笑って診察室に戻っていく。
「あの人がクロウって人?全然イメージと違うんだけど」
「こらこら、ここじゃ会長とお呼びするんだ。何をされるか分からんからな…」
「あんたが卑屈すぎるんじゃないの…?」
それよりこの施設には驚いた。規模は小さいが、現実の個人病院にそっくりだ。患者が来ると入口の受付で診察券を受け取り、来院理由や簡単な症状を聞いている。待合室にはアロマが焚かれ、雑誌や子供用の積み木なども置かれている。時折奥の診察室からピンクの白衣を着た看護師が出てきて次の患者を呼ぶのも、現実の病院そのものだ。診察が終わった患者は受付でお金を払い、薬草の袋やポーションの瓶をもらって帰っていく。
現実と違うのは、受付の子は頭にネコの耳を生やし、患者を呼ぶ看護師はナース帽の縁からウサギの耳が垂れていることくらいだ。
「どうなってるの…これ…?」
「うん…僕も初めて見たよ…ウサ耳のライカンスロープは非常に珍しい…!」
的外れに驚いているアクアにはドン引きしておくことにして、この病院には何かがある。まだ大してこの世界を知っている訳ではないが、他とは明らかに雰囲気が違う。ステラの病院は既にここまで進歩しているのだろうか?それとも…
「アクア様、チヒロ様。お待たせしました。こちらへどうぞ」
ウサギ耳とは違う看護師に呼ばれ、診察室の隣の部屋へと案内される。この人にはトラ柄の尻尾が生えている。そのスカートどうなってんの?
「いやぁ、お待たせして申し訳ない。近頃どうも忙しくてね。さ、座って座って」
小狭い部屋には真っ黒なトレンチコートを纏ったクロウともう一人、丸眼鏡を掛け金色の髪をぴっちりと七三に分けた小太りの男性がいた。アクアとチヒロは勧められるまま革張りのソファーに腰掛ける。ふかふかだ。クロウは懐からパイプを取り出し、ムニャッと呟き指を鳴らすと指先に火が灯る。
「ん、珍しいかい?私も少しは覚えがあるんだ。簡単なものだけだがね」
クロウは得意気にその火をパイプに移し、マッチのように指を振って消す。
これが魔法か。アクアから話は聞いていたが、実際見るのは初めてだ。きっと氷とか雷とかも出せるに違いない。目を丸くするチヒロを見て、クロウの隣に座る丸眼鏡の人がにやにや笑っている。なにこの人、気持ち悪い…
「あまり時間もないし、さっそく本題に入ろうか。今日来てもらったのは他でもない、アクアくんが会長をしているファルマギルドとバーゼルの薬局について…」
そらきた、私は知らないからね。アクア頑張って…
「…は置いといて。チヒロくん、君に話があるんだ」
「……へ?」
思わず間抜けな声が出た。なんで私?ていうかさっきからなんでみんな私の名前を知ってるの?クロウが目配せすると隣の丸眼鏡が後を引き継ぎ、前のめりで手揉みをしながら聞いてくる。
「チヒロさん。この病院を見てどう思いました?」
「どうって…現実の…私のいた世界の病院とそっくりだとしか…」
チヒロは仰け反り怯えながら答える。丸眼鏡はうんうんと満足そうに頷いて座り直し一呼吸置くと、衝撃の一言を放った。
「チヒロさん。ボクも地球から来た人間なんだ」
たっぷり三十秒は固まっていただろう。一度外に出て新鮮な空気で深呼吸してできればコーヒーの一杯でも飲んで落ち着きたかったがそれより先に大きな声が出た。
「―――うえええええっ!!!」
その叫び声は病院本館に入院している耳の遠いおじいちゃんが驚いて目を覚ますほどだったそうだ。たぶん顎が床についていたと思う。
地球から来た?ボクも?何で知ってるの?どうしてこの人こんなに落ち着いてるの?それよりやっぱり夢じゃなかったの…?
色んな疑問や希望や失望が頭の中を駆け巡り処理しきれない。
「やはりまだ信じていなかったようですね。ボクも最初はそうだったから、気持ちは良く分かります。でもこのステラは夢の中でも何でもない。実際に人々が生まれ育って死んでいく、実際に存在する世界なんです」
「ちょっっっとまって…!ムリムリムリそんなのすぐに受け入れられないこれが実在するってどういうことこんなファンタジーな世界あるわけないじゃんてかなんでわたしこんなとこにきてんのよアクア!あんた知ってたでしょ!私以外にもいるってこと!」
取り乱したチヒロが唖然としているアクアの胸倉を鷲掴んでぐらんぐらん揺さぶる。
「ちょっ、しら、やめ…!」
「なんでとっとと言わないのよ!私がどれほど…!」
「チヒロくん。さ、落ち着いて」
アクアの襟首を締め上げて振り回すチヒロの肩を、クロウがそっと引き寄せる。
―――…あ…いい匂い…
クロウの胸元から漂う優雅な香りに、チヒロのパニックが治まっていく。流れ出る涙をクロウの胸が受け止める。
―――…そうか…この香り…ラベンダーだ…
「…ごめんなさい。もう大丈夫です。取り乱してすみません…」
「なに、気にすることはないさ。今の君の症状は一過性の恐慌発作だ。病気ですらない、ただの精神の昂りだよ…これでどうかな、ジョー?」
「良い診断です。さすがクロウ、この手の患者は扱い慣れていますね」
心地良い胸元から見上げると、クロウが微笑みかけてくる。今度は涙でぐしゃぐしゃの顔が恥ずかしくなってまた顔を埋める。もうちょっとこうしていたいかも…そんなチヒロの手にはアクアの半死体がぶら下がっているのだが。
「この病院はホスピスと言って、これまでのような病人や怪我人を収容隔離する施設ではなく、街の人たちにもっと気軽に訪れてもらえるような治療施設を目指しています。モデルはもちろん日本の個人診療所です。物珍しいということもあるのでしょうが、どうやらこのシステムはステラに良くマッチしているようで連日人出が絶えません。地域の社交場にもなっていますし、ひとまずは成功と言って良いでしょう」
チヒロはクロウが淹れてくれたハーブティーを飲みながら、ジョーと呼ばれた丸眼鏡の話を聞いている。エルダーフラワーにもリラックス効果があるらしい。さっきとは違い冷静に言葉が理解できる。確かにこの世界の薬は冒険者寄りというか、外傷の治療や体力回復を狙ったものばかりだ。本来はちょっとした風邪とか生活習慣病とかが患者の大多数を占めるはずなのに、それらをターゲットにしたものはほとんど見掛けない。この病院に需要が集まるのは至極当然のことかもしれない。
「システムは目途が立った。患者も来てくれている。施設の建造や担当医師の教育も順調だ。しかし―――」
クロウが咥えていたパイプの灰を脇の灰皿にポンポンと落とす。
「―――足らないものが一つある。分かるかな?チヒロくん」
手首を捻りチヒロに向けてパイプを突き出す。気障な仕草も様になっているところがアクアとは全然違う。そのアクアは隣で完全に思考を停止している。
「…『薬』、ですね?」
「イグザクトリィ。我々医師は診断はできる。患者の症状を見て愁訴を聞けば大概の病名と原因は特定できるし、それぞれの症状にどんな薬が効くかも知っている。だが肝心なその薬がない。このステラの医薬品レベルはあまりに未熟すぎる。せっかくジョーが知識をもたらしてくれたのに、それを生かすことができないんだ」
「そうしてちょっと行き詰っていたところにチヒロさん、あなたの噂が舞い込んできたんです。異世界、つまり地球から来た女性が薬局で働いていると。これは僥倖でした。戻ってしまう前に是非お話だけでもと思い、クロウにお願いしお呼び出ししたという次第です」
「戻って…?戻れるんですか?元の世界に!」
身を乗り出そうとするチヒロをクロウが静かに制する。
「ええ、そのようです。ボクがステラに来てから三年たちますが、その間に七、八人ほど地球から来たという話を聞いています。そのうちの二人には実際に会いましたが、二人とも先程のチヒロさんと同じような反応を示され、翌日には元の世界に帰って行かれました。他の人たちも続報を聞いていないので、既に帰られていると思います」
「ど、どうやって?みんなどうやって帰って…」
「ですが」
ジョーが丸眼鏡を直し、その奥の小さな目が鋭く光る。
「皆さんがどうやってこの世界に来たのかも、どうやって帰って行ったのかも、ボクは知りません。恐らく特定の方法ではないと思いますが、ボクはこの世界に骨を埋める覚悟をした人間ですからね、はっきり言って帰る手段を探すことには興味がありません。つまりチヒロさん、もしあなたが他の皆さんと同じで、すぐにでも元の世界に帰りたいと思っているのなら、ボクがお手伝いできることは何もない、ということです」
「そ、そんな…」
目の前が暗くなる。せっかく見えた希望だったのに、あっさりと否定されてしまった。どうしてそんな大事なこと知らないの?とか、本当は知ってるんじゃないの?とか、そういう思いも浮かんではくるが、それよりも諦めの感覚の方が大きい。これもハーブの効果だろうか?これまで盲目的に帰りたいと思い続けていたのに、一体どうしたんだろう。チヒロは思い返してみる。
私は元の世界に帰らなくちゃいけない、それは会社があるからだ、会社に行って造粒テストの続きをしなくちゃいけない、30型の流動層造粒機を組み立てて20キロの粉を投入して四時間かけて造粒しなくちゃいけない、やらないとまた陰湿な先輩たちにいびられる、頼りにならない上司に失望される、ダメな上役、ヘンな同僚…そう言えばつい最近フラれたんだった…社有車も事故ったまま…あれ?私、本当に帰りたいのかな…?
「チヒロくん。君がもし帰りたいと言えば我々にそれを止める権利はない。どうするかは君の意思であり、君の自由だ。だがそれは我々の話を聞いてからでも遅くはないだろう?私は君がここに来てくれたことを運命だと感じている。これはバーゼルの、いやこのステラの医療を一新するチャンスなんだ…!」
声は抑えていても情熱が零れ出している。全く同じことを言っていた人がいた気がするが、こうも差がつくものなのか。隣でアクアが干からびている。
「……私、薬のことでさえ大して詳しくありませんよ?お役に立てるかどうか…」
その言葉にクロウがにやりと口角を上げ、ジョーの背中をバシンと叩く。
「とんでもない!あなたは薬剤師免許を持っていて、薬局で働いた経験もある。しかも製薬企業の研究所に勤めているんでしょう?これ以上の逸材がいますか?少なくともボクなんかより遥かに医薬品に関する知識を持っている。それは断言できます」
ジョーまで小さくガッツポーズをしている。なんだかすごくハードルを上げられた気がする。上手いこと乗せられちゃってるなぁ。それにしても…
「そんなことまでご存じなんですね。一体どこから…」
「それはもちろん」
二人同時に隣の干物を指差す。
…なるほど。パーボに帰ったら七輪で炙ってやろう。
「やってもらいたいことは基本的に日本の調剤薬局と同じです。まず、この病院の患者から何人かピックアップしてボクが処方箋を書きます。とりあえずテストですね。それを患者にパーボまで持って行ってもらうので、患者ごとに薬を処方してみてください」
ジョーに渡された処方の書かれた紙切れを見ながら、早くもチヒロは安請け合いを後悔していた。
「あのー…手順は分かるんですけど、ここに書かれているアスピリンとかペニシリンGとかオセルタミビルとかは一体…?」
「ああ、それは適当に書いた一例ですので内容は気にしないでください。こっちに日本と同じ製品はないのでとりあえず有効成分名にしておきました。分かり難かったですか?」
「いえ…そうじゃなくて、これをどうしろと?まさかこいつらを作れってんじゃあ…」
クロウとジョーが顔を見合わせる。
「…ムリですか?」
「無理ですよ!医薬品の原薬なんて何段階も合成反応を繰り返して作られるんですよ?構造も製法も分からないのにできる訳ないじゃないですか!」
「でもほら、よく餅やミカンのアオカビからペニシリンを集めて苦しんいでる人々を救ったりするじゃないですか?アスピリンやタミフルも生薬が原料じゃなかったでしたっけ?おんなじ感じでちょちょいと抽出してもらえれば…」
「ちょちょいとって!餅のカビからペニシリンとかドラマの見過ぎですよ。単離しようとしてもβ-ラクタム環がすぐに加水分解されて恐ろしく不安定ですし、人に投与できるようにするには何百キロとアオカビが必要ですし。そんなの専用の施設でもなければ無理です。あっても私には無理ですけど。それにオセルタミビルも八角のシキミ酸はただの出発物質で、確かそこからまだ十段階くらいかかったはずです。とにかく、合成技術ってのは何十年何百年と積み上げられてきたもので、そんな簡単にできるものじゃありません。魔法じゃないんですから…」
「大丈夫だ、魔法ならある」
チヒロの抵抗を遮り、クロウがパチンと指を鳴らす。すると飲み干したはずのハーブティーのカップが黒い液体で満たされた。どうぞ、と目で促され、恐る恐る口をつける。
「…コーヒーだ」
「チヒロくん。君がいた世界に科学技術があったように、ここステラには何十年何百年と積み上げられてきた魔法がある。これを使わない手はないだろう?」
クロウがまたムニャムニャっと何か唱え指を鳴らすと、今度はカップのコーヒーが焦げ茶色のコンペイトウに変わる。
「すごい…!え、それなら魔法で薬でも何でも全部作っちゃえばいいじゃないですか?私なんて必要ないんじゃ…」
「いやいや、魔法は万能じゃない。むしろ出来ることは限られている。今のだって、ここにコーヒー豆と空気中の水分と私の体内のマナ…要はカロリーがあって、さらに私がコーヒーの組成や製法を認識しているから可能なんだ。試しにそのお菓子を食べてごらん」
コーヒー豆の袋を取り出したクロウの手がかすかに震えている。良く見れば肩で息をしている。そんなに消耗するんだ…ならやんなきゃいいのに。身も蓋もないことを思いながら、言われた通りにかわいい形のコンペイトウを摘む。
「…にがっ!全然甘くない…」
「残念ながら砂糖は持ってこなかったからね。それはただのコーヒーエキスの塊だ。つまり原料となる物質があって、生み出すものがどんなものか知っていなければいかなる魔法も発動しない。たとえできたとしてもそれは似て非なるものだ。君らの世界の科学技術だって同じだろう?…私の言いたいこと、分かるかな?」
「…最初のオリジナルは自分で作れと?」
「アブソリュートリィ。これはビジネスだ。原材料の入手経路はこちらで確保しよう。必要ならその資金も出す。だが人手と道具はそちらで用意してもらいたい。こっちもホスピスの立ち上げで手一杯だからね」
「本当ですか?じゃあ、ギルド統合の話は…!」
いつの間にか復活していたアクアが腰を浮かす。
「それはまた別の話だ、アクアくん。君たちが失敗すれば遠慮なく我々が引き継がせていただく。言っただろう?これはビジネスの話だ」
ドライに突き放されアクアはへなへなと崩れ落ちる。ちょっと…責任がどんどん大きくなってない?
「どうする?チヒロくん。この話は君なしでは成り立たない。君に決めてもらわなくちゃあいけないんだ。このステラで唯一の『薬剤師』である君に。知っての通り、患者を治すのは医者でも魔法でもない。『薬』なんだよ」
「で…でも、やっぱり私だけじゃ荷が重いというか、何から手をつけたらいいのかもさっぱりで…せめて構造式だけでも分からないと…」
「いや、ある!」
突然アクアが大声を出し立ち上がった。
「あるじゃないか、チヒロ!じいさんの残してくれたノートが!」
あ…あのレシピ帳…。言われてみればあそこには原料や調製方法だけでなく、成分の構造式や効能効果まで書かれていた。あの時は夢だと思っていたから気にも留めなかったが、考えてみれば不思議だ。あれはいったい誰が書いたんだろう…?
「なるほど。『マムノート』か。それは心強い」
「なんと、クロウ会長も祖父をご存じなのですか?」
「もちろん。バーゼルの医療に関わる人間でクリサンセマム先生を知らない者はいないよ。私も駆け出しの頃は随分とお世話になったものさ。それに、今回のこの計画も元々は先生が考えられていたものなんだよ」
「え……」
クロウの言葉にアクアの目の色が変わる。アクアが敬愛してやまない初代店主は、ずっと前からステラの医療の遥か先を見据えていたのだ。まだ決断できないでいるチヒロをアクアが無言で見詰める。決めるのは君だ、君の自由だ、でも僕は信じてる…!光の宿った瞳がそう訴えてくる。ああ、もう…!その瞳には弱いんだってば…!
「ん~~……分かりました。確かにあれがあればなんとかなるかもしれないし…でも、クロウさん、ジョーさん、あんまり期待しすぎないでくださいね」
アクアが拳を握り、ジョーがにっこりと親指を立て、クロウが必要以上に大きな炎でパイプをふかす。だから、大袈裟なんだってば…!
「処方箋には投与方法や剤形までは書きませんので。ボクよりチヒロさんの方が詳しいでしょうからお任せします。何か分からないことがあったらいつでも遠慮なく聞いてください。大抵はここに居ますので」
帰りの馬車を待つ間、待合室でクロウがもう一杯淹れてくれたコーヒーを飲んでいる。当のクロウは見送りをジョーに任せて行ってしまった。お忙しい人だ。ジョーはカウンターの向こうで午後の診察に備えてカルテを整理している。
「…じゃあ一つだけ」
「ええ、どうぞ」
「どうしてジョーさんは元の世界に戻ろうとしないんですか?」
カルテを捲る手が止まる。ジョーの顔から笑みが消えていた。あれ…もしかして地雷踏んじゃった…?
「…ボクは日本では大学病院に勤めていました。華々しい職場に思われるかもしれませんが、実際には排他的で利己的で、薄汚い世界なんです。付属の大学出身でなかったボクは派閥にも入れず常に一人でした。同僚はどんどん出世していく中、ボクだけずっと下っ端で、遂には後輩にも追い抜かれ顎で使われていました。それでも患者のためと頑張っていましたが、偶然院長と看護師長の不倫現場を目撃してしまい、それ以来病院でボクの居場所はなくなりました。看護師たちからはストレスのはけ口にされ、患者からも担当を変えてくれと言われる始末…正直、何のために医者になったのか、完全に分からなくなっていました。そんな時、ある日突然この世界に送り込まれたのです。最初は戸惑いましたが、ボクは両親や兄たちとは疎遠で半ば見捨てられていたし、結婚もしていない。親しい友人もいませんでしたから、ボクがあっちの世界でいなくなっても困る人なんて誰もいない。それなら生まれ変わったと思って、このステラで生きていこうと決めたんです」
ジョーは淡々といきさつを語る。だがその裏にはきっと簡単には語り尽くせない苦悩と克己があっただろう。アクアは目頭を熱くしている。聞いて良かった。この人の覚悟に比べたら、私なんてまだ三日しかこの世界にいないのだ…
「そしてクロウに拾われ、病院も与えてもらえ、ボクの人生は百八十度変わりました。ここには僕を必要としてくれる人がいる。慕ってくれる後輩もいる。色んなタイプの獣人たちもたくさんいる…こんな素晴らしい世界にいるのに、帰る必要がどこにありますか?」
……ん?今おかしなことが聞こえた気が…ウサギ耳の看護師の子がコーヒーのおかわりを持ってきてくれる。丁重にお断りし、フリフリと去っていく丸い尻尾を見ながらチヒロは思った。流れ、変わったな…
「唯一の心残りはPCに入れっぱなしの大量のアニメと一部屋分のフィギュアとやり残した美少女ゲームたちですが誰かに見られたとしてもボクがそれを知らなければいいわけですしすでにみられているだろうからむしろもうかえりたくないの」
「ああもう台無しだよ!最初のくだりの感動を返せ!」
チヒロのツッコミと同時にアクアが立ち上がり怖い顔をしてジョーのいる受付に向かっていく。お、珍しく怒ったか?カウンター越しに対峙し、お互いの視線が火花を散らす。…いや、この展開は…
「……ケモ耳?」
「……モフモフ!」
「やっぱり!てか意気投合すんな!」
二人はがっちりと熱い友情の握手を交わし、互いに目頭を熱くしている。聞かなきゃよかった…激しく後悔し頭を抱えるチヒロの前をネコ耳が横切っていく。
「ジョーせんせー、タクシーが来ましたニャン♪」
「ん~ピノピノ、ありがとニャン♪…さ、チヒロさん。これからよろしくおねがいしま」
「この世界から出ていけ!」
パーボに戻り、アクアが事の顛末を従業員の三人に説明すると、意外にもみんなの反応は薄かった。話が突飛すぎてピンときていないようだ。
マキナは、
「どうせまたあそこの会長の夢物語にアテられてるだけでしょ?できもしないのに安請け合いばっかりして、余計なお金遣わないでよ?もうカツカツなんだから…」
と、奥の帳場へ引っ込んでいった。
コルシュは、
「ふーん…で、僕は何したらいいの?一応学校で魔法は習ってるけど、バイト先でまで使いたくないからね。あれ、疲れるんだよ…」
と、奥の作業場へ引っ込んでいった。
フェッテは、
「おお、三代目!ようやくやる気になってくれましたか!これもチヒロ殿が来てくれたおかげですな!では、私の筋肉がご入用になりましたらいつでもお声掛けください!」
と、奥の休憩室へ筋トレに励みにいった。
―――ま、期待はしてなかったけどね…
アクアが頼りになるはずもなく、結局チヒロ一人で『マムノート』を読み解いている。有機合成のバイブル『ソロモン』は人を撲殺できる書物の一つとして有名だが、このレシピ帳はその凶器と同じくらいの大きさと厚みがある。原料となる植物や動物や鉱物ごとに、含有する有効成分、それぞれの効能、構造式、抽出方法、それらから作られる商品名など事細かに書かれてはいるが、なにせ順番通りに並んでいないので目的のものを探し当てるだけでも骨が折れる。
「とりあえず索引から作らなきゃ…」
腕をパンパンにしながら一つ一つ付箋を挟んでいると、店の戸が開き一組の母娘が入ってきた。
「あ、いらっしゃいませ」
アクアが買い出しに行っているので、実質チヒロが店番になっている。パーボは初めてなのだろうか、母娘はきょろきょろしながらカウンターに向かってくる。
「あの…チヒロさんという方はお見えでしょうか…?」
商品をいじろうとする娘の手を押さえながら母親が尋ねる。
「はい、私ですが…?」
どうして私の名前を…?チヒロが怪訝そうに答えると、母親が娘をつついて催促する。
「ほら、このお姉ちゃんだって。先生に言われたでしょ?このお手紙出してって」
女の子は大事そうに一枚の紙切れを握りしめている。二つに緩くまとめた背中まである淡いピンク色の髪を揺らしながら母親とチヒロを何度か見比べてから、一生懸命背伸びをしてカウンターの向こうのチヒロにその手紙を手渡す。
「え…もしかして、もう来たの?」
案の定、その手紙はジョーの書いた処方箋だった。午後の診察で早速出したのか。ついさっき話を聞いたばかりなのにすぐに薬ができるはずない。何考えてんのよあの人は…!受け取ったはいいが困った顔をしているチヒロを母親が心配そうに覗き込む。
「それ、ジョー先生からパナケーア・パーボのチヒロ先生に渡すように言われたんです。なんでもお薬の新しいシステムだとか。ジョー先生が信頼できるお店だとおっしゃっていたので、是非にとお願いしたんですが…ご迷惑でしたか?」
「い…いえいえ、迷惑だなんて!そんなことは…ないです…」
それを聞いて母親がホッと頬を緩ませる。思わず取り繕ってしまった。襟足辺りに後悔の念が過ぎる。
「この子、もう一年以上咳と痰が続いているんです。いつも病院では丁寧に診てくださって、ちゃんとお薬もいただくんですけど、なかなか良くならなくて…」
母親の言う通り、桃色の髪の女の子は棚に並ぶ瓶やお菓子を物色しながら時々ゴホゴホと咳込んでいる。チヒロの眉根が下がる。チヒロの弟も小さい頃、同じ小児喘息だった。寝る前や明け方によく発作を起こし、ベッドの上で苦しそうにヒューヒューやっていたのを思い出す。生意気な弟で喧嘩ばかりしていたが、その時だけは可哀想で、治まるまで付き合ってあげたりしたものだ。今ではただ生意気なだけだけど…
「遊びたい盛りなのに、友達がみんな走り回っているのを見ているだけなのが不憫で…ここのお薬ならすぐに良くなるとジョー先生はおっしゃっていました。お願いします。娘に薬を処方してやってください。みんなと一緒に遊ばせてやりたいんです…!」
母親が深々と頭を下げる。まいった。過剰に期待され過ぎている。ここで簡単に分かりました、なんて言ったら自分の首を絞めるどころかきっとこの母娘まで傷つけてしまう。ジョーさんには悪いけど、ここははっきり言っておかないと…
「…すみません、実は…」
「おねがいします!」
断ろうとした矢先、女の子の元気な声が店内に響いた。桃色の髪が床に着くほど、小さな体を折り曲げてお辞儀している。母親が自分のために頭を下げているのを分かっていて真似しているのだ。ううう、ダメよ千尋、一時の感情に流されちゃ…そうやっていつも失敗してきたんだから…たとえ嫌われても心を鬼にして…チヒロが口を開こうとしたその時、少女が体を折り曲げたまま激しく咽せ始めた。
「ウッ…ゲッホッ!ゴホッ!ゴッホッ!」
発作…!チヒロが思うよりも早く母親が抱き上げ背中を擦る。少女は顔が青ざめ肩で息をするたびに喉の奥がゴロゴロと鳴っている。
「すいません、お水を!」
母親に言われてようやく慌てて走り出す。
―――何をしているんだ私は…!あの苦しさを知ってるはずなのに…!
背中を這っていた後悔が胸の奥を突き刺してくる。作業場に駆け込み洗い場の蛇口をひねる。ただならぬ様子にコルシュたちが驚いて手を止める。遅い。水圧が低いのでなかなか出てこない。マキナが何か言っているが構っていられない。ようやくちょろちょろと出てきた水をコップの半分まで汲み待ち切れずに店内に取って返す。女の子は苦しそうに口を開け顔中に脂汗をかいている。母親は涙目でおろおろと背中をさすりながらごめんねごめんねと謝り続けている。チヒロは女の子の汗だくの額に手を添え母親の肩から顎をそっと持ち上げ開いた口にコップを当てる。ゼロゼロ言っている喉にゆっくりと流し込むと一口飲んだところでゴハッと噴き出す。噴き出た水がチヒロの髪に顔に降りかかる。
「ぺっ、しなさい!ぺっ!」
チヒロは昔弟に言っていたのと同じことを夢中で叫んでいた。それに答えるように女の子の喉が一際大きくゴロッと鳴り、チヒロが手を添えると同時に吐しゃ物と一緒に大量の痰を吐き出した。
「ゴホ…ペッ、ペッ」
女の子は言われた通り、チヒロの手の上に残った痰をぺっぺと吐いている。喘鳴がなくなり顔色が戻っている。良かった。ひとまずは大事なさそうだ。
「ああっ、チヒロ先生、手が…!」
呼吸の落ち着いた女の子を降ろすと、チヒロの手を見て母親が狼狽え始めた。上手に受け止められたようで商品にも店内にも大して被害はない。ナイスキャッチ、私。問題ないです、と母親に首を振って流し場に向かうと、ドアの陰に三人の顔が並んでいた。
「…大丈夫?」
一番下のマキナが心配してくれた。なんだ、そんなことも言えるんじゃん。
「へーきへーき。こんなの慣れっこだから」
本当はまだ心臓がバクバクしていたが強がってみた。手を洗い母娘のところに戻ると、母親がまた頭を下げている。
「ごめんなさい、娘のせいで汚してしまって…」
「…ダメですよ、お母さん。この子が悪いことをしたみたいになっちゃうじゃないですか。そういうのって結構傷つくんです、子供って。だから、謝らないでください」
これは弟の受け売りだ。母親は涙を拭い、ありがとうございます、と言ってくれた。女の子の髪を撫でると恥ずかしそうにはにかみ、母親の足元に隠れてしまう。そんな仕草も可愛らしい。もうすっかり元気なようだ。喘息発作はともすれば命に関わる。弟も何度も救急に連れて行かれていた。それを思うとぞっとする。弟にはSABAの吸入もステロイドの注射もあった。だがこの子にはないのだ。
チヒロはカウンターの上に放置されていた処方箋を手に取る。
〈リリー・メルビル、四歳、人間、女、体重十三キロ、処方、テオフィリン50mg×2回、朝・就寝前〉
…そうか。この子、リリーっていうんだ。
「…お母さん」
いつの間にか動悸が治まっていた。胸に突き刺さっていた後悔はまだくるぶし辺りで燻ぶっているが、意を決して母娘に向き直る。
「すみません、実はこの店ではまだ薬を出すことができません。私は最近この店に来たばかりで、ジョーさんのお話も今日初めて聞いたんです。確かにここに書いてある薬があれば発作を抑えることができると思います。でもこの世界にはこれを作る技術や設備がありません。リリーちゃんを治すことができる薬は、ここにはないんです」
「ちょっ…!」
後ろで口を挟もうとしたマキナがフェッテに抑え込まれている。ごめんね、マキナ。でも正直に言うよ。今の気持ちを。
「私がもっと賢くて、ちゃんと勉強していて、たくさん経験を積んでいればあるいはそれも叶ったかもしれませんが、今の私には知識も技術も経験もない…」
「いえ、そんな…チヒロ先生こそ謝らないでください。先生はこの子のために尽くしてくれたじゃないですか。お気持ちだけで十分…」
「一週間ください!」
チヒロはキッと顔を上げ背筋を伸ばし、二人を真っ直ぐに見詰める。決めるのは私だ。私の意志だ。私は私を、信じてみる。
「一週間、その間に必ずこの薬を作れるように、リリーちゃんを治す薬を出せるようにして見せます。それまでどうかリリーちゃんを守ってあげてください。お願いします!」
「チヒロ先生…」
頭を下げたその先で、リリーがまたぺこりとお辞儀をしている。私の真似をしているのかな。チヒロはどうしようもなくこの子を抱きしめたくなった。
「…分かりました。ジョー先生もすぐにはできないだろうとおっしゃっていましたし、私たちもそのつもりでしたから。…一週間と言わず、いつまでもお待ちします」
母親が微笑むのを見て、リリーが笑う。チヒロもつられて笑っていた。
また来週来ます、と母娘は帰っていった。通りに出て手を振って二人を見送ったチヒロは深く深く溜め息を吐く。
…言ってしまった。これでもう後戻りできない。足元で燻ぶっていた後悔が再び燃え上がる。いいの?せっかく帰れるって分かったのに。ここにはスマホもコンビニもテレビもないんだよ?だいたいあんた一人で何ができるの?ただの自己満足のエゴじゃないの?
…変な汗まで出てきた。一週間?何でそんなこと言ったんだろう。せめて一か月くらいにしておけばよかった…とぼとぼと店に戻ると、マキナがカウンターに座っている。
「なにこれ?何書いてあるかさっぱり分かんないじゃない。字も汚いし。せめて名前順にくらい並べときなさいよ、まったく…」
文句を言いながらマムノートを乱暴に捲っている。その脇には挟んでおいた付箋が散らばっていた。
「―――このっ!」
募った不安が怒りに昇華する。
―――なによ!結局邪魔する気?駆け寄ってノートを奪い取る。さっきはちょっと見直したのに!バカにして…!
散らばった付箋を拾い集めながら瞼を熱くする。私だって…私だって…!唇を噛んで涙を堪えるチヒロに、マキナが紙の束を無造作に突き出した。
「……?」
「あんたもバカねぇ。こっちに来たばっかのくせにこんな厄介事抱え込んで…一人で全部やるつもりだったの?」
マキナが持っているのはマムノートから破り取ったものだった。『チャノキ』『カカオ豆クリアロ』『カカオ豆ファラステロ』『コーヒー豆アラビカ』…
「これは…?」
全部『テオフィリン』を含む原料が書かれたページだ。『テオフィリン』は気管支拡張と抗炎症作用を持つ代表的な喘息の薬だ。ジョーの処方箋にもあった…
「読むのはあんたよ、あたしには分かんないんだから。それに付箋なんかムダムダ。どうせくちゃくちゃになるだけよ。この有効成分って奴ごとにまとめればいいんでしょ?得意な人がやればいいのよ、こんな作業。それにしても重いわねぇ、これ…」
マキナは自分の肩を揉みながらひょいっとノートを取り返す。
チヒロがカウンターから離れてから戻るまで、ものの五分もなかったはずだ。その間にマキナは『テオフィリン』の言葉が入ったページをあらかた探し出し選別していたのだ。
「チャノキってお茶のことでしょ…茶葉なら倉庫にいっぱいあるよ…でもカカオ豆の方が効率良さそうだね…クロウ会長に取り寄せてもらおう…」
肩越しに覗いていたコルシュがぶつぶつ呟きながらメモを取っている。ざっと目を通しただけなのに『テオフィリン』の構造式まで正確に写し取っていた。
「とりあえずはあるものから、ですな?倉庫にあるのはアッサムの乾燥茶葉ですが、そのままでよろしいか?砕いた方がよろしいか?」
フェッテが腕まくりをして筋肉を作っている。
―――みんな…どうして…
堪えていた涙がポロリと零れ落ち、チヒロの頬を一筋伝う。
「ちょっとなによ、気色悪い。泣いてる暇なんてないんでしょ?あんたが指示してくんなきゃ、こいつら何していいかも分かんないんだから。しっかりしてよね」
言い方は冷たいが、マキナの言葉は温かい。チヒロは力士のように両手で頬を張り、ついでに流した涙を拭いとる。
「あっったりまえでしょ!私はいつでもしっかりしてるわよ!コルシュ!私が今から必要なもの読み上げるからここにあるものないもの振り分けていって!フェッテさん!粉の方が抽出率がいいから茶葉はできるだけ細かく砕いて!マキナは…!」
二人の目と目が初めて合った。マキナがモノクルを付け片頬をニッと歪める。
「明日の朝までには片付けてあげるから。任せときなさい、チヒロ」
コルシュが大きく頷き、フェッテが親指を立てる。そうだ。泣いてなんかいられない。私が決めたんだ。絶対にリリーを救って見せる!
こうして四人の力が結集した新生パナケーア・パーボが幕を開けた―――
「―――あれ?誰か忘れてない?」
「んー?この店他に誰かいたっけ?」
「あー…全然思い出せないですね」
「それなら大したことじゃないってことですよ、はっは」
「ちょいちょいちょい!いるよ!帰ってきましたよ!アクアだよ!この店の店主ですよ!」
タイミングを見計らったかのようにアクアが戻ってきた。
「……ちっ」
「舌打ち?いま誰か舌打ちしたよね!」
「せっかくいい雰囲気だったのに。空気読めよ…」
「あれぇ?僕、何か悪いことしたかなぁ?買い出しに行ってただけなんですけどねぇ?」
「店長にできることなんてあるかなぁ…いや、ない」
「反語!口に出ちゃってる!」
「あ…くあ…?この店の…店主…?うっ…頭が…!」
「どんなトラウマ?記憶失くすほど?てかみんな酷くない?ここ僕の店だよね?僕も仲間に入れてくださいよぉぉ!」
四人は黙々と作業を始め、店内にはアクアの叫び声だけが虚しく響いていた。
翌朝。昨日までと同じく小鳥の声で目が覚めた。チヒロは明け方近くまで作業を続け、いいかげん限界が来たので部屋で仮眠を取っていた。時計は七時を指している。ちょっとだけのつもりが二時間も寝てしまっていた。
「ん~~~…起きなきゃ…」
シーツも被らず着のままでごろ寝していたので身体がキシキシする。ベッドから這い降り洗面所に向かい、蛇口を捻る。代わり映えのしない服も鏡に映った金髪碧眼も気にならなくなった。人間、慣れるもんだね…
「……あれ?」
水が出ない。水圧が低いにしては遅すぎる。コックを全開にしても一滴も垂れてこない。もしや、とトイレのタンクの紐を引いてみるが、こちらも全く流れない。
「ちょっと、アクア?二階の水が出ないんだけど?」
キッチンで朝食を作っているアクアに開口一番文句を垂れる。
「あ、そうなんだよ。朝から水道工事しているらしくて、今日一日ここら一帯水道が使えないそうなんだ。顔洗うんだったら中庭の井戸を使っておくれ」
ザッザザッザと手際良くフライパンを煽るアクアの額には爽やかな汗が浮いている。ホント、なんでレストランにしなかったんだろう…それはともかく、キッチンには汲み置きのタンクが並べてある。家も店も水が出ないんだ。しょうがないなあ…中庭に行くとフェッテが上半身裸で石臼を挽いていた。すり鉢や薬研も試していたが、結局これが早いようだ。昨日からブリキの保管箱いっぱいにあった都合三十キロほどの茶葉を全て粉末にし、二箱目に突入している。
「フェッテさん、おはようございます」
「おお、おはようございます、チヒロ殿!今日も雲一つない良い天気ですなぁ!こんな日は臼挽きもビルドアップもはかどりますぞ!はっは!」
わざわざ手を止めポーズを作って褐色の肌をアピールしてくる。分かった分かった。
「はは…それはいいけど、ちゃんと休んでます?いい歳なんだからあんまり無理しないでくださいね、まだ時間はあるから…」
「なんのこれしき!ドワーフの戦士たるもの、日々の生活全てが鍛錬なのです。休息など軟弱の極み、来るべき強敵との戦いに備え、常に斧を振り続け自らの意思に反しその手から離れるまで休むことなどぐ~~」
言ってる傍から石臼を抱いてすやすや寝始めた。何と戦う気だったかは知らないが、寄る年波には勝てなかったか、ドワーフの戦士。そのまま起こさないようにして、昔懐かしい手押しポンプで桶に水を汲み上げ顔を洗う。井戸水の冷たさにぶるっと身震いする。
―――ん…?ちょっと待てよ…
枝に掛かった手拭いで顔を拭きながら、チヒロは一つのトラブルを覚え始めていた。
「おはよう、マキナ…あれ、コルシュは?」
帳場で『マムノート』のファイリングを続けるマキナの目の下にはくっきりと隈ができている。緑の髪もぼさぼさだ。どうやら完徹らしい。
「さすがに帰らせたわ。あの子今日も学校なのよ…まだやるって聞かなかったけどね。ふわぁ~~もう朝か…どう?ちょっとは休めた?」
小さな体を目一杯伸ばしてあくびする。こうして見ると体格はリリーと大差がない。言動は紛うことなくおばはんだけど。
「うん、二時間くらい寝たから大丈夫。修論の前はもっと大変だったし…ああいや、こっちの話。マキナも休んだら?必要な部分は終わったんでしょ?」
「う~ん、そうしたいのは山々なんだけど途中で止めらんないのよ、性格的に。朝までに仕上げるって言っちゃったしさ。もうちょっと頑張るわ。他人のことよりチヒロもまだ寝てれば?顔色悪いわよ?」
「あ、これは…」
チヒロが服の裾を掴んでモジモジしていると、アクアが朝食を運んできた。
「お待たせ!さ、二人ともしっかり食べて今日も一日頑張っておくれ」
トレイには軽くトーストした食パンにヨーグルトにバナナ、カリカリに焼いたベーコンを下敷きにした目玉焼き、簡単なパスタにレタスとマカロニとプチトマトのサラダが並び、マグカップには濃い目のコーヒーがなみなみと注がれている。まるで普段は朝食なんて食べないくせに雰囲気に流されてあれもこれもと山ほど盛り付けてしまったビジネスホテルの朝食バイキングのようだ。
「あ、ありがと。でもコーヒーは…今はいらないかな…」
「ん?どうして?飲めば頭がすっきりするのに。ちゃんとそんな成分が含まれていると教えてくれたのはチヒロじゃないか。頭痛とかの薬にもなるんだろう?そのなんだっけ、えーっと…カ、カフ…カフイン?」
「温泉街か。カフェインね。今作ろうとしてるテオフィリンに良く似てるんだっけ。ふふん、あたしもだいぶ賢くなってきたわね。それともう一つ作用があったような…」
「……利尿作用!」
チヒロはもう二人の目も憚らず内股をくねくねとすり合わせている。条件反射なのか、香りを嗅いだだけで腎血管が拡張し膀胱括約筋が弛緩してしまった。
「そうそう、確かに飲むとトイレに行きたくなるよね…あれ、もしかしてあんた、我慢してるの?」
「だって、トイレの水も流れないし…」
「店のトイレを使えばいいじゃないか」
「だから困ってるの!あんなトイレしかないなんて…ううう、どうしよう…なんで朝から工事なんかするのよ~!」
店のトイレこそチヒロがステラで最初に目覚めたあのトイレだったが、以来一度も使っていなかった。アクアの家に水洗があるのに、わざわざあんなボットン便所なぞ使う意味がない。理由がない。必要がない。ないったらない。
「はは~ん、さてはあんた怖いのね?分かるわぁ~、あたしも底が見えないボットン便所は苦手だったもの。中から手とか出てきそうでさ~、たまに変な音が聞こえたりするしさ~、まあ子供の頃の話だけどね~?」
マキナがここぞとばかりの意地悪な顔で楽しそうに煽ってくる。想像がゾクゾクと腰骨を震わせますます限界を縮める。
「クロウ病院は工事区域外だから、どうしても無理ならあそこで借りれば…」
「もつわけないでしょ、バカ!馬車で何十分かかると思ってんの!…ん~~もうっ!いじわる!人でなし…!」
二人の笑い声を背にチヒロは半べそで店のトイレに駆け込む。ドアを閉めると独特の臭気が鼻の粘膜を襲う。窮屈な部屋。汚れの染みついた簡単すぎる造りの便器。その真ん中に黒々と開いた全てを呑み込む地獄の釜のような穴。くすんだタイル地の床まで薄気味悪く思えてくる。
「ぐぬぬ…やっぱりムリかも…」
生理的な嫌悪と決壊しそうなプライドがせめぎ合い、チヒロは限界を超えて虚空を見上げる。光が見えた。天井近くの小鳥の並んだ小窓から燦々と差し込む朝日がチヒロの心を正気に戻す。…そうだ。これを跨がなければ私は大切な何かを失ってしまう。異世界にまで来て恥辱に塗れて生きていくなどまっぴら御免だ。これは大鳳千尋と言う存在の尊厳を賭けた、魂の闘いなのだ。見ていろ小鳥ども。この地獄を天国へと変えてみせるさ…!
「………ふぃぃ~~~たす…かっ…た~~~」
圧倒的解放感に目の前が白くなる。脳内に溢れ出たセロトニンが寝不足の意識を眩い光の中に溶かしていく。束の間の
「あ…紙…忘れた―――」
「―――今、音しませんでしたか?」
人の声に白飛びしていた意識が戻ってくる。一瞬、本当に寝ていたようだ。いかんいかん、こんなところで寝てたら落っこちちゃうよ…あくびのついでに組んだ手を伸ばしてストレッチする。
「―――いや、鍵が掛かっててドアが開かないんだ!」
なんだか外が騒がしい。お客さんでも来たのかな…?まあいいか、アクアたちに任せておけば…半開きの目を擦りトイレットペーパーを手に巻き取る。
「―――絶対トイレの中ですよ!力尽くでも開けてください!」
ドアがガチャガチャ言っている。もう、私が入ってるのに何やって…右手に巻き取ったトイレットペーパーを見詰め、しばし考える。
―――あれ…?紙、あるじゃん…。
ぼんやりした頭で周りを見渡す。殺風景な白い壁紙。飾り気のないライト。ヘビロテのボーダーブラウス。ほんのりあったかい便座…
「………えっ?」
声を上げると同時にドアが勢い良く開いた。開いたドアの向こうにはスーツ姿の古塚さんが立っている。
「………ええっ?」
古塚さんの脇の下からこずえがひょっこり顔を出し、キャッと悲鳴を上げ慌てて引っ込む。
「………えええっ?」
古塚さんは目を見開いて絶句したまま固まっている。
―――このパターン…前にもあったな…
その目線を辿りソロソロと自分の姿を見下ろすと…思った通り、ムチムチの太ももが素肌を晒して見事にご開帳されていた。
「………とっとと閉めんかぁぁっっ!」
千尋の投げつけたなにかとても固いものが古塚の鼻っ柱にヒットした。
「ぐしぐしぐしぐし…」
脱ぎ散らかしてあったパンツを履き直しトイレから出ると、やっぱり元の世界のアパートの中だった。今日は連休合間の平日で、時刻は七時を回ったところだ。
昨日会社に連絡もなく欠勤し、メールに返信もなく電話しても繋がらず、心配になってアパートに来たら鍵どころかドアチェーンまで掛かっていて入れない、今朝になって大家さんにようやく開けてもらったが1LDKのどこを探してもいない、スマホも置きっぱなし、これはいよいよ警察だ…となっていたとこらしい。ちなみにぐしぐし泣いているのは千尋ではなくチームリーダーの古塚だ。さっきの記憶をどうにかして失くそうと二人から頭部に強い衝撃を何度も与えられていたが効果はなさそうだ。人って意外と丈夫なのね。
「もう!どこ行ってたの?本当に心配したんだからね!」
こずえは涙目で怒っている。心配をかけたのは申し訳ないが、自分でも何が何だか分からないからしょうがない。今は現実に戻ってきたことに対して、喜びよりも戸惑いの方が大きい。
「いやぁ、私も良く分かんないんだけど…何から説明したらいいか…えっと、土曜にこずえと飲んだ後…あんまし覚えてないんだけど、気持ち悪くてトイレに籠っていたらいつの間にか別の世界にいて、ステラっていう世界なんだけどね、耳の尖った人やちっちゃい妖精みたいなのがいるようなとこで…で、私がいたのがパーボっていう薬局で、薬草とかポーションとかが置いてあって…で、そこの店主がいいかげんな人なんだけど、成り行きで色々と手伝わされて……えっと……」
こずえと古塚がかわいそうな子を見る目になっている。ダメだ。一ミリも信じてもらえてない。
「大鳳さんて、そんな不思議ちゃんキャラだっけ…?無断欠勤の言い訳にしては出来が悪すぎるんだけど…」
「ド変態は黙っててください。ちひろんは今、深く傷ついているんです。ね、ちひろん、どうせ元カレのところに行ってたんでしょ?絶対相手にされないから忘れた方がいいってあれだけ言ったのに。それでも携帯も持たずに飛び出して行っちゃうのはちひろんの可愛いところだとは思うよ?でも宗教はダメだよ!」
「しゅ、宗教?」
「そう!そのステラとかパーボってのがどんなのか知らないけど、いくら付き合ってると思い込んでた彼氏にあっさり捨てられたからって、そんなヤバそうな宗教に走っちゃダメだよ!大丈夫、ぺちゃんこになった社有車の始末書はわたしが代わりに書いといたから。テラスコンビも所長たちもちゃんと心配してるよ?みんな怒ったりしてないから、ね?会社行こ?」
この子は励ましたいのか馬鹿にしたいのかどっちなんだ?それにしても宗教って…話が伝わらないのはともかくとして、そんな曲解をされるとは。でもこれ以上説明していたらますますイタい奴だと思われるだろうし、ここはもう…
「あー…そうそう、体調崩しちゃって昨日まで実家の方にちょっと帰ってたの。スマホ忘れちゃったから連絡もできなくて…ああでも、元カレとか宗教とかそんなんじゃないから。今朝もずっとトイレに籠りっぱなしで…げふんげふん、でも大分良くなったんでもう大丈夫。古塚さんも心配かけてごめんなさい。今日はちゃんと出社しますから…」
自分で言っていて白々しい。こんな取って付けたような言い訳が通じるはず…
「なんだ、やっぱりそうだったのか。体調悪かったんならしょうがないけど、次からは電話の一本くらい寄こしてくれよ。昨日の分は有休で処理しておくから、後で勤怠の申請出しておいて。あと飲み過ぎはいかんぞ。飲み過ぎは」
通じた。古塚はアメリカ人のようなジェスチャーでやれやれと両手を広げている。想像できる範疇の返答が来れば人は簡単に受け入れてしまうのか。ドアチェーンを切ってまで部屋に入ってきたことをどう消化しているのだろう…
「でもよかった…変な事件に巻き込まれたりしてなくて…」
こずえが声を震わせてしがみついてくる。千尋のスマホは三日前からこずえからのメールと着信で埋まっていた。自分にはこんなに心配してくれる人がいる。両親と弟の顔が思い浮かぶ。喧嘩ばっかりしてるけど、突然いなくなったらさすがに悲しんでくれるかな。そんなこと今まで考えたこともなかった。でも私は帰ってきた。帰ってこられた。今はそれだけで十分なのかもしれない…
「―――じゃあ、車で待ってるから。遅れないようにね?」
車がないのでこずえに送ってもらうことにした。タクシーは高いし、しばらく運転はしたくないからありがたい。古塚は朝からミーティングがあると一足先に出社していった。私もそろそろ行かないと。スーツに着替え、髪を梳き、軽くファンデとリップだけ塗り、朝食代わりに野菜ジュースのペットボトルを呷る。口元を拭いながら鞄を手に玄関に向かい、靴を履こうとしてふと立ち止まる。
―――それでいいの?
胸の内のもやもやした部分から声がする。顔を上げると目の前にトイレのドアがある。千尋はノブを回しそっと開けてみる。さっきと変わらない、どこにでもあるようなごく普通のトイレだ。胸のもやもやが広がっていく。壁に掛けられた鏡に映る自分の顔は、髪の色も瞳の色も元通りのつまらない黒や灰色に戻っている。証拠はない。でも確信がある。
あれは夢じゃない。
アクアもマキナもコルシュもフェッテさんもクロウ会長もジョーさんのことも全部鮮明に覚えている。パスタの味もコーヒーの香りもウコン茶の苦さも感覚として思い出せる。私は確かにパナケーア・パーボで働いていたし、あのステラの世界で泣いたり怒ったり笑ったりしていた。あれは夢なんかじゃない。それなら…
―――ピロピロリン。
スマホが鳴った。こずえからのメールだ。まだ心配してくれている。…行かなきゃ。千尋はトイレには入らず、そのままドアをそっと閉じる。
―――それでいいの?
胸の中を埋め尽くすもやもやを抱えたまま、内なる声を振り切るように千尋はアパートの玄関から飛び出していった。
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