2 会社と酒と、アパートのトイレ

 バスは最後の住宅地を抜けてからもう小一時間は走り続けている。途中、いくつかバス停が見えたがアナウンスもなしに通り過ぎていった。それもそのはずで、車窓には遅咲きの色濃い山桜が咲き誇る峰々が並び、峡谷に掛かった橋の下を流れる澄み切った川が朝日を燦々と照り返し、かろうじて県道とは言え木々がすぐ脇まで張り出したセンターラインもない林道にポツンとあるバス停から乗る人があろうはずもなく、ましてやバスの中にはずっと前から乗客は一人しかいない。

「お客さん、次でいいんかね?」

 独特のイントネーションで運転手が真後ろに座る乗客に直接尋ねる。こうなるともはやでっかいタクシーだ。くたびれたリクルートスーツに身を包み、小旅行にでも行くかのようにパンパンに膨らんだ合皮のビジネスバッグを抱えたその乗客は、女の子と言うには妙齢の女性で、恐らく地元の人間ではないのだろう、さっきからスマートフォンを握りしめ、一本立ってはすぐ圏外に戻るアンテナマークに恐々と震えている。

「あっ…はいっ!次で…お願いします…たぶん…」

 目的の停留所名が表示されても果たして合っているのか、自信のなさに語尾が消え入りそうだ。実家から新幹線と在来線と二時間に一本しか来ない単線一両のローカル線を乗り継ぎ、さらに他に移動手段のない地元のおばあちゃんが買い出しに使う、ぐねぐね迂回しながらのんびり走るどこまで乗っても二百円のこのコミュニティーバスに揺られていると、ここはもう日本ではないどこか異国の地に迷い込んだのではないかと思えてくる。

「ホントにこんなところにあるの…?」

 思わず零してしまうほど背筋がうそ寒くなる。

 ―――田舎とかじゃなくて、もう山奥じゃん…

 と、不意に視界が開け、バスはまだ代掻きの始まっていない殺風景な乾いた田んぼの広がる集落に出た。畦道と大差のない農道をしばらくガタゴトと走り、錆び付いて折れそうな赤白のバス停の前でようやく停車した。

「うそ…まだ先なの…?」

 バスの揺れが残ったままフワフワしながら土手に降り立ち、何とか繋がるスマホで地図を見ると、遥か先にある登山口から伸びた山道の、さらにその頂点に目的地を示すフラッグが立っている。乗ってきたバスは農道をぐるりと回り、田んぼに散らばる猿を脅かしながら元の県道へと帰っていく。見渡しても車一台、人っ子一人いない。

「…だよね」

 彼女はあっさりと諦め、バッグを肩に担ぎ直し畔道を重い足取りで歩き出した。

「連休には車見に行こう…」


「―――えー、今年度は我が研究所に二人のニューフェイスが来てくれた。えー、思い起こせば十年前、えー、かつては二百人以上いたこの研究センターもアニュアルごとにスリム化し、えー、今では全部署合わせて、えー、五十人を切るまでにリソースを絞り込んできた。えー、みんなも知っての通り…」

 真新しい社服の新入社員を二人両脇に従え、所長のが延々と続いている。

 都築製薬株式会社は、医薬品メーカーのご多分に漏れず医薬品開発を行う研究施設を有し、ここ研究センターには創薬、薬理、それに製剤の三研究所が集まり、それを研究総務部、薬物解析部、品質管理部が支えている…

 などと言えば聞こえは良いが、実際には地価の安い山間の工業団地の端の端に間借りするようにポツンと四階建ての建屋が一棟あるだけだ。大型の機械が多い製剤研究所と受付を兼ねる研究総務部は一階に、創薬研究所は有機合成が中心なので爆発しても影響が少ないよう三階に、二階には創薬と製剤を繋ぐ業務を行う薬理研究所と品質管理部が、面白味もない真四角の建造物の中に詰め込まれている。研究センターの周りは植林された杉林に囲まれ、夏にはカブトムシ、秋冬にはシカやサルやノウサギやタヌキやキツネやハクビシンと言った動物たちが闊歩する自然豊かな土地柄で、東京にある本社の人間からはこれだけ静かなら存分に研究に打ち込めるでしょう、などと言われる始末である。

 そして今、その緑溢れる人工造林がもたらしてくれる暴力的なまでの花粉に晒され、大鳳千尋は勝手に垂れてくる鼻水と密かに格闘していた。

 ―――挨拶長いよ…あんたの一言どんだけあるんだよ…は、鼻が…

 周りを見渡すと、ほとんどの社員が腕時計をちらちら見たり、あくびを噛み殺したり、立ったままキーボードを打ったりしている。どうやらこの所長に対する第一印象は間違っていないようだ。

「…えー、だからして、えー、これからも新薬メーカーとしてやっていくという本部の意向を踏まえ、えー、我が研究所でも結果にコミットするべく、えー、ぜひイノベイティブでクリエイティブなジャストアイデアをシナジーしてウィンウィンな…」

 こっそりすすり上げていた鼻水もそろそろ限界を迎えてきた。どうしよう。ここで垂らしてしまえば初日からみんなの印象が決まってしまう。きっとヘンなあだ名を付けられる。かと言って所長の話を遮ってかみ鳴らす訳には…配属早々、早速訪れたピンチに狼狽えていると、

「はっくしゅん!」

 隣に立つ同じ新入社員の女の子が壮大にくしゃみをした。全員の視線が鼻を擦っているその子に集まる。

「あ…すみません。わたし花粉症で。鼻かんでもいいですか?」

「わ、私も…失礼します…!」

 助かった。話の腰を折られ白けた顔で所長が咳払いをする。

「ゴホン…えー、言うべきことはまだあるが、諸君も重々承知していることと思うので…新人二人にも挨拶をしてもらおうか。四宮くん」

「アグリーです。じゃあ大鳳さんから、お願いします」

 副所長が後を引き取り、新人二人がみんなの前に立たされる。

「あ、はい…えーと、本日より製剤研究所、製剤開発チームに配属になりました、大鳳千尋です。大学では合成系の教室で、イソリトコール酸骨格誘導体とアポトーシスの構造活性相関の研究をしていました。えと、部活は陸上部で、主に長距離をやっていたので、体を動かすことは大好きです。ただ球技とかは全然ダメなので教えてもらえたらうれしいです。あと趣味は…これと言って特にありませんが、映画とかはたまに見ます。えっと、製剤のことはほとんど知らないので、ご迷惑おかけすると思いますが、ご指導のほどよろしくお願いします」

 無難にまとめた自己紹介におざなりな拍手がパラパラと湧く。ほっと息を吐き一歩下がると、代わりにさっきくしゃみをした同期の子が一歩前に出る。

「製剤研究所、分析チームに配属になりました、江角こずえです。大学は農学部なのでやっていたことは全然違いますが、一所懸命頑張りますのでよろしくお願いします。趣味はお菓子作りで、今度新作ができたら持ってくるので食べてくださいね。あ、あとお酒も結構好きなので、飲み会楽しみにしています。よろしくお願いします」

 沸き起こる拍手に笑顔で応えている。江角さんか。研修の時は違う班だったから話せなかったけど、同じ研究所なのは知っていた。ふんわりとウエーブのかかったブラウンのショートヘアに、笑うと目尻の下がるあどけない顔立ち、背は千尋より一回り小さくて線の細い身体つきの割に…って拍手長くない?私の時との差は一体…?

 理由は大体分かる。童顔で華奢な癖に社服の上からでも分かるほどのご立派な胸をお持ちだからだ。悪い子ではなさそうだけど…挨拶が終わった後も男性社員に囲まれ、デスク周りのものをあれこれ準備してもらい、いちいち可愛い仕草で応えている。

 いいもんいいもん、私は自分でできるし…下唇を突き出してデスクトップの配線と格闘していると、背後から声を掛けられた。

「大丈夫?手伝おうか?」

 ほら、私だって捨てたもんじゃ…

「あ、ありがとうございます、パソコンとか良く分からなくって…」

 精一杯媚びて振り向くと、明らかに自分でやった方が早そうな総白髪の再雇用のおじいちゃんが説明書片手に立っていた。

 …何なのだ、この敗北感は?

 

 昼休み。研究職は午前十時から午後五時のコアタイムさえ守れば出退勤も休憩も基本自由なため、みんな狭い食堂が込み合うのを避けるので十二時頃は寧ろ空いている。千尋がご飯とみそ汁をよそいトレイにおかずの皿を乗せ、NHKのニュースが流れるテレビの前の席に着くと、後から江角さんもやってきた。

「大鳳さん!いっしょにいい?」

「あ、江角さん。…うん、どうぞ」

 千尋の正面に座り、食べようとして江角さんは皿のおかずに首を傾げる。雑然と盛られた料理は一目何でできているか分からない。

「これなんだろ?魚のフライ…?いや、チキンかな…?」

「明日からお弁当にしよ…」

 これほどテンションの下がるランチは初めてだ。

「あー、そう言えばありがとね」

「ん?何の話?」

「朝の所長の挨拶の時、くしゃみしてくれたでしょ。あの時、鼻水垂れそうで限界だったの、助かったよ。私も花粉症ひどくってさ、目も取り出して洗いたいくらい痒いし…なんでここスギばっかり生えてんだろ、全部切ってやりたいよ」

「ああ、あれ?大鳳さん辛そうだったから、ちょっとね。大袈裟にやってみたんだ。所長の挨拶、ヘタクソな横文字ばっかでつまんなかったし…ね、そう思わない?」

「え?…あれ、ワザとだったの?」

「うん。わたし、花粉症じゃないもん」

 ケロッと言い放つこずえに箸が止まる。こやつ…可愛い顔してなかなかやりおる…敵に回さない方がいいかも…

「でもさー、なんでこんなところに作ったんだろうね、この研究所」

「そうそう、朝来るだけでもう大変だったもん。結構余裕持って出たはずなのに、バス停から三十分もかかるなんて…」

「え?大鳳さん、まさか歩いてきたの?」

「え?江角さんはどうやって…あ、自分の車?…いや、ちゃんと考えたよ?タクシーにしようかなとか、でもどれくらいかかるか分かんなかったし、そんなにお金も持ってないし、いや、ホントだから!そんな目で見ないでよ!可哀想な子みたいじゃん!」

「フフッ、面白いねー、大鳳さんて」

 あんたに言われたくないよ…と思ったりしたが、そんなに悪い気分じゃない。

「あ、そうだ今度の連休ヒマ?一緒に車見に行かない?今は親の車を借りてるんだけど、自分の買いなさいって言われててさー」

「うん、私も行こうと思ってたんだ。そうだ、江角さんてどこ住んでるの?実家近いの?」

「こずえでいいよ。わたしも下の名前で呼ぶね。うん、実家近いからここにしたようなもんだから。て言っても車で三十分以上かかるんだけどね。ちひろんは?」

 ちひろん?…ま、いっか。

「あー、あんまりこっちの地理分かってないけど、麓に下りて駅と反対の方に行くのかな?鍋坂ってところ。確かコンビニの近くの…」

「うぇっ、あっちの方なんだ…あれ、コンビニじゃなくてタバコ屋だよ。しかも潰れかけ。それに去年あそこらへんで熊が出たって聞いたけど…大丈夫?」

 こずえは真剣に心配している。そんなとこだったのか…どうりで安いはずだよ…不動産屋のおっちゃんめ…

「そりゃあ早いとこ車買わないとヒッキーになっちゃうね。LINEのID教えて?迎えに行くから。土曜日に行こ、土曜日に。で、そのあとご飯でも行こうよ」

 ぐいぐい来るなあ。連休は実家に帰ろうかと思ってたけど…ま、一日ぐらいいっか。サトルもしばらくは忙しいって言ってたし…

「んー…おっけ、分かった。土曜日にね。よろしくこずえちゃん」

「こちらこそ!頑張ろうね、ちひろん!」

 差し出した手を両手で取って満面の笑みで寄せた胸を揺らすこずえに、千尋は一抹の不安を覚えたりもした。


 午前中に所内の見学を終え、午後から早速実習が始まった。千尋は白衣を羽織り、二人の先輩―――一人は長身で細身、もう一人は太っちょの凸凹コンビに連れられて造粒室に来ていた。目の前にはステンレスでできた大きな筒に入り組んだパイプが生え脇からチューブがぶら下がった訳の分からない機械と壁に埋め込まれたタッチパネルの制御盤がある。

「最初はオレらが組むから、とりあえず見てて。次、やってもらうから」

 細い方がステンの網棚ワゴンに乗ったパーツを弄りだす。

「え?私、この機械が何をするものかも分かっていないんですけど…それにこのパーツとかすっごく重そうなんですけど…」

「いいのいいの、理屈なんて知らなくっても。機械組めりゃ何とかなるから。うちのチームは全部OJTでやってくから、そのつもりで」

 太い方は椅子に座り、腹の上で腕を組んでふんぞり返っている。

「オージェーティー?…ってなんですか?」

「なに、そんな言葉も知らないの?最近の学生は温いなあ。そんなんじゃ企業ではやってけないよ?」

 カチンときたが初日から事を荒立てる訳にはいかない。

「すみません…大学ではそういう言葉は教えてくれなくって…」

「要はやって覚えろってことだよ。…あれ、整流チップがないんだけど?」

「あん?洗浄室に落ちてるんじゃないか?てかなくてもいいだろ、そんなの」

「いや、アカンだろ…大鳳さん、ちょっと見て来て」

「は…?どんなパーツですか?って、洗浄室ってどこですか?」

「えー?そんなとこから教えんのかよ…リーダーがやっといてくれよ、それくらい…」

「しょうがないなあ…ムネ、バグフィルター組んどいて」

「いやぁ、オレさぁ、最近膝の調子が悪くってさぁ、長時間立っていられないんだ…それにほら、組み付けは一通り新人にちゃんと見てもらわないと」

「はぁ…おまえなぁ、動かんとまた太るぞ…ほら、こっち。ついて来て…」

 何なのあのデブ…!それに比べりゃ細い方はまだまともかな。でもなんでこんなにテンション低いんだろ。元々そんな人なんだろうか…と思っていると、部屋を出た途端急にひそひそ声になり身を寄せてきた。

「あのさぁ、大鳳さん、あの子…こずえちゃんだっけ?あの子のLINEのIDとか知ってるの?」

「え?ええ、まあ、知ってますけど…」

「ちょっと…ホントちょっとでいいんだけどさ、教えてくんない?」

 なんだか怪しい雰囲気が漂ってきた。ちょっと教えるってどういうことだ。

「できませんよ、そんなこと。本人に直接聞けばいいじゃないですか」

「いや、そりゃオレだって聞いたさ。でも教えてくんないんだよねー、ガードが堅いっていうか、今どきLINEなんか社内連絡で使ってるとこもあるんだからケチケチすんなっての…でも可愛いよなぁ、あの子…ねえ、ダメ?」

「ダメです。それより早くその整流チップを探してくださいよ」

「ほら見て、横からのアングル。最高だよね~。待ち受けにしとこ。こずえちゃんがうちのチームに来てくれりゃ良かったのに…」

 私の前で言うかね、それ?テンション低いのはそれが理由か…ダメだこいつら…早く何とかしないと…


 結局、整流チップは千尋が排水溝の網の中から見つけ出し、初日から三時間の残業でようやく帰路に就いた。こずえがわざわざ残っていてくれて、足のない千尋を送ってくれた。こずえはこずえで一日中分厚いSOP文書―――要は取説のようなものを読まされていたそうだ。アパートは通りから少し奥まっていて四方が林で囲まれている。昼間にしか来たことがなかったので、夜は印象が全然違う。こりゃもうトトロの森だ。アパートへ抜ける街灯もない路地の手前で降ろしてもらう。

「ちひろん、大丈夫?真っ暗だよ?」

 そう言いながらもこずえはシートベルトを外さない。自分に正直なようだ。

「大丈夫大丈夫、すぐそこだから。ありがとねこずえちゃん、遅いのに送ってくれて」

「こずえでいいよ。なんなら『こずこず』って呼んでもらってもよろしくてよ?」

「それはちょっと…全力でお断りさせていただきます」

「ちぇっ、ちひろんのいけずぅ。でも本当に気を付けてね。ケモノとかマモノとかじゃなくて、ほら、ここだと声上げても周りに聞こえないでしょ?ちゃんと戸締りしてね。ちひろん可愛いし、そういうのに好かれそうだから心配だよ…」

 あんたが言うかね、それ。暗くて良く分からないが、心なしか顔まで赤くしている気がする。何に照れてるんだ…

「大丈夫だってば。一応新築で建屋と部屋と二重ロックになってるし、大家さん優しそうなおじいちゃんだから」

「明日仕事じゃなきゃ一緒に泊まってあげるのに…え?いやいや何でもない何でもない。じゃ、また明日。八時でいい?」

「うん、八時で。ありがとね、おやすみー」

 ヘンな子…。手を振る千尋を残し、こずえはアクセルをふかして走り去っていった。何だったんだろう…ま、いいか。今日は疲れたし、カップラーメン食べてお風呂入って寝よ…。玄関を開け、今どきのアパートでは珍しい共同トイレを横目に、一階突き当りの角部屋、一○八号室が千尋の部屋だ。引っ越しの時もそうだったが、表札はどの部屋も白いままで、一階に他の住人はまだ入っていないようだ。こずえの言葉を思い出し、何だか薄ら寒くなって小走りで自分の部屋に駆け込む。鍵とチェーンロックを掛け電気を点け、ようやくホッと息を吐く。

「…あれ?『使用禁止』…?ここ、トイレだよね…」

 玄関脇のドアに素っ気なく貼り紙がしてある。ノブを捻ってみるが、鍵が掛かっているのかびくともしない。『土曜日に修理予定』だそうだ。ということは、今週は共同トイレを使うしかないのか…

「生きていくのに一番必要なところでしょ…風呂なしならともかくトイレなしなんて物件聞いたことないよ、常識的に…」

 ぶつぶつ言いつつ、まだ片付いてないリビングでスーツとシャツを脱ぎ散らかしパジャマに着替えてベッドでサトルにメールを打っていると、あっという間に睡魔がやってきた。微睡む意識の中で千尋はトイレのことを考えていた。故障はともかく、ドアまで開かないのはなんでだろ…

 

「どう?仕事には慣れてきた?」

 金曜日の夜。ノー残業デーとは名ばかりで、定時をとっくに回っても半分以上の社員が残っている。もちろん千尋もご多分に漏れずしっかりと残業して凸凹コンビに押し付けられた日報を書いている。ちなみに凸凹コンビも所長も副所長もチャイムと同時に帰っていった。声をかけてくれたのは千尋の所属する製剤開発チームリーダーの古塚先輩だ。

「すみません、仕事が遅くって…それに製剤研究がこんなに肉体労働だとは知りませんでした。体中筋肉痛ですよ」

「いやいや、良く頑張ってるよ。まだ入社したてなのに毎日遅くまで残ってくれてるしね。女の子にはちょっとキツイかもしれないけど、よろしく頼むよ」

 しょぼつく目を擦る千尋に紙コップに入った熱々のコーヒーを差し入れてくれる。

「あ…いただきます。久し振りのデスクワークで、ちょうど眠かったんです」

「ん?それ日報?なんで大鳳さんが書いてるの?新人に押し付けてあいつら先に帰りやがって…まったく、後で言っとくよ」

 同じセリフをこの一週間で五回は聞いているが改善される兆しは一向に見られない。ちゃんと言ってくれていないのか、言っても聞いてくれないのかは知らないが、このリーダーがいまいち頼りにならないことだけは分かった。でも会社なんてどこもこんな感じなのだろう。まだ入って一週間の新人が贅沢なんて言っていられない。こうして気に掛けてくれるだけでもありがたいと思わなくては。

「古塚さんこそ大丈夫なんですか?せっかくのノー残業デーなのに、また奥さんに怒られちゃいますよ?」

「そーなんだよ聞いてくれよあいつったらさぁボクがこんなに一生懸命あいつのために頑張ってるのに最近つれないんだよたまの連休なんだから映画でも行こうって誘ってもはぁとかふーんとか一人で行けばとかひどくない?ボクはただ二人っきりでデートして出会ったあの頃の気持ちを取り戻してこれからもラブラブでいたいだけなのにボクの何が悪いんだろうねぇなにが悪いんだと思う?」

「あー…たぶんそういうところじゃないっすかねぇ…」

 引き気味の千尋にも気付かず、奥さんとのツーショットのスマホの待ち受けを見ながら目を潤ませている。悪い人じゃないんだけどね…

「ちひろん、まだやってくの?…って古塚さん、気持ち悪い」

 帰り際にデスクに寄ってくれたこずえが泣いているリーダーをバッサリと斬り捨てる。こずえはもうちょっとオブラートに包むってことを覚えた方がいいと思う。

「あー、もうちょっとかかるから先帰って。社有車借りられるし、帰りは一人で大丈夫だから。明日十時だっけ?また連絡するね」

「うん…でも…」

 別の意味で涙の止まらないリーダーを脇に押しのけ、こずえは隣で待っていようとする。

「大丈夫だって、子供じゃないんだから。ほらほら、夜更かしはお肌に悪いよ?」

 無理しないでね、と後ろ髪を引かれているこずえを、千尋は強引に帰らせる。

 ―――親身になってくれるのは嬉しいんだけど、あの子の場合ちょっと過剰なんだよね…ってもうこんな時間か。自分のお肌も心配しなきゃ…

 日報の残りを終わらせてしまおうとタイプのペースを上げると、ポケットのスマホが震えた。たぶんサトルだな。ポケットから半分出してちらっと見ると、案の定待ち受けの通知はサトルからのメールだった。

 ―――ようやく返信してきたか。

 こっちに来てから一度も連絡してこないとか、相変わらず面倒臭がりなんだから…すぐに返すのも癪なので、先に仕事を終わらせることにしてさらにペースを上げる。ま、そこも含めて放っておけないんだけどさ…妙にウキウキしながら、千尋はポケットの中でスマホのアンテナが圏外に変わっていることに全く気付かずにいた。


「お疲れさまでした!お先、失礼します」

 まだ残っている古塚さんたちに挨拶し、千尋は更衣室へと急ぐ。色々と邪魔が入ったおかげでいつも以上に遅くなってしまった。着替えながらいそいそとスマホの受信ボックスを開ける。さてさて、一体どう言い訳してくれていることやら…

『ごめん。もう連絡しないで』

 ―――って、ちょいちょいちょい!

 社服の上着とズボンを半分脱いだ下着姿のままで慌てて電話を掛ける。電波が悪いのかなかなかつながらない。三度掛け直したところでようやく暗い声音が電話口に出た。

「……もしもし」

「もしもし!サトル?ちょ、いや、なに?このメール?どういうこと?」

「…俺、連絡しないでって書いたよね?」

「いや、そうじゃなくて、ていうか説明してもらわないと分かんないんだけど?いきなり連絡するなとか意味が…」

「だからそのままの意味だよ。オレはもう君からのメールは待ってないし、こうやって電話されても困るってこと」

「こ、困るとか…!なんで?何があったの?どうして急に…」

 大声を出していたら更衣室のドアが開いた。入ってきた人物を見て千尋は背筋が凍りつく。先輩たちからこの人だけは気を付けろ、と言われていた有名な品質管理部のお局様だ。まずい。こんな格好でこんな修羅場を見られたらどんな噂を立てられるか…取り急ぎ通話口を手で覆い背を向けて声を潜める。何とかしてこの危機的状況を脱しないと…!

「なんですぐ連絡してくれなかったの?とにかく、私まだ会社だから、帰ったらまた電話するから!ちゃんとゆっくり話し合おう?ね?」

「……あのさ」

 受話器越しにサトルの壮大な溜め息が聞こえた。

「今週、俺が何回電話したと思ってるの?なのに一回もつながらないってどういうことだよ?どうせ田舎で電波届かないんだろうけどさ、それ以前に真夜中にメールとか非常識だろ?それも毎日毎日。俺にだって新しい生活があんの。それぐらい分かるだろう?ちょっとは空気読んでくれよ。もう会うこともないと思うけど、千尋のその鈍感なところ、直した方がいいと思うよ。じゃ、もう電話しなくていいから。て言うかしても出ないから」

「あっ、ちょっ…!」

 ―――ブツリ。プーッ、プーッ、プーッ…

 更衣室にはスマホを耳に押し当てたままへたり込み爪の先まで真っ白に燃え尽きた半裸の二十四歳独身と、それを白い目で冷たく見下ろす五十二歳独身だけが残されていた…

 

 ―――もうだめだぁ…おしまいだぁ…

 伝説の金髪宇宙人と対峙したヘタレ王子のようにうなだれ、千尋は口から魂が半分抜けたまま社有車を走らせている。

 そりゃちょっとは感づいてたよ?メールはこっちが二十回打ったら一回返ってくるかどうかだったし、クリスマスも誕生日も一緒にいてくれなかったし、そもそも大学卒業してから一回も会ってないし…でも信じてたのに…バカだ…私バカだ…もう…死にたい…

 その時、見通しの良い田舎の一本道の先にきらっと光が見えた。なんだ…?濁り切った目と意識ではそれが何か判断できない。

「……え?」

 嫌な予感がした瞬間にはもう路肩の草むらが揺れ黒い影が飛び出していた。とっさにブレーキを踏もうとしてふくらはぎに激痛が走った。

「…足がっ…つったっ…!」

 脳内の放出されたアドレナリンがフロントガラスの向こうの景色をスローモーションに変え、千尋は確かにヘッドライトを跳ね返す二つの光と目が合った。


 翌日。連休初日の場末の居酒屋には、閉店間際で他に客もおらず早く閉めたくてしょうがない老夫婦の冷たい視線をもろともせず同僚相手にクダを巻く哀れな女性会社員の姿があった。

「―――わらしだって好きでこんなド田舎に来たかったわけじゃないのよ?らってしょうがないじゃない?理系の院卒の女で研究職なんてどっこも書類の段階でアウトなんらから!ここしかなかったの!わらしがわるいの?ねぇわらしが悪いんれすかねぇ?ああそうれすよ全部わらしがわるいんれすよぉうわあああん!」

 お猪口を片手に突っ伏して泣く千尋の頭をこずえが撫でている。

「あははーやっぱりおもしろいなーちひろんはー」

 同じくらい飲んでいるはずだがこずえは頬が少し赤いくらいである。恐らくこの差も不平等な神様の所業に違いない。

「通勤路にイノシシとかありえないんだけど?あれだってあっちがいきなり飛び出して来たんだからね?それになんでこっちの車は全損であっちはぴんぴんしてて平気で逃げてくのよ…あれ絶対オッコトヌシだよ…」

「災難だったねー、でもその話もう十回目だよー。あ、おばちゃんおかわりー」

 こずえが千尋のお猪口に酒を注ぎ、空になった徳利を振る。もう何十杯目かの乾杯を交わし、千尋は懲りずにお猪口を呷る。

「だいたいさぁ!」

 呷った勢いで拳をテーブルに叩き付ける。

「わあ、びっくりした」

「うちのチーム、ロクなのがいないんだけど?山家さんは口だけで働かないし藤澤さんはセクハラしかしないし!」

「ああ、テラスコンビねー。うちのリーダーも言ってたよ、あの二人の下じゃ大鳳さんかわいそうだって」

「てらす?」

「そう。窓際よりもっと向こう。仕事しないどころか増やしてるでしょ、あの人たち」

「…こずえってさ、笑顔で余命とか宣告できそうだよね」

「ちひろんは隠そうとして全部バレるタイプだよね」

「はいはい…で、古塚さんはいまいち頼りにならないし奥さんのことになるとアホみたいになっちゃうからなぁ…いい人なんだけどね、たぶん」

「そもそも所長が諸悪の根源だもんね、うちの研究所の」

「いいとこないなあ…仕事はキツイし身体は痛いし…機械も粉も重すぎるのよ。乳糖の粉袋なんて二十五キロあるんだよ?女の私が一人で持てる訳ないじゃん?失敗したなぁ、私も分析チームにしとけば良かった。身体動かすのが好きなんて言うんじゃなかったよ…」

「うちのチームも似たようなもんだよ?わたしこの一週間、昼休みとトイレ以外で椅子から立ってない」

「うぇ、それもヤだね…あ~この会社自体がハズレだったのかなぁ…絶対もっと都会に近くて待遇の良いとこあるはずだよ。うん、きっと私を必要としている会社がどこかに…」

 転職サイトを検索しようとする千尋からこずえがスマホを取り上げる。

「こらこら。まだ入社してひと月も経ってないでしょうが。それに…わたしはこの会社に入ってすっごく良かったって思ってるよ」

「えー?どの辺が?」

「ちひろんと会えたこと」

 酔っているせいか潤んだ瞳で真っ直ぐに見詰められ、千尋は何だか恥ずかしくなる。

「ちょ…な、なに言ってんの?…そりゃ、私だって友達できたのは嬉しいけど…」

 こずえがグイッと顔を近付ける。

「ふふ~ん…照れちゃった?」

「~もうっ、からかわないでよ!大体あんたはいいじゃん、可愛いしスタイルも良いしみんなからちやほやされてさ…彼氏だって切らしたことないんでしょ、どうせ」

 こずえはムッと眉間をしかめ、顔を離して納得したようにうんうんと頷く。

「なるほど…。鈍感、ってとこだけは元カレが言ってたこと、合ってるよねぇ…」

「なによそれぇ…元カレとか言わないでよぉ…思い出しちゃうじゃなうわあああん!」

「ありゃりゃ、しまった。ほらほらちひろん、飲んで飲んで」

「うわあああん!」

 何やら雄叫びを上げながら千尋はたいして飲めもしない酒に溺れていく。店の外では近所の飼い犬が呼応して遠吠えを上げる。その犬を𠮟りつけ、店主は看板の明かりを落とし扉の札を準備中に替えるのだった。


「―――さん、お客さん!着きましたよ。起きてください!」

 揺さぶり起こされ我に返る。

 あれ、私いつの間にタクシーに乗ったっけ…?一軒目を出た辺りから記憶が怪しい。あの時まだ九時過ぎだったはずだが、時計を見るともう日付が変わっている。良くここまで辿り着けたな、私…

「お客さん…お代、一万二千六百円だけど…大丈夫ですかねぇ?」

 タクシーの運ちゃんが非常に面倒臭そうな顔で聞いてくる。ああ、お代、お代ね…はいはい今出しますよっと…財布を取り出しメーターを確認して、一瞬酔いが醒めた。

「いっ…!いちまんにせ…!ちょ…あのっ!……いや…はい…」

 初任給前のなけなしの諭吉をひったくり、ほくほく顔でタクシーは暗闇へと帰っていった。残高八十七円。小銭だけの無駄に重い財布を手に、しばし途方に暮れる。車もないし…この連休、明日からどうしよ…

「も…いいや…明日のことは明日考えよ…ううっ…気持ち悪い…」

 ふらつきながら部屋の鍵を開け、何とか靴だけ脱いで玄関に倒れ込む。完全に飲み過ぎた。世界がぐるぐる回っている。

「み、水…いや、その前に…うぷっ…トイレ…」

 酸っぱいものが口の縁にまで込み上げてきている。そう言えばトイレの修理、終わったんだった。ドアが開く。助かった。いいや限界だ…!吐くね…!

「えろえろえろえろ…」

 飲み屋のおでんもサラダもいつの間にか食べていたらしいラーメンも何もかも胃の中のものが全部出ていく。吐きながら千尋は泣いていた。苦しくて、情けなくて、涙も鼻水も全部混ぜこぜで便器に滴り落ちていく。何やってんだろ、私…

 ―――小さい頃、親戚のお姉さんがお小遣いをくれたことがあった。初めてお給料もらったから、千尋ちゃんにもお裾分けだよ。そう言って千円だか二千円だかくれたのは、確か母方の叔母さんだった気がする。今ではもうすっかりケチなおばちゃんになっているけど、その時は格好良くてキラキラ輝いて見えて、しばらくその姿が千尋にとって憧れの「大人」だった。「大人」とはそういうものだった。自分も「大人」になればあんな風になるんだと信じていた。それなのに…何やってんだろ、私…

 もう何も出ない。何も考えられない。すべて出し切り、生きているのか死んでいるのかも良く分からない。もういい。どうせ連休だ。お金もないし、寝て過ごせばいいや…。千尋は汚れきったトイレの水を流す。その音を朦朧と聞きながら思う。この便器に縋りつく情けない汚物も一緒に、綺麗さっぱり流してくれたらいいのに―――


 ―――頬がひんやりする。口元を拭いながら頭を起こす。あ…寝ちゃってたのか…。頭がガンガンする。くぅぅ…完全に二日酔いだ…

「水…お水飲みたい…」

 起き上がろうとして、周りの景色に違和感を覚えた。

「…あれ、うちのトイレってこんな形だったっけ…?」

 やたらとシンプルで、便座もタンクも見当たらない。新型にでもしてくれたのだろうか?それにしては…ふと仰ぎ見た頭上に、窓が開いていた。そこから柔らかい陽の光が射し込んでいて、桟にはスズメが並びちゅんちゅんやっている。ああ、もう朝なのか…

「……って、ええっ?」

 違和感どころじゃない。きょろきょろと首を巡らせる。床も壁もおばあちゃんの家のお風呂のようなタイル張りになっている。夜中に駆け込んだ時は味気ない板敷きと壁紙だったはずだ。いくら酔っていたとはいえさすがに覚えている。それにアパートのトイレにこんな開放的な窓が付いている訳がない。第一、タンクがないのはともかく水を流すレバーもないのはどういうことだ。確かに私、いや絶対、水流したよね…?恐る恐る便器に目を落とす。

「……うええっ?」

 思わず大きな声が出た。便器に水が溜まっていない。溜まっていないどころかその中心には遥か深淵につながる大きな口が開き全く見通すことのできない暗闇を湛えている。これが噂に聞く…

「ぼっとん便所…?」

 頭がガンガンする。大きな声を出したせいだ。

 まあこれはヘンな夢だとして、夢の中でまで頭が痛かったり喉が渇いたりするとはどれだけ飲み過ぎたのか。頭に手を当てふらつきながら立ち上がる。良く見れば着ている服までおかしなことになっている。袖口や襟元に赤や青の原色のラインがあしらわれていて、どこか異国の民族衣装のようだ。素材もコットンだかリネンだか分からないが、やたらとゴワゴワしていてお世辞にも着心地が良いとは言えない。妙にリアルな夢だこと。…そんなことより水、水。せめて夢の中でくらいさっぱりしたいわ…夢のくせにやたらと自由に動く身体でトイレから出ようと振り向くと、ドアは既に開いていた。

「……え?」

 そこには、同じような民族衣装を着たすらっと背の高い男の人が立っていた。

「うわあっ!」

 跳ね上がって後ずさる。びっくりしたびっくりした。まさか人がいるとは思わなかった。こんなドッキリ反則だよ。寝言で叫んでいそうだ。近所迷惑になってないといいけど…

「お…おはよう…。えっ…と……君は、誰?どこから入って来たんだい?」

 ドアを開けたままの体勢で男の人が口を開いた。なんだ、そっちもびっくりしてんの?設定がいまいち分からないけど、聞きようによっては間抜けなセリフだよ、それ。

「…おはよ。どうでもいいんだけどさ、人ん家のトイレ勝手に開けといて、誰?とか、どっから来た?はないんじゃない?こっちは大声出したっていいんだよ?」

 腕を組んで斜に構え、ドヤ顔で決めてみた。こんなセリフ、夢の中くらいしか言えないからね。

「えっ…ああ!ごめん…!」

 慌ててドアが閉められる。そんなに恐縮しなくていいのに。別に本気で怒っている訳じゃないんだからさ。夢なんだし。閉じられたドアを開けると、さっきの人が後ろ向きで立っている。キッチンに行きたいんだけど…邪魔だなぁ。

「あの~私、お水飲みたいんだけどさ。昨日ちょっと飲み過ぎちゃって。そこにいられると通れないんだよね」

 男の人は首だけちらっと振り返り、急いでまた戻す。

「あ、いや、その…その格好で…出てくるつもりかい?」

「ん?まあ確かにヘンな服だけど、夢にしてはそんなにセンスも悪くないんじゃない?ゲームのキャラクターみたいで意外と気に入ったんだけど。ダメかな?」

「いや、その、ダメじゃないんだけど…いやいや、やっぱりダメでしょう!大胆と言うか、破廉恥すぎると言うか、せめて何かで隠していただけると…」

 んんん?何言ってるの、この人…?その時、窓から吹き込んだ朝の爽やかな風が足元を通り抜けた。…なんだか涼しいわね…随分と上の方まで…って…まさか…!

 嫌な予感にゆっくりと見下ろした目が捉えたのは、自前の生足と、その付け根にちょこんとくっついた毛むくじゃらだった。

「……いやーーーっっっ!!!」

 今度こそ近所迷惑になりそうな絶叫に驚いたスズメたちが、窓の桟から元気に飛び立っていった。


「これはユメだこれはユメだこれはユメだ…」

 取り急ぎ持ってきてくれたシーツを巻きつけ、チヒロはカウンターの裏でべそべそ泣きながらユメという言葉をゲシュタルト崩壊させていた。

 これは夢なんだ、だってここアパートじゃなくて昔の駄菓子屋みたいだし、扱ってる商品も『やくそう』とか『ポーション』とかって書いてあるし、窓の向こうの通りを歩いている人たちも甲冑を着てたり耳がやたらと長くて尖ってたり背中に羽が生えてて飛んでたりしてるし、夢のくせになんでこんな屈辱的な思いをしなきゃいけないのよ、そう言えば夢は無意識の欲求の表れだとかなんとか心理学の授業で習ったっけ、そしたらこの状況は私自身の欲望だってこと?それって私が露出狂のド変態だってことじゃんうわあああ私もうお嫁に行けない…!

「どう?落ち着いた?」

 声に顔を上げると、カウンターにグラスが置かれている。グラスの中身はうっすら黄味がかった透明な液体だ。お茶かな?…お水で良かったのに…それでも頭はまだガンガンしているし喉もいいかげんカラカラなので奪い取るように引っ掴み一息に流し込む。

「…んんっ?…ぶはあっ!」

 口に含んだ途端、舌と喉が絞られるように縮み上がり咽こんで吹き出してしまった。

「おっとっと。大丈夫?」

「げっほげっほ!なにこれ!苦っ!ていうか臭っ!なに飲ませる気?」

「ターメリックティーだよ。飲み過ぎたって言ってたからさ、一応飲みやすいように薄めたんだけど…口に合わなかった?」

「ターメリックゥ?そりゃ、二日酔いにはウコンだろうけどさ…」

 もう一口含んでみて、あまりの苦さに目がバッテンになる。味覚までこんなに正確に再現するとは…恐るべし私の夢。自分の過剰な想像力を呪っていると、持ってきてくれた彼が感心したようにパチンと指を鳴らす。

「へえ…良く知っているね。そう、確か東方ではターメリックのことをウコンと呼ぶそうだ。君は東方から来たのかな?それに薬師の素養もあるようだけど…」

 トウホウ?クスシ?この夢の世界は中世ヨーロッパ的な設定なのだろうか。ま、何でもいいか。ちょっと乗っかってやろう、どうせ夢だし…

「んー…そうね、出身は日本…いや、ジパングって言った方がいいのかな?東方っちゃあ東方よね、きっと」

「ニホン…?どこかで聞いたような…ジパングは知らないが…僕だって東方のことを全部知っている訳じゃないしな。まあ、ゆっくりしていってよ。流石に驚いたけど、どうせ暇だしね、こんな可愛らしいお客さんなら大歓迎だ。この店も親父が蒸発してじいさんが死んで、仕方なく僕が店主をしているんだけど見ての通り閑古鳥が鳴きっぱなしでね。こうして日曜まで開けていてもお客はさっぱりで…でも、じいさんが始めた頃はバーゼル一の薬局だったんだ、本当だよ?店の中はいつも人でいっぱいで、棚にはいろんな薬が並んでいて…それなのに今じゃこの有様さ。僕はじいさんや親父みたいに薬に詳しくないし、他のところを真似て売れ筋を置いてみたりしたんだけど…どうやら商才もなかったらしい。これじゃあ、いつかステラ一にして見せると約束したじいさんに合わす顔がないよ…」

 何やら勝手に自分語りをして勝手に落ち込んでいる。気の毒な身の上のようだが、夢なんだから関係ない。

「あのさ、盛り下がってるところ悪いんだけど、こんな罰ゲームみたいなお茶じゃなくて普通のお水もらえないかな?あと、頭痛薬。イブかロキソ入ってるヤツない?ホントは二日酔いにはダメなんだけどさ、ずっと頭ガンガンしてて耐えられなくって。それに胃薬もあると嬉しいんだけど。スクラルファートの、できればODでおいしいヤツ」

 チヒロも負けじと図々しくねだると、彼は驚いた顔でまじまじと見返してくる。

「…イブ…?スクラル…?確かじいさんも同じようなことを…そういえばクロウ病院の人もニホンとか言ってなかったか?…君は一体、何者なんだ…?」

「そういうのもういいから。ここ薬局なんでしょ?置いてないの?市販のでいいからさ」

「ああ…すまない、さっきも言った通り、僕は薬には疎くてね…じいさんが遺してくれたストックも使い果たしてしまったし、そういう専門的な薬はここにはもうないんだ」

 本当に申し訳なさそうに肩を落とす。うーん、せめて夢の中でくらいすっきりさせてくれればいいのに…

「あー、いいのいいの。ちょっと言ってみただけだから。とりあえずお水だけもらえる?それと…」

 チヒロは顔を赤らめ、シーツに隠してある生足をもじもじと擦り合わせる。

「何か履くもの、ない?」

 

 ここはステラという世界のバーゼルという街で、彼の名はアクアといい、この「パナケーア・パーボ」という間延びした名前の薬局の三代目店主である―――というのようだ。チヒロは痛む頭を氷嚢で冷やしながら、カウンターの隅から店内の様子を眺めている。

「いらっしゃいませー!」

 威勢の良いアクアの掛け声が来客を告げる。入口の引き戸を鳴らして入って来たのは、厳つい甲冑に身を包んだ赤い髪をした青年だ。脱いだ兜を小脇に抱え、腰には地面に着きそうなくらい長くて幅広な両刃の直剣を佩いている。背中に背負った竜の文様の描かれた大型の盾は数多傷つき、所々焼け焦げたりしている。顔見知りなのか、アクアに軽く手を挙げて挨拶し、店内をのんびり歩き始めた。

 青年が見ている棚には袋詰めにされた青草や乾燥ハーブなどが並んでいて、それぞれ『やくそう』とか『どくけしそう』のタグが付けられている。その隣のブランデーボトルに似た形の瓶には『ポーション』とか『エリクサー』のラベルが貼ってある。いかにも薬局と言ったところだが、この店には『こんぼう』やら『シルクのローブ』のような簡単な武器防具、『テント』やら『魔除けの水』やらのアウトドアグッズ、『完全攻略バーゼルダンジョンマップ』やら『3日でマスター簡単魔法初級編』などというタイトルの書籍、他にもパンやお菓子、日用雑貨にコスメセット、果ては生鮮野菜や果物まで置いてある。なかなかカオスなドラッグストアだ。青年はしばし物色した後、結局『お徳用』と書かれたカゴの中から何だか分からない葉っぱの束を山ほど買い込みホクホク顔で帰っていった。

「いらっしゃいませー!」

 次のお客は、エプロンを付けた肌の浅黒い太っちょのおばちゃんだ。背がアクアの半分もなく、頭に巻いた三角巾からドレッドヘアのような剛毛が収まり切らずに溢れ出ている。中でも一番の特徴は、その三角巾の下に見える耳が長く鋭く尖っていることだ。ドワーフという種族のようだ。どうやら酒樽を買いに来たみたいだが、貼ってある値札を剥ぎ取りアクアに突きつけ何やら騒いでいる。値段が気に食わないらしい。アクアも良く頑張っていたが予想通り押し切られ、ドワーフのおばちゃんはおまけのボトルも二本付いた酒樽を抱えてニコニコと店を出ていった。

 正直、自分の中にこんな子供っぽい感覚が残っていたのは驚きだった。まるっきりゲームや映画の中の世界だ。ゲームは弟がやっているのを横から見ていたくらいだが、キャラたちが森や洞窟で戦いに明け暮れた後、街に戻って宿屋に泊まったり買い物をしたりしている間は妙にホッとしたのを覚えている。こうして店側から見てみると、やっぱり地味で退屈で何の変哲もないただの日常になってしまうのか。

 店の外の通りには、でっかい三角帽子を被った魔法使いのコスプレのような格好の人や、チヒロには種族も分からない毛むくじゃらの亜人や透明な羽を生やした妖精なんかが節操なく闊歩している。夢には違いない。だが音も臭いも感触も、そうであることを忘れそうなほどあまりにリアルで、チヒロは少し怖く、それ以上に胸が高鳴ってくる。まるで小さい頃に憧れ、戯れに思い描いたお伽の国そのものだ。

「はぁ~結局値切られちゃったよ…あのエール、もう限界まで引いてあったのに…ああ~今月も赤字だ…またマキナに怒られる…」

「やめてよ。あんたのその感じが一番世界観をぶち壊してるから」

 カウンターの裏に戻ったアクアに説教できるくらいには慣れてきた。随分と長い夢で一向に醒める気配もないが、連休なんだし、どうせ一日くらいは寝て過ごすつもりだったのだ。チヒロはしばらくこのまま夢の世界に浸っていようと決めていた。

「ステラ一の薬局を目指すんでしょ?それくらいで挫けててどうするの。はいはい、頑張って頑張って」

 あからさまにおざなりな励ましでも、アクアの表情はパッと明るくなる。

「そうだね…日々の惰性の中で自分の夢さえつい忘れていたよ。ありがとう。君は本当にハイジアが遣わした異世界からの使者なのかもしれないな…」

 さっき話していたのにもう忘れたのか…呆れるチヒロをアクアは子犬のように濁りない目で見詰めてくる。

 垂れた目尻にライトブラウンの瞳、鼻は高過ぎずすらっと通り、クリーム色の癖っ毛に線の細い輪郭…まじまじと見ていると人の良さそうな、それなりに整った容姿をしている。アメリカのコメディドラマに出てきそうだ。背もスマートに高く、愛想も抜群で、絶対に近所のおばちゃんたちに人気に違いない。いちいち暑苦しいのが玉に瑕だが、それも含めてどことなく母性本能をくすぐってくる。夢だからと言って好みが反映されている訳でもないだろうが、決して嫌いなタイプでは……などと考えていると急に情けなくなりがっくりとうなだれる。そういや私、フラれたばっかだった…

「ん?まだ気分が悪いのかい?」

「え?あ、いや、大丈夫大丈夫!こっちのことだから…!」

 下から覗き込まれ、意思とは関係なく火照ってくる。ちょっと…!そんなつもりじゃ…!逃げようと仰け反った途端、

 ―――くぅ~

 チヒロのお腹が鳴いた。しまった、昨日全部出しちゃったから…なんでこんな時に…!ますます顔が赤くなる。

「なんだ、言ってくれればいいのに。そうだな、もういい時間だし、お昼にしようか!」

 アクアがはりきって奥のキッチンへと走っていく。まさかこんなに早く食欲が戻るとは…頑張って飲んだウコン茶のおかげだろうか、チヒロはもう頭痛も胃のムカムカも大分治まっていた。

 それにしてもこの世界の『薬』とは一体どんなものなのだろう。ウコンはそのままだとして、『やくそう』とか『ポーション』とかはゲームの中なら体力やヒットポイントを回復させるアイテムだろうが、それらが何でできていてどんな効能があってどう違うのか、このリアルな状況ではさっぱり分からない。カウンターのショーケースから小さなガラス瓶の一つを取り上げる。ラベルには『ちからの種』と書いてある。でもこれって…チヒロは紡錘形の茶色い種が入ったその瓶をカラカラと振る。

「どう見ても素焼きのアーモンドだよね…?」

「その通り」

 アクアがカウンターにランチョンマットを敷き、その上にパスタの盛られた皿を置く。トマトとベーコンのシンプルなパスタにはバジルの葉が飾られていて、見た目も香りもおいしそうだ。

「ちょうど使おうと思っていたんだ。取ってくれてありがとう、チヒロ」

 アクアは値札の付いた瓶をチヒロから受け取り中身を出すと、くるみ割り器で粉々に砕いてパスタの上に振りかける。商品を勝手に食べていいのか?またそのマキナって人に怒られるんじゃ…

「『ちからの種』は腹持ちも良いから、昔から冒険者の人たちに愛用されているんだ。店によって色々アレンジされているけど、僕はローストするときにオリーブオイルを垂らして効果アップを図っている。若返りの効果もあるって話で、うちでもベテランの戦士や格闘家がよく買っていくよ」

 それってただのおやつだよね…?アクアはその効果を自分に言い聞かせるように、健康食品にも満たない『種』がまぶされたパスタを啜る。立ち昇る香ばしい匂いに胃袋を刺激され、細かい理屈などどうでもよくなりチヒロもフォークにパスタを巻き付け一口頬張る。

「……ん!おいし~!トマトの甘みとベーコンの塩気がマッチしてて、プチプチしたアーモンドの食感も面白いし、パスタの茹で加減も丁度良い…やるじゃん、アクア!」

「はは、ありがとう。うちは親がいないから小さい頃から自分で作っているんだ。薬の知識も商才もないけど、料理だけはそこらの店に負けない自信があるよ」

「ホント、これなら薬局じゃなくてレストランとかやった方がいいんじゃない?」

 思わず出たチヒロの不用意な一言に、アクアはフォーク握り締めたまま頭を抱え込む。

「そうなんだよ…いつも料理は褒めてもらえるのに店の経営はさっぱりで…このままじゃ今月分のみんなの給料も払えない…どうしたらいいと思う?」

「知らないよ、そんなこと…そもそもこのお店、全然『薬』が置いてないじゃん。『パナケーア』って名前のくせに薬がないんじゃ、そりゃあお客さんだって寄りつかないでしょ」

 パスタで元気になったチヒロはずけずけと意見し始める。アクアも老舗三代目のプライドからか、生意気な小娘に負けじと到底勝ち目のない戦いに挑む。

「何を言う。薬ならあるじゃないか。この『ちからの種』だってそうだし、売れ筋の『やくそう』や『ポーション』はもちろん、貴重な『エリクサー』だって揃えてある。ここらじゃなかなか手に入らないんだぞ?」

「だからぁ、アーモンドのどこが『薬』なのよ?そんなおやつで強くなれるんだったら今頃みんなムッキムキでしょうが」

「し、しかしですねぇ、このステラではどの店もこういったラインナップをベースに昔からやってきていましてですねぇ…」

「その常識がおかしいって言ってるの。いい?『薬』ってのは病気を治療したり症状を緩和したりするためのものよ。『やくそう』やら『ポーション』やらが何かは知らないけど、飲んだり付けたりするだけで怪我が治ったり体力が回復したりするような都合のいいものが実際にある訳ないじゃない。その自慢の『エリクサ』が何でできていてどんな効能があるか言ってみなさいよ。人の踏み入れない秘境から命懸けで採ってきた秘伝の薬草がお姫様の不治の病をたちどころに癒す、なんてこと有り得ないからね?そんなんでステラ一の薬局を目指すつもりだったの?」

 チヒロにビシッと指を突きつけられ、アクアの握っていたフォークがぽろっと落ち乾いた音を立てる。頭を抱えた手がわなわなと震えている。あれ…言い過ぎたか?もしかして怒っちゃった…?

「チヒロ!」

「わあっ!ごめんなさい!」

 反射的に謝るチヒロの手を取りアクアが鼻先まで顔を寄せてくる。ち…近いよ…!

「そうだ、君の言う通りこの店にある薬が何なのかさえ僕は知らない。ただ仕入れた材料を商品としてそのまま出しているだけだ。こいつらがどんな病気や怪我に効くのか、そもそも本当に効果があるかどうかさえ怪しい。そんなものを売り続けていていいのか?ずっと考えていたんだ。じいさんも言っていた、効きもしない薬をありがたがってはいけない、医薬の歩みを止めてはいけないって。…でも僕は何も知らない。このパーヴォをステラ一にするとか言っておきながら、どうすればいいか僕には分からないんだ…!」

 どうやらややこしく焚きつけてしまったようだ。面倒臭いなあ…チヒロが完全に他人事を決め込んでいると、アクアが突然椅子から飛び降り床に頭を擦りつけた。

「お願いだ!僕に、いやこの店のために、どうか協力してもらえないだろうか!」

 チヒロはびっくりして目をぱちくりさせる。

「ちょっ…何よ、いきなり?協力ったって、私だって何したらいいかなんて…」

「いや、チヒロは薬師だ!ステラにはない、異世界の医薬の知識を持っている!さっきだって僕には理解できない単語をいくつも口にしていたじゃないか!どうか!どうかその知識を僕にも授けてくれないか!」

「そんなこと言ったって、一応免許は持ってるけど…生薬とか調剤とか専門が違うし、詳しいことなんて全然知らないよ?」

「もちろん承知している!向こうは魔法ではなく化学や機械が主流なんだろう?それなら薬師の流儀だって変わって当然だ。だがそれでいい、それがいいんだ!それに世界が違おうとも人の病を治すという医療の根源に違いはないはずだ。…チヒロの知識と技術はきっとこの世界の医療に革命を起こす。この停滞したバーゼルの、いやステラ中の常識を覆す僕らだけの『薬』を作り出す!それこそ僕の追い求めるイデアなんだよ!」

 言葉の意味はよく分からんがとにかくすごい自信だ。それはともかく正直困った。薬局でバイトをしたことはあるが、言われるがまま処方箋通りに袋に詰めたり分包したり液調したりするくらいで、特別なスキルや知識がなくてもできてしまう仕事しかしていなかった。患者の病気を診断し、どの薬を処方するかを決めるのは結局医者で、商品をそのまま出すという点では調剤薬局のバイトの仕事なんてさっきアクアが言っていたことと大して変わらない。

 とは言えこの状況、責任の一端はチヒロにある。アクアを傷付けたのも煽ったのも私だ。この邪気のないキラキラした瞳を無下にはできない。しょうがないなぁ…

「分かったよ…どうせ見ているだけってのも退屈だしね。でも、あんまり期待しないでよ?」

「本当かい!…いや、信じていたよ。チヒロなら必ず引き受けてくれるってね…!」

「あんたが私の何を知ってるってのよ…で?とりあえず何したらいいの?」

「ああ、そうだな!とりあえずは……えー……と……」

 アクアはしばらくきょろきょろと首を巡らせていたがやがてその動きも止み完全に沈黙する。さっきまでキラキラしていた瞳が、こっちを向いた時にはもう死んでいた。

「とりあえずさっきまけさせられた酒樽代をどう埋め合わせるかを一緒に考え」

「それは自分で考えろ」

 こいつ…何も考えてなかったのか…


「んー…レシピ帳のおかげで中身は大体分かったけど…」

 陽が傾き、店内がオレンジに染まっている。もう夕暮れか。結構頑張ったな…チヒロは凝り固まった肩を伸ばして揉み解す。

 とりあえず原料だけでも調べてみようと調合前の材料を見てみたがどれも細かく粉砕されていて何が何だか分からず、仕入れ先からの納品書や明細にも「一式」としか書かれていない。途方に暮れていたところに、アクアが押し入れから初代であるアクアのおじいさんが遺したレシピ帳とやらを探し出してきた。あるんなら最初から出してよ…

 レシピ帳には原料となる草木花実の特徴に調製方法、含まれている有効成分の名称から果ては構造式まで事細かに記されており、それによれば『やくそう』はセントジョーンズワート、つまりオトギリソウか、あるいはペニーワート、つまりチドメグサの葉が主原料で、外傷に擦り込んだりして使うものらしい。『ポーション』はブプレウルム、リコリス、エフェドラの根やルバーブの茎、クズなどの粉を煎じた液で、恐らく柴胡湯のような消炎鎮痛系の漢方薬といったところだろう。『エリクサー』は基本的に『ポーション』と同じだが、ダチュラの種子が微量加わっているのと、煎じる液がブランデーになっている。要は酔っぱらわせてテンションを上げているのだ。何だかなぁ…

「―――はい、お疲れさん。悪いね、全部任せてしまって」

 アクアが砂糖たっぷりのコーヒーを淹れてくれた。久々にフル稼働させた脳と肩に苦みと甘みが染みわたる。

「すごいね、このレシピ帳。これがあればホントに革命起こせるんじゃない?夢の中とは言え、私の記憶力も捨てたもんじゃないわ。まあ、合っているかどうかなんて分かんないけど…ああ、いやこっちの話。これで有効成分だけ抽出して錠剤にでもできればいいんだけどね…私にはこれぐらいが限界かな。じゃ、頑張ってね」

 主だった商品の箇所に付箋を挟み注釈をつけておいたレシピ帳を返そうと差し出すが、アクアは受け取りもせずきょとんとしている。

「ん?チヒロが持っていてくれよ。僕が読んでも分かんないから」

「いやいやいや…それこそ私が持っててもしょうがないでしょ?ずっとここにいる訳でもなし…そろそろ戻りたいしね」

 随分と長い夢だったが、もう十分に楽しませてもらった。と言うかむしろ疲れた。これ以上はいいかな。

「え、チヒロ…戻るのか?」

「そりゃそうでしょ。私にだって現実の生活があるんだから」

「そんな…!協力してくれるって言ったじゃないか!」

「それは今日だけの話。大丈夫大丈夫。アクアならきっとこのパナケーア・パーボをステラ一の薬局にできるよ、うん」

 適当なセリフと決め顔でチヒロは親指を立てる。

「そうか…そうだな。僕もいつまでも人に頼っていちゃダメだ。一人でもやって見せるさ!このノート…絶対に役立てて見せるから!」

 アクアも親指を立てそれっぽく応えてくれる。これで一件落着だ。

 さ、そろそろ起きようか。

「………」

「………」

「………で?」

「………で?って言われても」

「………どうやって戻るの?」

「………さあ?僕に聞かれても」

 お互いに親指を立てたまま固まっている。アクアが早く行けよ的な空気を出してくる。どうしよう。戻り方が分からない。

「あれぇ?なんで戻れないんだろ?刺激が足りないのかな?」

 自分の頬を引っ張ったり叩いたりしてみるが全然戻れる気配がない。

「トイレから出てきたんだから、もう一回入ってみれば?」

 痺れを切らしたアクアが思いつきの助言をくれる。そうか、その手があったか…!チヒロは手を打って朝に出てきたトイレに駆け込む。

「………で?」

「………いやだから、で?って言われても…」

 なにこれ…?どうなってんの…?

「ううう…戻れない…そろそろ起きないとせっかくの連休が…」

 イノシシとの事故の処理と二日酔いで貴重な休日が二日も潰れたというのに、これ以上は寝て過ごしていられない。車だってまだ見に行けていないのに…

「まあまあ、これも運命だと思ってここに居たら?この世界も悪くないよ?」

「簡単に言わないで!そんな訳に行かないでしょ?明後日にはまた仕事が始まるし…現実も同じ時間で進んでいるかは知らないけど…」

「ともかく今日は遅いし、泊っていきなよ。うちの二階、使っていいから」

 確かに日も落ちて人通りもなくなり、外に出てどうにかしようという気も起こらない。自分の夢の中で焦ってもしょうがない。よっぽど疲れていたんだろう。この一週間色々とあったからな…

「はぁ…なんかゴメン。一人で騒いじゃって…」

「なんの。こっちは居てくれた方が嬉しいからね、大歓迎だよ。…いや、チヒロの気持ちを考えれば喜んでちゃいけないな。こっちこそ、ゴメン」

 アクアの優しさが胸に沁みる。謝りながらもちょっと嬉しそうに、店の裏手にある自宅の二階をてきぱきと片付け、夕食に腕を振るってくれる。思えば、突然半裸でトイレから出てきた不審極まりない生意気で騒がしい女によくここまで尽くしてくれるものだ。現実の深層心理でもそんな優しさを求めているのかもしれない。何より、誰かに頼りにされるというのは悪い気分じゃない…チヒロはこのゲームの中のような世界に、居心地の良さを感じ始めていた。

「明日から他の従業員三人も来るからチヒロのことを紹介するよ。みんな気のいい連中だからね、チヒロもきっと気に入るよ。さ、食べて食べて!」

 フルコースのような豪華な夕食に舌鼓を打ち、シャワーも借りてさっぱりし、用意してくれた部屋でやることもなくぼんやりとお茶を飲む。

「明日…そっか」

 チヒロは一人呟く。単純なことだ。このまま寝てしまえばいい。夢の中で寝て、起きたらまた同じ夢の中…なんてことはないだろう。目が覚めたらきっと元のアパートのベッドの上だ…

 それならすぐに眠ればいいのに、チヒロはなかなか寝床に就こうとしない。それはアクアが淹れてくれた香りの濃い紅茶のせいなのか、それとも私自身が現実に戻りたくないのか…

「……は。いけないいけない…!」

 不意に我に返り、カップを置いて立ち上がる。こんなことしてたら休みがなくなっちゃう。こずえにも連絡しなきゃ。明日の待ち合わせ何時だっけ。きっとメールもたまってる…幻想世界に浸りそうになるのを首を振って断ち切りベッドのシーツを捲り上げ、チヒロはまた少し躊躇う。

 ベッドサイドに置かれた姿見に、この世界のチヒロが映っている。なぜか髪は金色に、瞳は碧く染まっている。たぶんそんな容姿に憧れていたのだろう。背丈もスタイルも現実のままで、服も野暮ったい民族衣装なので、理想のお姫さまからは程遠い。だが一日過ごし、ちょっと愛着の湧いた格好を目に焼き付けておこうとチヒロは思った。起きても覚えているといいな。でも胸くらいもう少し盛ってくれても良かったのに…

 ランプの灯を消し、ベッドに潜り込む。仄暗い天井をしばし眺め、瞼を閉じる。この世界の明日はチヒロには訪れない。心残りは少しあるけど、私なんかがこれ以上干渉しちゃいけないよね。アクア…変な人だけど、やっぱりいい人だったな。ありがとう。さよなら…あれ、これってフラグかな…そう言えば夢の中で寝るとロクなことがないって―――


 ―――ちゅんちゅん。

 小鳥のさえずりが聞こえる。

 もう朝か。早く起きろと木漏れ日が微睡む睫毛をくすぐる。その催促から逃れようと寝返りを打つが、今度は反対の瞼の裏が赤く染まる。

 ―――ヤだよ…起きたくないよ…

 むずかる子供のようにシーツの中に頭を埋める。目を開けたら忙しない現実が待っている。夢を夢だと気付いてしまう。階下からはまな板を叩く包丁の音、コトコト煮込む鍋の音、フライパンを煽る音…。

 ―――もう少し…あとちょっとだけ…

 それでも抵抗を続けるが、勢い良く階段を駆け上がる足音が絶望を告げる。

「―――おはよう、チヒロ!今日もいい天気だよ!朝ごはんができたから冷めないうちに食べておくれ!さぁ、今日も忙しくなるぞぉ!」

 開け放たれた扉から響く朝から元気な声が、言い終わらないうちに階段を下りていく。

 シーツを被ったダンゴ虫が観念してもぞもぞと動き出す。起き上がり自分の姿を見下ろす。着ているのは昨日と同じ袖と襟に原色があしらわれた民族衣装。姿見には寝癖のついたぼさぼさの金髪と半開きの碧眼が映っている。

 ………うん。知ってた。


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