お伽の国のブロックバスター
浦杜英人
1 パナケーア・パーヴォ
うっかり舌を噛みそうな砂利道を抜け、ようやく馬車は石畳の街道に彫られた轍に車輪を乗せた。それでも郊外では掃除が行き届いておらず、時折小石や落ち葉を踏みつけるのか、クッションのない固い座席から跳ね上げられ天井で頭を打ちそうになる。その度にトランクに入りきらず空の座席や足元にまでぎゅうぎゅうと押し詰めた荷物が大丈夫かを確かめ、特に膝に抱えた高価なガラス細工だけは身を挺してでも守らなければならない。
ケチって一頭立てのクーペなんかにしたツケだ。やっぱりバネの利いたワゴンにしておけば良かった…後悔しても先には立たず、遣る瀬もなく流れる景色に目を向ける。
窓の外には初秋の爽やかに高い青空が広がっている。この時期にしては珍しく晴天が続いていて、真夏の盛りのような太陽が車の天板をじりじりと灼き、車内はさながらオーブンのようだ。こめかみ辺りから流れ出した汗に堪らず窓を開け放つ。しかし馬車は遅々として進まず、窓からは気休め程度の風さえ吹き込んでこない。
「ランプ!もうちょっと飛ばせないのか?暑くてかなわんよ!」
ガタゴトパカパカやかましい馬車の騒音に負けないように声を張り上げるが、運転席で手綱を取る御者のランプは涼しい顔で鼻歌を歌っている。
「アクアの旦那ぁ、無茶言わんでくださいよ。このロートルにゃあちと荷が重すぎまさぁ。引っ張ってくれてるだけでも立派だって言ってやらねえと。…ホレ、もうちっとでバーゼルに着きますで。我慢しなせぇ」
鈍く曲がった鉤爪で細長く垂れた鼻先を掻き、またのんびりと口笛を吹き始める。コボルトは暑さに強いのだろうか。毛むくじゃらのくせに…独特の間延びした口調ではぐらかされ、それ以上言う気も起こらずアクアは窓の外に目を戻す。
ランプの言った通り、街道沿いの木立はじきにまばらとなり、牧場やコスモス畑の間に民家が見え始めてきた。ここら辺はいかにも田舎の板張りや茅葺の家ばかりだが、街に入ればレンガや石造りに変わる。都心部では鉄骨とかいう大掛かりで丈夫な造りの建物も増えているそうだ。
うちの店もあちこちガタがきているからなぁ、そろそろ建て直しを…などとタクシー代を渋られている立場で言えるはずもない。
馬車は街道を反対に向かう冒険者の集団とすれ違う。ギラギラに磨かれたプレートメイルやヌメヌメしたスケールメイルを着込んだ人間の戦士、三角帽子に赤と黒のローブを纏ったエルフ、自身ほどもある戦斧を担いだ半裸のドワーフから透明な羽でヒラヒラと飛ぶ手のひらサイズのフェアリーまで、総勢二十人以上の大所帯だ。街で武具を新調して、これからクエストに向かうところのようだ。またはぐれドラゴンでも出たのだろうか。それにしては近所の山にハイキングにでも行くかのような軽装の者もいる。以前は子供が憧れる職業の一位二位を争っていた冒険者も今ではすっかり廃れ、そのほとんどが日雇いで、こうしてバイト感覚で参加して命を落とす若者が後を絶たないという。
その集団の末尾に十字の印が描かれた薬箱を背負うヒーラーがいた。何度か店にも来てくれたことがある見知った顔だ。きっとあの薬箱の中にはうちの商品も入っているに違いない。ヒーラーが戦闘の前列に立つことはないと思うが、彼も大概軽装なので心配だ。
彼らが無事に家に帰り着き、また店に買いに来てくれることを祈っていると、遅くともトロトロと流れていた景色が遂に止まってしまった。
「旦那ぁ、エンストだぁ!ちょっこし降りておくんなせぇ!」
言い放ってランプは運転席から飛び降りる。何事かと膝のガラス細工を慎重に置き車から降りると、車を曳いていた老馬が完全にうな垂れ、だらしなくハミから舌を出しハアハア言っていた。腹の出た馬体をランプに汗ベラで拭われながら、なんとも情けない目つきで、もう無理っス、と訴えてくる。仕方なしにぶら下げてあった飼い葉桶に近所で井戸を借りて水を汲んできてやると、ゴブゴブと音を立てて飲み干し壮大にゲップを放つ。
「なんで客の僕がこんなことを…」
文句を言いつつも、この脂肪過多な駄目馬を動かさないことには目の前のバーゼルの街にさえ帰り着けない。他人の心配をしている場合ではなかった。井戸と馬を往復し木陰に連れて行き水を浴びせ上着で扇いで涼を取らせる。なんで僕がこんなことを…
「アクアの旦那ぁ。こりゃあこの先、旦那には歩いてもらった方が良さそうだなぁ」
「ええっ?この炎天下を歩けってのか?うちまであとどれだけあると思ってるんだ?」
「そんなこつ言ったって、もともと重量オーバーだったし、荷物ん中で一番重いのは旦那だし、ここは滅多に空の車なんざ通らねえし…」
過保護な老馬は親切な乗客に扇がれながら実に涼しげな目つきで、申し訳ないっス、と言っている。
「はぁ、帰り着くのはいつになることやら…またマキナに怒られる…」
諦念に仰ぎ見た雲一つない空は、どこまでも青く、高かった。
へとへとになって自分の店に辿り着いた時にはもうお昼をとっくに回っていた。隣町のアグリギルドの朝市での買い出しなど普段なら九時には帰って来られるのに、五時間も余分にかかってしまった。
「遅かったですな、三代目!どこで油を売っておられたのですかな?マキナ殿がカンカンですぞ、ハッハッハ!」
高らかに笑い声を上げながら裏口から現れたのは、髪も髭も真っ白に染まった老年ドワーフのフェッテだ。彼は創業者である祖父の代からこの店で働いている最古参の従業員で、現在の店主であるアクアのことを三代目と呼ぶ。
「まいったよ、車がエンコしちゃってさ。今が一番忙しい時間だってのに…。まあ過ぎたことはしょうがない。フェッテ、みんなの荷物を降ろすのを手伝ってくれ」
「ようがす。ランプもロシナンテもお疲れさん、あとは任せて下され。おおっ、これはヤナギが大漁ですな。腕が鳴りますぞ、ハッハッハ…」
フェッテは一抱えもあるセイヨウシロヤナギの薪の束をひょいひょい担ぎ中庭へと運んでいく。ヤナギは鎮痛剤であるアスピリンの原料だ。抽出するためにこれから薪を細かく叩き割り、石臼で粉にするのだろう。フェッテはもう七十を超えているはずだが、ドワーフの寿命は人間の倍近くあるだけあってまだまだ元気だ。ヤナギの山はフェッテに任せ、アクアは残りの荷物を抱えて裏口から店の奥に入る。
怒っているマキナは後回しにし、先にこっそりと作業場へと向かう。二列並んだ作業台の一つで、眼鏡を掛けた白衣姿の青年が水風船に枝が生えたような形のフラスコをアルコールランプの火にかけ、その中にピペットの先からポタポタと液を垂らしては振り混ぜている。
「あ、店長。お帰りなさい。頼んでたヤツ、もらってきてくれた?」
「しーっ!声が大きいよ、コルシュ…マキナに聞こえるだろう?」
顔を上げたアルバイトのコルシュは公立の魔法専門学校、いわゆる魔専に通う高校生だ。人間とエルフのハーフで魔法の素質が高く、学校での成績も悪くないそうだが、店ではこうしてアクアには理解不能な化学実験に勤しんでいる。
「別にボクは聞こえたって構わないんだけど…わっ!すごい!ちゃんとジムロートになってる!さすがドワーフの工房、チヒロさんのあの絵と説明で良くここまでできたなぁ…」
アクアが腫れ物に触るように慎重に運んできた厳重な包みを乱暴に取り除き、緩衝材のおがくずの中から何に使うのかさっぱり分からないくねくねひん曲がった複雑な構造のガラス管を取り出してうっとりしている。
「だから声が大きいって…だいたいそんな危なっかしい器具なんか使ってないで、魔法でパッとできないのか?」
コルシュは長い前髪の下に隠れた眼鏡のフレームをインテリよろしく中指で押し上げレンズをキラリと光らせる。
「分かってないね、店長。これは化学だよ。魔法なんかと一緒にしないでもらえるかな。あんな野蛮な能力、職業冒険者がモンスター相手にでも遊んでいればいいんだよ。それにこの造形美…これでリービッヒじゃ難しかったエーテルの還流だってできるぞ…」
魔専の教師が聞いたら泣き出しそうなことをのたまい、くねくねのガラス管に頬ずりして悦に入っている。ただ珍しい器具が欲しかっただけじゃないのか…?
「…まあいいけど、大事に扱ってくれよ…高かったんだぞ、それ…そんなの経費で買ったなんて知られたらマキナにまたなんて言われるか…」
「誰に何を言われるんですって?」
背後から押し殺した声が響く。恐る恐る振り向くと、眉間に皺を寄せたマキナが腕を組んで仁王立ちしていた。と言ってもホビットである彼女の背丈はアクアの腰にも満たないので、必然見上げる形ではあるのだが。
「マ、マキナ、違うんだ、これはコルシュがどうしても必要だって言うから仕方なく…」
「そんなのとっくにコルシュから聞いてるわよ。必要経費だし、経営に影響するほどの値段でもないから大丈夫よ、コルシュ。次の新薬もがんばってね」
バイトに責任を押し付けようとする店主をマキナは冷たく受け流す。右目に着けたモノクルの奥の目が笑っていない。
「あの~…それならマキナさんはどうしてそれほどご立腹されているので…?やっぱり今日は特別帰りが遅かったからでしょうか?それは途中で馬がですね…」
「なに勘違いしてんの?あんたが店にいようがいまいが店には何の影響もないから。お客の対応は全部チヒロがやってくれてるし」
「ああ、そっかそっか、チヒロがね、それは良かっ…」
誤魔化して逃げようとするアクアの鼻っ面に、そうはさせじとマキナが半紙の束を突きつける。目を寄せて文面をなぞると、全部タクシー会社の請求書だった。
「あんたひと月に何回タクシー使ってんのよ!あれほど控えろって言ったでしょうが!それなのに先月より増えてるじゃない!店の財布を一番圧迫してるのがタクシー代ってどういうことよ!」
緑の髪を逆立て八重歯をひんむき鬼の形相で詰られる。この時ばかりはマキナの身の丈が三倍くらいになっていたようにアクアには思えた。
「しょ、しょうがないだろう?原料は仕入れなきゃいけないし、患者の送り迎えもあるし、ギルドの会合にだって行かなきゃいけないし、それこそ必要経費じゃないか、タクシー会社だって格安のランプのところで我慢してるんだし…」
「問答無用!全部あんたの給料から差っ引いとくからね。足らなきゃ来月分にも回すから」
「そ、そんな…!店主の僕が無給とか、世間に示しが…!」
「うるさい!嫌なら自分で自転車漕いでリアカーでも曳いてなさいよ!」
だめだ。取り付く島もない。こうなったら最後の手段。
「…分かった、マキナ。今日の買い出しで半月分の原料も仕入れられたしコルシュの器具も揃ったから、しばらくタクシーの使用は控えるよ…それにアグリギルドの朝市でしか手に入らないキリキア産のチョコレートも…」
その言葉にマキナの尖った耳がピクリと動く。
「キリキア産…?もしかしてコンチェの…?」
「わざわざチョコのためにタクシーを使うわけにはいかないからなぁ、残念だなぁ、こんなに美味しいのにもう食べられなくなるなんて…」
綺麗に包装されたリボン付きの箱を懐からチラチラ見せびらかすと、マキナが目にも止まらぬ速さでそれを奪い取り身長が元に戻る。
「ま、まあ、半月…いや週一くらいならタクシーもしょうがないわね…。でも無駄遣いはダメだからね!どこに行って誰と乗ったか逐一報告すること!いい?」
そう言いながらホクホク顔で帳場に戻っていく。ちょろいもんだ。僕も随分いなし方が上手くなったな。…チョコ代は高くついたけど…
「アクアー?帰ってきてるのー?」
表の方から呼ぶ声がする。チヒロだ。そういえば店を任せっぱなしだった。ほら、やっぱり僕がいないと困っているじゃないか…アクアは店主の威厳を損なわぬよう髪を整え襟を正し、裏の作業室から店のカウンターへと歩み出る。
「呼んだかい、チヒロ?忙しい時に空けてすまないね。今からは僕が店番を…」
「遅いよ、どこほっつき歩いてたの?棚のはたき掛けお願いね。午前中、患者さん多くて手が回んなかったの。あと私、今日は五時には上がんなきゃいけないから早めにトイレの掃除もしておいて。あ、午後の患者さんだ。早く玄関開けて来て、ほら早く!」
…店主の威厳とは一体…?
アイデンティティが崩壊しそうな危機をぐっと堪え、三代目店主アクア=フォン=ホーエンハイムは笑顔で我らが店の門戸を開く。
「いらっしゃいませ!パナケーア・パーボへようこそ!」
午後四時を回りそろそろ来客もひと段落する頃だが、カウンターでは休みなく応対が続いている。アクアの前には数人が列を作り、他の客は待合のために並べられた長椅子に腰掛けたり、簡単な商品が申し訳程度に置かれた陳列棚を物色したり、店内はそれなりに賑わっている。子供たちには靴を脱いで乗るマットの上に積み木も用意してあり、みんな取り合うようにして遊んでいる。
また一組の母娘が扉を鳴らして入ってきた。この店では顔馴染みの、二週に一度は来てくれる常連さんだ。二人は列の最後尾に着くと、ピンク色の髪の娘がこちらに向かって手を振る。アクアは接客しながら飛び切りの笑顔で手を振り返す。が、少女はそれを避けるように体を傾けて振り続ける。どうやら後ろにいるチヒロに振っていたようだ。案の定、気付いたチヒロが振り返すと少女ははにかんで母親の足元に縋りつく。ええ、知っていましたとも。
胸の内で泣きながらも鋼の心で客を捌けばすぐに母娘の番が回ってくる。この店の客は皆一様に便箋を持っていて、それをカウンターで店員に渡す。そうじゃない飛び入りの客が来ることはほとんどなく、この母娘ももちろん持ってきている。
「いつも通りでお願いします」
母親から受け取ったアクアは折り畳まれた便箋を開けて内容を確認する。
〈リリー=メルビル、四歳、人間、女、体重十三キロ、処方、テオフィリン50mg×2回、朝・就寝前、カルボシステイン100mg×3回、毎食後、各二週間分〉
新規の患者なら登録作業が必要だが、彼女はリストを見るまでもない。アクアはにっこりと頷き母娘に寸時の暇を促すと、背後のチヒロに便箋を渡す。チヒロはそれを読みしばらく黙考した後、おもむろにカウンターの裏に手を伸ばす。カウンターの下はショーケースになっていて、良く出る薬はそこにディスプレイされているのだ。
チヒロがショーケースの裏扉を開くと、反対側から覗いているピンク髪の少女と目が合った。リリーは棚のお菓子にも積み木にも興味を示さず、ガラス面におでこをくっつけ熱心にチヒロの挙動を目で追っている。チヒロは『テオフィリン50』と『カルボシステイン100』のラベルが貼られた瓶を取り上げ、それぞれ一錠一錠丁寧に薬包紙に包んでいく。そんな単純な作業もリリーには楽しいらしく、瞳を輝かせて食い入るように見詰めている。その様子にアクアは気を利かせ、リリーをカウンターの裏側へと手招きする。
「リリー、お仕事の邪魔になるから…」
遠慮する母親を笑顔で制し、アクアはリリーをチヒロの側に案内する。母娘の後にはもう列もできていないし、あとはアクア一人で問題なく応対できる。ならばこの将来有望な少女に、思う存分この店の仕事を見学していってもらおう。
「プラセボだけど食べちゃダメだよ?」
チヒロがリリーの手に星形の錠剤を乗せる。プラセボとは有効成分が含まれていない薬のことだそうだ。リリーはまだ不器用な指先で不思議そうにそれを転がす。
「どうやって作るか、見てみたい?」
チヒロの提案にリリーは首が取れそうな勢いで何度も縦に振る。チヒロは愛おしそうにピンクの髪を撫で、奥の作業場へと手を引いていった。
肉じゃがが肉とジャガイモだけで作られていないように、ボンゴレ・ロッソの中身がアサリとトマトとパスタだけではないように、『薬』はその全てが病気を治したり症状を緩和したりする有効成分だけでできている訳ではない。
例えば錠剤なら、大きなもので一錠1グラム、小さなもので100ミリグラム程度の重量があるが、そのうち有効成分は半分も含まれていないものがほとんどだ。中にはほんのコンマ何ミリグラムで薬効を示すような高い活性を持つ薬物だってある。そんな微小量を毎度毎度量るのは非常に手間だし、量り間違いだって生じやすい。活性の高い薬物は少しでも投与量が違えば、患者の命に関わりかねない。それに薬物というのは概して水に溶けにくかったり温度や湿気に弱かったり胃酸や光で分解したり耐えられないほど苦かったりするものだ。だから人は誰に投与しても同じ効果が得られるように、『製剤』という技術を編み出した…
チヒロは作業台の上に様々な粉の入ったガラス瓶を並べ、天秤で片端から重さを量っては大盛の丼ほどの乳鉢に次々と入れていく。
『結晶セルロース』のラベルが貼られた粉は簡単に言うと植物の繊維で、非常に安定で味もなく、押し固めれば繊維同士が絡み合って容易に成型するため、錠剤を形作るベースとなる『賦形剤』の一つとして使われる。ただし水に溶けないので、このまま錠剤にしても胃や腸を素通りしてしまう。
『乳糖』はミルクに含まれる糖類で、これも『賦形剤』として使われる。こっちは水に溶けやすいが、その代わり固まりにくいのでバランスが求められる。
飲んだ後、すぐに溶けて薬効を発揮して欲しい場合には、十分量の『崩壊剤』を添加する必要がある。『コーンスターチ』はその名の通りトウモロコシから採ったデンプンで、水を吸って膨らむ性質があり、胃の中で錠剤をボロボロに崩してくれる。もっと効率の良い『崩壊剤』が欲しい所だが、この世界ではまだ手に入っていない。
薬物とこれらの成分が分離しないように結びつけるのが『結合剤』だ。『ポリビニルピロリドン』やら『ヒドロキシプロピルセルロース』やら、ややこしい名前の高分子がその代表格だが、ここでは粘っこい『コーンスターチ』がその役割を果たしてくれる。『コンス』は意外と万能なのだ。
チヒロは最後に『カフェイン』とラベルされた褐色の小さな瓶からキラキラした結晶を小さな薬さじで慎重に量り取り、全部を入れた乳鉢にピペットで水を垂らしながら乳棒でゴリゴリとかき混ぜる。
リリーは椅子の上で膝立ちになって覗き込んでいる。その目の前で、モサモサだった乳鉢の中の粉が練られ、次第に粒が揃っていく。
「うん…このくらいかな」
サラサラと流れるようになった粉を掌になすりつけ、うんうんと頷くとチヒロは乳鉢の中身を金属製のバットに移す。表面を丁寧に均してから乾燥棚に入れ、代わりに別のバットを持ってきた。
「二時間ほど寝かせたものがこちらになります…なんてね」
料理番組のようにあらかじめ乾燥させておいた粉を篩にかけてダマを除き、今度は油圧ジャッキを作業台に運んでくる。
「ここからが本番だよ~」
チヒロが用意したのはさっきリリーに渡した錠剤と同じ星形の穴が開いた金型と、その穴にぴったりと嵌まる二本の金属棒だ。その棒の先に粉の付着を防止する粉末油脂『ステアリン酸』を塗りたくってから、一本を金型の穴の下側から入れて底とし、穴の中を篩にかけた粉で満たす。それを油圧ジャッキにセットし、上からもう一本の金属棒で蓋をするように被せて圧力をかけていく。圧力計の針が印まで上がったら弁を緩めて圧力を抜き、下の金属棒を支えにして金型を押し下げる。
「よっ!…と」
チヒロの気合の声と共に、穴の中から艶々に光る星形の錠剤が転がり出てきた。
「ね、簡単でしょ?」
作業台の上で輝く錠剤を抓み上げるとリリーはたちまち笑顔になり、パチパチと手を叩いて再演を請う。
「え~、もう一回だけだよ?」
と言いつつ、まんざらでもなくチヒロはまた油圧ジャッキに金型をセットする。
…こりゃあ、長くなりそうだ。
年の離れた姉妹のようにじゃれ合う二人の様子に、アクアは『準備中』の看板を掲げに店の玄関へと向かうのだった。
日もとっぷりと暮れた頃、もっともっとと駄々を捏ねていたリリーもようやく母親に引きずられて帰っていった。マキナたち従業員もとっくに自分の仕事を終えて帰宅している。一人残されたチヒロが突っ伏している作業台の上には、向こう一年分はあろうかというカフェイン錠の山…
「ほい、お疲れさん」
アクアがマグカップに淹れた熱々のコーヒーを差し出す。
「ううう…カフェインはもうたくさん…」
そう言いながらも素直に受け取り、浮かない表情でちびちびと啜る。
「どうかしたのかい?疲れたって割には珍しく真面目な顔をして…」
アクアの余計な一言にチヒロは半目でぎろっと睨むが、すぐにまた考え込むように視線を落とす。いつもなら食って掛かりそうなものなのに。
「…別に何でもないよ。ただ、リリーの薬、今のままでいいのかなって…。さっきも発作じゃないけどずっと咳込んでたし、痰も前よりひどくなってるみたいだから…」
薬局の店主のくせにあまり薬に詳しくないアクアは首を傾げる。
「確かにね。でも、だからその…テ…テ…テロフリンを出しているんだろう?」
「なにその新手の昼ドラみたいなの…テオフィリンね。いやそうなんだけどさ、他の喘息の患者さんを見ててもあの子だけなんか違うって言うか、効いてるのか効いてないのか分かんないって言うか…って、医者でもない私なんかが分かるはずないんだから、そんなこと言ってもしょうがないね。先生に任せとけばいいんだよね…」
自分自身を諭すように独り言ち、果てのない物憂い思考にまた沈む。マグカップに吹きかける吐息もうわの空で、ただ立ち上る蒸気を揺らすばかりだ。
アクアには難しいことは分からない。薬物の名前も錠剤の作り方も全部チヒロの受け売りだし、彼女が何を目指して悩んでいるのかなんて想像の端にも掛からない。力になれないのはもどかしい。だがアクアは単純な男だ。迷いはない。自分にできるのは、この世界にささやかな革命をもたらしてくれている、この世界で唯一人の『薬剤師』を信頼することだけだ。そしてその情熱は、まるでチヒロの持つマグカップに湛えられた中枢神経を刺激する黒褐色の液体のように、アクアの中でいつまでも冷めずにたぎっている。
「…チヒロは優しいな」
「え?」
「チヒロが来てくれて本当に良かった」
患者を診断するのも投与する薬を決めるのも医師の仕事だ。『薬局』は薬を用意し、医師の決めた通りに処方するだけだ。自分たちにできることはそう多くない。それも全部分かっていて、それでもなおこの世界のために思い悩んでくれるチヒロにアクアは敬意を感じずにはいられない。本当に、来てくれて良かった。
「な、何よ、いきなり…褒めたって何も出ないよ?」
「率直な感想を言ったまでさ…ところでいいのかい?」
「ん?何が?」
「今日は早く帰りたいって」
「あっ!しまっ…あちっ!」
立ち上がった途端マグカップからコーヒーが跳ねチヒロ自身の手に降りかかる。
「あちち…え、もう七時過ぎてるじゃん!ごめんアクア!あとお願い!」
チヒロは火傷した手を振りながら見事な慌てっぷりで右往左往しマグカップを片手にトイレに駆け込む。
「ちょっとアクア!掃除しといてって言ったでしょ!ああん、もう…!」
ドアの隙間から眩い光が漏れ、チヒロの声がフェードアウトしていく。やがて光は消え、残されたアクアは一人、静寂に包まれる。
「相変わらず騒々しいな、チヒロは。…じゃ、また来週」
開けたドアの中には、トイレの脇に空のマグカップだけが転がっていた。
―――ヴィーッ、ヴィーッ
電話が鳴っている。
ぶるんと頭を振り、千尋はトイレから飛び出してテーブルのスマホをひっつかむ。
「もしもし!」
「あ、やっと出た!もう、なにしてんのちひろん!女子会とっくに始まってるよ?て言うかもう鍋食べ終わっちゃうんだけど?」
「うそ?ごめ~ん、ちょっと手が離せないって言うか、ほっとけないって言うか、自分ではイカンともしがたい状況になっちゃってて…」
「何それ?はは~ん、さては男か?まさか元カレ?元サヤ?この裏切りモノ!」
「ちがうちがう!そんなんじゃないけど…」
「うん、そだね。ちひろんにそんな甲斐性ないもんね。どうせまたあれでしょ?ステラとかいうとこに行ってたんでしょ?あれだけ怪しい宗教は止めとけって言ってるのに…」
「だから違うってば!宗教でもセミナーでもないから…」
「はいはい、どうせちひろんは女子会なんかよりそっちのお仕事の方が大事なんでしょ?もう行くなとは言わないけどさ、ほどほどにしときなよ?あ、鍋のキャンセル代は明日会社でもらうね。じゃあ、わたしたちこれからカラオケで二次会だから。じゃ~ね~」
「あ、ちょっ、」
―――プー、プー、プー…
こずえめ…何しにかけてきたんだ…ただの嫌がらせかよ…
がっくりと倦怠感に襲われ、スマホをベッドに放り投げ自分もそのまま倒れ込む。
「疲れた…」
平日は現実の会社、週末は異世界の薬局という二重生活を半年近く続けているんだが、もう俺は限界かもしれない。明日も朝から普通に仕事だし…ここ最近買い物にも行けてないし…出会いなんてある訳ないし…もうヤだ…
戻ってきたらすぐ出かけられるように持ち得る中で最高級の組み合わせを着込んでおいたのに、一度寝転んだら着替える気も起きない。しわになっちゃうじゃん…もう着るものないのに…アースの秋物欲しかったな…
そんなことを思いながらも、片手ではさっき放り投げたスマホをいじっている。
『小児喘息 治療薬』
検索サイトのテキスト入力欄にはそう打ち込まれていた。
「フルチカゾン…ベクロメタゾン…ブデソニド…ステロイドの吸入…うーん…四歳のリリーにはまだ無理か…プランルカスト…LT拮抗だけだと効きが弱いかなあ…とにかくテオフィリンは怖いから止めたいんだよね…サルメテロール…やっぱりβ2が…吸入は無理でもドライシロップか…貼付剤なら…ツロブテ…ロ…明日…会社で…しらべ………」
スマホが手から滑り落ちる。
ベッドの上からは駆け出し『薬剤師』の安らかな寝息が聞こえ始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます