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「同一種族の個体同士に差異があるのは何故だと思うかね?」
音声放送のチャイムが軽やかな音色を響かせる中で、すでに授業は始まっていると言いたげな教授の質問だった。開始早々、教卓に立った次の瞬間に智之は指名を受けたのだ。教授は時々、その類いのおかしな質問を受講者にぶつける。専攻しているのは文学なのに、この教授は社会学者のような問答を生徒たちに吹っかけることが好きなのだ。
人間ひとりひとりに差異がある。それは当たり前の話で、誰もが知っている常識だ。だが、なぜ個体差というものが必要であるか、自然界のシステムではどのような働きをもたらしているかは、案外と知られていない。文学専攻の生徒がそも知る由もないだろうに。意地の悪い質問だと思った。
智之は思考の大半を占拠する、晶とトウヤをようやくで押し退けた。
「え……と、それぞれで相手が見分けられる方が便利だから、でしょうか?」
「それもあるかも知れないな、否定は出来ない。だが、もっとも大きな理由は変化のパターンを出来る限り保存しておく為だね。人間は猿から進化したものだが、完全に違う生命になったわけではない。また、完全に違ってしまうのは、種族保存の為には不利になる。出来るだけ多くの個別パターンを残し、環境の変化には常に備え続けなくてはならないわけだよ。だから人間は基本的に猿のままなんだ。」
「はぁ。」
曖昧な返答をしても教授は意に介さなかった。智之に理解が為されようが為されまいがどうでも良いのだろう。それもパターンの一つに過ぎず、理解の足りなかった個体の末路にまでは興味がない。
「他の生物同様、人間もまた出来うる限りのパターンを保持する為に、ありとあらゆる個体差を生み出している。これは一重に種族全体での生存率の上昇の為であり、個体に還元される性質のものではないとさえ言える。一個の個体の持つパターンが環境に不適合であるなら、淘汰されるだけなんだね。だが、その同一のパターンが、DNAからも抹消されるという事はないんだよ。環境が変化すれば、そちらこそが主流ともなりかねないわけだから。」
教授のこの横道に逸れた講義を真面目に聞いている生徒は少なかった。智之も、今日は雑学に心を惹かれているほどの余裕はなかった。
「犯罪というものは、多く、文学においても重要視されるテーマの一つだね。しかるに、なぜこんなにも人は犯罪に興味を持ち、犯罪者に心惹かれるのか。優れた文学作品にもここに題材を取っている作品は少なくない。」
ようやく本題に入ったようで、質問を投げ付けたきり放っておかれた智之も、自身から完全に話題が逸れたものと見て胸を撫で下ろした。
犯罪者の気持ちは犯罪者にしか本当のところは解かるわけがない。智之は腹立ちまぎれにそう思っていた。偉い文豪や学者がその人の身になって考えてみたところで、本人でないのに、いったい何が解かると思うのか。いつだってそれはただの推論、憶測に過ぎないことだ。そこにはまた、犯罪者とは一線を画する健常者の感覚が、完全に抜けきることなく混じり込んでいるだろう。自身の意見は的外れではないと自負するものであったが、面白味には欠けている。だから智之もことさら持論を披露する気にはならなかった。
教授は犯罪心理学にも興味旺盛な様子で、講義はまた脱線し始めたようだ。
「犯罪者の中には常軌を逸した精神構造を持つ者が存在すると、これは最新の人類学の分野での研究報告によって確認されてもいる。昔から密かに言われていた事が事実だったという証拠が出てしまったわけだ。生まれつきで邪悪な人間は存在するという事だね。」
哲学的な見地と科学的な見地では同じ結果が違う意味合いに取られることを皮肉って、教授は両者を混ぜ込んだ言い方をした。生まれつきで邪悪な人間が居るのではなく、生まれつきで人間性に欠陥がある人間が居るというのが科学的見地だ。生まれつき手足の欠けた人間が居るのと同じように、生まれつきで善性がない。それが即座に性善説の否定には繋がらないが、全体を一つのカラーとして論じることそのものへの疑問視は生み出した。
「彼らは単純に、他人の気持ちを思いやるという想像力に欠けているだけなんだね。相手が何を感じているかを理解出来ないわけだよ、たとえ苦悶に満ちた表情を浮かべていても。認知が欠損しているせいだ。」
教授のこの手の講義は大抵で、人間の理想論は敗北したという結論で締め括られた。一定の確率で障害は人間の身に現われ、障害者はイレギュラーな要素ではない。人間全てを統一的に括る事は出来ない。
智之は細かな理屈の部分には付いていけなかったが、概ねでこの教授の意見には賛同しかねた。他人の気持ちなど、健常者だという普通の人にだってそうそう解かったりはしないはずだ。現に、智之には晶の気持ちがまるで推し量れない。だからこのつまらない講義が一刻も早く終了することだけを願い続けている。
「人それぞれが皆違っているという事象は、変動する環境に対応する為の、人類という一つの種族を残す為の方策に過ぎないのだね。従来考えられてきた神の介入だのの、人間だけの特別な事情や理由というものは無いんだ。その事実が科学の分野で明らかになり、人間の存在意義が自然科学的に、非常にシステマチックに捉えられるようになり、ロマンチシズムが駆逐されるに従って、文化の面、特に人間存在を問うような分野においてはニヒリズムが台頭していった。その時期に現われた代表的な作家が……」
憂鬱な授業が延々と続くかに思えた。人の根っこが善か悪かなど、智之には正直、どうでも良いこととしか思えなかった。環境を決める基準は相変わらず曖昧なままだし、その曖昧な基準で出来た常識が善悪を決定し、環境や常識自体が刻一刻と変化する。何をもって永遠と規定したのかも不明だ。教授の言うように、世間では未だに古臭い宗教論が幅を利かせているし、片方では教義の矛盾が知れ渡っている。人間の存在意義を神秘のベールで包んで、獣に過ぎないという事実を隠そうとしている。うんざりするだけで、何の面白味もない事実だ。何より厄介なのは頭の中を占拠する一つの事柄で、下らない真実如きでは押し退けることが出来ない。それはこのところ、変化の兆しも見えなかった。
もしかしたら晶は、トウヤと現実世界で逢った後なのだろうか。今さらながら、トウヤに嘘を聞かせた後の反応がまるでない事に疑いと怖れを抱き始めていた。
【ラノベ】【未完】虚構と現実の二重螺旋(エピステーメ) 柿木まめ太 @greatmanta
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