57
「ただいま、晶たん、」
智之は今日も期待を込めて、玄関の戸を開けた。上がり口に靴がない事を確認して肩を落とす。やはり今日も、晶は智之の帰りを待つことなく先に帰ってしまったらしい。一抹の寂しさは、最近では小さな嫉妬の火に変わっていた。
晶がゲームを続けている限りは、ほんの僅かでも繋がっていられるような気がしている。本当に細い糸だけれど、二人は結びついているのだと思っていられた。ゲーム機材のリクライニングには、ついさっきまで晶が横たわっていたのかも知れない。無防備に自身の部屋で過ごしてくれる時間がある、それだけが智之には希望に思われた。
殺風景な部屋は、何も好きこのんでそうな訳でもなく、何も置けなかったからだ。変なものを置いて誰かに笑われるのは嫌だった。晶が遊びに来る部屋で、晶が失笑するような変な物を置くのが怖かった。誰かが遊びに来た時に笑われるのが怖かった。遊びに来る誰かには、心当たりもなかったのに。
キッチンと居間を隔てるカウンターテーブルに、晶の文字がしたためられたメモ書きが置いてあるのを見つけた時は、期待に胸が高鳴っていた。もしかしたら、とても嬉しい言葉が書かれているかも知れない。真っ先に心に浮かんだ都合のいい夢想は、メモを読んだ途端に無残に破れた。
「なに? どういうこと、晶たん……?」
声に出してみても、メモの内容は変化しなかった。自身の上ずった声が滑稽なだけだった。
ゲームを止めると書かれた文字が信じられなくて、意味を測りかねていた。何が書かれているのかを、じっくりと検討する必要があった。実際、智之はその紙片に何が書かれているのかを掴みあぐねていたのだ。頭の中が真っ白になったような気がしていた。
「迷惑って……、」
そんな事を考えるような娘ではない。これまでの付き合いで、晶のことは自身のことより解かっているつもりだ。きっと何かある、疑いはどす黒い煤に変化して、智之の心を染めていく。
「後始末って、まさか、」
トウヤだ。それしかない。
思い込むと、紙面に踊る可愛らしく丸みを帯びた文字までが、浮かれているように見えた。智之はメモを投げ出し、慌ててパソコンを立ち上げた。いつも罪悪感で覗いていた監視用の記憶媒体が、今日に限っては何も感じない。むしろ、急速に湧き上がってくるものは怒りだった。
なんで、なんで、なんで!
どうしてトウヤなのか、どうしてゲームの友人なのか。視界が滲む。バーチャルの中の幻に敗北したことが、たまらなかった。激情のままにキーボードを殴りつけたのは、ついこの間のことだったのに。再び叩きつけられた拳は、画面をフリーズさせる結果を生んだ。
トウヤに出逢わせるためにゲームを貸したんじゃない。涙はとめどなく流れた。
「嘘だよね、晶たん、」
ゲームをしないという宣言は、いつの間にか、智之との縁切りを宣言する言葉にすり替わっていた。実際はそうなのだ、きっと晶はトウヤと会う時間を作るために不要となった智之を棄てる。合理的に考えたら、他の男に回す時間は勿体ないと気付く。棄てられてしまう、智之の絶望はそんな色をしていた。
価値のない自分はとても捨てやすいのだと、薄々は勘付いていた。これまでの人生で味わった苦渋が走馬灯のように廻った。人生の終わりではあるまいに、いや、おしまいと見て良かった。絶望感に押し潰されそうになりながら、もう一度、晶の残したメッセージを読み返す。何度同じことを繰り返しても、その文面が変化することはなかった。けれど、智之の内面は刻一刻と変化を続ける。同じメッセージを悲喜こもごもの心で読み返した。浮かれた調子で書かれたようにも、事務的な調子で書かれたようにも変化する。もしかしたら、自身の思い過ごしかも知れない……そんな希望が浮き上がる事もあった。
あと何日かは借りたいと言っているのだから、トウヤとどうこうなったという考えは尚早だ。例えば、どうこうなる為に借りたいのだとしても、今の段階ではそうではないということだろう。
まだチャンスはあるのだと智之は思い始めていた。晶に思いとどまらせる事が、トウヤから奪い返す事に繋がる。彼女の行動を縛る権利が自身にはないのだという事を失念していた。頭の中は、どうやって説得するかで一杯になった。
「そうだよ、晶たん。トウヤたんはさ、リアルとバーチャルは切り離すタイプだって言ってたんだもの、きっとリアルの情報なんて教えたがらないよ、きっと。」
かつて共に挑んだダンジョンで、根掘り葉掘りと会話を向けた時の煙たそうなトウヤの表情を思い出していた。
この退屈な講義さえ終わってしまえば、今日の受講予定はおしまいだ。朝、起きだすことも、着替えて支度をすることも、今日はなんだか自動的にこなしたように記憶からは抜け落ちていた。
智之は大学へくる道程も、誰と会って何を話したかも覚えていない。頭の中は帰ってからの計画で満杯になり、他のことは上の空で済ませた。帰ったら、クローゼットに隠れておいて、晶を待つつもりだ。そして話し合いをして、トウヤに告白しようという彼女を説得する。トウヤはきっと迷惑だから、と。
「晶たんは盲目になってるだけだよ。だってトウヤたんは晶たんのこと、なんとも思ってないかも知れないじゃないか。」
いや、それを言うのは拙い。首を傾げながら、智之はいかにして巧く説得するか、その方法を考え続けていた。教室の前の扉が開いたことにも気付かなかったほど、熱中していた。
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