斉藤菜緒がテストをボイコットした理由

白取よしひと

第1話

 世界史の秋本が裏返しにしたプリントを配り始めると、教室は後ろの席にパラパラとプリントを渡す音だけの静けさになった。秋本の銀縁メガネが、みんなを見回してから時計の針を確認する。未だ若手なのに、まし顔で生徒と一線を引くこいつは、どうも虫が好かない。

「始め!」

 静けさを破るその声とともに、猛烈な勢いでシャープペンシルが机を叩き始めた。名前を書き終えたであろう、その時になってもコツコツ音は止まらない。

―― みんなどんだけ勉強してきたんだ……

 音だけみんなに合わせても仕方がない。片手で髪をむしり上げ、問題用紙に正解ではないだろう答えらしきものを書いてみた。徒競走のゴールを目指しているのか。そう思えるほどクラスのみんなは集中している。

 啄木鳥きつつきが樹木をつつく様に一定の音だけが響く静寂の中、時折、カツカツと異質な音が混じる。秋本が巡回している靴の音だ。早くも答えに詰まった僕は、あきらめから達観的たっかんてきな心持ちになっていて、この滑稽こっけいな二重奏をうつろに聴いた。

 足音は移動して僕の横で止まる。『なるほどなご様子だな』と、秋元の鼻で笑う声が聞こえる様だ。僕は秋元に嫌われている。間違いなくそうだろう。人を選ぶと評判の秋元だ。普段の僕に接する態度を見ると明らかだと思った。

―― 早く終わんねえかな。

 これ以上、おつむをひねっても無駄な事だ。残された時間は無言を強制され、机に縛り付けられた拷問ごうもんでしかない。

『ガタリ!』

 突然大きな音が響く。それは手を添える事なく、後ろにねのけた椅子の音だとすぐに分かった。テスト中は、あらぬ疑いを掛けられても詰まらないからうつむいているのが普通だけれど、その音に反応してみんなが目を向けたと思う。

―― 斉藤……

 斉藤菜緒さいとうなおは直立していた。まゆを寄せ、視線は黒板を向いている。突然の行動に、秋元を含め声を掛けるものはいない。立っていたのは、ほんの数秒だったかも知れない。彼女は誰に声を掛けるでもなく、バックを手に取ると教室を出ようとした。僕の席の脇をスカートが揺らぐ。制服の香りが僕をよぎぎった。

「斉藤……」

 秋本が発した言葉はそれだけだった。クラスのみんなは再び解答用紙をにらんでいる。

―― 狂ってる。

 女生徒ひとりが勝手に教室を飛び出したんだ。追いかけない秋本もそうだが、何事もなかった様に答案用紙に目を戻すクラスメイトも冷たいと思った。

「先生!」

 手をあげると、眉を寄せていた秋元がこちらを向く。僕は、あげた手をそのまま、ドアに向けて指さした。斉藤が後ろ手で閉めたドアは、わずかな隙間が開いていた。

 

 テストが終了すると、採点結果が出るまでは束の間の平和が訪れる。いつもなら、この細やかな平穏を楽しもうと友だちと街に繰り出すのだが、今日はそんな気分になれなかった。

―― 斎藤菜緒。

 あれが、もし彼女でなければ、こんな気持ちにはならなかっただろう。彼女は活発なタイプではない。とは言ってもいじめられてもいなかった。成績は自分などと比べると、雲の上の人であり、授業で急にあてられても整然と答える。斜め後ろの席から眺める彼女の横顔を思い浮かべた。彼女は美人だと思う。肌は白く、瞳も大きくてかわいい。肩まで垂らした髪もきれいだと思った。僕は斉藤に憧れていた。

 そんな彼女だから、クラスの男たちに人気があったかと言うとそうでもない。

『斎藤は性格悪いしな』

『何考えている分からないヘンタイだよ』

 これが一般的な彼女に対する評判だろう。原因は突き放した様に漏らす、クールな話し方によるものだ。でも、それが彼女の本質とはとても思えない。


 そんな事があったからなのか、友だちとつるむ気も起きずに街を歩いた。テストが終わったばかりなので、本屋で立ち読みする気にもなれない。だけれど、それ以上に家へは戻りたくなかった。

 目抜き通りから外れ、細い路地を歩いて行くと小さな神社がある。こんな時、足を運ぶいつもの道だ。石段を上がった。特に有名でもなく、さびれかけたその神社の境内にはひとがない。小さく、そして風雨で灰色に色が落ちたやしろの脇を通り抜け更に歩く。

―― 斎藤?

 社の脇、目的の場所に通じる細道の入り口には『戦没』と書かれた大きな石碑せきひが立っている。その石碑を斉藤はひとりで見上げていた。

「どうしたんだよ。こんなところで」

 振り返った彼女は、『なんだ水木か』とっ気なく返し、再び石碑を見上げた。彼女の話し方は万事ばんじこうだ。

「それ見てたのか? 好きなんだ…… そんな感じの」

「別に」と脇に置いていたバックを手に取ると『水木は何してるんだ?』と聞いて来た。

「僕は、その…… 向こうに好きな景色があって、たまに見に行くんだ」

 ほんの少し間がいた。すると、『わたしも行く』とついてくるではないか。


 僕らは、木々の間を縫う細道を会話もなく歩いた。沈黙があっても不思議と気詰まりな感じはしない。木漏れ日がオレンジに変わりだした。時間的にはちょうどいい頃合いだろう。

 木々が途切れ視界がひろがる。僕たちが立っている場所は、小高い丘になっていて、足もとを横切る大きな川の向こうには、巨大なコンクリートの白い円柱が整然と並んでいる。

 傾きかけた太陽が、いよいよそのコンビナートに掛かるほどに落ちてくると、空から落ちるオレンジ色はますます濃くなって、辺り一面を染め尽くす。

 隣に立つ斉藤を見た。白い顔はオレンジ色となり、その瞳はどこか遠くを見詰めていた。

「どうだい? なかなかきれいだろ」

「水木ってこんなの好きなんだ」

 そう言いながらも、斉藤はコンビナートから目を離さない。それから、どれだけの時間景色を眺めていただろう。太陽がコンビナートの陰に落ちて、辺りが暗くなった頃、来た道を戻ったはずだ。会話も何を話したかよく覚えていない。それだけほとんど話さず、さして内容のある話をしなかった。


 テストの日に起きた斉藤の奇行は、意外な事に何の問題にもならなかった。あの場にいた秋本は、普段通り澄まし顔で授業をしているし、担任に呼び出される事もなかった様に思える。

『ヘンタイのした事だから』

 クラスのみんなもそれぐらいにしか思っていなかったのだろう。いつもの様に登校して来る斉藤を見ても、『どうしたの?』と、聞く者もいない。

 あの事件があってから、時々、斉藤と口をきく様になった。街でも不思議と彼女の姿を見かける事が多くなり、その度にお決まりの言葉を交わす。

「斉藤……」

「水木か」

 それはまるで合い言葉の様であり、会話を始める時の呪文でもあった。大抵たいてい、彼女はそのまま歩き出す。その歩調に合わせて僕は隣に従った。水木はついて来る僕を、それが当然の事の様に、時々思い出した様に声を掛けてくる。

「海は好きか?」

 それはいつもそんなたわいもない内容だった。行動を共にする事が多くなって、ある事に気がついた。彼女の携帯が頻繁ひんぱんに鳴るのだ。そのほとんどはメールの着信らしかったが、時には電話の時もある。

「斉藤。出なくていいのかよ」

 そんな時いつも微かに笑って『いいのよ』と、僕の前では決して出る事はなかった。少なくともクラスでは、友だちらしい友だちはいないはずだ。

―― 家族からだろうか?

 こんな頻繁にメールが来る事に僕は違和感を覚えた。

 

 外で顔を合わせる度に、なんとなく一緒に時を過ごしていたから、誰かに見られるのは当たり前の事でクラスの噂になりだした。

「お前、斉藤と付き合っているのかよ」そう、中には直接聞いて来るやつもいる。

「偶然顔を合わせて、少し歩いただけだよ」そう答えたが、実際、嘘ではなかった。 僕らの噂は、いつの間にか立ち消えになり、テスト事件も忘れられて穏やかに時は過ぎた。何も変わらない学校生活。少しだけ変わったのは、相変わらず斉藤と時々話す事と、秋本が、やたらと僕に構ってくる様になったくらいだろうか。

 

「明日……」立ち読みを付き合っていた時、斉藤はいきなりそう呟いた。目は本に向けられたままだ。

「明日?」

「ドウブツエン」

 それを聞いて、ニュースでレッサーパンダの赤ちゃんが公開されたと流れていたのを思いだした。動物園に行きたいだなんて斉藤もやっぱり女の子なんだなと思う。そうしている内も、斉藤は『行くの?』と聞いて来る訳でもなく、雑誌に目を走らせている。

「いいよ。行こ。動物園」

 切りがいいのか、ため息を吐き出すと斉藤は本を戻した。

「それじゃ、明日10時に駅で」

 

 レッサーパンダがお目当てだろうと思ったのは、全くの思い違いだった。園内のルートを回り、彼女が一番長く眺めていたのはゴリラだ。ゴリラは頭がいい。ずっと僕らが柵から動かずに見下ろしているので、気になって仕方ない様だ。頭を掻き、顎を掻いては頻繁にこちらを見てくる。胡座あぐらをかいたその黒い巨体は、今にも怒りで破裂しそうだ。

「斉藤って、ゴリラが好きなんだ」

「ゴリラって哀愁あいしゅうを感じるのよ。あの人、いろんな事を考えているわよ。そう思わない?」

―― あの人って……

 その時、いつもの着信が鳴った。今回は電話だ。電子音に驚いたゴリラは立ち上がり、巨体のゴムにも似た胸を反らせて ドラミングを始める。斉藤は携帯の画面に一瞥いちべつを送ると『ちっ』っと舌打ちをして着信を止めた。その場を離れた僕らは、ひと通りのルートを回って動物園を後にした。

 

 帰りの電車は混み合っていて、二人ともつり革に手を掛けている。斉藤はいつも通り言葉が少なく。車窓から外を眺めている。そんな彼女を見ていると、今まで動物園を見ていたのは錯覚なのではないかと思えるくらい、表情に変化がないのだ。僕が『プレーリードックかわいかったね』と話しかけてみても『そうね』と答えるばかりなのだから。

 電車に揺られながら考えた。どうして斉藤は僕なんかと話をしたり、動物園に誘ってくれたりするのだろうか。 それはきっと、僕が彼女の事を唯々ただただ受けとめているだけからなのかも知れない。

 

 木枯らしが吹き始めた放課後、朝に母と口論した事もあって、まっすぐ家には戻りたくなかった。 こんな時、向かう場所は決まっている。あったかい缶コーヒーと肉まんを仕入れて神社の石段をのぼった。

 

「斉藤来てたのか」

 彼女は丘の草はらに腰をおろし、ストッキングの黒い足をのばしてコンビナートを眺めている。

「水木か」

 僕は頷き隣に座った。丘のふもとを流れる川からいた冷たい風が、山肌をめて吹き付ける。彼女の長い髪は揺れていた。

「これ使えばいいよ」マフラーを外し、彼女の首に巻いた。それに顔をうずめる様にして彼女はうつむく。

「あったかいな」

 それは僕の事を言っているのか、それとも単純にマフラーの事なのか。どちらにしても同義語だよなと空を眺めると、ポケットのあたたかさから肉まんの事を思い出した。

「これ食べていいよ。コーヒーもあるからさ」

 斉藤は遠慮の言葉もなしに肉まんを受け取ると、小さく口に含んだ。どうしてなのだろうか。衝動的にあの疑問を投げつけたくなった。

「あのさ。聞いてもいい?」

 彼女は珍しくこちらに顔を向ける。今日は雲があり、あの時の様にオレンジ色は差していない。彼女の顔は魅力的な白いままだ。

「 答えられる事なら」

「テストの最中に脱走した事あったろ。どうしてあんな事をしたんだ?」

 彼女は灰白色のコンビナートに目を戻し、寂しげな笑みを浮かべた。しばらく沈黙の時が流れる。遠くからカラスの鳴き声が聞こえた。

「復讐よ。いじめたかったの」

「復讐?」

「わたし、秋本先生と付き合ってたの」

 僕は言葉を返せない。

「遊ばれてるって気がついたから、妊娠したって嘘をついたのよ」

 テストの日。席をたってにらんでいたのは黒板ではなく、教壇にいた秋本だったと言う訳だ。いきなり、みんなの前で立ちがられて『ぎょっ』とした秋本は、強く斉藤を呼び止める事は出来なかった。


「軽蔑…… するよね?」

 知っていた。途中から気付いていたさ。あのしつこい電話も、早く赤ちゃんをろさせようとあせった秋元がかけてきたものだ。僕と斉藤との噂が起きてから、秋本が僕に構うようになってから確信していた。二人の話を、僕が聞いているとでも思ったのだろう。

 

「あのさ……」

 彼女は答えない。

「これから斉藤の事、菜緒って呼んでもいいかな?」

 

 夕まずめ、コンビナートの上空に強い風が吹いているのか雲が動き出した。その狭間はざまから、今沈もうとしている太陽の光が幾筋か落ちてくる。背後から照らされた円筒状のコンビナートは、その曲線の中にオレンジと闇の陰影を映し出す。僕はそのオレンジを美しいと思った。

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