根腐れた庭

日由 了

第1話 根腐れた庭

 僕は出がけに、ジェニーの目を潰した。

 あなたのことが信じられないの。数ヶ月前に彼女は僕にそう言っていたな、とふと思い出して。小さなコミュニティにできた悪性腫瘍なのだと、彼女は僕を糾弾した。

 そのこと自体は気にはしていないが、僕のことを信じられない、のだと。なるほど、それは困る。いずれきっと大きな支障になって差し支える。ならば、芽は早い内に摘んでおきたいものだった。

 救急車は、呼んでおいた。

 彼女は然るべき処置を受けるべきだったから。

 僕が潰した目玉も、彼女自身がすり潰してきた心も。

 殺してやる、全員不幸になれ。そんなジェニーの呪いの言葉はもう、聞き飽きたのだ。

 お前たちを見返してやる。言わなくても好きにしておいてほしかった。僕の関与しないところで、幸せになるなり不幸になるなりしてほしかった。

 要するに、どうでもよかったのだ。

 それが、つい10分前のこと。

 トイレの洗面台で、僕は丁寧に手を洗った。塩素の匂いが鼻を突く。冷えた二月の水が骨まで僕の指を冷やした。吐き出した溜め息がマスクの内に水滴を作る。温度調節機構はいかれていた。施設修理が行われることは当分ないだろう。

 ジェニーの残骸を洗い落として、洗面台にも残っていないことを確認する。どうせ講義室では騒ぎになっているし、僕がやったことなどすぐにばれてしまうから気にしなくてもいいのだが、何も知らずに訪れた人を驚かせることもないだろう。

 妙な気遣いの前にやることがあったのでは? こうなる前に人としての作法に間違いがあったのでは? 僕の良心が問いかけたが、そんなものは知らない。ディスポーザルのペーパータオルで丁寧に手を拭いて、丸めてゴミ箱に放った。霜焼けには、なりたくなかった。

 トイレを出たタイミングで遠くからサイレンが響いていた。

 もう少し早いものかと思ったのだが。

 救われるべきでないのかもしれなかった。僕も、ジェニーも。

 

 振り上げられた拳は振り下ろされなければならない。

 目には目を歯には歯を。

 ともいうのかもしれない。いかんせん古典的だが、間違ってはいない。特に、溜飲が下りるように事を運ぶのにはこれ以上もないお題目だと、僕は思っている。ただ、人間が人間であるが故に、少々やり過ぎるきらいはあるのだ。

 振り上げた拳は顔が変形するまで振り下ろされているし、僕はジェニーの言葉に対して目を潰したのだから。

 僕の精神とジェニーの眼球と、どちらがどちらだから悪いとか、目玉は戻ってこないから物理的に手を出した僕が悪いとか、日常に差し支えるレベルで自尊心を奪い一生ついて回るであろうトラウマを与えたからジェニーが悪いとか。それを推し量ることはできない。法以外には。もっとも、この箱の法がまともに機能しているかどうかも、僕には推し量れないことだった。


 ごく狭い空間には優劣はつくしヒエラルキーは育つし、そうなったら互いを監視するようになるまでそう時間はかからないだろう。

 嘘は数えきれないくらいついてきたし、理解などされなくてもいい。僕は、多くが欠落したまま、連中よりもいくらか外面はいい完成品として振舞うことだけは得意だったから。

 逸脱を防ぐためでもあるし、いつだって後ろ指を指せるようにする準備でもある。

 牽制に牽制を重ねた結果がこれだった。

 僕のデバイスにはメッセージが残っている。サイレンが近くなっている。僕は歩調を速めながら、メッセージを再生するよう命令した。シエラとサムからだった。僕が何をしたのか問い詰めるでもなく、身を案じてくれているようだった。

「いつでも連絡してくれ」

 方便だってことくらい僕にだって分かっていた。

 もしくは、方便だと思ってしまうくらいには僕は終わっていた。

 さもしい友情である。

 これがジェニーの願ったことだろうか、と僕は首を傾げた。

ジェニーがシエラを殺してやると喚いたことが発端なのだとしたら、僕は彼女をなだめることも、シエラを慰めることもできなかったのだし、今更口を挟めるところにいはしなかった。サムも僕も平和主義だったはずだ。事なかれ主義だったともいうが。

僕達のコミュニティに根付いた疑心から、僕とサムは無関心であろうとした。関わらないことで自らの清さを証明しようとした。

 それが正しかったかどうかの証明もできはしない。

 僕は、汚れることを選んだ。それが、僕に集積された澱の出した結論だったから。

 ブルゾンの襟を立てる。高い塀が見える。流れる雲は早かった。低い位置の雪雲が押し流されて、斑に青空がのぞいている。吐き出した息は白く白く、午後の気だるさに呑み込まれていく。僕はポケットに手を突っ込んで歩き出した。踵の擦り減ったスニーカーは昨日までの雨を吸って、まだ重たいままだった。

遠くの空ではミサイルが発射されようとしている。

社会は緩やかに旧体制に戻ろうとしている。

 日に日に少しずつ濃くなっていく二酸化炭素。

 何かがよくなると信じ込もうとしていた。神様こそ信じていなかったし、僕は自分のことだって碌に信じられないが。毎日を真面目にやり過ごしておけば、きっと僕は無事でいられて、平均的で、当たり障りのない日常に包まれることができるのだと。何も考えないふりをして、盲信していた。教え込まれた人間性に忠実であろうとした。

 この社会はバランスが取れているし、均等になれたのだろう。

 ある一点を取り除いて欠けた部分を埋めていけば、凹凸のないものになる。エネルギー保存の法則である。総量は変わらないのだ。ただ、どこかが富んでいて、どこかが局所的に乏しい。誰かがたらふく食う傍らで、誰かが飢えて死ぬのだ。

 何年も前からそれは変わらない。

 社会が築かれた時からずっと変わらない。

 だから人々は、人間性を平均することにしたのだ。収集された個性を平均化し、個々人に割り振られた個性を生きることで、限りなく平均的な人間組織を構成しようとした。そうして不満を減らそうとしたのだ。活動的な人間も活動的でない人間も、互いを理解できないのならすべてを標準化すればよかったのだから。人種も宗教もない世界になれるのだと信じられていたのだから。元が同じデータベースならば必ず他者を理解でき、共通意識が不文律のものとして人間組織に横たわれば、平和な時代が訪れるのだと、誰もが確信していた。

 そうして集められた世界中の子供に世界中から集めた人間の意識を平均化して、僕は、どこかの誰かになった。

 ごく小さなコミュニティ。

 同じ意識を根っこに持つ、百人だけの社会。


 結論から言えば、この社会は失敗作だった。

 僕が何よりの証明ではないだろうか。

 だから僕は出がけに、ジェニーの目を潰したのだ。

 僕は彼女のことはどうでもいいと言ったが、あれは、嘘だ。

 可能ならば少しくらいは不幸になって欲しかったし、彼女が不幸なままでいてくれれば僕は幸福でいられそうだった。

 一方を捨てることで自分が助かればそれでいいのだ。

 最低なことくらい、分かる。

 自分のことだから。

 これが同じ意識から生まれたものだと言うのだから、僕は一体、どこの誰からできたのだろう。僕の思考や僕の意識は、誰の苦痛から生まれたものだったのだろうか。誰のものでもなく、もとから僕のものだったのだろうか。

 ジェニー、君の苦しみだって終わるはずなんだよ。

 終わるはずだったんだよ。

 僕には、ジェニーの苦しみは分からなかった。

 僕の苦しみだって、終わるんだろうか。わからない。

 僕のトラウマを取り除けないように、苦しいのはずっとずっと、終わらないのかもしれない。人間性を平均することは可能ではなかったのだから。記憶も意識も、僕は変わりなかったのだから。

誰にも自分のことが分からないだなんていいながら他人から理解されることを望む矛盾が大嫌いだった。彼女のことがきっと、嫌いだった。

 僕は、分かる人だけ分かってくれればいいと吐きだして、心の内では根本的に理解されることなどあり得ないと笑っていた。

 他人への期待は苦痛でしかないのだから。

精神性が一つの基盤となった今でも、変わらないのだから。

 

 そうして僕は銃を握ることにした。頭を撃ち抜くためにだ。

 僕の頭でもあるし、彼らの頭でもある。

 一つの端末から割り振られた尊い個性とやらを撃ち抜くのだ。

 僕は二月の白い空気の中、錆びた階段を延々下っていた。

 サムからの着信があった。メッセージも。

 講義室では酷いことになっているらしい。

 僕が目を潰したジェニーも。

 ジェニーに脅かされたシエラも。

 十数年を共にしたコミュニティも。

 互いが互いに文字どおり混ぜこぜになるまで争っているそうだ。

 そこに鎮圧に入った部隊の怒号と、銃声と。

 サムの切迫した声と。

 録音メッセージには悲鳴が絶えず響いていた。

 僕が発端で。僕が引き金で。僕は事の爆心地にいるらしい。

 それだけで、サムが言いたいことは十分にわかった。

 メッセージは、こう締めくくられていた。

「無事でいろよ」

 それだけで、サムの本心は僕に分からなくなってしまったが。

 サーバルームの扉を開けた。鍵は、銃で壊した。銃把を何度も何度も叩きつけて。

 鍵は呆気なく壊れ、押し開けることもなく、惰性で扉は開いた。

薄暗い部屋の中央に向けて細いライトをあてる。コードが根のように伸びていた。その中央にあるサーバーコンピューター。

 それが全てで、それだけで、僕のミームも誰かのミームも、ジェニーのミームも。どこかへ剥されて消えてしまうのだろう。そうなのだと思う。そうであってほしいと思う。

 これで終わらなければ、僕はもっともっと苦しむことになる。

 ジェニーは、どうなのかな、と。ほんの少しだけ考えた。

 根底から、僕達は間違っている。

 集められた澱を濃縮したって、ここまでの人間になっただろうか。

 推し量ることも、考えようとすることも。

 誰かの借り物で、誰かの平均だった僕たちは。

 誰かの善性を棄てる結末に、辿り着いたのだから。

 

 僕は引き金を絞った。

 サイレンが、近くで響いている。


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