ベンが遺した『可能性』

 弟のヘイデンは、兄のベンが信頼している人間たちを連れてブラーニアに潜入するのに反対していた。

 ライラが抑止力を使うことは予測できていたし、人間が多く集まる中で、大神殿に近づくこともままならない。ブラーニアにいても、結局水鏡に頼ることになるのだから、危険なだけで行く意味がないと、ヘイデンは珍しく声を荒げたほどだった。小ロイドをその手にかけるしかなかったヘイデンにしてみれば、兄まで危険な目に合わせるわけにはいかないのだ。たとえ、兄を尊敬していなくても、だ。

 そう、ヘイデンは、いまだに兄に対して複雑な感情を抱いていた。


 だからといって、彼の死は決して無駄ではなかった。いや、無駄にするわけにはいかなかった。


 ベンたちが、じっと覗き込んでいた水鏡は、わたしたちがいたセルトヴァ城塞だけでなく各地で共有されていたものだ。

 水鏡でライラの言葉を聞いていたベンが、何を感じたのかはわからない。

 けれども、たしかに彼は水鏡が暗黒に染まる前に、危機をはっきりと感じ取っていた。彼は、水瓶を割らんばかりにふちを掴んで恐怖に歪んだ顔を上げた。


「逃げるぞ」


 彼はそう言ったとき、二人の人間の体に床に叩きつけられたような衝撃が襲い意識を失った。

 実際には、ベンが竜に変化した衝撃だったのだろう。彼らが潜伏していた商家の周りにある路地という路地に集まった人間たちのことなど、かまっている余裕などなかった。

 気絶した二人を鋭い爪で傷つけないよう掴むと、彼は飛び立った。

 彼の恐ろしい咆哮が、ブラーニアに響き渡ったかもしれない。


 ベンがまっすぐ向かった先は、月影の高原だった。けれども、彼の魂は最愛のプリシアが待っている楽園に向かっていたのかもしれない。


 月影の高原の縁に、まるで航行不能になった難破船が乗り上げるようにして、ベンはブラーニアを脱出した。多くの難破船の積み荷が無事でないように、彼も無事ではなかった。彼がブラーニアから鋭い爪で傷つけないように、それでいてしっかり離さないように掴んできた二人は、気絶していたものの、大した怪我はなかった。けれども、彼は最も大切な積み荷――魂を失っていた。




「さっき意識を取り戻した二人から聞いた話を、まとめるとそんな感じだよ」


 ヴァンは、そう締めくくった。彼はできるかぎり詳しく話そうとつとめたけれども、うまく説明できたとは彼自身も思えなかっただろう。

 肩を落としたアンバーは、テーブルの上で握りしめた拳を見つめていた。見つめていなければ拳が震えてしまいそうな、感情を抑えるのに必死な表情で。


「ヴァン、それで……伯父さんの死因もわからないの?」


 伯父さんと呼んだ声は、ぎこちなかった。無理もない。彼にとって、伯父のベンとはつい最近までこの世にいない存在だった。リュックベンの郊外で、ベンの正体を知ったときも、どう受け止めていいのか、戸惑っていたほどだ。彼がベンをどう受け止めていたにしろ、同じ地竜族だ。ショックを受けなかったはずがない。


 ベンがなぜ死んだのかを尋ねられることくらい、ヴァンは覚悟していたに違いない。

 これまでの話からでは、なぜベンが死んだのかはわからない。あの忌々しい大砲が、彼の命を奪ったのだろうか。それとも、未知なる抑止力のせいなのか。

 ヴァンの答えは、わたしが予想していたどちらでもなかった。


「力の使いすぎが、直接の死因だよ」


 ためらいがちだったけれども、ヴァンは断言した。

 人間のわたしには、その意味がよくわからない。

 竜族が持つ不思議な力について、彼らは他の竜族にも多くを明かさないのが習わしだ。竜族の間でもそうなのだから、人間が彼らの不思議な力について知っていることなんてほとんどない。知らないことが、礼儀だった。過剰な詮索は、お互いの関係を壊しかねない。それは、人間同士にも当てはまることだ。

 もっとも強き種族と、もっとも弱き種族の関係は、わたしが考えていた以上に危ういものだったのだ。もっと踏み込んでいれば、真理派のような存在を生み出すこともなかったのではと、悔しくなってくる。

 膝の上で拳を握りしめたわたしをよそに、竜たちは受け入れがたいと顔に書いてあった。


「それは、確かか?」


 怪訝そうに顔をしかめて尋ねたのは、ファビアンだった。

 ヴァンは、ある程度は覚悟していた反応だったのだろう。げんなりとした顔で、たっぷりとため息をついた。


「信じられない気持ちはわかるよ。こっちだって、何度も調べたし、ヒューゴさんたちから話を聞いて、それで時間がかったんじゃないか」


 愚痴っぽく聞こえたのは、気のせいではないだろう。

 ただでさえ、新たな長として同族の混乱をどうにかしなくてはならないのに、セインが独断で外部に相談していたのだ。ストレスは相当なものだっただに違いない。


 そうかと、ファビアンは難しい顔で目を閉じ考え込む。


「むぅ」


 月影の高原の崖まで迫った虚無だけでなく、ベンの死についても、わたしたち人間は竜族と状況のまずさを共有できていない。

 もちろん、竜族にとっても突然のことで混乱しているのは、わかっている。だから、歯がゆくても待つしかない。そう考えていたのだけれども、しっかり不満が顔に出ていたらしい。

 ファビアンと同じくらい難しい顔をしていたディランが、ふっと困ったように微笑んで、普通の状況なら力を使いすぎて死ぬことはないのだと、教えてくれた。


「実のところは、世界の力を利用しているのですよ」


 クレメントの咎めるような視線を無視して、彼は教えてくれた。今まで人間たちに明かさなかった自分たちの手の内を、だ。そうする必要があるのだと、彼は判断したのだろう。咎めるような視線を向けたクレメントも、頭ではちゃんと理解しているから、声に出してまで彼を制止しなかったに違いない。


 ディランが言うには、竜族の力は世界の一部を動かしているにすぎないらしい。今も離れた月影の高原にいるヴァンたちとの会話を可能にしている壁一面の水鏡が、そこら辺の水を集めているだけと言われても、納得できるわけがない。けれども、彼らにとっては、そういうものらしい。生まれながらに備わっている感覚を説明するのは、難しいのだろう。そういえば、人間と竜族には見えるものが違うとも、前に聞いている。


「ただし、世界の力を利用できない場合……鉄枷をはめた場合に、無理に力を使おうとすれば、命を削ることになるのですよ」


「お前の息子がいい例えだろ」


 クレメントが皮肉をこめて、ドゥールが自らの指を食いちぎったことを思い出させる。わたしのよく考えない発言がきっかけで起きたことだ。彼の言い方は、あまりにも配慮にかけている。ディランもそう感じたらしく、冷ややかな笑みを浮かべながら続けた。


「そうそう、世界の力を利用するといっても、無尽蔵に利用できるわけではないですよ。周囲から集められる属性、つまり我々水竜なら水には、限度があるということです。それ以上の力を酷使しようとすれば、誰かさんのように、火竜でも火傷で死にかけることもありますからねぇ」


 さすがのクレメントも、言い返す言葉が見つからなかったようだ。


「我々水竜にとっては乾ききった荒野であったり、火竜には無辺の海原だったりと、相性の悪い土地があるのは、そういうわけですよ」


 なんとなく理解できた。けれども、何かが引っかかっているような気がして、すっきりしない。

 とはいえ、他の竜たちの様子を見ても、彼が意図して何かを隠しているとは考えられない。


 ディランの話が終わると、ニコラスがつまりと口を開いた。


「つまり、虚無の中では世界の力が利用できないってことか。だから、抑止力」


「その可能性は、充分あるだろうな」


 ニコラスの意見にクレメントは首を縦に振ってから、肩を落とした。


「だが、人形遣いが脱出してきた状況を聞く限りじゃ、死因の説明にはならない。飛ぶのに、世界の力を利用する必要はないからな」


「むぅ」


 だから、ファビアンは難しい顔をして考え込んでいるのか。


 ベンは抑止力が発動する前に、土竜もぐらを解いている。その疑問に、ヴァンは憶測だけどと遠慮がちに意見を言う。


「憶測なんだけど、土竜もぐらだったことが、彼の死に大きな影響があったんじゃないかな」


土竜もぐらだったことが、だって? ありえない。そんなはずはない」


 反論の声を上げたのは、土竜もぐらに選ばれて間もないアンバーだった。


「どうして、ありえないなんて言い切れるんだよ」


「どうして? どうして言い切れるかだって? 僕も土竜もぐらの一人だからに決まっているじゃないか!」


 バンッと、アンバーがテーブルを叩く。クモの巣状のヒビもそのままに、勢いよく立った。

 必死だった。

 彼は現実を受け入れたくないのか、必死で言い募る。その声は、震えていた。


土竜もぐらが人間の姿を維持するのは、たしかに消耗するさ。でも、伯父さんは土竜もぐらの中の土竜もぐらだ。それに……」


「じゃあ、何もわかりませんでしたで片づけていいっていうのかよ!」


 たまりかねたように、ヴァンが声を荒げた。あの卑屈で大人し目なヴァンが、水鏡で隔てられているこちら側の空気がビリビリと震える程に、声を荒げている。


「いいわけないだろ! 結論を出すには、早すぎるし、情報が足りない。でも、だからといって、可能性と手がかりを感情で排除するなよ」


 ヴァンの言うとおりだ。


 地の地竜族にとって、感情で思考を停止するのは、あってはならないことだ。アンバーは、悔しそうに口を閉じて崩れ落ちるように、椅子に座った。テーブルのヒビは、そのままだった。


 さすがに言いすぎだと、セインがヴァンをなだめる。どうどうと馬のように扱うのが滑稽だと、笑う余裕すらない。

 話が行き詰まってしまった。

 そうなると、自然とわたしたちの視線はファビアンに向かう。竜王になることを拒否していても、真理派を鎮めるまで竜の森を代表する立場にいるのだから。花嫁として、なにか言わなくてはならないだろうかと、不安になるころに、彼はようやく目を開けて口を開いた。


「結論を急ぐこともないだろう。それで、人形遣いの死は、一枚岩に伝えてあるのか?」


 ヴァンは首を横に振る。

 ヘイデンは今、抑止力の正体をつきとめるために、黒い都にいる。傷は完全に癒えたわけではないけれども、じっとしていられなかったらしい。それは、地竜族の知識欲からだけではないだろう。本当のところはどうだったにしろ、友人の小ロイドをその手にかけたのだ。心にも当然、傷を負っているに違いない。今は、世界竜族が隠してきた膨大な書物に没頭していたほうがいいだろう。

 そんな彼に追い打ちをかけるように、兄のベンが死んだ。

 すぐにでも知らせるべきだとわかっていても、躊躇するのはしかたないことではないか。


「僕が直接伝えに行くよ」


 そう声を上げたのは、アンバーだった。


「ついでに、頭を冷やしてくるよ。なんだか、うまく頭が回らない」


 地竜失格だと、彼は力なく笑ってみせる。

 息子の彼が行くのが、一番無難だと納得するしかなかった。黒い都にも、ブラーニアの様子を伝える水竜の連絡係がいる。けれども、身内の死を知らせるのに、他の竜族に頼るのはよくないだろう。

 反対する声が上がらないことを確かめたアンバーは、のろのろと席を立つ。行くと言ったけれども、気が進むことでは決してないだろう。

 一人で行かせないほうがいいのではと、わたしが口にするより先に、クレメントがわざとらしいほどのそっけない声をかける。


「一枚岩の小倅、奥方も連れて行くといい」


 クレメントに向かって頭を下げてから、アンバーは出ていった。


「アンバー、テーブル直していかなかったぞ」


「むぅ」


 困ったように笑うターニャに言われて見れば、テーブルに入ったヒビがそのままだった。

 彼が本当の意味で感情的になっていたのだと、あらためて痛感させられる。と、同時に、地の地竜族らしく知識欲に正直で周りが見えなくなることはあっても感情で物事を判断することはなかったのだと、こんなときだというのに見直してしまった。




 結局、ブラーニアでのことは、ベンの死に方が教えてくれた可能性以上のことはわからなかった。つまり、潜入していた他の竜たちの安否もわからないままだ。


 今日、はっきりとわかったことと言えば、抑止力が虚無を生み出したこと。

 竜族にとって、虚無を直視するだけで恐怖に襲われ、とても侵入できないということ。

 その虚無が、聖王国全土とわたしの故郷を含む南の都市連盟に広がっていること。なぜか、ブラーニアと同時ではなく、徐々に広がっていたということ。

 その三つくらいだ。


 ベッドに腰を下ろして、今日得た情報を整理するだけで、気が滅入ってきた。


「むぅ。結局、何もできていないじゃない」


 しかたないさと、光石ランプをつけながらターニャが苦笑した。


「はっきり言って、あたしたちは誰も何がなんだかさっぱりなんだから」


「全部把握しているのは、真理派たち、かぁ」


 これから先どうなっていくのか、わたしには想像もできない。


「とりあえず、今あたしらにできることは、寝ることだけだよ」


「むぅ」


 彼女の言うとおりだ。今日一日やることは、寝ることを残すのみだ。


 地竜族のおかげで、セルトヴァ城塞の修復はほんの数日で終わっている。見違えるように立派になった城塞でわたしに与えられた寝室は、ターニャのベッドもある。


「明日こそは、わたし、なにか役に立つかなぁ」


「フィオ、それは……」


 ターニャを困らせるだけだとわかっているのに、言ってもしかたないことをまた言ってしまった。

 気まずさから逃げるために横になろうとすると、ドンドンと強くドアをノックされた。ビクッと体がこわばる。

 視線をドアに向けたまま、ターニャの手が戦斧に伸びる。


「誰だい?」


「俺だよ。ファビアンだ」


「むぅ?」


 予想もしていなかった来訪者に、息を止めてしまった。

 ニヤリと意味深な笑みを浮かべたターニャは、わたしの返事を聞こうともせずに、さっさとドアを開けてしまう。


「悪いな、こんな時間に。フィオに話があるから……」


「ちょうどよかった。あたしも、ちょっと用を思い出したから、フィオを頼む」


「あ、ああ。なんなんだ、あいつ……まぁいいか」


 用なんてないのに、ターニャは食い気味にファビアンを寝室に入れて行ってしまう。

 ベルン平原に行く前夜の城壁以来の、二人きりだ。

 心の準備ができていない。思えば、今まで数少ない二人きりの時間は、わたしから作ってきたのだ。不意打ちのように来るなんて、卑怯だ。

 ドキドキと高鳴る心臓のせいで、余計に意識してしまう。

 今、わたしは花婿と二人きりなのだと。それも、寝室で。

 事態が落ち着くまで、ウロコは受け取らないと言っていたけども、これは、これは……

 ターニャのベッドに腰を下ろしたファビアンは、とても真面目な顔で口を開いた。


「それで、名無しはなんて言っていた?」


「むぅ」


 期待したわたしが馬鹿だった。

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