虚無からの報せ

 月影の高原の連絡係を任された水竜は、こんなはずではなかったと頭を抱える余裕すらなかった。そもそも、水竜なら子どもでも水鏡を操れる。連絡係は、水竜族なら誰でもできる簡単なお仕事だ。たとえ、今まで月影の高原を訪れたことがなく、風竜族に苦手意識があっても、問題なくこなせるはずだった。

 それが、ブラーニアの異変を目の当たりにするはめになり、大混乱に陥った月影の高原で、どうすることもできずに浩然の館に避難していた。彼自身、混乱した頭では何一つ起きたことを説明できなかった。

 長のディランがなだめても、彼は要領を得ないことを口走るだけで、一向に冷静さを取り戻さない。


「まずは水鏡を通してでいいから、見てもらったらどうだい」


 涼しげな声とともに細面の風竜の青年が、水鏡の向こうに姿をあらわした。素っ頓狂な驚きの声をあげあたふたする水竜とは対照的で、その風竜はとても落ち着いていて、微笑みすら浮かべる余裕がある。

 大きく息を吸って吐いてを繰り返して、水竜は風竜に軽く頭を下げる。


「え、あ、そ、そうですね。えーっと……」


「ああ、僕は夕凪のセイン」


 風竜の名前を聞いて、アンバーは顔をしかめた。とても不愉快そうに。けれども、水竜族の長と火竜族の長、それから世界竜のファビアンが、何も言わなかったからか、彼はすぐに何事もなかったかのように水鏡に向き直った。少し前の彼だったら、何か言わずにはいられなかっただろう。なにしろ、不満を口にせずにはいられなかったのだから。彼が、思い通りにいかなかったわたしとの旅で学んだのか、それともこの状況を理解しているからかは、わからない。この場限りのことかもしれない。

 あとでアンバーが教えてくれた話では、夕凪のセインは野心家だと、父から聞かされていたらしい。有能で、小ロイドが存命中でも、彼に成り代わって長になろうとしていたほどだ。だから、ヴァンが長になって、悔しいんじゃないのかとも、話してくれた。

 アンバーの話が正しかったかどうかは、わからない。けれども、ずいぶんあとになってから、ふと思い返してみると、あながち間違っていなかったのだと思う。

 野心家で長の座を狙っていたのかどうかは、結局わからないままだけれども、有能なのはすぐにわかった。

 セインは、こちらにいる長たちやファビアンに断りを入れて、水竜を外に連れ出す。


「実はちょっと揉めててね」


 皮肉っぽく笑いながら、彼は月影の高原の現状を話してくれた。これほどよく喋る風竜は初めてだ。


 ブラーニアに送り込んだ水竜の水鏡が暗黒に染まったその瞬間に、月影の高原は大混乱に陥っていた。

 あの水竜の長ディランを初めとしたこちら側にいる竜たちが、水鏡越しにあれほど未知なる恐怖に震え上がったほどだ。想定外のことではない。

 幼い子どもから、年寄りまで、月影の高原にいた竜たちは、震え上がった。特に、子どもたちは泣きわめくだけじゃなくて、失神してしまう子もいたほどらしい。


「ちなみに、僕の妻もそうだけど、人間にはなんの影響もない」


 さも自分は平気だったと言わんばかりに、セインは余裕の笑みを浮かべたまま喋り続ける。けれども、わたしは彼もディランたちよりも、震え上がったのではないかと、根拠もなく意地の悪いことを考えた。彼とは、たぶん仲良くなれそうにない。


 どうやら、複雑に入り組んだ浩然の館のかなり奥まった小部屋を、連絡係の水竜に与えたようだ。

 この混乱をどう収束させるのかなどで、風竜族は揉めているらしい。


 セインは口に出さなかったけれども、長になったヴァンにいい感情を抱いていないのがわかってしまう。


 若いヴァンが長になったのが、そうとう面白くないらしい。

 


「そちらに相談すればいいものを、まったく時間を無駄にしてばかりだ。恥ずかしい限りだ」


 あやうく、嫌なやつだと決めつけるところだった。

 皮肉抜きにそう言われては、そうでもないかもしれないと、見直してしまう。

 わたしがこんなに単純だから、ライラに騙されてしまったのではないか。


 浩然の館の外に出るまでに、夕凪のセインについて、はっきりとわかったのは、一人でもよく喋ることと、有能であることだけだった。


「さて、どこまで見えるかわらからないが……僕には、境界の崖ぎりぎりまで虚無が迫っているようにしか見えない」


 ようやく、外まで水竜を連れてきたセインの声は、少しだけこわばっていた。余裕ぶっていても、やはり恐ろしい光景なのだろう。

 わたしには、石を積み上げた素朴な家々、薬草園といった、見慣れた月影の高原と、遠くに小さく広がる大陸西部の大地が見えいた。おそらく、ターニャたち人間の目にも同じ美しい景色が見えたはずだ。


「嘘だろ」


 当然覚悟はしていたはずのアンバーは、あえぐように言って頭を抱えてしまった。

 青ざめたディランは、口元を片手で覆って一度顔を背けて、恐る恐る水鏡を直視した。恐ろしいけれども、長として目をそらすわけにはいかなかったのだろう。

 クレメントは、仮面のせいで何もわからない。それでも、きっと平然としていたわけではないはずだ。

 そして、先ほど血の涙を流したファビアンは、目を押さえて呻いた。

 彼らには、聖王国の大地だけではなく、青い空まで黒く染まって見えたらしい。

 竜たちだけに見える異常なこの現象を、セインは虚無と呼んだ。他の竜たちも、強制されていないのに、いつの間にか虚無という呼称が定着していくことになる。


 強張ってしまった声を少しでもやわらげようと、セインは肺が空になるほど深く細く息を吐き出した。


「視覚だけじゃない。他の五感すべてを持ってしても、そこには何も存在していないんだよ」


「……五、感?」


 アンバーの震える声に、セインは首を縦に振るだけだった。他に、言いようがないと言わんばかりに。先ほどまで、あれほど饒舌だったというのに、押し黙ってしまった。

 水鏡のこちら側でも、あちら側でも、重苦しい沈黙が支配する。これでは、ほとんど何も進展がないようなものではないか。


 ライラが抑止力で竜たちから世界の一部を奪い取ったということ以外に、何もわかっていない。それですら、憶測の域を出ていないというのに。

 なんだか、とても歯がゆくていら立たしい沈黙を破ったのは、ニコラスだった。


「なぁ、混乱していると言っていたわりには、静かすぎる気がするんだが……」


「ひとまず、百薬の大樹のもとに集めてある」


 つい最近まで立ち入りを禁じられていた黒い都と月影の高原の境界である西の石舞台と、浩然の館に覆いかぶさるように枝を広げているのが、この世界でもっとも大きく古い百薬の大樹。

 薬の風竜族にとって、心の拠り所で癒やしの場所だ。百薬の大樹の枝々に、鳥のように風竜たちが翼を休めているのだろう。平穏な日々なら、なんともユニークな光景だっただろう。けれども、残念なことにそうじゃない。

 だがと、首を横に振って、セインはうつむいて言う。


「だが、いつまでも、目を閉じて耳をふさいで耐え続けるなんてできない」


「避難場所が、必要だな」


 クレメントは肩をすくめて、ファビアンを見やる。

 黒の都は、花嫁たちの避難場所となっている。とはいえ、竜たちは強制できない。真理派の脅威を実感できない花嫁たちが、ほとんどだ。だから、ほとんど避難場所として機能していない。

 つまり、クレメントは仮面の向こうで、風竜族も避難させたらどうかと、提案しているのだ。

 目を押さえたファビアンが答える前に、セインは若い水竜に浩然の館に戻るように促して踵を返す。


「それで、一頭だけブラーニアから脱出してきたんだが……」


「えっ!」


 なぜ、それを早く教えてくれなかったのだろうか。

 苦々しく言いよどむセインは、驚きの声を上げたアンバーを水鏡の向こうからちらりとみやったような気がした。けれども、苦々しい表情は、すぐに皮肉っぽい笑みに変わる。ヴァンが駆け寄ってきたからだ。


「セイン、こんなところにいたのか」


 肩をすくめたセインに、ヴァンは困ったように眉尻を下げた。彼と若い水竜が一緒にいたことから、察したのだろう。


「で、どこまで話したんだ?」


「まぁ、見て確かめてもらっただけだよ」


 ヴァンはほとんど先走っていないと聞いて安堵するかと思ったけれども、逆だった。むしろ、彼は先に言ってほしかったのだろうと、すぐにわかった。


「そうか。じゃあ、人形遣いのベンだけが脱出したことは、まだ……」


 アンバーは、伯父の名前を聞いて目を輝かせたのは、一瞬のことだった。ヴァンとセインの顔に浮かんだやりきれなさを見てしまえば、朗報ではないことがはっきりとわかってしまう。

 彼だけではないはずだ。わたしも、まさかと息を呑んでいた。


「ブラーニアの現状を聞き出せたのか?」


 ファビアンは、尋ねたのではなく、先を促したのだろう。彼が察していないわけがないのだから。


 心労を隠せないヴァンは、それでも背筋を伸ばして告げる。


「人形遣いのベンは、死んだよ」

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