独りよがりの竜王
ずいぶん久しぶりだと感じたけれども、ファビアンと邂逅したあの日からと考えると、実際にはそれほどでもなかったと気がついた。
指先までしか見えないあの暗闇の中では、ユリウスの姿は見えない。けれども、たしかに彼はいる。この暗闇のどこか――あるいは、暗闇そのものが彼なのかもしれないが、はっきりと彼の存在を感じるのだ。
「わたし、ずっとあなたと話がしたかったの」
『そうだろうとも。お前の声がうるさくて、ロクに力を蓄えられなかったからな』
その上こうしてまた消耗していると、ユリウスは心底うんざりした声で続ける。うんざりはしているものの、最後に会話したときのような弱々しさはない。
『だから、その話とやらを手短に済ませろ』
「むぅ。そんなに話をしたくないなら、わたしをさっさと解放すればいいでしょ」
ユリウスの心底嫌そうな声に、つい反発してしまった。そんな子供っぽいことしている場合ではないというのに。
『小娘、お前の気がすまない限り、わたしは休めない。わかるか? ここはもうわたしの支配を離れた。お前の空間だ』
それほどまでに、彼はまだ弱っているのだろうか。それとも、いつか彼が言っていたようにわたしの夢見の乙女の力が増しているからだろうか。
どちらにしても、あまり彼を引き止めておくのはよくないだろう。
「よくわからないけど……わかったわ。ユリウス、あなたの目的はなんなの?」
『…………なんだと?』
姿は見えなくても、彼がひどく困惑しているのがわかった。同時に、警戒したのもわかった。
抑止力のことや、ファビアンがなぜ彼を実の父だと認めないのかとか、知りたいことはたくさんある。けれども、何よりもまず彼の目的が知りたかった。
以前彼は、目的は違うと言っていた。その目的のために、わたしに世界を揺り起こせと言った。わたしは、ずっと世界竜の再来のことだとばかり思っていた。
けれども、とんだ思い違いをしていたのではないか。もしかしたら、今の状況は彼の目的の一部かもしれない。彼は、わたしたちの敵なのかもしれない。
『言っておくが、聖王国に女王が君臨することも、忘れ去られたはずの抑止力が効力を発揮することも、今現在世界で起きていることは、わたしの目的ではないぞ。ついでに、わたしも抑止力の存在のみしか知らん』
「むぅ」
心の中を読むことはないと言っていたのに、どうして彼はこうも的確に答えてくるのだろうか。
『小娘がわかりやすいだけだ。もっと自覚しておけ。子どもではあるまいし』
「むぅ! どうせ、わたしは小娘よ! 子どもよ!」
呆れた声で言われて、子どもっぽく地団駄を踏んでしまった。
『開き直るでないわ。お前は直に結婚し母になるのだからな。子どものままでは困る』
「わかっているわよ」
腹立たしいけれども、彼の言うことはもっともだ。言われるまでもない。
わたしだって、いつまでも子どものままでいいなんて考えていない。彼に言われるまでもなく、わかりやすい性格だということも充分自覚している。もっとしっかりしなくてはと、焦っているくらいだ。
「わかっているもの」
『わかっているなら、さっさと目を覚ませ』
目を覚ませと言われても、どうすればいいのかわからない。今まで、一度もわたしが彼との対話をコントロールできたことはない。いつだって、こうして唐突にユリウスとの対話は始まって、唐突に終わるのだ。
目から血を流していたファビアンのことは、もちろん心配だ。失明は生きながらに死ぬことだと聞かされたではないか。ファビアンだけではない、暗黒に染まった水鏡の向こうで何が起きたのかも、心配だ。彼の言うとおり、早く現実に帰らなくてはならないのだけど、その方法がわからない。
と、真剣に考えているうちに、わたしの問いにユリウスは答えていないことに気がついた。
「ねぇ、それで、あなたの目的は何なの?」
ユリウスは、すぐに答えなかった。
「あなたの目的が今の状況じゃないことと、抑止力のことを知らないのは信じる」
彼は嘘をつかない。
都合の悪いことは言わなかったり、こうしてはぐらかしたりはするけれども、なぜか嘘はつかない。
「だから、いい加減、教えてくれてもいいはずよ。わたしの旅の目的は、世界竜族の生き残りを
同族の命をすべて犠牲にし、実の息子の花婿のわたしの誕生を千年も先送りした。彼自身も自殺という形で千年もの間、姿なき存在として、この世界にとどまり続けた。
そうまでして、彼は何をしようとしているのか。
彼が沈黙を続けるなら、わたしは待ち続けるしかない。わたしの気がすまないと、目覚められない気がするから。
「根比べなら負けないからね」
リュックベンの女を舐めてもらっては困る。
しばらくして、ユリウスの大きなため息が聞こえてきた。
『なぜ、そうまでわたしの目的に固執するのだ。わたしが望む未来は、お前と同じ。邪魔はしない。むしろ、力が許す限り協力を惜しまない。それでもなお、お前はわたしの目的を知りたいというのか』
「もちろんよ」
『小娘、お前は時々理解に苦しむ』
また大きなため息をついて、ユリウスは再び沈黙した。
よほど、自分の目的を教えたくないようだ。
『言っておくが、小娘。わたしも根比べには、自信があるぞ』
「むぅ」
なぜそれほどかたくなになるのだろうか。
「教えてくれたら、わたしはあなたの力になる。これまで、あなたに助けてもらったもの。だから、教えてくれてもいいじゃない」
わたしのような小娘では、彼の力になれないかもしれない。けれども、わたしは一人ではない。わたしには、竜の森のみんながいる。北の戦士たちがいる。ファビアンだっている。
そこまで訴えても、ユリウスは沈黙したままだ。
認めたくないけれども、どうやら根比べは彼のほうに分があるようだ。
わたしは、かたくなな彼に腹が立ってきた。
「どうしてあなたは、そんなに独りよがりなのよ! 一人で何もかも背負っていい気になっているかもしれないけど、でももう世界中を巻き込んでいるじゃない。そうよ、あなたが始めたこと……」
『黙れ、小娘』
恐ろしいほど凍てついた声に、わたしの舌はピタリと止まって動かなくなってしまった。
『お前は、わたしの何を知っているのだ? わたしがしてきたことが、どういうことかくらい、わたしが一番よく知っている。お前は、わたしが好んで混乱の時代に多くの血を流させたと思うのか? 今再び、血が流れることを望んでいるとでも? たった一人の息子に、父の呼ばせることもさせずに、千年もの孤独を味あわせたとでも?』
「わたしはっ……」
なんだか悲しくなってきて、わたしは叫んだ。
「わたしは、あなたの力になりたいの!」
この言葉も、きっと彼には届かない。それほど、彼は独りよがりで頑ななのだ。
もう腹立たしくなんかない。悲しかった。彼をそうまでさせた目的とは一体何だというのだろうか。
どのくらい沈黙が続いただろうか。呼吸数回分だったような気もするし、もっと長かったような気もした。
『何よりも大切なものを取り戻すためだ』
抑揚を抑えた声で、ユリウスは告げた。
『お前たちが、世界の有り様を正せば、わたしの望みも叶う』
同族の命よりも、他のどんなものよりも彼にとって大切なもの。
「……わかったわ」
これ以上は、踏みこんではいけない気がした。
「でも、わたしたちにできることなら協力するから、気が変わったらいつでも声をかけてほしいの」
ユリウスは答えなかった。何か答えたとしても、もう聞こえなかった。
突然、誰かに肩を掴まれて激しく揺さぶられた。
「フィオ、しっかりして!」
ターニャだ。必死な声でわかった。顔は揺さぶられているせいで、はっきり認識できなかったけど、彼女だ。
「だ、だいじょう、ぶ、……じゃない、かも、ちょっと、気持ち悪い」
あまりにも激しく揺さぶられたせいで、軽い吐き気をもよおしてしまった。
ごめんと、彼女が手を離してくれても、しばらくは頭がグワングワンしていた。おそらく、彼女に揺さぶられたからだけではなさそうだ。
まだファビアンを殴らされた右手が痛い。どうやら、それほど時間は経っていないかもしれないと考えながら、近くの椅子に腰をおろしかけて、はっと気がついた。
「そうだ、ファビアンは……」
「こっちも大丈夫だ。……おかげさまで、な」
とても不機嫌そうな声が低い位置から返ってきた。
床にあぐらをかいたファビアンは、目から流れた血を手で拭ったのか、顔が赤く汚れていた。そして、殴った頬を押さえている。
「あ……、ごめん」
「別に」
鼻を鳴らしてすくっと立ち上がる。どうやら、本当に大したことはなかったようだ。
ほっと胸をなでおろしていると、ターニャがまだ心配そうにわたしの顔をまじまじと見つめてきた。
「フィオ、本当に大丈夫かい? その、目が……金色に光って別人みたいだったけど……」
「えーっと……」
彼女から目をそらして周りをうかがうと、ファビアン以外のみんなも心配してくれているようだ。ついでに、暗黒の水鏡も消えている。それどころじゃなかったということだろう。
わたしの目が金色になっていたのは、ユリウスに体を操られていたせいだ。間違いない。
返事に困って、腕輪を押さえる。
ファビアンなら、説明できるだろう。彼なら、ユリウスが介入して殴ったと理解しているはずだから。けれども、彼は殴ったときに倒れた椅子を起こしながら、わたしを見ずに憮然としてこう言った。
「大丈夫と言っているなら、大丈夫だろうよ。殴ったほうを心配するとか、どうかしている」
「むっ?」
もしかして、すねているのだろうか。だとしたら、大人げない。時々、彼はこの世界で誰よりも年長の存在だということを忘れさせるくらい、大人げないことをする。
呆れたのは、おそらくわたしだけではないだろう。
何とも言えない微妙な雰囲気になってしまった。
「あとで名無しがなんと言ったか、教えろ」
ターニャが席に戻ると、ファビアンはわたしにだけ聞こえるようにそう言ってきた。
どうやら、彼は名無し――ユリウスのことを明かしたくないらしい。
ディランたち竜たちは、暗黒の水鏡の恐怖から立ち直っていた。
今は、ユリウスの目的よりも大事なことがある。
それでと、セルトヴァ城塞の城主ニコラスが口を開いた。
「それで、一体何が起こったんだよ、ファビアン」
みんなの視線が集まると、ファビアンは軽く息をついて答える。
「世界の一部分が人間しか住めないようになったんだろうよ」
彼にもはっきりしたことはわからないようだ。
血で汚れた目元を押さえて、彼はディランに月影の高原にいる水竜と水鏡をつなぐように言った。
「あ、そうか。ブラーニアは、月影の高原から見下ろせたね」
「氷鈴が鳴らないほどのことかもしれないですけどね」
アンバーが机を叩いて首を縦に振るのを横目に、ディランは浮かない顔で再び壁一面に水鏡を広げる。
水竜の長として、ブラーニアに向かわせた水竜の安否が気がかり出ないわけがなかった。だから、彼はブラーニアに隣接する月影の高原のことを失念していたのだろう。そうでなかったら、彼はすでに月影の高原の様子を確認していたはずだ。
水鏡は、すぐに繋がった。映し出された若い水竜は、おろおろと落ち着きがない。
若い水竜の様子に、わたしたちは嫌な報せを覚悟する。
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