会議

 ターニャは、鳴り続ける氷鈴をテーブルに落としてしまった。すると、音もなく溶け出した氷鈴は清らかな水となってテーブルの上に広がっていく。小さな氷鈴のどこにこれほどの水がなどと考えてはいけないのだけれども、驚きに目を見張るくらい、許されるだろう。老兵のアントニーは、水竜の技を初めて間近で見たのだろうか。息を飲んで、氷鈴を持っていたターニャに目で説明を求める。


「昨日、アーウィンのお父さんから、預かってたんだよ」


 肩をすくめたターニャは、よくわかっていないようだ。


「氷刃のか」


 クレメントが嘆息すると、歪みのない滑らかな鏡に変わったテーブルの天板からわたしたちの姿が消える。すぐに映し出されたのは、氷刃のディランとヴァンだった。向こうも、わたしたちと同じようにテーブルに展開された水鏡を覗きこんでいる。


「ヴァンじゃないか!」


 先ほどの弟のショックから早くも立ち直ったアンバーは、ヴァンにお祝いの言葉を続けた。もちろん、わたしたちもヴァンの長就任を心からお祝いした。けれどもヴァンは恥ずかしいのか、はにかみながら祝いの言葉を聞き流して口を開いた。


「みんな揃ってるみたいだね。小ロイド様はちゃんと俺たちに手がかりを残してくれていたよ」


 ヴァンがなんのことを言っているのか、すぐにわからなかった。それは、わたしだけではなかったようで、なんとも言えない沈黙がこちら側を支配している。


「ほら、言ったじゃないか。抑止力について、小ロイド様が何か手がかりになるようなことを言ってた気がするって」

「あ、そうだったな」


 ほとんど期待していなかったのは、そう言ったターニャだけではなかっただろう。呆れたと肩を落とすヴァンには申し訳ないけれども。

 気を取り直すために、ヴァンはらしくない咳払いをした。彼が口元にやった右手の中指には、長の証である指輪が銀色に光る。


「抑止力の具体的な効果とかまでは、わからなかった。でも、抑止力を使えるのは、始まりの女王リラの血を継ぐ女に限られてることだけでも、充分な手がかりになると思うよ」


「王家の女のみ?」


 首を傾げるクレメントの声には、訝しげな響きがあった。


「それを知っていて、小ロイドはなぜライラを殺さなかったんだ」


「クレメント、そうではない。殺さなかったのではなく、殺せなかったのだよ」


 彼の疑問を、ディランは予測していたのだろう。もしかしたら、同じ疑問を抱いたのかもしれない。目を伏せた彼は、困りきったように続ける。


「抑止力の鍵となる始まりの女王の血を受け継ぐ女が絶えれば、それだけで抑止力が発動する」


「は?」


「考えてもみろ、クレメント。その気になれば、いつでも我々は始まりの女王の血を絶やせた。聞けば、もともと人間と我々の力の差を補うための抑止力だそうではないか。ならば、妥当な発動条件ではないか」


「たしかに、そうだが……」


 もしかしたら、クレメントはライラを殺してしまえばいいと考えていたのかもしれない。

 すっきりしない彼に、ヴァンはうんざりしたように肩を落とす。


「まぁ、ようするに、聖王国も聖王国で、迂闊に抑止力なんて物で竜族を敵に回さないためにも、女性の王位継承権をなくしたようだけどね」


「もしかして、それって今の王家に伝えられているのかな?」


「たぶん、忘れ去られていると思うよ、アンバー。少なくとも、彼らが全員知っていたわけではないはずだ。一部の人間しか知らなかったのを、小ロイド様が聖王国に干渉するうちに調べ上げたんだ。王家で女性が軽視されている理由がわかれば、自分の花嫁のことも納得できるとでも、考えていたんじゃないかな」


 おそらく、小ロイドは納得できなかったのだろう。そうでなかったら、ライラを旅の仲間に引き入れたりして、竜の森と真理派の対立をここまで表面化しようなどとは考えなかったはずだ。それに聞けば、彼はライラが新しい時代に導いてくれると期待を寄せていたらしいではないか。


「小ロイド様が、ライラに教えたのかもしれない。まぁ、今となってはわからないけどね」


 肩を落としたヴァンにとって、小ロイドはかけがえのない存在だった。小ロイドが何を考えていたのか、一番知りたかったのは彼だろう。けれども、彼でもわからないのだ。


 もしかしたらと、わたしは考える。

 小ロイド自身も、わからなかったのではないかと。矛盾を抱えて一人苦悩したまま、あんな最期を迎えたのではないだろうか。


「そういえば、ライラは聖都で女王に即位するんだよね」


 ふと思い出したように、アンバーが誰に確認するでもなく口を開いた。


「抑止力も、聖都にあるんじゃないかな」


 その憶測の答えは、誰も持ち合わせていない。そう言われてみればと納得するけども、同時に別の憶測が浮かび上がる。


「でも、ライラがそんなわかりやすいことするとは思えないけど……」


「いや、それは考えすぎだろうよ、フィオちゃん」


 それまで組んでいた腕を解いて、ニコラスは身を乗り出した。


「そもそも、向こうはこちらが抑止力の存在を知らないと考えているはずだろ」


 彼はチラッとファビアンを見やって続ける。


「仮にファビアンのことが伝わっていたとしても、だ。向こうは、こちらが抑止力について何か知っていると考えはしないだろう。……ヴァンだっけ? 小ロイド様は抑止力について他に知っている可能性はあるのか?」


 ヴァンは首を横に振って、可能性を否定した。


「敵が知らないと思いこんでいることを知っているのは、大きな強みだ。戦略に関わってくるならなおさらだ」


「だが、俺達はほとんど知らないも同然だぞ、ニール」


「まぁ、そう……ファビアンの言うとおりなんだけどな。けど、俺は抑止力が聖都にあると考えて間違いないと思うぜ」


 結局のところ、わたしたちは何もわかっていないも同然だ。


 クレメントとファビアンが、さきほどアンバーが興奮した内容を、水鏡の向こうに伝えている。うずうずしているアンバーが口を開こうとするたびに、クレメントが仮面越しに睨みつけて黙らせた。


「こちらも、これからどう動くか、決めなくては」


 そう締めくくったファビアンに、クレメントが四本の指を立てた。分厚い手袋に覆われた指を一本ずつ折りながら、話し始めた。


「抑止力を調べることも大事だが、この城塞の修復、聖王国側についた人間たちの対処。竜の花嫁を守ること。おおまかにやるべきことは、この四つだ」


「ちょっと待って、クレメント様」


「姫様?」


 口を挟んだわたしを、クレメントは訝しむような声を出した。

 それはそうだろう。わたしの役目は、世界竜の生き残りファビアンの花嫁だ。北のカヴァレリースト帝国まで巻き込んで――いや世界中を巻き込む事態に、わたしが意見することは、求められていない。


「ライラの敵は、花嫁ではないわ。あくまでも、竜族のはず。花嫁にも自由に相手を選べるようにしたいって……モーガルでそう言っていた」


「ずいぶん、あちらの女王は自信があるんだねぇ」


 冷ややかな声は、水鏡の向こうにいるディランのものだ。


「フィオ、どのみち、俺達の花嫁の無事を確かめなくてはならないよ。真理派が、たとえデマカセでもウロコを放棄できるなんて広めたら、どうなるか想像してみたらいい。きっと混乱するだろうし、花嫁だけでなく周りの人間まで巻き込むことになる」


 ヴァンに言われて、想像してみた。わたしの花嫁狩りの悲惨さは、リュックベンで知り合ったプリシラに結びついている。苦しんだのは、彼女だけではない。彼の夫ベンや、彼女の家族も、苦しんだ。もう誰もあんな思いをしなくてすむような世界にしなくてはならない。ライラのやり方で、そうなるとはとても思えない。


「そうね、ヴァンの言うとおりだわ」


 けれども、花嫁をどう守ればいいのかわからない。

 唇を噛んでいると、ターニャが軽く手を上げた。


「なぁ、あたし、ちょっと考えたんだけど……花嫁は黒い都に避難させればいいし、なんなら抑止力を調べるのも手伝ってくれるだろうし。無理、かな?」


 遠慮がちだけれども思いきりのよすぎる彼女の提案に、ファビアンは嫌そうな顔をした。

 期待をこめた沈黙に、彼は耐えかねたようにうめいた。


「…………くっそ、無理じゃない」


 最大の問題に解決の見通しが立つと、当面のやるべきことが面白いくらい一気に決まっていく。


 それでも、ライラに対する不安は少しもやわらぐことはなかった。やるべきことがはっきりすれば、少しは心が軽くなると思っていたというのに。

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