第八章 女王誕生

聖都ブラーニア

 聖都ブラーニアは、一なる女神さまが始まりの女王リラと始まりの竜王の前に降り立った地。

 聖典においてもっとも重要な舞台となる聖都ブラーニアは、始まりの女王リラが中心となって栄えることとなった。長らく人間の営みの中心地であったが、人間が北方の地を開拓し、ゼラス大河を渡る頃には、住みやすい土地とは言い難くなっていた。風竜の地である月影の高原から吹き下ろす冷たい風や、今ではめったにないことではあるが、度重なるゼラス大河の氾濫。他にも原因はあったけれども、時が経つにつれて人間は聖都を離れていった。

 ブラス聖王国の中心地が変わっても、ブラーニアが一なる女神さまが降り立った神聖な地であることに変わりはない。

 始まりの竜王が書き上げた聖典の一冊がある大神殿は、これからも未来永劫、人間だけではなく竜族にとっても一なる女神さまへの信仰の象徴となるだろう。


『聖都ブラーニア 大神殿 説教集』より




 ――


 冬の終月ついつき十五日。


 月影の高原とブラス聖王国を隔てる見上げるのも首が痛くなる断崖絶壁を胸として、大きく蛇行するゼラス大河の腕に抱きかかえられているようだ。

 それが、翼ある竜族が人間のはるか頭上から見下ろす聖都ブラーニアの姿だ。

 わたしも、世界竜の妻となって間もないころにこの目で見下ろしたことがある。

 大河の腕に抱えられたブラーニアの中心には、白い屋根の大神殿があった。


 その大神殿の前は、何百年ぶりとなる新たなる女王を一目見ようと多くの人が集まっていた。

 先日の王都での殺戮は、良き隣人だった小ロイドの乱心と噂が広まっていたらしい。当然、竜族がどれほど危険かということも、話題に登っていた。もしかしたら、真理派の狙いがあったのかもしれない。そうでなくても、聖王国での竜族に対する感情は悪化していただろう。


 大神殿から西側は、そびえ立つ断崖絶壁のせいで日当たりが悪く昼間でも薄暗い。普段はブラーニアでもっとも人気のない閑散とした地区だ。けれども、この日は違った。正面に当たる東側におさまりきらなかった人々が溢れ出るように賑わっている。

 そんな普段は閑散とした西地区にある商店の三階の窓辺から、ベンは通りという通り、路地という路地を埋め尽くす人々を見下ろしていた。


「こんなに人がいるってのに商売上がったりとは、これいかに」


「笑い事じゃないッスよ、ベンさん」


 はははっと乾いた声で笑って、ベンは眉間にシワを寄せる少年を振り返る。部屋の中央にある水瓶に視線を戻した少年は、左の手首から先がない。


「笑い事なら、よかったんだがな」


 右の耳たぶをつまみながらベンは窓際から離れる。と同時に、髪と瞳が灰褐色から茶色に変わった。地竜族のごく限られた者が使える土竜もぐらと呼ばれる技を解いたのだ。

 かつてのベンは、人形遣いの二つ名で将来を有望視されていた地竜族の長の長子だった。歳の離れた弟のヘイデンにはない魅力が、彼にはあった。同族だけではなく、他の竜族もひきつけて慕われる魅力を、彼は生まれつき持っていたのだと言う。花嫁のプリシラが連れ去られるようなことがなければ、彼はヘイデンとは違うやり方で玲瓏の岩窟を治めていたことだろう。

 彼に代わって長になった弟のヘイデンと小ロイドの協力もあって、花嫁のプリシラを探し出したあとも、彼は玲瓏の岩窟に帰らなかった。ヘイデンが試しに作り上げたモール商会の支部長として、各地を転々とすることを選んだのだ。水竜で人間びいきと知られている九本指のドゥールとはまた違った形で、彼は人間が好きになっていたに違いない。

 もちろんプリシラにした酷い仕打ちをした真理派を、彼は今でも許してはいない。そうした人間の嫌な部分も知りながらも、彼は人間たちに紛れて生きることを選んだのだ。

 そうして彼は、水瓶を覗きこんでいる少年のような五体満足ではなかったり、部屋の隅で影のように佇んでいる盲目の老人のような障がいを抱えた人間ばかりを雇ってきた。一人の人間として扱ってもらえなかった者たちを多く雇ってきた。

 大陸の各地に支部を抱えるモール商会の会長は、ヘイデンだ。けれどもベンをよく知る人は、彼を会長よりも慕っている。


 ベンも水瓶を覗きこむ。

 水瓶の縁ギリギリのところの水面は、ベンと少年を映さない。代わりに水紋一つない水面が移すのは、ここからでは見えない大神殿の西側の様子だ。そう、水瓶の水面は水鏡となっていた。


「まだ、動きはないか」


「まだッス。にしても、すごい人ッスよね。オイラ、こんなたくさん人がいるの、初めてッス」


 あのリュックベンの式典の日にも、同じようなことを少年は言っていた。

 ベンは、穏やかに唇を緩めた。


「ま、二千年ぶりの女王を一目見たいって気持ちは、わからんでもないだろうよ」


「たしかに……でも、こんなに人が多くちゃ、女王さまのお顔もわからないじゃないッスか」


 意味がないのではと唇を尖らせた少年に、部屋の隅にいた老人が答える。


「女王さまの姿が見えなくてもその場に居合わせただけで、話の種になるのさ、スタンリー。それこそ、孫の孫の代まで語り継がれるかも知れないだろうさね」


「そういうものッスかね」


 スタンリーと呼ばれた少年は、盲目の老人ヒューゴの答えに肩をすくめた。彼が尊敬するベンをうかがうと、曖昧な笑みが返ってきただけだった。

 しばらく、ベンとスタンリーは水鏡を覗きこんでいた。

 靄の外套で姿を隠しながら群衆に紛れている水竜のほうは、いい加減うんざりしてきたらしい。時おり、水鏡の光景が揺れる。人混みの中にいるのだし、ストレスも相当溜まっていることだろう。


「気長に待つしかないな」


「さすがに、日が暮れるのは勘弁ッス」


 もうすでに、太陽は一番高いところを通り過ぎている。


「ここらで、腹ごしらえしましょうや、旦那」


「だな」


 ヒューゴの意見にうなずいて顔を上げたベンは、軽食をとりに部屋を出ていった。

 この日のために買い上げた部屋は、少年と老人の二人きりになる。


 ささいな変化も見逃すまいと、スタンリーは水鏡から目を離さない。この水鏡は、特殊だと聞かされている。通常の水鏡は、一対一の双方向で繋がる。これは、一つの水鏡を複数の水鏡に同じものを映し出すらしい。

 彼は水竜族のことは、よく知らない。いや、水竜族だけではなく、彼が尊敬するベンが属する地竜族のこともよく知らない。人間と竜族の諍いが、そもそもよくわかっていない。ただ、ベンが言うとおり、このままではよくない。非常によくないことは、わかっている。


「旦那、大丈夫ッスかね」


 ポツリとスタンリーの唇からこぼれた声に、当然水鏡は波紋一つ立てない。そのことがなんだかつまらなくて、彼は強く息を吹きかけてみた。それでも、水鏡はなんの反応を起こさない。


「プリシラさんが死んで、弟さんはご友人の小ロイドさまを手にかけて……旦那、そうとうこたえているはずなんスよ。なのに旦那は、いつもとかわらなくて、オイラ、旦那がなんだか無理をしているんじゃないかって心配なんスよ」


「あっしらが、旦那を支えてやればええじゃないか」


 こともなげな様子でヒューゴは返したけれども、スタンリーは彼も心配しているのだとわかったていた。

 自分になにができるのかと、スタンリーは自分に問いかけた。一人の人間として受け入れてくれたベンに、なにができるのかと。しばらくして、彼は諦めたようにため息をついた。


「でも、オイラたちにできることなんてないッスね。旦那は、すごいから。ヒューゴさんは、何かいい考えでもあるんスか?」


 顔を上げたスタンリーに、ヒューゴは苦笑いをしながら肩をすくめた。それからコツコツと杖をつきながら部屋を横切って、ドアを開ける。


「ありがと、ヒューゴ」


 お盆に山盛りいっぱいの揚げパンを持ったベンが、入ってくる。

 音や気配に敏感な盲目のヒューゴに感謝の言葉を口にしてから、便は顔を曇らせた。


「どうしたんだい、二人ともなんだか暗いぞ」


 なんでもないとスタンリーはあいまいな表情を浮かべて、近くのテーブルに置かれた揚げパンに手を伸ばした。


 ベンがどこか遠くに行ってしまうのではないかと、スタンリーは漠然とした不安を押し殺した。この頃、日増しに強まる不安だった。まだヒューゴにすら打ち明けられないでいる。

 馬鹿げている不安だと、何度も自分に言い聞かせてきた。けれども、日増しに不安は膨れ上がる一方だ。


 不安を隠そうと、スタンリーは揚げパンを口いっぱい頬張りながら水瓶を覗きこむ。塩気がきいていて思わず顔をしかめた。


 と、水鏡に変化があった。

 水鏡越しに、群衆のどよめきが肌に伝わってきた。


「ようやく、女王さまのお出まし、か」


 面白がるように言ったベンに、スタンリーの不安はどうしようもないほど膨れ上がってしまう。


 それも、大神殿の中からライラが現れるまでのことだった。

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