第六章 新風を吹き込む者

奏者の本質

 小閃光のロイドは、幼い体で四百年近くも風竜族の長だった。すべての風竜族のよき父であった。

 始まりは悲劇であったが、西のフラン聖王国と親密な関係を築き上げた功績は、偉大なる水竜ライオスでさえなし得なかったことだ。

 幼い体でありながら、風竜族がつかさどる薬のことを知りつくし、誰からも敬い慕われ、いつしか親愛の念をこめて小ロイドと呼ばれるようになった。その彼があのような凶行に走ったのは、信じがたいことだった。病や傷を癒やす薬を知りつくしていたということは、命の大切さを誰よりも知っていたはずだった。花嫁として迎えに行くはずだった王女の自殺という心の傷が、大きな要因となっていたとしても、彼が殺戮など考えられなかった。

 なぜという受け入れがたい衝撃の次に、風竜たちの胸のうちに去来したのは、やはり許せなかったのかというやるせなさだった。


 だが、小ロイドと呼ばれ慕われてきた小さな長の料理番だけは、違った。


 ――なぜ、長を止められなかったのか。


 料理番は、まだ二つ名も得ていない若者だった。まだ二十歳にもならない若さから、世界竜族の生き残りを探す旅の仲間の一人に選ばれた彼は、深く後悔した。

 思い当たる節がなかったわけではない。だが、それらは小ロイドを失ってから気がついたこと。その時は、若さと尊敬の念から、見過ごしてしまった。

 料理番は、その深い後悔を後悔のまま抱えて生きていくことなど、できなかった。


『新風伝』より




 ――――


 奏者の三番目の息子ヴァンが、月影の高原に帰還すると考えを変えたのには、もちろんファビアンが口にした『抑止力』の手がかりに心当たりがあったということもある。けれども、本当はもっと別の理由があった。


 長兄のヴィクターの後ろを飛びながら、ヴァンは昨夜のことを思い返していた。


 ラトゥール砦から来た小隊からわけてもらった食糧と、クレメントが持参してきた食糧で、仲間たちと竜族たちに夕食を作った。その片付けを手伝うと、ヴィクターと末弟のヴィードが遠慮がちに申し出た。反射的に、申し出をはねつけようとして、ヴァンは思いとどまった。卑屈になるのはやめようと、心に決めたばかりではないかと。


「ヴァン、俺とヴィードは明日、帰るつもりだ」


 器を洗いながら、ヴィクターは続ける。


「みんな快復して、小ロイドさまがいないことや、凶行を受け止められないで、暴力沙汰にもなっているらしい」


 ダフ芋の皮をむいていたヴァンの手が止まる。小ロイドを失った月影の高原が、どんな様子か容易に想像できてしまった。

 小さな体であっても、小ロイドの存在はあまりにも大きすぎた。

 風竜族全体の危機だから、ヴァンにも戻ってきてほしいと、遠回しに言われたのだ。ヴァンは気がついたけれども、答えずに皮むきを再開する。


「ヴィクター兄さん、ほら……」


 布巾で器を拭くヴィードが、なにやら長兄に催促した。


「あのな、ヴァン。俺の口から言うのもなんだと思って、ずっと黙ってたんだが……」


 一度言葉を切り、迷いも一緒に深く息を吐きだしてから、ヴィクターは続ける。


「あのな、お前が小ロイドさまに来るように声をかけられたのは、父さんのほうから懇願したんだ」


「え?」


 ヴァンの手から芋が転がり落ちる。慌てて拾い上げるけれども、手が震えて皮むきを再開できなくなってしまった。

 激しく動揺している彼を見て、ヴィードは悲しげにため息をついた。


「やっぱり、ヴァン兄さんは、父さんに捨てられたって誤解してたんだよ」


「誤解って! 父さんは俺のことなんか……」


「ヴァン! だから、俺なんかって自分を卑下するな」


 長兄のヴィクターは、声を荒らげる。もう皿洗いどころではなかった。


「お前、自分がどれだけ嫉妬されてきたのか、本当にわかっていないのか?」


「そりゃあ、俺なんかみたいなのが、フィオの旅の仲間に選ばれたら、面白くない奴だっているだろうさ」


「そうじゃないよ。ヴァン兄さん」


 にらみ合う兄たちの間に、ヴィードが慌てて入る。


「ヴィクター兄さんも、仲良くなろうって決めたのに、つっけんどんすぎるよ」


 ため息をついたヴィードは、これだから兄さんたちは駄目なんだと生意気なことを言う。けれども、兄たちは言い返せない。

 ヴァンもヴィクターも頭ではわかっている。もっと素直になるべきだということくらい、わかっているのだ。ヴァンは劣等感と卑屈さから、素直になれないでいる。ヴィクターは長兄としての自尊心から、素直になれない。それに加えて、ヴィクターはヴァンへの憧れと嫉妬を、認めたくなかった。

 しばらく待っても、兄たちが黙ったままにらみ合っているので、ヴィードは呆れて肩を落とした。


「順番に話しをしていこうよ。まずは、父さんに捨てられたってのが、誤解だってことからね」


 誤解を解くために、ヴィードは父から聞かされていた真相を語る。



 ことの始まりは、五年前。 統一歴3454年の秋のことだった。


 ヴァンが生家で見つけた居場所は、日当たりの悪い台所。料理を作っている間は、卑屈さを忘れられた。最初は、一人で泣ける場所が欲しかったのだ。代々奏者の二つ名を継ぐ古い家は、父と母、それから四人の兄弟で暮らすには、いささか狭すぎた。

 今まで奏者の家系は息子を一人しか求めてこなかったのだから、こじんまりとした家で充分だったのだ。


「奏者の息子は一人。その意味が、ようやくわかってしまったのです」


 浩然の館の一室で、奏者のヴィクセンはうなだれたまま顔を上げられなかった。


「奏者の二つ名を継ぐ者は、韻士いんしと並んで、地に足が着かない風竜と、昔から揶揄されております。まったく、その通りです。少なくとも、わたくしは四兄弟の父にふさわしくなかった」


「奏者は、音楽を通して息子を育ててきた家系じゃからのぉ」


 小ロイドのどうしたものかという言葉に、ヴィクセンは自分の未熟さに恥じ入った。彼自身も、父と祖父から音楽を学ぶことが、言葉で交流することよりも自然なことだった。妻も素敵な歌い手だ。彼女のために作った曲は、数え切れないほどある。


「息子が多ければ、にぎやかで楽しくなる。安易に、そう考えていたのかもしれません。ですが……」


「間違っていたなどとは、考えるなよ。奏者のヴィクセン、安易な考えだったかもしれんが、お前の息子たちに罪はない。お前にも罪はないのじゃ。ただ、未熟だっただけじゃ」


 その未熟さを、ヴィクセンは罪だと考えていた。けれども、小ロイドは、それを否定した。


「未熟なら、学び成長すればよい。じゃが、くだんの三男坊には、父のお前が学ぶのを待つわけにもいかん。どうしたものかのう」


 腕を組んで頭をひねる長に、ヴィクセンは顔を上げる。


「音楽の才を授からなかった息子ヴァンは、料理を作ることを好んでおります。わたくしには、才能と呼んでよいのかわかりませんが、息子にも何かあるはずなのです。それが、料理なのかはわかりませんが。……長、どうか、愚かなわたくしに変わって、あの子にふさわしい父を与えてやってください」


 奏者のヴィクセンは、必死だった。


「わかった。この浩然の館で預かろう。来年は、姫さまが月影の高原で育てる番じゃ。歳が近い子どもが一人くらいいたほうが、姫さまのためじゃろうて」


 磨き上げられた石の床に額を擦り付けんばかりに、ヴィクセンは頭を下げる。


「ありがとうございます。小ロイドさま、息子をよろしくお願いします」


 五年前、父と小ロイドとの間に、そのようなやり取りがあったとは、ヴァンは想像もしたことがなかった。

 彼の記憶では、今まで人間の料理人を雇っていたけれども、翌年に迎えることになる守り育てる姫君のために、風竜で料理人を迎えたいからと、小ロイドのほうから提案されたことだった。秋が深まる夕暮れ時に、ふらっと現れた長に驚きのあまりヴァンは何も言えなくなってしまった。誇らしくなった彼が、父に目を向けたときに投げつけられた言葉は、忘れられないでいた。



 ヴァンは、捨てられたのだと深く傷ついた。



 弟のヴィードから、どれほど父が思い悩んでいたか聞かされるまで、ヴァンは傷ついたままだった。


「そんな、俺はてっきり……」


 見限られたのだと考えていたと続けようとしたが、ヴァンはかろうじて飲みこんだ。


「あのさ、ヴァン兄さん。父さんは、子どものようなところもあるけど、あれでも親バカなんだよ。はっきり言って、うざい。そのくせ、肝心なときは言葉が足りないんだ。どうかと思うけど、は、行きたくなかったから行かなくてもいいって意味でもあったからね」


「俺は、あれは遠回しに本当は家にいてほしいって意味だと思ったけどね」


「どういうつもりで言ったかはおいておいて、父さん、あの鬱陶しいくらい号泣して大変だったからね」


 そもそも、兄弟で話をするなんて、旅立つ前には考えられなかった。慕っているとばかり思いこんでいたのに、ヴィクターとヴィードから父の愚痴を聞かされている。しかも、号泣とかわけがわからない。


「でも、一度も会いにこなかったじゃないか」


 ヴァンの言い返す声は、自信がまったくこもっていなかった。

 恩人と慕ってきた小ロイドに、いいように使われたのではないかという疑念が、首をもたげたのだ。


「手紙の返事がなかったから、顔も見たくないって嫌われてるんだって泣いてたけどね」


「手紙?」


 不思議そうな顔をしたヴァンに、ヴィクターはため息をついた。


「ヴァンは知らなくて当然だ。小ロイドさまが、全部握りつぶしていたんだからさ」


 その事実に気がついたのもヴァンが旅立ったあとのことだったと、ヴィクターは苦々しく続ける。


「小ロイドさまを疑いたくはなかったけど、さすがにお前が祝いの席であんなひどいこと言うから、疑うしかなかったんだ」


「そうでもしなきゃ、父さんは立ち直れなかったと思うよ」


 ヴァンは、初めて知ることばかりだった。

 我が家を離れたこの五年間の間に、家族のことなんかほとんど考えなかった。考えたとしても、家を出た頃のままの家族の姿だった。

 まったく考えたことがなかったのだ。

 家族もまた、変わろうとしていた。台所に閉じこもった自分を受け入れようと、努力してきた。見返してやりたいと、ずっと思ってきた。

 話しを聞けば聞くほど、ヴァンは自分の卑屈さが恥ずかしくなってきた。



 昨夜のことを思い返していたヴァンの耳に、太鼓の音が風に乗って届いた。

 はっと我に返ると、月影の高原が見えるところまで来ていた。


 ドーン、ドーン、ドーン


 低く響く太鼓の音は、まるで深く息を吸って吐いているようだった。

 気がつけば、ヴァンは太鼓の音に合わせて深呼吸を繰り返している。不安に、波立っていた心が凪いでいくのがわかった。と同時に、嫌いになれなかった音楽がどういうものだったのかを、思い出した。



 あれは、五年前の冬。まだ浩然の館の暮らしに不慣れな頃、新薬の調合を試みる小ロイドが教えてくれたのだ。


「知の地竜族。美の火竜族。芸の水竜族。わしらはやくの風竜族。そう呼び習わされておるが、本来は、がくの風竜族。音楽を愛し尊んできたんじゃ。四竜族でもっとも好戦的だったのが、わしら風竜族じゃ」


 ヴァンは、なぜ小ロイドが音楽の話を始めたのか、最初は戸惑った。きっと意味があるのだろうと感じたけれども、できれば聞きたくなかった。


「自分のことは自分でと、必要以上に他者と関わらないような気質が根づいたのも、月影の高原では流血沙汰の喧嘩騒動が日常茶飯事だったからしいわ。ふん、わしでも知らんような昔の話だというのに、いまだに気質だけが残っておる。バカげた話だとは思わんか。のぉ?」


「長は、俺たちにもっと他者と関わりを持つべきだと考えているんですか?」


「質問に質問で返すのは、褒められたことではないぞ」


 居心地が悪くなったヴァンだったけれども、まぁよいと小ロイドは続ける。こうしている間も、乾燥した薬草をすりつぶしたり量を量ったりと、手を動かし続けている。


「奏者はな、いいかヴァン。わしのように、薬学に長けた者よりも、もっと敬われるべきだったのじゃ。奏者が奏でる凪の太鼓の音だけが、血に我を忘れた風竜をなだめすかすことができる」


「でも、俺には音楽の才能はないです。何をやってもからっきしで、音痴なんです。鼻歌だって、騒音だと自分でもわかるんです」


「それでも、お前には奏者の血が受け継がれておる。ヴァン、覚えておけ。奏者の本質は、争いを鎮め両者をとりなすことじゃ」


 ようやく手を止め顔を上げた小ロイドは、戸惑うヴァンに微笑んだ。それは、ひどく悲しそうな笑みだった。



 ずっと忘れていた。


 ドーン、ドーン……


 こぼれる寸前までこみ上げてきた涙を、首を振って振り落とした。迷いも一緒に、振り落として、ヴァンはひときわ大きく翼を羽ばたかせる。



 奏者のヴィクセンは、鉄枷から解放され、ヴィクターとヴィードをセルトヴァ城塞に送り出したあと、浩然の館に安置されている凪の太鼓を抱えて混乱し始めた同族たちの前に姿を現した。


 ドーン、ドーン、ドーン


 飲まず食わずで眠ることすらせずに、銀のウロコに覆われた手で太鼓を叩き続けた。二度目の夜を迎える頃には、体が限界を訴え始めた。けれども、やめるわけにはいかなかった。妻のサリーに休むようにすがりつかれても、彼は首を横に振った。次男のヴァレリーが快復したから変わると言われても、首を横に振った。まだ、長男のヴィクターにですら、凪の太鼓を叩かせるわけにはいかないのだから。


 ドーン、ドーン、ドーン、ドーン


 もしかしたら、ヴィクセン自身が心を鎮めたかったのかもしれない。

 小ロイドに対する疑念はずっとあったのに、三男のヴァンが旅立つその時まで考えまいとしてきた。小ロイドを糾弾しようと、密かに仲間を集め、疑念をようやく確信に変えた矢先に、糾弾する矛先を失った。やり場を見失い穏やかではいられなかった心を鎮めたくて、太鼓を叩き続けているのかもしれない。

 二度目の朝を迎えて、ヴィクセンはようやく鎮めたかった心を穏やかに受け入れた。

 と同時に、意識が遠のいていくのがわかった。万全ではない体で、よくここまでもったなと、他人事のように感じながらぐらりと仰向けに倒れていく。

 立っていることすらままならなかった彼の背中に、誰かの手が添えられた。

 ゆっくりと目を見開いて、首をめぐらせると、気恥ずかしそうに目を伏せている三番目の息子がいた。信じられないという驚きはなかった。なぜか、ヴァンがそこにいることが当たり前のことのよう思えたのだ。


「ヴァン、おかえりなさい」


「ただいま。…………父さん」

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