スープ
奏者のヴィクセンが披露と空腹で意識を失っていたのは、それほど長い間ではなかった。というのも、凪の太鼓を抱えるようにヴァンの腕の中に倒れこんだ彼の鼻孔を、美味しそうな匂いがくすぐったのだ。
「ぅん」
うっすら目を開けると、大鍋をかき混ぜている風竜の姿がぼんやりと見えた。
どの竜族も、妻や変化が出来るようになる前の子どもたちに合わせて、普段から人の姿で食事をする。もしかすると、子どもの頃からの習慣だからというのもあるかもしれない。
では、大きな竜の体で食事をしないのかとなると、そうではない。弱って人の姿に変化できなくなった竜や、病気や怪我をした竜が、やむおえず食べるのだ。彼らに言わせると、大鍋で作られたドロドロのスープは、まずくて舌がどうかなりそうになるらしい。そもそも、臭いからしてひどいものらしい。
二度、三度とまばたきをして、ようやくヴィクセンは意識を失う直前のことを思い出した。
月影の高原で大釜を煮ることができる竈は、ごく限られている。浩然の館とあとは、薬にまつわる古い血筋の家にあるかないかだ。ここは、浩然の館であることは間違いない。
そして、優しそうな美味しい匂いを漂わせる大鍋をかき混ぜているのは、間違いなく三男のヴァンだ。
ヴァンは、かき混ぜている大きな木じゃくしを持ち上げて味見をすると、鋭い爪の大きな手で、器用に足元の壺から乾燥した香草をつまんで大鍋に振り入れる。ぐるりと軽くかき混ぜると、もう一度味見をして満足気に大鍋を竈からおろした。
陽炎の荒野で作られた黒光りする大鍋を、慎重に横の台におろして、彼はようやく父が目をさましていたことに気がついた。
「あ、父さん、起きた?」
「あ、ああ」
じっと眺めていた気まずさから、ヴィクセンは慌てて体を起こす。
ヴァンは、大きな素焼きの器にとろみのついたスープをよそう。
まだ、目を合わせられないものの、ヴァンは両手でスープを父に差し出す。
「何も食べてないって聞いたから、さ。母さんが、心配してたし……」
「ありがとう、ヴァン。嬉しいよ」
照れ隠しか、ヴァンは顔を伏せたまま床の上で小刻みに尻尾を振る。
ヴィクセンは、何から話せばいいのか考えたけれども、先にスープをすすることにした。湯気が立つクリーム色のスープは、話に聞く大鍋の不味すぎるスープではなかった。
猫舌のヴィクセンは、ゆっくりと時間をかけて器を空にした。思えば、五年ぶりに息子の手料理を口にした。滋味豊かな味は、初めて味わうのに、なんだか懐かしくもあった。
「あぁ、そうか……」
そわそわと落ち着かないヴァンを見て、ヴィクセンはずっと言えなかった大切なひと言を思い出した。
「美味しかったよ、ヴァン」
そのひと言を、ヴァンはずっと待っていた。待っていたんだと、素直に認めてしまった途端、涙が溢れてきた。
口を開けては、言葉が出てこなくて閉じる。泣きながら何度もそれを繰り返すヴァンを、ヴィクセンは優しく抱きしめた。
「本当は、こういうときは奏者は、慰めるために歌うものなんだ。でも、お前はわたしの歌なんか、必要としていないだろう?」
父が言わんとしたことを理解して、ヴァンはますます泣いた。
長兄と弟が教えてくれたことは、本当のことだった。父は、父になろうと努力していたのだ。
「ごめんな、さい。……ごめんなさい。ほん、とうに、ごめん、なさい」
泣きながら謝るヴァンの背中を、ヴィクセンは優しくさする。
「お前が、謝ることなんて何一つないのにな」
「でも……でも、俺、捨てられたって……いらない子だって……」
「すまなかったな、ヴァン。父がふがいないばかりに、辛い思いをさせてきたな」
ヴァンは、しばらく泣き続けた。
なぜ、こんなにも涙が溢れてくるのか、よくわからないまま泣き続けた。ただ、それはとても大事なことだと感じてしまったのだ。
しばらくしてようやく泣き止んだヴァンは、ヴィクセンに大切なことを伝えなくてはと父の腕をほどいた。
「もうすぐ、西の石舞台で会議が始まる」
「あぁ、そうか」
会議と聞いて、ヴィクセンは自分のウロコが汚れていないか確かめる。
二つ名を与えられたすべての風竜が集まる会議だ。小ロイドは、後継者を指名しなかった。そのため、誰が長になるのか決める必要がある。他にも、ヴィクセンは確かめたいことがあった。
「父さん、俺も会議に参加したいんだ」
「ヴァン、お前はまだ……」
ヴァンには、二つ名がない。だから、まだ会議に参加する資格がない。そんなことくらい、彼もよくわかっている。
「俺は、料理番として小ロイドさまのそばにいたし、旅の仲間に選ばれた。二つ名はないけど、会議に参加する資格になるんじゃないかな」
まっすぐ父の目を見つめて訴えるヴァンには、強い意志があった。
「わかった。来なさい。わたしも初めての会議だ。もう百年近く開かれていない。例外も許されるだろう」
「ありがとう、父さん」
ヴァンは、父に心から感謝した。
これで、昨夜から考えてきたことを実行できる。そう、拳を強く握りしめる。これは、自分にしかできないことだと、決意を新たにした。
そんな緊張感が高まった彼に、ヴィクセンは申し訳なさそうに頭をかいた。
「ところで、ヴァン。まだ時間があるなら、その、おかわり、いいかな?」
はっと顔を上げたヴァンは、思わず笑ってしまった。
もともと、あとで分けるつもりで多目に作っておいたスープだ。おかわりなんて、いくらでもある。
「もちろん、いいよ」
それから、ヴァンは兄弟や若い風竜たちとまだ変化する体力まで回復していない者たちに、スープを配って回った。
美味しいと感謝されるたびに、ヴァンは自分の中で自信が育っていくのがわかった。
会議の招集の鐘が鳴り響いた頃には、彼は堂々と胸を張っていた。
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