宴のあとで 〜男と女〜

 体が動かなかった。頭では逃げなくてはとわかっているのに、泣きたくなるほど体が動いてくれない。暗闇の中で一人で男と対峙することが、これほど恐ろしいとは知らなかった。


「なるほど、な」


 ルカは一歩前に出る。大きくないその一歩が恐ろしくてしかたない。震える足に動けと叱咤するけど、少しも動いてくれない。


「これはまた、ずいぶんな怯えようだ」


 面白がるような声は、余裕のあらわれだろう。自分の優位が絶対だと信じて疑わない傲慢さと、言い換えてもいいかもしれない。


「しかしなんだ……」


 ふいに手にしていた松明の存在が、わたしの中で主張してきた。明るさだけではなく、その熱がわたしに力を与えてくれた。けれども――


「やめておけ。そんなに震えていては、お前もやけどするぞ」


「……っ」


 わたしの視線から読み取ったのか、ルカは呆れたように肩をすくめて笑う。それだけで、わたしはまた無力になってしまった。ゆっくり近づいてくる彼の足を止める方法がなくなってしまった。


「竜に甘やかされた娘は、知らんだろうが、西の聖王国では夜道を女が一人で歩けば、男に犯されてもしかたないそうだ」


「……あっ」


 いったいどうやって松明を奪い取られたのか、わからなかった。そのくらいさり気ない様子で、彼の手に渡してしまった。それはつまり、彼に手が届くところまで近づかせてしまったということだ。


「もっと疑うことを学んだほうがいい。松明これを振り回せば、少なくとも俺をここまで近づけさせることもなかったろうに」


 ククッと喉を鳴らした彼に、ようやく怒りが芽生えた。とはいえ、恐怖でまだ口もきけないままだ。


「金色の髪に、小生意気な若草色の瞳……」


 値踏みをするような視線に、故郷で出会ったプリシラの姿を思い出した。彼女ははっきりとは教えてくれなかったけれども、おぼろげに何をされたのか察していた。それで、わかったつもりになっていた。わかったつもりになっていただけだった。しらずしらずのうちに唇を噛んでいた。自分の無力さを突きつけられている間も、ルカはわたしの外見の特徴を細かく淡々と述べていく。目立たないくびれなど、普段は気にしていないことまで、服の上からでも彼は見透かしてしまうようだ。それは、きっと彼が好色漢だからだろうか。


「……小さな手に、小さなかかと、なるほど、奴の理想通りの花嫁というわけか」


「むっ?」


 なにか、すごく聞き流してはいけないことを聞いてしまった気がした。

 とは、どういうことだろうか。というのは、ファビアンのことだろうか。もしそうだとしたら、ルカはいったい何を知っているのか、いろいろと聞きだしたい。

 まばたきを繰り返したわたしは、体の震えがおさまっていることに気がつかなかった。もしかしたら、もしかしなくても、ルカの目には映るわたしは、好奇心に目を輝かせていたかもしれない。

 けれども、ルカはわたしの様子など気がついていてもお構いなしに、がっくりと肩を落として続ける。


「だがどうしてだ。どうして、こんな貧相なちちなのだ」


「むっ?」


 なにかおかしい。

 額に手をやって、大げさなくらい彼は嘆いている。それも、わたしの胸の大きさを嘆いているのだと、すぐに気がつけなかった。


「あれほど、女は巨乳に限ると教えたではないか!」


「…………」


 あれほどの恐怖が、一瞬にして消え去ってしまった。


「こんな萎えるちちが理想とは、我が友ながら情けない奴め」


「……………………むっ」


 プツンと、何かが切れる音を聞いたような気がした。


「余計なお世……っ」


「黙れ、この女狂いが」


 突如、ルカの背後から伸びてきた二本の腕が、彼の首を締め上げる。グエッとうめき声を上げた彼に、首を締め上げるファビアンは地鳴りのような恐ろしい声でささやく。


「これ以上余計なことを言ってみろ。今すぐ楽園に送ってやる」


。できもしないことを言うな……グゥ」


「とにかく黙れ」


「だがな、いくら巨乳のよさがわかっていないにしても、これは……グフッ」


「いいんだよ、貧乳で! だいたい、似合わないだろ。あのちんちくりんに巨にゅ……」


「ちんちくりん!?」


 なんだか、ファビアンまでひどいことを言っている。


「ちんちくりんって、わたしぃ?」


「チッ。だから、こいつの前で喋るなって……」


「ちんちくりんって言ったわよね?」


「いちいち怒るな。別に馬鹿にしたわけじゃない」


「はぁ? なによそれ、わたし、気にしてるんだからね。背が伸びないことも、そ、その貧乳だって」


「気にするな」


「気にするわよ!」


 ルカを間に挟んで言い争ううちに、わたしはと言われたことをすっかり忘れていた。

 たしかに、わたしは小柄で背が低い。そして、はっきり言って貧乳だ。旅に出る前は、それほど気にしていなかったけれども、ターニャやライラと接するうちに、ずっと気にしていた。大きくなりたいと、こっそり一なる女神さまにお願いしたことだってある。そのくらい気にしていたことを、あろうことか目の前の二人はズケズケと言い放ったのだ。


「まぁまぁ、二人とも仲がいいことは……グエッ」


「お前のせいだろうが」


 なぜか仲裁するはめになったルカの首に回した腕に、ファビアンはいよいよ力をこめる。さすがに苦しくなったのか思ったのか、ルカは松明を振り上げる。ああやってわたしも振り回せばよかったのかと、さっと腕をほどいて距離を取ったファビアンを見て理解した。


「落ち着け、我が心の友よ」


 暗がりでも、ファビアンのあからさまな嫌そうな顔をしたのがわかる。

 息を整えたルカが闊達に笑うころには、わたしは彼にもファビアンにも怒る気が失せていた。ひどく疲れた。脱力するわたしに対する関心を失ったのか、ルカはファビアンの肩に手を回して、少年のような笑顔を浮かべた。とても、わたしを値踏みしていた恐ろしい男と同一人物には見えなかった。


「詫びというわけではないが、俺の天幕で飲み直そうではないか」


 ますます嫌そうなファビアンが口を開く前に、ルカは彼の耳元でささやく。鋭い舌打ちをしたファビアンは、逡巡した後に首を縦に振る。


「お前もさっさと寝ろよ」


「えっ、ちょっと……」


「よぉし、そうと決まれば、行くぞ、我が心の友よ!」


 行ってしまった。わたしを一人残して、行ってしまった。

 追いかけるという考えが浮かぶ前に、肩に手を回しているルカに連れ去られるような形で二人は行ってしまった。

 今までのは何だったのか。これからどうすればいいのか。途方に暮れて立ちすくんでいた時間は、そう長くはなかった。


「まったく、ニコラスのやつ、姫さまを一人きりにするなんて、何を考えているのか」


「……ドゥール?」


 ふいに背後から聞こえてきた声に振り返ると、もやの外套を脱ぎ捨てたドゥールがいた。それから、人目を避けるための靄の外套を暗がりで羽織っていた意味に気がつく。


「むぅ、もしかして、ずっと見てた?」


「ずっとではないけど、抜け目ない皇帝が姫さまに迫っていたあたりからいたよ」


「なんで、助けてくれなかったの?」


 口を尖らせて言うと、ドゥールはハッと鋭く笑った。


「姫さまに指一本でも触れたら、俺が楽園に送ってやったんですけどねぇ」


 ハハハハと乾いた笑い声をあげる彼が、なんだか怖い。

 冷静になって考えてみれば、竜が人間に危害を加えるのにはそれなりの理由が必要なのだ。もちろん人間だって同じことなのだけれども、もっとも強き竜族のほうが悪者になりがちなのだ。理屈ではなくて、感情論だ。真理派と接触したあとでは、理不尽だと思う。

 それでも、ドゥールはもっと早く介入できたことには変わりない。


「わたし、本当に怖かったんだけど」


「……ハハッ。そのあたりの配慮が足りなかったのは、申し訳なく思ってますよ」


「そうは見えないけど」


 ドゥールは、申し訳なさよりも困った様子で肩を落とした。そこへようやく、新しい松明を持ったニコラスが駆け戻ってきた。


「おーい! げっ、ドゥール」


「げっ、じゃないだろ。こんなところに、姫さまを一人きりにするやつがあるか」


 たじろいだものの、ニコラスは息を整えて一気に早口で自分の身に何があったのかまくし立て始めた。


「悪かった。悪かったって。けど、父上が呼んでいるって言うからさぁ。すぐに戻ってくるつもりだったし、それにすぐそこでみんな騒いでいるし、とにかく、父上には逆らえないんだよ。わかってくれよな。てか、肝心の父上は見当たらないし、なんかファビアンがいなくなってからいなくなったとか言われるし、なんだったんだよ」


「むぅ」


 やはり、ルカはわたしと接触するために、ニコラスを遠ざけたのだ。


「あ、もしかして……」


「そのもしかして、だ」


「まじか」


 ドゥールに肯定されて、ニコラスは天を仰ぐ。


「あの人、巨乳絶対主義者だから、フィオちゃんは眼中にないと思ったんだけどなぁ。甘かったかぁ」


「…………むぅ」


 悪意はないのかもしれないけど、傷ついた。ドゥールは歳の離れた友人に呆れ返っている。


「あのな、ニコラス。いくら女の好みが合わなくても、姫さまは世界竜の花嫁だぞ」


「しかも、その世界竜が古き友だったとかな。油断するよ、俺だって」


 でもと、居住まいを正したニコラスは続ける。


「でも、やっぱり一人にするべきじゃなかった。世界竜の花嫁と近づきたいのは、父上だけじゃないしな。本当に申し訳なかった」


 ニコラスが頭を下げると、ドゥールは深いため息をついた。


「姫さまも、これでよくわかっただろう?」


「え?」


「無防備すぎるということが」


「むぅ……」


 たしかに、ニコラスに言われたからといって、一人でこんなところにいるべきじゃなかった。せめて、人の目がある祝宴の場までついていくべきだった。


「わたしも、気をつけるべきだったわね」


「まぁ、ニコラスが一番悪いがな」


「だから……いてっ」


 ドゥールに小突かれたニコラスは、心から反省してくれているようだ。

 おそらく、ドゥールはわたしに学んでほしかったのだろう。世界竜の花嫁という立場と、人間の男と女の力関係を。悔しいことに、ルカが言ったように、疑うことを学ばなければいけない。


「今回は俺にも落ち度があるから、親父殿とターニャには内緒にしておいてやる」


「頼む。まじで、まじで、内緒にしてくれよ」


 青ざめて懇願するニコラスを意地悪く笑うドゥールは信用できない。

 短い間に怯えたり怒ったりした反動か、気がついたらわたしも笑っていた。


「さぁ、姫さま、行きましょう」


 長い一日が、ようやく終わろうとしている。そう実感しながら、わたしたちはナターシャの天幕に向かった。




 たしかに、長い一日は終わった。けれども、夜はまだ終わっていなかった。


 ナターシャの天幕は、旅に使ってきたものよりもずっとしっかりした作りになっていた。そのぶん、組み立てたり解体するのは大変に違いない。

 毛織物の布団の中で寝返りをうつのは、これで何度目だろうか。疲れている。けれども、寝つけそうにない。原因はわかっている。


「考えなきゃいけないことが多すぎる」


 ルカに――いや、モーガルですでにライラに突きつけられたことだ。

 少し離れたところでぐっすり眠っているナターシャがうらやましい。


「むぅ!」


 無理に寝ようとするから、もんもんと考えごとばかりして目が冴えてしまうのだ。

 少し夜風に当たれば、すっきりして眠れるかもしれない。

 ナターシャを起こさないように布団から這い出て、慎重に入り口から顔を出す。


 ほんの少し、天幕の外の空気を吸えばそれでよかった。

 ひんやりとした夜風が心地よい。吐く息が白い。


「また、満月」


 二つの満月が、今夜も明るく照らしている。


 まだ、宴は続くいているらしい。遠くから笑い声が風にのって聞こえてくる。くらべて、天幕が並ぶ窪地は人の気配がなく静かだ。


 ドゥールは、どこかでニコラスと竜の森に今日のことを報告している。


 胸にたまったものを白い息に変えて吐いて、夜の空気を吸いこむ。

 何度か繰り返すうちに、眠れそうな気がしてきた。


「よし、寝よう。…………ユリウス?」


 頭を引っこめようとして、右手の腕輪が光った気がした。月明かりのせいかもしれない。そのくらい、かすかな輝きだった。確認しようと左手で腕輪に触れると、右の手首から先の感覚がなくなった。


「む?」


 わたしの右手は勝手に動き出して、外を指差す。

 前にも似たようなことがあった。モーガルで、ユリウスがわたしの体を操ったときとよく似ている。あの時は、全身だったし、感覚もしっかり残っていた。


「わたしに行かせたい場所があるの?」


 答えはない。ただ外を指差すだけだ。それでも、なんとなくユリウスが急き立てているのがわかった。


 しかたなく分厚い外套を羽織って、一人で外に出た。

 一人で行動するなと自分を戒めたばかりだというのに、ユリウスのことはまだファビアンともろくに話せていないのだ。ナターシャを起こすわけにはいかなかった。

 月明かりだけでも、じゅうぶん立ち並ぶ天幕を縫うように歩ける。右手が指差す方へ進むと、ナターシャの天幕より一回り大きな天幕の前で、右手の感覚が戻ってきた。


「ここ?」


 やはり、答えはない。それどころか、腕輪がさっきよりも黒くくすんでいるではないか。


「むぅ、無理しな……」


「無理するな」


「っ!!」


 天幕の中から聞こえてきた声に、思わず叫びそうになった。

 わたしの他に、腕輪の秘密を知る者がいるのかと思ったけども、そうではなかった。


「寝てろ、馬鹿が」


 天幕の中の声の主は、ルカだ。


「もう大丈夫だ」


 呻くように弱々しく答えたのは、ファビアンだ。


「そう言って、あの時もすぐにぶっ倒れただろうが。え? 忘れたなら、思い出させてやる。八百年前、俺が行き倒れたお前を拾って、十日も匿ってやったんだぞ。いいか、十日もお前は寝こんだ」


「……忘れてない。手をどけろ」


「大丈夫なら、俺がどかさなくても払いのけられるだろうが」


 その天幕から離れられなくなった。

 そう、夜はまだ終わっていない。

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