宴のあとで 〜北の人々〜
わたしが星辰の
今もそうだ。
ルカが古い友をもてなしたい気持ちはわかる。だから、あのあとベルン平原の北側の野営地に招かれたのは、ごく自然な流れだったのだろう。
帝国の習わしで、皇帝の行列は男たちに挟まれる形で女は移動する。わたしも例に漏れず、ナターシャの馬に乗せられてきた。彼女は、わたしの無事を強く抱きしめて喜んでくれた。それこそ苦しいくらい強く抱きしめてくれた。指を一本失った一人息子のことは、頭になかったらしい。にわかに慌ただしくなる中、わたしはファビアンと話す機会を失ってしまった。
そして、今に至る。二つの満月の下の宴は、星辰の湖とは違う賑やかさがあった。いや、騒々しさと言ってもいいかもしれない。
篝火がそこかしこに焚かれて、火の粉が舞い上がっている。それが、喧騒に熱気を焚き付けているのだろう。星辰の湖には篝火はなかったけれども、同じように数人で島を作るのは同じだった。
「西の連中は、鉄の国を舐めすぎているんだよ」
息がかかるほど近くであぐらをかいているナターシャが、豪快に酒杯を傾けてからそう言ったのは、決して使節団の末路を偲んでいるわけではない。
「母さん、飲み過ぎだって」
げんなりした様子のドゥールも、酒杯を傾けているではないか。
「むぅ」
おそらく、酒を飲めば少しは楽しくなると思う。星辰の湖と同じことを考える。そして、羽目をはずしている大人たちを見ると、やはり
特に、少し離れたところで一番騒々しく盛り上がっているルカは羽目をはずし過ぎだ。
「竜は損だ! いくら強き種族だからといっても、俺は竜にだけは生まれたくないな。女をたった一人なんぞ、耐えられん!」
豪快な笑い声に、わたしは顔をしかめずにいられなかった。
「むぅ。女をなんだと思っているのかしら」
「まぁ、そういう人だから」
苦々しげに言いながら、ニコラスが陶器の椀を差し出してくれた。湯気が立つ肉団子のミルク煮に、顔が緩んでしまう。これで三杯目だけど、まだまだ食べられる。かきこみたいところだけど、熱々でハフハフしなくてはならないのが、もどかしい。そんなわたしに、ニコラスは破顔して毛織りの敷物の上であぐらをかいた。
「フィオちゃんって、こういうの苦手だったりする?」
「うん、すふぉくにがて」
「ああ、悪い。先に食べちゃいなよ」
一時的にだけどれも、彼は父から正式にセルトヴァ城塞の城主に任命された。
肉団子をすくいながら、彼はまがりなりにも第三皇子だったのだと考える。顔立ちはそれほど似ていないから、母親に似たのかもしれない。ルカをタレ目がちにして若返らせても、あまり似ないだろう。豪快な笑い声は、彼に似合わない。
「男を一人しか試せない花嫁も損している!! いいか、俺はな、絶対に竜にだけは生まれたくない」
続く下品な話に、ファビアンはただ苦い笑いを浮かべているだけだ。どうやら、あの皇帝はそうとう女癖が悪いらしい。今だって、給仕にきた若い女の尻を撫でて卑猥なことを言って笑っている。周囲の男たちも、あろうことかファビアンまで笑っている。なにより腹立たしいのは、その女も嫌そうでなくて、どこか嬉しそうなことだ。
生理的な不快感に、食べる手が止まってしまう。と、ナターシャの長い腕が、わたしの肩を抱いてきた。
「むぅ」
「ルカの女癖の悪さだけは、どうにもならないみたいだねぇ」
彼女の酒臭い息に、辟易せずにいられない。けれども、完全に酔いが回っている彼女は、そんなことなどお構いなしだ。
「ニコラスぅ、あんた、ターニャを泣かせたら、どぉなるかわかってるだろねぇ」
「わかってますって」
いきなり矛先を向けられたニコラスは、慌てて居住まいを正す。
「ほんとぉにぃ?」
わたしの肩から腕をほどいて、彼女はずいっとニコラスにせまった。目が完全にすわっている。
「本当ですって!!」
「あぁん、どうにも信用ならないねぇ……」
「母さん!」
見かねた息子が、彼女をニコラスから引き離す。彼女も限界だったらしく、ドゥールの胸に倒れこんで寝息を立て始めた。
「まったく、弱いくせに飲むから……」
ブツブツと悪態をつきながら、ドゥールは母親を抱き上げる。
「ニルス、母さんを寝かしつけてくるから、姫さまをたのむ。適当に姫さまを連れ出せよ。すぐに戻ってくるつもりだが……」
「了解」
ドゥールにとって、皇帝の野営地は勝手知ったるものらしい。篝火の奥の木立へと向かう。木立の向こうには、大小さまざまな天幕たちが並んでいる。
アンバーは、天幕の一つで皇太子セルゲイたちとともに昼間の大砲について議論を重ねている。呆れたことに、アンバーは大砲にしか関心がなくて、あの驚きの連続だったファビアンとルカの会談にまったく注意を払っていなかった。彼らしいといえば、彼らしい。けれども、やはり地竜族の長の一人息子としてどうかと思う。
二人を見送っていると、重苦しいため息が聞こえてきた。ニコラスだ。
「俺さぁ、父上があんなだから、ターニャただ一人を愛するって誓ってるんだけどなぁ」
「そう、だったの?」
「そうだったんだよ。俺、父上が移動宮廷復活させたのは、国中の女をモノにするためだったんじゃないかって、本気で考えてるんだけどな」
暗澹たるニコラスから、それ以上聞きたくなかった。
「もしかして、ファビアンがわたしに喋るなって……」
「俺も、父上をフィオちゃんに絶対に近づけるなって言われた」
わたしの中で、どんどんルカの評価が下がっていく。嫌悪感を隠そうともしなかったわたしに、彼は慌てて付け加える。
「あ、でも、さすがに竜の花嫁には手を出さないぜ。ほら、挿れられ……」
「むぅ」
「……ごめん、今のは俺が悪かった」
それでも、ニコラスは父親を擁護しようと言葉を探している。なんだかんだで、彼は父を尊敬しているのだろう。
「たぶん、茶化されるのが嫌だったんじゃないかな」
「茶化される?」
「まぁ、うん、いつまでも避けてはいられないだろうし、明日にでも紹介されるとは思うけどね。フィオちゃん、こういうどんちゃん騒ぎ、苦手だったんだよね。……俺もだよ」
彼の泳いでいた視線が、いつの間にかわたしの胸のあたりに止まっていたのは、服の下に隠してあるウロコで花嫁だと意識しているのだと思った。実は別の意味があったのだと知るのは、もう少し後のことだ。
騒々しい酒宴の席で、わたしたちだけがなんともいえない空気になってしまった。周囲から注目を集めているのは、肌で感じている。けれども、あらかじめファビアンが牽制してくれたらしく、誰も近づいてこない――はずだった。
冷めないうちにと肉団子を食べ終えたとき、わたしの背後から陽気な声がした。
「よぉ、童貞」
「なっ」
顔を真っ赤にして固まったニコラスの隣に、背の高い女性が腰をおろした。
「なんだなんだ、まだヤッてなかったのか。同じ母を持つ姉として悲しいぞ」
三十歳くらいだろうか。北国の女にしては短い髪で、男のような出で立ち。きれいとか美しいという言葉は似合わないけれども、なにか人をひきつける魅力をもっていた。
「ジーナ姉さん、彼女に接触するのは……」
「弟をからかうのは、禁じられてはいないさぁ」
悪びれることなく彼女はクツクツと笑いながら続ける。
「可愛い弟の側にたまたま世界竜の花嫁がいた。自己紹介くらいしておかないと、失礼だろう」
どう考えても、彼女の目的はわたしだ。
「あたしは、ジーナ・ルキーニシュナ・フェッルム。第一皇女で、帝国史上初の女帝になる女さ」
よろしくと笑う彼女に、わたしはどうしたものかとニコラスに目を向ける。次期皇帝は皇太子のセルゲイではないのか。
「また勝手なこと言って、父上を面白がらせるなよ。フィオちゃん、今日はもう休もうか」
ため息をついてニコラスは立ち上がった。
「放蕩の皇子ほど、父上を楽しませた馬鹿はいないだろうけどね」
引き留めようともせずに、ジーナは皮肉っぽく笑う。わたしは、彼女に何か言ったほうがいいかと迷ったけれども、顔をしかめたニコラスの目が相手にするなと言っている。
彼女が来てから、周囲の目つきがあからさまに変化している。特に男性陣の半分くらいは、彼女を快く思っていないのが、わたしでもはっきりわかってしまうほどだ。
「おやすみなさい……えーっと、ジーナさん」
とりあえず頭を下げると、意外だったのか彼女は目を丸くして驚いていた。
「あ、ああ、おやすみ。また、ゆっくり話そうじゃないか」
すぐに父親によく似た快活な笑顔を浮かべて、彼女はわたしたちに手を振る。
近くの篝火から火を移した松明をもって、ニコラスが行こうとうながしてくる。
わたしは、いつの間にかルカと一緒にいたはずのファビアンが姿を消していたことに気がつかなかった。ルカの抜け目ない目が、わたしをじっと見ていたことにも、もちろん気がつかないまま、ニコラスと騒々しい宴をあとにする。
「あいつのこと、あまり気にするなよ」
「……うん」
うなずいてはみたものの、気にしないでいられなかった。
帝国史上初の女帝。
どうしても、女王と名乗ったライラのことを思い浮かべてしまう。
西の聖王国が女性の王位継承権を廃止したのは、もう二千年も前のことだ。以来、東の小国群の幾つかの国で女性の統治者はいた。改めて思い知る。わたしたちの歴史は、始まりの女王リラから始まったというのに、男性のほうが多くの権力を握っている。竜族がオスだけというのもあるのかもしれない。
「ジーナ姉さんが男だったら、よかったんだけどな」
気にするなと言ったくせに、沈黙に耐えかねたニコラスは勝手に喋りだす。
「父上もそう言ってるし、実際、セルゲイ兄さんよりもジーナ姉さんを皇帝に推す人は多いよ。口にするやつはいないけどな」
「……やっぱり、女だから?」
「そりゃあ、今まで女が帝国の頂点に立ったことがないからな」
「むぅ……」
そんな理由で、と口をとがらせてしまった。と同時に、他国のこと、他人事だという冷めた感情もあった。やるせない気持ちをどう吐き出せばいいのかわからないまま、足元の木の根をつま先で小突きながら歩く。それも、背後から駆け寄ってくる気配に気がつくまでのことだった。
「ニコラス殿下、ニコラス殿下」
「あ?」
足元ばかり気にしていたせいで、足を止めて振り返ったニコラスとぶつかりそうになる。彼があいた手でわたしの肩を支えてくれなかったら、ぶつかっていただろう。彼はこういう気遣いができる人なのだと、感心してしまった。
暗い木立の中で膝をついたのは、アーウィンと同じ年ごろの少年だった。
「陛下がお呼びです。お戻りください」
「俺を?」
「はい。急ぎの話があるとか」
声変わりもしていない少年は、真顔でうなずく。
「わかった。彼女を天幕まで送ったら……」
「急ぎ、お戻りください」
「いや、でも、彼女を一人にしておくわけには……」
「陛下がお呼びなのです」
少年の融通のきかなさは、皇帝への信頼のあらわれだったのだろう。まだ半日しかたっていないけれども、ルカがどれほど慕われているのか、じゅうぶんすぎるほど知ったつもりだ。たとえ、暴君と呼ばれるイサーク帝と同じ魂であっても、彼は良き皇帝だ。皇太子セルゲイも女帝を目指すジーナも、まだ彼に成り代わろうなどとは考えないほどに。
ニコラスは、少年とわたしを何度も見比べて肩を落とす。
「フィオちゃん、すぐ戻ってくるから」
「あ、うん」
松明を押し付けて、ニコラスは少年を連れて賑やかな方に戻っていく。
「むぅ、大丈夫、よね」
暗い木立の中で一人きりだ。大丈夫なわけがない。心細くてしかたない。
少しだけ迷ったけれども、苦手な宴の場に戻ることに決めた。ナターシャを休ませたドゥールが戻ってきているかもしれない。考えてみれば、あの時二人についていけばよかったのだ。今夜はナターシャの天幕で休むことになっていたのだから。
気は進まないものの、足早に騒々しくて明るいほうへと戻ろうとして五歩も進まないうちに足を止めることになった。
「えっ」
なぜ彼がここにいるのだろうか。それもたった一人で。
ニコラスを呼び戻したはずのルカが、わたしの行く手を遮るように立っていた。
抜け目ない皇帝と呼ばれるにふさわしい紺碧の瞳が、眩しそうに細めらる。まるでふてぶてしい猫のようだと、警鐘が鳴り響く頭の冷めた部分で思いながら、自分が生唾を飲みこむ音を聞いた。
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