平和を望んだ皇帝

 なぜ、ファビアンが暴君の名前でルカを呼んだのか。誰も理解できなかった。なにかの聞き間違えだと考える者も少なくなかったはずだ。わたしがそうだったように。


 ファビアンは、いい奴だったと言っていた。だからといって、イサーク帝がおこなったことは変わらない。

 大陸統一。

 混乱の時代に、人間を一つの国として支配しようとした。そんなこと、できるわけがなかったのに、イサーク帝が率いる帝国軍は東の小国群の半数近くの国に攻め入り、そのうちいくつかの国は今でも帝国の一部となっている。西の聖王国と竜の森が手を結ぶきっかけとなった。ファビアンが語ったように、イサーク帝のおかげで混乱の時代は終焉を迎えた。共通の敵を見出すことで平和がもたらされたのが、まるでイサーク帝の意図通りだったとでも言いたかったのだろうか。

 予期せぬ思考の迷宮から現実に引き戻したのは、ルカだった。


「ルカだ」


 いくらかの批難がこめられていたものの、ルカの声に動揺はなかった。少なくとも、わたしにはそう見えた――はずだった。


「……そうだったな」


 苦々しく肩をすくめたファビアンは、いくらかの冷静さを取り戻したようだ。けれども、どういうわけかルカは、彼に対しての警戒が強くなったように感じられる。抜け目ない皇帝の眼光は、ますます厳しさをまして余裕を失いつつある。やはり、暴君の名前で呼ばれたことがきっかけだろうか。


「大陸統一は、我がフェッルム家が受け継いできた宿願だ」


 ほとんどファビアンをにらみながら、ルカは硬い声で大陸統一を宿願としていたことを認めた。


「受け継いできた、というには語弊がありすぎると思うが……まあいい。そもそも、お前が馬鹿げた野望を抱いたのは、俺のせいでもある」


「ファビアン、お前はもう関係ない。で、俺は……」


?」


 鼻で笑ったファビアンに、ルカは食い下がる。もう必死さが隠しきれなくなっていた。


「ああ、俺の意志だ。お前の考えなど関係ない!」


「そうか」


 そうだろうなと、小さくつぶやいて、ファビアンは淡々と続ける。


「今は大陸統一の野望には、またとない好機だ。竜の森に喧嘩を売った西の聖王国が弱体化すれば、お前は大した労力を割くことなく、西を支配下に置くことができる。そうなれば、南も必然的に支配下に加わるだろうよ」


「みな……むっ」


 思わず声を上げたら、ファビアンににらまれた。あわてて、口を両手で押さえたけれども、すぐに不満がせり上がってくる。

 いったいいつになったら、彼はわたしに事情を話してくれるのだろうか。

 向き直ったファビアンに、ルカは拳を握りしめていた。今にも殴りかからんばかりの形相でファビアンを睨みつけている。


「何が悪い! 弱体化した国ほど有害なものはない。混乱の時代を知るお前なら、わかっているはずだ!」


「だが、今はそんな時代じゃない。だから、大馬鹿者なんだ。この八百年の間、お前が画策してきたことを否定されたくないのはわかる。だが、もう別の方法があるだろう。そのために、力を貸してくれないか、イサーク」


「ルカだと言っただろうが!!」


「すまない。わざとではないんだ」


 完全にルカとファビアンの優劣が逆転している。

 ファビアンは肩をすくめて、記録用の水球を掲げているドゥールを一瞥した。


「どうしても力を貸さないと言うなら、こちらにも考えがある。イサー……ルカ、あの水球だが、俺の合図一つで、東のザムト公国、サヴォン王国、ピリエ=ゾイレ連邦、ドローアー王国の主要都市と繋がる」


「なに?」


 東の小国群でも、カヴァレリースト帝国よりの国々の名前を聞いて、ルカはひどくうろたえて青ざめた。

 もしかして、これがファビアンの切り札だろうか。わたしの頭によぎった考えは、すぐに確信に変わる。


「もしこの場で、お前がこの八百年、楽園へ導かれることを拒み続けながらしてきたことを……」


「よせ!!」


 ルカの必死な声が、平原に響いた。


 ようやく、わたしは自殺した魂が一なる女神さまの許しを得るまで地上にとどまるという意味が、わかった気がした。ユリウスのように、見えざる存在となってとどまり続けるだけではないのだ。その魂は、楽園で癒やされることのないまま新たな生を受けて、再び人生をまっとうするチャンスを与えられることもある。たぶん、そういうことなのだろう。そして、あとでファビアンに問い詰めたところ、その考えは正しいとはっきりした。ただし、イサーク帝のように、記憶と人格を保っている者はそういないとも言っていた。


「やめろ。そんなことして、なんになる」


「暴動が起きるだろうな」


 こともなげに、ファビアンは続ける。


「そして、一つや二つ、国が滅びるだろうな。当然だ。なにしろ、事実上の帝国の支配下の属国だったと知らされれば、黙っていられるわけがない」


「誰が、そんなことを信じる。証拠がない!」


 東の小国群のいくつかの国が事実上の支配下にあったことは、ごく一部の人しか知らなかったらしい。この場にいた人々は、信じられないという人と、もう何がなんだかわからないという人に、分かれるのではないのだろうか。どちらにしても、誰も二人の間に入れる者などいやしない。


「そうだ。証拠がない。誰もそんなこと信じない」


 ルカの青ざめた顔は、ファビアンが語ったことが事実だと証明している。けれども、突然水鏡越しに自国が帝国の属国だったと聞かされても、そう簡単に信じられないだろう。むしろ、混乱を誘発するための暴言だと批難されかねない。

 だが、ファビアンは動揺することなく続けた。


「たしかに証拠はない。が、俺の――いや、黒いウロコと金色の瞳の竜の言葉は、たとえ嘘だろうとも信じさせるだけの力があることは、嫌というほど知っているつもりだ。お前だって、知らないわけではないだろ」


「…………俺を、脅迫するのか?」


 沈黙をもって、ファビアンは肯定した。

 ファビアンが言ったとおり、大陸統一は悲惨な混乱の時代を終わらせて平和な世界を望んだのが、きっかけだったのだろう。たぶん、かつてイサークだったルカは今も世界の平和を望んでいるのだ。具体的にしてきたことはわからないけれども、そうでなければ八百年も魂の癒しを拒めるはずがない。


 力なく頭を振って、口を開けては閉じるを何度も繰り返す。ルカは反撃の言葉を探しているようだけれども、見つからないようだ。

 その姿は、どこか哀れだった。

 わたしは、血で血を洗うといわれている混乱の時代を知らない。襲撃され燃える村や町を知らない。想像したところで、悲惨さまでは理解できない。だから、安易に暴君などと呼ぶべきではなかったのかもしれない。少なくとも、イサーク帝は同じ平和な世界を夢見た民たちに支えられていたのだ。一人では、意味がないのだ。


 言葉が見つからないルカに、ファビアンはようやく声音をやわらげる。


「なぁ、古き友よ。お前が誰よりも平和を望んでいることは、よく知っているつもりだ。あの頃は、大陸を一つにまとめることも、混乱の時代を終わらせる一つの方法だった。だが、時代が違う。違いすぎる」


 一度息をついて、ルカに周りを見るようにうながした。


「周りをよく見てみろ。誰がお前の宿願に賛同しているんだ?」


「…………」


 初めてファビアンの他に誰かがいたことに気がついたような、そんな様子でルカはゆっくりと首を巡らせた。彼の目に、ようやく自分の民たちの姿が映ったに違いない。


「…………そう、だったな」


 気がついていなかったわけがない。誰よりも北の大地と、人間を愛した皇帝が、民が求めるものに気がつかないわけがない。大陸統一は、北の帝国の人々にとっても、忌むべき歴史となっている。霧に閉ざされていたセルトヴァ城塞が、忌まわしく語り継がれているのも、わかっていないわけがないのだ。


 ルカは、泣きそうにも晴れやかにも見える笑みを浮かべた。

 乾いた風が、少しだけ暖かく感じる。


 今この時、ようやく世界の平和を望んだ皇帝は、その身に背負った途方もない宿願から解放された。


「かつて、聖王国と竜族の共通の敵だったこのカヴァレリースト帝国が、今度は聖王国と敵対するために竜族と手を結ぶことになるとはな。俺はな、お前に思い知らせてやりたかった。お前は否定したが、間違ってはいなかったとな」


「間違ってはいなかった。そもそも、俺がきっかけだろうが。時代によって、手段を変えるべきだった。お前は融通がきかなすぎるぞ、イサーク」


「ルカだ。お前だけには言われたくなかったな」


 軽く頭を振ったルカと、一瞬目があったような気がした。気のせいだろうと思い直したけれども、あとでその玩具を見つけたように輝いた瞳は、決して気のせいではないと思い知ることになる。


「どれほどの時間があるかわからんが、このルカ・ダビードヴィッチ・フェッルムが皇帝でいるうちは、竜の森と命運をともにすると約束しよう」


 皇帝が宣言すると、北の戦士たちも一斉に姿勢を正す。

 どれほどの時間があるかわからないと、譲位の意をほのめかしたルカだったけれども、北の皇帝はまだルカであり続けるのだと、ベルン平原に集った人々は態度でしめした。実のところ、彼は国中から慕われているのだ。たとえ、暴君と呼ばれたイサークの魂をその身に宿していようとも、彼が彼であることはなにも変わらない。


 北の皇帝ルカ・ダビードヴィッチ・フェッルム。

 わたしは、後にも先にも彼ほど平和を望み人間を愛した男に出会うことはなかった。

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