古き友

 またしても、わたしたちは一瞬にして移動していた。

 目を閉じた覚えはないけれども、ふっと景色が変わっていた。いや、景色だけではない。風や匂い、そういった体全体で感じるもの、すべてが変わっていた。冬でも青々とした草は、膝のあたりまである。ただそんなことよりも、帝国の人々の視線がきつかった。突然、わたしたちが目の前に現れたのだ。驚くなというほうが無理だ。竜一頭分の離れた正面の男が、皇帝のルカだろう。話を聞いたときは、威圧感のある偉丈夫を想像していた。豪快で豪胆。それでいて、廃止された移動宮廷を復活させ、百年ぶりに帝国に平穏をもたらすほどの、優れた政治力を持っている。けれども、実際に目にした皇帝は、それほど偉丈夫ではなかった。おそらくファビアンと並べば、そう背丈や体格は変わらないのではないかと思うほどだ。分厚い紅の外套の上からでも、鍛え上げられているとわかる体躯は、威圧感ではなく好感を感じさせる。人を惹きつける風格が、生まれながらにして備わっているのだろう。


「むっ?」


 そういえば、ファビアンがいない。

 背後の鋼の大きな筒をじっと観察しているアンバーと、居心地悪そうに突っ立っているニコラスとドゥールと、わたしだけだ。

 他の三人にファビアンのことを尋ねようとしたとき、聞き覚えのある女の人の声が響いてきた。


「フィオ!」


 ナターシャだった。どうして気がつかなかったのだろうか。帝国の貴婦人らしい厚手の青いドレスに身を包んだ彼女は、皇帝のそばにいたというのに。自然と足が、彼女のほうへと駆け出しそうになる。その足を止めたのは、皇帝が浮かべた表情だった。抜け目ない皇帝の紺碧の瞳は、たしかにわたしをとらえていた。しがないパン屋の娘を見下す表情ではない。驚き、納得、それから価値のある何かを思いがけず見つけたような複雑な表情が、離れた場所でも不思議と見て取ることができた。

 ふっと、わたしたちの上に大きな影が落ちた。


「聞いてないけど、俺」


 げんなりした声でぼやいたのは、ニコラスだった。けれども、わたしも――おそらく、アンバーとドゥールもげんなりしていたに違いない。どうやら、ファビアンは事前に計画を説明するという頭がないらしい。


 黒いウロコの堂々としたファビアンが、皇帝とわたしたちの間に割り込むように降り立つ。


 竜の姿をした彼を目にするのは、これで二度目。けれども、一度目は暗い涸れ井戸の底だったこともあって、しっかり姿を見るのはこれが初めてだった。堂々とした姿に、わたしは息をのんだ。彼がどんなに否定しようとも、彼は竜王の血を受け継いでいる。他のどんな竜よりも、彼は美しかった。わたしが花嫁という贔屓目もあったかもしれないけれども、たしかに立派に見えたのだ。


、古き友ファビアン。会いたかったぞ」


 ファビアンの巨体で遮られたけども、よく響く低めの声は皇帝ルカのものだとわかった。意外すぎる言葉に、わたしは思わずニコラスを振り返ってしまう。アンバーとドゥールも、どういうことかという疑いの目で彼に注目している。居心地悪そうに首を横に振った彼も、父のルカがファビアンを古き友と呼んだのは、意外すぎたらしい。

 口を開かないファビアンに、ルカは続ける。


「どこぞで野垂れ死んではいないかと気をもんだりもしたが……まぁよい。こうして、再び俺に会いに来てくれたからな」


 おそらく、本心だろう。北の皇帝は、ファビアンとのを、心の底から喜んでいる。初めましてと言ったのにもかかわらずにだ。


「俺は、お前と関わりを持つつもりはなかったがな」


 対してファビアンは、深いため息とともに人間の姿に変化する。

 ファビアンもまた本心を言葉にしたのだ。心古き友と呼ぶルカとのを、心の底から望んでいなかった。

 驚きと困惑に包まれていたベルン平原に、緊張が走った。北の皇帝が、かつての竜族の王に非礼を働いたのではと、考えたのだろう。あるいはその逆で、ファビアンが皇帝に非礼を働いたと考えたかもしれない。

 その緊張した空気を切り裂くかのように、ルカは声を上げて笑いだした。広大な平原中に響き渡るかのような笑い声に、初めて喜び以外の感情がふくまれていた。それは、激しい怒りだった。


「そうだろうとも、そうだろうとも! お前は、そうやって俺の宿願を否定し続けてきたのだからな」


「否定し続けてきたわけじゃない。俺は、ただ諦めてほしいだけなんだがな」


 まるで何度も繰り返してきたやり取りにうんざりしたかのように、ファビアンは肩を落とす。


 この時すでに、ファビアンとルカの間に入れる者はいなかった。そもそも、二人がなにを話しているのか、さっぱりわからない。厄介な男だと、ファビアンは言っていた。もしかして、関係が厄介という意味だったのだろうか。そういえば、ファビアンはこうも言っていたではないか。皇帝は俺たちと手を結ぶ、と。

 確信を持って手を結ぶと言っていたけれども、今のルカの笑顔はとても友好的とは呼べない。むしろ、好戦的な凄みのある笑顔だ。これでは、ファビアンに言われるまでもなく、彼の前で喋れるわけがない。


「今日は、その話のために来たわけじゃない。わかっているだろうに……」


 軽く頭を振って、ファビアンはちらりとわたしたちを振り返った。正確には、切り札と呼んだ水竜のドゥールを振り返ったようだった。戸惑いながら、二人のやり取りを眺めていた彼は、慌てて居住まいを正して胸の前に小さな水球を浮かべた。水球を確認したファビアンは、再び皇帝に向き直りうやうやしく頭を下げる。


「改めて、名乗らせてもらおう。、俺は世界竜族の死に損ないのファビアン。北の皇帝ルカ・ダビードヴィッチ・フェッルム、北の戦士たちには、竜の森を代表する者として、助力を請う者だ」


 顔を上げたファビアンには、背後の聖王国の使節団は眼中にないのだろう。もっとも、腰を抜かしたまま立てずにいる彼らも、ファビアンとルカの間に割り込む余地なんてなかった。


「人間と竜族、種族は違えど、同じ楽園の神々を崇めるともがら。本来ならば、疑念を抱くべきではない。だが、世界が揺り起こされ、楽園への道が閉ざされかねない現状において、此度の会見はすべて記録させてもらう」


 ドゥールが水球を一回り大きくすることで、文字などではなく声や風景を記録するのだと、周囲に示した。

 つまらなそうに、ルカは鼻を鳴らした。


「無意味なことを。先に言わせてもらうが、我が帝国は、竜の森を助けるつもりはない」


 あらかじめスラヴァ鳥の書簡に、ラトゥール砦の大将に提示した内容が書かれていたのは、知っている。だから、ルカがファビアンに詳しく説明を求めなかったのは意外ではない。

 セルトヴァ城塞とサイファの武具は、皇帝には魅力的に映らなかったようだ。

 けれども、ファビアンはルカがはじめから首を縦に振らないことくらい承知していたのではないかと、わたしは考えた。そうでなければ、ドゥールを切り札などとは呼ばなかったはずだ。もしかしたら、あの水球には記録する以外の役割があるのかもしれない。

 案の定、ファビアンは少しもうろたえることなく口を開く。


「セルトヴァ城塞の復興、及びサイファの加工は、我らの敵の忌々しい兵器よりも魅力的ではないと?」


「当たり前だ」


 どこか勝ち誇ったように、ルカは笑う。

 けれども、ルカ以外の北の戦士たちには、セルトヴァ城塞の復興とサイファの加工は、魅力的な見返りに聞こえたのではないだろうか。少なくとも、わたしはそう感じた。


「セルトヴァ城塞は、もともと我らの城塞。初めから、取り引きの内容に加えるほうがどうかしているぞ、ファビアン。それに、サイファも……」


 ルカは一度言葉を切り、ゆっくりと腰にあった剣を抜いた。陽の光を冷たく鋭く反射する切っ先を、ファビアンに向ける。あの好戦的な笑みが、彼の顔に浮かんでいた。


「この竜殺しの剣は、一度も竜を殺したことはない」


「だが、素晴らしい鋼だ」


 動じることなく、ファビアンは続ける。


「錆びることも欠けることもない。陽炎の荒野の鍛冶衆は、不得手である武器作りを、あなた方から学ぶ用意もできている」


「なるほど、それは効率よく人を殺すのに役に立ちそうだ」


 竜殺しの剣をファビアンに向けたままルカは続ける。


「ようするに、貴様の言う助力とはそういうことだろう。忌々しい兵器を作り出した聖なる王国とは名ばかりの連中と、我ら北の戦士、人間同士で血を流せということだ」


 動揺が広がっていくのがわかった。

 わたしも、ようやく北の帝国と手を結ぶというのが、どういうことか理解できた。抑止力がどういうものかわからない。けれども、竜たちにとって脅威となるはわかっている。もし、竜の存亡に関わるような脅威だった場合、彼らと戦うのは、人間となる。

 ファビアンは、手を結ぶと確信していたけれども、竜のために戦争を起こせと言われて、首を縦に振るわけがない。たとえ、豪族の小競り合いが絶えない帝国であってもだ。


「巻き込まないでもらえるか、古き友よ。我がカヴァレリースト帝国は、竜族と聖王国の争いに関与するつもりはない」


 はっきりと言い放ったルカは、ゆっくりと剣を納める。勝ち誇ったように笑う皇帝に、ファビアンはすぐに言い返さなかった。そのわずかな沈黙に割りこんできたのは、わたしたちの背後にいたネズミのような男だった。ようやく立ち上がることができたらしい。


「で、では、我が始まりの女王の国に……」


「貴様らにくれてやる鉄はない」


 ルカの声は、ファビアンを相手にするときにはないゾッとするほど冷たい響きがあった。


「言ったはずだ。関与するつもりはないと」


 それはつまり、わたしたちに力を貸してくれることもなければ、聖王国の真理派にも力を貸さないと言うことだった。

 カヴァレリースト帝国にしてみれば、関係のない争いに巻きこまれたくないに決っている。もしも、わたしがルカの立場だったら、同じ返事をしていたに違いない。竜を殺す兵器のために鉄を渡さないというなら、わたしたちが引き下がってもよいのではないか。

 そもそも、なぜファビアンはカヴァレリースト帝国を必要としているのだろうか。

 滅んだはずの世界竜の再来が与えた衝撃や混乱から、周囲の人々も徐々に解放されているのがわかった。世界竜と皇帝の間に立ち入れないので、ひそひそと誰か状況を説明できる者はいないかと言葉をかわされている。

 驚きの目ではなく好奇の目で見守られる中、ファビアンは残念そうにため息をついた。


「お前も、八百年前と同じことを繰り返したくないはずだ」


 ルカの顔がこわばる。ひと呼吸ほどの間のことだったけれども、八百年前と耳にしたとき、たしかに彼の顔に恐れが浮かんでいた。しかし、鷹揚にうなずき返したときには、余裕のある好戦的な笑顔に戻っている。


「もちろんだとも、古き友よ」


 八百年前といえば、混乱の時代が終わる頃。そう、セルトヴァ城塞が気に閉ざされた頃だ。わからないことばかりというよりも、わかることがない。

 周囲はひそひそと言葉を交わしている。

 わたしは、第三皇子のニコラスの側ににじり寄った。


「むぅ、二人とも知り合いみたいね。宿願とか、わけわかんないんだけど……」


「俺に訊いてくれるなよ」


 実の父から目をそらさずに、彼はささやき返す。

 ニコラスは、セルトヴァ城塞の霧を払い、世界竜の生き残りを連れ帰った英雄としてもてはやされたかったらしい。彼は、歴史に名を残すだけのことを実際にやってのけた。それは誰も異論はないだろう。

 セルトヴァ城塞で手に入れたイサーク帝の剣の柄をなでながら、彼はため息をつく。


「なんか、調子狂うっての通り超えてさぁ……」


「わたし、ファビアンはあらかじめ説明するべきだと思うわ」


 彼は力なく笑っただけだった。諦めたよと、父に比べて優しい顔に書いてある。

 なんだか、ムカッとした。

 ニコラスは、わたしよりもファビアンとの付き合いは長い。ファビアンのことで苦労したこともあったのだと、想像するのは難しくない。だから、これはファビアンに対する腹立たしさだ。ニコラスは、そういう奴だと諦めることもできるだろう。けれども、わたしはそうはいかない。なぜなら、わたしはファビアンと結婚するのだから。わたしたちは、これからなのだ。


「むぅ、わたし、花嫁として見過ごすわけに……」


「おい」


 突然、ファビアンは恐ろしい声とともに振り返った。つかつかと肩を怒らせて、わたしのほうへ迫ってくる。そして、獣のように低く唸った。


「ひと言もしゃべるなと言ったよな?」


「…………」


 皇帝の前でしゃべらないという条件で、ここに連れてきてもらった。忘れていたわけではない。覚えている。覚えているけれども、わからないことばかりで、周囲もひそひそと会話している。二人の会話の邪魔にならないだろうしと、言い訳したかった。けれども、こめかみをひくつかせたファビアンが、それを許さなかった。


「ひと言も、しゃべるなと、言ったよな?」


「むぅ」


「むくれるな」


 怒鳴り散らしたい衝撃を抑えるように、彼は息を吐く。


「いいか、わざわざ約束で縛らなかったのは、お前を信頼したかったからだ。これ以上、しゃべるなよ」


 ハッとしたときには、彼はもう皇帝に向き直っていた。


「中断して、すまなかった」


「かまわんよ」


 それでと、ルカは続ける。


「それで、我が宿願を果たすために力を貸してくれるのか? そうすれば、竜と手を組むのも悪い話ではない」


 ファビアンが折れることを確信したように、ルカは笑った。


「できるわけがない。できるわけがないだろうが」


 いらだたしさを隠そうともせずに、ファビアンは左手で髪をかきむしる。その声の調子も、それまでの堂々とした様子からくだけたものに変わっていた。


「お前だって、本当はわかっているはずだろ。昔から馬鹿だとは思っていたが、ここまで馬鹿だとは思わなかった。本当に、厄介な大馬鹿者だよ、お前は!」


 ベルン平原の空気が凍りついた。

 かつて世界中から畏敬の念を集めていた世界竜でも、一国の主を大馬鹿者と罵るなど、あってはならないことだった。

 じわじわと殺気立つ中で、大馬鹿者と罵られた当人だけが笑っている。まるで、計画通りと言わんばかりの余裕だ。


「これは、まずすぎるだろ」


 水竜の長の息子として、交渉の場において余裕を失うことの意味を、彼はよく知っていた。ましてや、彼は抜け目ない皇帝の交渉術を多少なりとも知っていた。そんなドゥールでなくとも、わたしでも今の流れはよくないと理解できた。もしかしたら、わたしが彼の信頼を裏切ったのが原因だとしても、これ以上彼に交渉させるのはよくないと。


 けれども、わたしたちはまだ。ただでさえ考えることをやめてしまいたくなるほどの、困惑と衝撃の連続だったいうのに。このベルン平原に集まった北の戦士たちにしてみれば、忘れられない一日になったことだろう。竜を殺す兵器を目の当たりにして、さらに滅んだはずの世界竜が再来した。それだけで、充分すぎるほどだったというのに、彼らにとってこの日最大の衝撃はまだ受けていない。

 殺気立っていた北の戦士たちは、無礼にも指を皇帝に突きつけて言い放ったファビアンの言葉を、一生忘れることはできなかっただろう。


「大陸統一なんかに協力できるわけがない!」


 大陸統一。

 それは、八百年前の混乱の時代の後期に、暴君イサーク帝が掲げた野望だ。

 北の戦士たちにとって、負の歴史を象徴する言葉の一つ。


 まさか、ルカのいう宿願とは、大陸統一だというのか。


 余裕のある笑みを崩さないルカに、ファビアンは指をおろして懇願するように続ける。


「もう誰も望んでないことくらい、わかっているだろ、


 乾いた風が吹き抜けた。

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