第五章 皇帝の宿願

星見盤の使い道

 誇り高き北の戦士たちよ、このルカが約束しよう。

 俺が皇帝となったからには、今まで見たこともない世界を見せてやると。

 笑いたいやつは笑えばいい。だが、いつか思い知るだろう。思い出すだろう。この日の約束を思い出し、約束を果たした者としてふさわしいだけの畏敬の念を、俺にむけるだろう。

 もう一度言おう。

 新たなる皇帝ルカ・ダビードヴィッチ・フェッルムは、誇り高き北の戦士たちに、今まで見たこともない世界を見せてやる。


『ルカ帝の即位式での演説』より




 ――


 冬の終月ついつき6日。

 北の帝国での朝の空気は、数日前までいた大陸南部とはぜんぜん違う。

 白い息を手に吹きかけて、八年間、星辰の湖で初めて氷を見た朝を思い出した。

 あの頃は、本当に生意気な小娘だったと思う。あれから、多くのことを学んだと思っていた。


「わたし、今でも知らないことが多すぎる」


 パシンと顔を叩いて、弱気を追い出す。

 今は、ローワンたちを見送らなくてはならない。


 新妻を背中に乗せたローワンは、鮮やかな赤いウロコを朝日に輝かせながら、首を曲げてクレメントの仮面に鼻先を寄せる。


「長、無理しないでくれよな」


 返事はなかったけれども、余計なお世話だと仮面の下で苦笑いを浮かべているのがわかった。


 ローワンは、竜の森の陽炎の荒野に帰る。

 サイファのこともあるけれども、彼の旅の目的をはたしに帰るのだ。枯れてしまった清涼の泉を復活させる方法も、ファビアンから聞き出したらしい。ローワンは、クレメントにこそ清涼の泉を復活させてほしかったらしい。けれども、火竜族の長はセルトヴァ城塞に残ると言って譲らなかった。

 心配そうに、名残惜しそうにクレメントを見つめていたローワンは、頭をあげてわたしのほうに首を曲げてきた。


「俺、もう行くけど、何かあったらすぐに戻ってくるからな」


「うん。でも、ちゃんとゆっくりしてね」


 おうと、威勢よく答えてくれた声は、彼の翼が巻き起こした風の音にかき消されそうになっていたので、はっきりと聞き取れなかった。

 それでも、ローワンは鮮やかな若いウロコをきらめかせながら、上空へと舞い上がる姿は、いつにもまして堂々としていた。

 マギーを乗せたローワンが南へとまっすぐ向かうのを見送ると、ヴィクターが弟のヴァンの肩をたたいた。


「じゃあ、僕らも行こうか」


「そうだね」


 ヴァンとヴィクターは、風を巻き起こして竜に変化する。一番下のヴィードは、まだ変化できない。けれども、さすが風竜といったところか、フワリと長兄の肩のあたりに腰を下ろす。

 名残惜しそうに、ヴァンはわたしに首を曲げてきた。


「フィオ、ごめんな。やっぱり俺、帰ることにしたよ」


「うん、それでいいと思う。わたしなら大丈夫だから、ヴァンも、ね」


「……ありがと」


 ヴァンは、兄弟たちと和解した夜、まだ月影の高原に帰るわけにはいかないと宣言していた。けれども、わたしが知らない間に兄弟たちと向き合ったのかもしれない。

 照れくさそうにまばたきをして、ヴァンは顔を背けた。そんな兄を、末弟のヴィードがニヤニヤして見下ろしている。もちろん、ヴァンも気がついただろう。面白くなさそうに鼻を鳴らして、もう一度わたしを見下ろす。


「フィオにはまだ言ってなかったけど、俺、たぶん昨日聞いた抑止力のこと、小ロイドさまから聞いたことがある気がするんだ」


「む?」


「気がするだけなんだけど……浩然の館に戻ったら、何か思い出すかもしれないから……」


 歯切れの悪い様子だったけれども、ヴァンが帰ると決めた理由は、家族と向き合おうとしただけではないのだと、はっきりわかった。だからといって、彼に家族と仲良くなってほしい気持ちは変わらない。


「あまり期待しないでほしいけど、フィオ、俺も何かあったら戻ってくるから」


「うん」


「行くぞ、ヴァン」


 背後で待っていてくれた長兄に続いて、ヴァンは翼を広げる。


 期待しないでほしいと、ヴァンは言った。けれども、わたしは自信を身につけた彼と再会したいと期待しながら、飛び去った彼を見送る。


「行っちゃった」


 これでセルトヴァ城塞に残った旅の仲間は、アンバーとターニャの二人になってしまった。


 アーウィンは、わたしが起きたときにはもういなかった。ドゥールだけを残して、水竜たちは星辰の湖に彼を連れ去ってしまった。それでよかったのだと思う。

 うつむきそうになったわたしを、クレメントのくぐもった声が押しとどめてくれた。


「さて、姫さま。俺たちも、行くぞ」


「はい」


 ローワンとヴァンたちにやることがあるように、わたしにもやるべきことがある。

 セルトヴァ城に踵を返したクレメントの背中を追いかけた。


 昨日、ファビアンが聖典に記されていない真実を明かした部屋で、一枚岩のテーブルを北の戦士たちとアンバーとドゥールが囲んでいた。クレメントがアンバーの隣に、わたしを強引に押しこんでくれなかったら、とても彼らの中に混ざれなかったに違いない。

 ファビアンは、部屋の隅であーでもないこーでもないと言いながら、黒い星見盤をいじっている。朝からずっとだ。わたしだけではなく誰が話しかけても、彼は邪魔をするな、気が散ると、とりあってくれない。

 浮かない顔をしていたアンバーが、ため息をついた。


「フィオ、悪い知らせがあったところなんだよ」


 彼の視線の先には、一人だけ残ったドゥールがいた。


「お袋が、親父殿の呼びかけをずっと無視している」


「むぅ?」


 話が見えなくて、首を傾げてしまった。

 氷刃のディランとナターシャのことを言っているのだろうけれども、なぜ悪い知らせとなるのだろうか。

 その答えは、クレメントが教えてくれた。


「氷刃の奥方は、皇帝に呼び出されている。そう聞いていたがな」


「そう、それはよくあることだけど、親父殿の呼びかけを無視するなんてことは……」


「今日は、氷の刃でも降るのか。まさに、世界の終わりだな」


 クレメントの冗談は、笑えなかった。

 皇帝に呼び出されているというのは、ナターシャは移動宮廷にいるに違いない。星辰の湖にいた頃に、何度も文句を言いながら彼女が皇帝の呼び出しに応じているのを見ている。数日だけ離れるだけだと言うのに、毎晩ディランが水鏡越しに妻と話しているのもこっそり見ている。棍棒で殴られたりしているのに、ディランは本当にナターシャを愛している。よくわからないけれども、ナターシャも殴ったり蹴ったりしながらも、ディランを愛している。

 そのナターシャが、最愛の夫の呼びかけに応じない。

 きまり悪そうな咳払いが、響きわたった。ラトゥール砦の大将が、苦虫を噛み潰したような顔をしている。


「言っておくが、俺たちも事情を知りたいくらいだ」


 弟のニコラスも居心地悪そうだ。彼らだけではない。北の戦士たちが、そろいもそろって居心地悪そうにしてる。

 なんとなく、クレメントとわたしが来る前に何があったのか、想像できてしまった。


「もしかして……」


「もしかしなくても、親父殿は激怒してた」


 ついさっきまで、水鏡を通して凍え死ぬのではというほどの怒りをぶつけられたのだと、ドゥールは続けた。


「八つ当たりにしても、アレはひどかった」


 げんなりしたアンバーに、誰も何も言わない。クレメントも、わたしと同じようにホッとしているのかもしれない。

 ディランは、だてに最恐の水竜と恐れられているわけではないのだ。守り育てられてきたわたしは、ディランの最恐の顔を知らない。それでも、噂くらいは知っている。

 なんとも居心地の悪い空気を、クレメントの咳払いが追い払った。


「それで、真理派のほうはどうなっている? ライラの居場所はまだわからないのか?」


「正確なことはなにも。父さんたちが、手をつくして情報を集めてくれているけど、ライラがモーガルにいないってことくらいしか、確かなことは……」


 アンバーは悔しそうに唇を噛んだ。土竜もぐらたちや、モール商会の人脈を駆使しても、モーガルを去ったライラの動向がつかめないでいる。おそらく、ライラがモール商会を警戒しているのもあるのだろう。彼女は、土竜もぐらもモール商会の会長の正体も知っている。警戒しないわけがない。

 落胆を隠しきれないターニャが、肩を落とす。


「つまり、あたしたちは後手に回っているってことだよな?」


 彼女の言ったとおりだと、誰もが考えている。そう感じ取ったけれども、違った。


「そうとも言い切れないんだがな。こちらが後手に回っていると思いこんでいるなら、真理派も賢いとは言えないな」


 壁にもたれたファビアンが、星見盤をいじっていた手を止めて顔を上げる。


「まぁ、竜を殺す兵器とやらをこの国に持ちこんだ時点で、そもそも賢いとは言えなかったがな」


 視線を集めたファビアンは、つまらなそうに肩をすくめる。

 もしかしてと、ニコラスがためらいがちに口を開いた。


「ファビアンは、竜を殺す兵器がどういう代物か知っているのか?」


「まさか。あの鉄球をどうやって飛ばしたのか、見当もつかない」


 ニコラスとドミトリーの間に入りこんだファビアンは、星見盤をテーブルに置いた。黒い星見盤で、未来を見たのだろうか。世界竜族は未来を予見していた。その世界の中心の塔は、思い返せば巨大な星見盤だったのではと思う。


いくさを仕掛けようとしている真理派も、お前たちも戦を知らない」


 独り言のようにつぶやきながら、ファビアンは指先で星見盤のあわく輝く小さな星をなぞる。


「この難攻不落のセルトヴァ城塞が陥落した日――我が友イサークが、城壁から身を投げた日、どれほどの血が流れたか、お前たちは知らない。このセルトヴァ城塞だけではない。いたるところで、お前たちには想像もできない数の命が奪われた」


 伏せられた金色の瞳に浮かんでいたのは、哀悼だっただろうか。

 抑揚を抑えたファビアンの言葉は、まるでこれから多くの命が奪われるような戦が起きるという予見だろうか。


「――俺が竜王なら、もっともらしく続けられるだろうが、これが限界だ」


「む?」


 首をかしげると、ニコラスが芝居がかった様子で、ファビアンの顔を覗きこむ。


「ファビアン殿、竜王の椅子を蹴っ飛ばした我が友よ、この星見盤はなんだったのか、教えてくれないか? 星見ではないのか? モーガルで、俺たちの未来を予見したように、これからの戦の行く末を言い当ててくれるのか?」


 ふっと、ファビアンの口元が緩んだ。


「まさか。星見盤の使い道は、予見だけではない。今回は、移動に使う」


「移動?」


 ファビアンの指が止まる。石版の星の光が強くなる。


「行くぞ。厄介な男に会いに」


 ひどいめまいに襲われた。視界が歪んで白く濁っていく。とても立っていられずに、テーブルにしがみつこうとしたけれども、なにもつかむものがなかった。倒れる――そう確信したとき、誰かがわたしの腕を掴んで支えてくれた。その手の持ち主が、不満の声をあげる。


「あのさ、ちゃんと説明してくれてもいいと思うんだけど」


「最先端のアンバー。お前の地竜族の血が、一瞬で移動するという説明に、いちいち解説を求めなかったといえるのか?」


 不満の声――アンバーに答えたファビアンが言ったとおり、わたしたちは一瞬で移動していた。まだ言い募るアンバーに支えてもらいながら、めまいが治まるのを待った。


 どうやら、小高い丘の上にいるようだ。わたしの他には、ファビアンとアンバー、それからドゥールとニコラスがいた。昨夜、彼がベルン平原で皇帝と会うのに連れて行くと言っていた顔ぶれだ。第三皇子のニコラスはわかるけれども、アンバーとドゥールも必要らしい。その理由をわたしは知らない。そもそも、皇帝が会うと返事にあったのは、昼ではないか。今はまだ朝と呼べる時間だ。


 もう大丈夫とアンバーの手をほどいてもらってから、この丘から見下ろしているのが、ベルン平原だと気がついた。大小いくつもある天幕と、整列した人間と馬たち、それから風にはためく旗。それらが教えてくれた。


 ――ドン


 空気を震わせるあの音が、響いてきた。

 立っていられなかった。アーウィンの絶叫が聞こえてきそうで、耳をふさいでしまう。

 ラトゥール砦の大将が言ったとおり、真理派のやつらは竜を殺す兵器のために、鉄を手に入れようとしている。


「竜を殺す兵器、か」


 みんなが息を飲む中、ファビアンだけが平然としていた。いや、平然としていたのではない。恐ろしく冷ややかに平原を見下ろしていた。

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