城壁の上で、再び
ニコラスが霧を払ったときは慎重に上った階段を、わたしは駆け上がる。
その勢いも、ファビアンが振り返るまでのことだった。
「お前…………」
二つの満月のせいで、彼が呆れたように見下ろしているのが、わかってしまう。
あからさま過ぎて、ムカッとした。
「お前ってなに……くっしゅん!」
「風邪を引くぞと言いたかったんだがな」
何か言い返さなくてはと、口を開こうとするたびにくしゃみが出る。
勢いがなくなってしまったせいか、急に体が冷えてきた。毛皮のコートを抱えたまま、寒さに震えてしまう。毛布は途中で風に飛ばされて、もうない。かといって、借りっぱなしのコートを羽織るのも気まずい。
「着ろよ」
「いやよ……くっしゅん」
「いやよ、じゃないだろ」
震えて力が入らない腕の中から、彼はコートを取り上げてわたしの肩にかけてきた。わたしは、おとなしく袖を通すしかなかった。
「ごめん、なかなか返せなくって」
「返さなくていい。毛皮なら、他にもたくさんある」
「……ありがとう」
少し迷ったけれども、彼の寝床にあった毛皮の山を思い出して、素直に受け取ることにした。くしゃみを連発してしまった恥ずかしさが、今さらこみ上げてくる。彼はわたしの手首に手を伸ばしてきた。
「む?」
「リュックベンの女は、毛皮を嫌うようだが、我慢しろよな」
戸惑うわたしを尻目に、彼は毛皮のコートの袖を手首までまくりあげてくれた。
「リュックベンの女が、毛皮を嫌うなんて聞いたことがないわ」
「そうか? リュックベンでは、そのコートを羽織っていただけで、怪しい男呼ばわりされたがな」
まあいいと、困惑するわたしをよそに、彼は軽く首を横に振った。どうやら、この話は終わりにしたいらしい。
あとで知ったのだけれども、彼の毛皮のコートを馬鹿にしたリュックベンの女は、お姉ちゃんのリーナのことだった。お姉ちゃんのことだから、いきなり我が家に押しかけてきて、わたしに会いたいと言ってきた男は、このコートを着ていなくても、全員怪しい男呼ばわりしたに違いない。
右の手首まで袖をまくりあげてくれた彼は、くすんでしまった金の腕輪をそっと撫でる。
「まだ、名無しはなにも言わないのか?」
「うん」
「そうか」
手を離した彼は、落胆したように肩を落として前髪をかきあげる。
名無しの正体が、ユリウスだと教えられたらいいのに。
ついてこいという彼の身振りにしたがって、わたしたちは並んで城壁の上に座り込んだ。彼は片膝を抱えて、わたしはもらったコートの中で両膝を抱えた。下よりも風が冷たくて強かったけれども、胸壁を背にして座りこむと、いくぶんマシになったことに気がつく。なによりも、彼がわたしを二人きりになってくれたことに、今さらながら驚いた。わたしには、彼はまだ花嫁の存在に困惑して持て余しているような気がしていたから、意外だったのだ。
「あの、さ……今さらどうして、花嫁がって、驚かせちゃったよね」
彼は何か言おうと口を開いて、すぐに閉じる。ぼんやりのした灰色の城に視線をさまよわせてから、彼はようやく言葉を見つけたようだ。
「正直、まだ困惑している。別におま……フィオの存在を否定したいわけではないが」
わたしがお前呼ばわりをやめてほしいと言ったことを、ちゃんと覚えてくれていた。それだけのことなのに、体が火照るほど嬉しくて恥ずかしい。かじかんだ手に息を吹きかけて温めるふりをしながら、赤くなっているだろう顔を隠す。
まだ、嘆きの夜で犠牲になった世界竜族の命を使って、彼の花嫁――私の誕生を先送りしたことを告げられない。彼は、まだ嘆きの夜をユリウスが起こしたことだとは、知らないのだろう。もし知っていたら、わたしの存在にこれほど戸惑うことはなかったはずだ。
いつか、話さなくてはならないだろう。けれども、それは今ではない。そう言い聞かせて、先送りする後ろめたさを忘れようと努力する。
「それで、何しに来た?」
彼はぼんやりと城を眺めたまま尋ねた。どこか、呆れたようなげんなりした声が、夜の冷気に溶けて消える。
唇をしっかり湿らせてから、彼の横顔を見つめた。
「明日、わたしも連れて行って」
「は?」
彼はわたしが言ったことの意味が、すぐにわからなかったらしい。短い間の抜けた声を上げて目を丸くした彼は、どこか滑稽で少しだけ心がほぐれた。
「わたしも、ベルン平原に行く」
「お前……」
信じられないと頭を横に振って、彼は我に返ったようだ。
「お前、馬鹿なのか?」
「だから、お前じゃないし、馬鹿じゃないわ」
あまりの言い方に、わたしはムカッとして言い返す。
「いいや、馬鹿だろう。そもそも、お前になにができる? 遊びに行くんじゃないぞ」
金色の瞳は腹立たしいほど真剣で、まっすぐわたしを見すえてくる。
けれども、わたしだってここで引さがるわけにはいかない。背中を押してくれたクレメントのためにも、わたしが納得するまで引さがらない。
「そんなこと、わかっているわ。わたしは、しがないパン屋の娘だもの」
「だったら、ここでおとなしく待ってろ」
「嫌よ。ここでおとなしくしていたら、なにもできない」
「皇帝の前でも、お前はなにもできない。むしろ、また余計なことに口出しして……」
「わたしが、いつ、余計なことを口出ししたのよ!」
彼もわたしも、夜のセルトヴァ城に響き渡るのではというほど、大きな声で言い争う。
「しただろう! お前が、地竜の小僧をけしかけなければ、俺は始まりの竜王の出自まで明らかにすることはなかった」
「あれは……」
納得しそうになって、彼をにらみ返す。いけない。いいように言いくるめられるところだった。
「あれは、わたしが言わなくても、ヘイデンさまがアンバーに追求させたはずよ。もし、アンバーが追求しなくても、ヘイデンさまが追求して、真実を明らかにさせたに違いないわ」
チッと彼の舌打ちが聞こえて、あることないこと言って、わたしを言いくるめようとしたのだと、はっきり確信した。
腹立たしいこと、この上ない。
「それに、よかったじゃない。あなただって、あのときに全部明らかにできて、良かったと考えているんでしょ。みんな悪いようにはとらえなかったし、真実を明らかにしなかったら、あなたを竜王にって話がまだ続いていたかもしれない。なりたくないんでしょ、竜王に」
「なりたいとか、なりたくないとか、そういう問題じゃない!」
だんだん、彼に遠慮してきたことが、馬鹿馬鹿しくなってきた。と同時に、まだこんなにも遠慮していた自分に対しても腹立たしくなってきた。
なにが、しがないパン屋の娘だ。リュックベンの女だ。全然、らしくなかった。
何度も彼と話そうとしては、うだうだと悩んでいたのが、馬鹿みたいだ。
こんなことなら、もっと早く言えばよかった。
腹立たしさのおかげで、ここまで話せるようになったけれども、話を戻さなくてはならない。このままでは、わたしはここでなにもできないまま待つことになる。それは嫌だ。
「とにかく、わたしは明日ベルン平原についていきたいの。たしかに、なにもできないと思う。でも、ここでおとなしく待っているだけじゃ、わからないことがわかるはずだもの」
彼は、よしとは言わなかった。
「いいか、フィオナ・ガードナー。あの皇帝は、誰もが思っているよりも、ずっと厄介な男だ。ああ、そうだ。帝国の人間ですら、やつがどんなに厄介な男か知らない」
「それも、知りたいから行くわ。わたしは、皇帝を知らないもの」
「話しにならん。だいたい……」
「行くったら、行く!」
「子どもか!」
「もうすぐ十六歳よ!」
「子どもだろうが!」
「ローワンの奥さんだって、同い年じゃない!」
「マギーは関係ない!」
どんどん不毛な口喧嘩になっていく。
「とにかく、お前は連れて行かない」
「連れて行って」
しばらく、無言でにらみ合う。
少し前まで、彼の目をまともに見つめられなかったのが、嘘みたいだった。
「どうして、わたしを連れて行きたくないの?」
「お前がいても、何の役にも立たないからだ」
「それって、いてもいなくても一緒ってことよね? だったら、一人増えたところで、問題ないはずよ。それとも、なにか問題でもあるの?」
「くっそ、ああ言えばこう言う……」
いらだたしげに髪をかきむしる彼に、わたしはしてやったりとほくそ笑む。
「問題ないなら、連れて行きなさいよ」
「……おおありだってのに、くっそ」
それでも、わたしに直接言えないようなことは、問題ではないはずだ。
しばらく髪をかきむしったり、悪態をついてた彼は、わたしを納得させられる問題を見つけられなかった。観念したように肩を落として、小さくわかったと言った。
「わかった。連れて行く。連れて行けばいいんだろう。くっそ」
「やっ……ありがとう」
手を叩いて喜びたいのをこらえるのが、大変だった。さすがに、遊びに行くわけないことくらいわかっている。
けれども、彼は怖いくらい真剣な顔をした。
「いいか? 皇帝の前では、ひと言も喋るな。ひと言もだ。いいな」
「むぅ。まるで、わたしがひと言でも喋ったら、うまくいかないみたいじゃない」
そうじゃないと首を横に振って、彼は顔を寄せてくる。息がかかるほど近くの顔に、わたしは思わず後ろに手をついて、のけぞってしまう。
「お前が喋ろうと喋るまいが、皇帝は俺たちと手を結ぶ」
「え?」
彼の意外な言葉に、わたしはまばたきを繰り返す。
それは、皇帝を説得する自信からくるものなのか、それとも別の理由からくるものなのか、わからない。けれども、彼は皇帝が聖王国ではなく、竜族と手を結ぶことを、少しも疑っていないようだった。
「でも、さっき厄介な男だって……」
「ああ、言った。できることなら、奴とは関わりたくなかった」
ため息をついて身を引いた彼は、皇帝がどうして厄介なのか、説明する気はなさそうだった。追求したかったけれども、思いとどまることにした。ただでさえ、わたしの無理を聞き入れてくれたのだから、下手なことを言って機嫌を損ねるのはよくない。明日、ベルン平原に行けば、ルカ帝がどんな厄介な男か、少しくらいはわかるだろう。
「とにかく、お前……フィオはもう寝ろ」
「うん、あなたはまだ起きているの?」
明日のために広間に戻って休もうと立ち上がるけれども、彼はまだ片膝を抱えて灰色の城を眺めている。
彼の金色の瞳に、もう先ほどまでの真剣さと必死さはどこにもない。夜風のように、冷たくなっていた。
「まぁな」
「……おやすみなさい」
本当は、ここに残って花婿のかたわらで夜明けを迎えたい。まだまだ話したいことはたくさんある。たぶん、ひと晩じゃ話しきれないほどに。
けれども、それは今夜ではない。
――焦ることはない。
月明かりを頼りに階段を降りる途中で、ユリウスの声が聞こえた気がした。
たぶん、気のせいだろう。腕輪は、まだ輝きを取り戻していない。
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