二種類の後悔

 夜が来て、二つの満月が昇り星明りを消し去ってしまった。

 もう慣れてしまったのだろうか。もう二つの満月を、不吉だとは感じなくなっていた。それが、いいことなのか悪いことなのか。

 風竜のヴィクターの風が草を刈った前庭は、ラトゥール砦の戦士たちの野営地となっている。先程までずいぶん賑やかだったけども、ようやくみんな寝静まろうとしていた。もちろん、わたしも仲間たちも。


 わたしも城内の広間で、クレメントが持ってきてくれた毛布にくるまって寝るつもりだった。けれども、どうにも眠れない。これまでの旅では、必ずターニャとライラのどちらかと一緒に眠っていた。ターニャは、おそらく婚約者と一緒にいるのだろう。一人きりで横になるのは、故郷のリュックベン以来だろうか。


「むぅう」


 何度、寝返りを打ったのだろう。寝心地が悪いわけではない。確かにタイルを敷き詰めた床は硬いけれども、これまでの旅でもっとひどい寝心地を経験しているから、それほど気にならない。

 それなのに、一向に眠気がこない。

 考えないように。考えないようにと言い聞かせれば聞かせるほど、頭が冴えてくる。


 寝返りを打つ。

 まぶたを閉じ続けるのに疲れて、開いた目に月明かりが差しこむ広間が見えた。

 黒いタイルの床。それから、折り畳んだ毛皮のコート。


「むぅ。いい加減、返したいのに」


 返せなかった。

 まだ、ファビアンとうまく話せない。理由はわかっている。花婿だと意識してしまうから。明日は彼についていこうという決意も、まだ伝えていない。言わなくてはと気持ちばかりが空回りしているうちに、決意そのものがすっかりしぼんでしまったのだ。二度と膨らまないような気がしている。わたしがいったところで、何もできないとわかりきっている。わかりきっているんだ。


 寝返りを打つ。

 天井は、暗闇に溶けこんでいるかのようだ。急に体が内側から冷えて、毛布を頭の上まで引き上げる。

 ローワンは新妻のマギーと一緒にどんな夜を過ごしているのだろうか。どうしても考えてしまう。曖昧にしか想像できないけれども、いや曖昧な知識しかないせいで、体が火照ってくる。


「むぅ!」


 思わず毛布を跳ね飛ばしてしまった。

 火照った顔に、夜の空気が心地よかった。

 眠れないなら、じっとしていることもない。逆に眠れなくなる。毛布をはおり、毛皮のコートを抱えて、広間をあとにする。

 アーウィンが水球の中で眠っている中庭には、足が向かなかった。まだ、わたしは彼に向き合うことを恐れているのかもしれない。


 セルトヴァ城塞は、安全だ。少なくとも敵はいない。北の戦士たちはちょっと怖いけど、手を出してくることはないはずだ。わたしは、世界竜の花嫁だと紹介されている。ファビアンは、この世界の頂点に君臨することを否定した。けれども、古の竜族の生き残りであることには変わりない。

 疑念も困惑もあったはずだ。今でもあるはずだ。北の戦士たちだけでなく、仲間たちや、人間にも竜族にも、わたしの中にも。


 野営の賑わいも、篝火も、夜ふけにふさわしくなっていた。

 とても静かだけども、わたしは一人ではないと明るすぎる夜が教えてくれた。


 あの後、ファビアンたちの話し合いは、情報交換へと変わった。

 当然だけども、聖王国の南の橋の街で起きたことは、まだ北の帝国に伝わっていなかった。小ロイドの殺戮の話もあわせて、竜の森を代表する立場にあるクレメントが先にラトゥール砦の大将に打ち明けた。

 ドミトリーは驚きに目を見張ったものの、意外なことに疑うことはなかった。しばらく腕を組んで思案した後に、大将は日に焼けた右頬に走る傷跡を指でなぞる。


「……タイミングがよすぎるな。暗黒地帯を越えてきた連中は、こうなることを知っていたとしか考えられん」


 重苦しいため息をついて、ドミトリーは副官らしい壮年の戦士を見やる。けれども、大剣を背負った副官は大将に満足な答えを口にできずに、軽く首を縦に振っただけだ。もう一度、大将はため息をついた。先ほどよりいくぶん軽そうだったけれども、続けて彼の口からもたらされた情報は少しも軽くはなかった。


 ヒュウと音を立てて夜風が襲い掛かってくる。毛布をかきあわせたけども、コートをはおる気にはなれない。


 数日前に聖王国の使者が竜を殺す兵器を携えて暗黒地帯を越えてきたと、ドミトリーは言っていた。おそらく明日、ベルン平原で皇帝が直に会うとも。

 たしかにタイミングがよすぎる。水竜の水鏡で各地の動きを共有していたのではないかと考えてしまった。もちろん、そんなことはないはずだ。偶然に違いないそう言い聞かせたけど、わからない。

 わからない。小ロイドは、ライラのことを知っていた。おそらくヘイデンもだ。


 考えないようにと、気分転換に夜風に当たろうとしたのに、余計に考えてしまっているではないか。

 ファビアンが寝床にしていた井戸に向かっていたことに気がついて、足を止める。と同時に、背後からくぐもった声が聞こえた。


「姫さま?」


「むっ!」


 振り返らなくても、クレメントだとわかった。足を止めたわたしに、彼は城門のほうから歩み寄ってきた。


「眠れないのか?」


 わたしがこくりとうなずくと、彼は肩をすくめた。どうやら、彼も同じらしい。


「明日の朝、ローワンと新妻を陽炎の荒野に帰らせる」


「え?」


「旅の目的は達成された。あいつは親なしで、家族を欲しがっていたからな」


 そう言われては、反対できない。もっとも、反対する理由もなかったけれども。


「それから、風竜の奴らも月影の高原に戻るそうだ」


「ヴァンたちも…………わかりました」


 小ロイドはもういない。まだ彼がしたことが信じられないでいる。信じたくないだけかもしれない。月影の高原が大変なことになっているのは、わかっているつもりだ。けれども、やはりわたしはそこまで考えられる余裕がないと認めざる得なかった。

 なんて、情けないのだろう。

 唇を噛んでうつむきそうになる。けれども、赤い手袋に顎を掴まれて顔を上げさせられてしまった。


「むっ?」


「考えすぎるな」


 仮面越しでも充分すぎるほど、彼の呆れた響きが伝わってくる。顎をつかんだ手袋はゴワゴワして痛い。早く離してほしいけど、おとなしく彼のくぐもった声に耳を傾けなくてはならない。そんな気がする。


「姫さまは、考えすぎると身動きができなくなる」


 灰色の仮面は、無機質で彼の表情をすべて隠してしまう。それなのに、彼はわたしの心を見透かしてしまうのだ。

 そんな彼が、ずっと恐ろしかった。けれども、どうしたことだろう。今は、泣きたくなるくらい心強いではないか。ここ数日泣いてばかりで、もう泣きたくないのに、目頭が熱くなる。と、クレメントの分厚い手袋の指先が、わたしの顎から頬に移動する。

 むにっと頬を掴まれたわたしは、さぞかし不細工なことになっていたに違いない。恥ずかしいやら、腹立たしいやらで、彼の手を払い除けたときには、涙は消えていた。


「何するんですか、クレメントさま」


「少しは元気が出たようだな」


 くぐもった笑い声は、不思議と腹が立たなかった。むしろ、心配してくれてたのだと、申しわけなくなる。今うつむいてしまったら、せっかく元気づけようとしてくれた彼をもっと困らせることになるだろう。どうしたらいいのかわからないうちに、彼は笑うのをやめた。


「姫さまは気がついていないだろうが、昼間からずっと眉間にしわを寄せてうつむいてばかりだったぞ」


「すみません」


「謝ることはない。この二三日であまりにも多くのことが起こりすぎた。整理しきれていないことも、たくさんあるだろうよ」


「はい」


 そのとおりだ。

 赤い手袋をはめた大きな手に促されるまま、彼と並んで歩く。

 伸び放題だった枯れ草が刈り取られた庭は、最初の夜ほど寒々しくなくなっていた。


「俺はな、後悔には二種類あると考えている」


「二種類、ですか」


「取り返しのつく後悔と、取り返しのつかない後悔。わかるか?」


 わたしは首を横に振った。


「後悔のない人生など、ありはしない。そんなもの、生きたとはとても言えないだろう。取り返しのつく後悔は、挽回する原動力となることもある。それに、時が経てば後悔が別の物に変わることだってある。もちろん、忘れることだっていつかはできる。…………だがな、取り返しのつかない後悔だけは、姫さまにしてほしくない」


 冷たくて無表情のはずの灰色の仮面が、とても悲しく見えた。

 毛皮のコートを抱える腕に力がこもる。わかってしまったのだ。彼が言う取り返しのつかない後悔がなんなのか、わかってしまった。

 聞きたい話ではない。けれども、聞かなくてはならない話だと、わかってしまった。


「どうすれば、妻と息子を失わずにすんだのか。今でも考えてしまう」


 さらに、コートを抱える力が強くなったのがわかる。

 クレメントのくぐもった声は、淡々と響く。それが、ひどく悲しくて切ないのだ。

 城に沿って歩く。頭上高く昇った銀のシャール月が、わたしたちを静かに照らしている。


「ロッテに里帰りさせなければよかったのか。清涼の泉が枯れたとき水竜どもに頭を下げていればよかったのか…………」


 どちらからともなく、わたしたちは足を止めた。

 わたしが、水竜に助けを求めるべきだったと言うのは、とても簡単なことだ。わたしだけでなく、彼がしたことを知っている者は、みんなそうするべきだったと言うだろう。愚かなことをしたと、クレメントを哀れむだろう。

 乾いていた唇を湿らせて、わたしは慎重に言葉を選んだ。


「少なくとも、人を殺すのはよくなかったと思います」


 それなのに、情けないほど空虚な言葉しか出てこなかった。

 クレメントの仮面は、銀のシャール月の光を浴びて骨のように見えた。恐ろしくはない。ただただ胸がしめつけられる。

 彼はただ守りたかっただけだ。美しき陽炎の荒野の誇りを守るために、自らの手を汚すことを厭わなかった。誰かを排除するために、想像もできないような大金を惜しまない人間がいることを、陽炎の荒野で知った。彼は密かにそうした人間たちと接触して、水を買うための金を得ていた。詳しいことまでは、知らない。知る必要もないだろう。

 かつて火剣のクレメントと呼ばれた火竜が、密かに暗殺者に成り果てた。彼の妻と息子が真理派の人間に殺されたのは、彼が奪ってきた命の報復でもあった。

 ただ守りたかっただけだ。愚かなことをした。大きな代償を払うことになった。


「取り返しのつかないことをした。俺ほど愚かな火竜は、後にも先にもいないだろうよ。……ロッテに俺の不甲斐なさをぶつけた夜は、数え切れない。ローワンを親なしにしたのも、俺のせいだ。それこそ、清涼の泉が枯れる前にも、取り返しのつかないことを避けられるチャンスはあった」


 一度淡々とした言葉を切り、クレメントは銀のシャール月を見上げた。



「む?」


 それは、ファビアンがドミトリーに言った台詞ではないか。

 くくっと喉を鳴らして、クレメントは続ける。


「俺がまだ火剣のエドワードの息子だった頃に、ある男が言った言葉だ」


 それはどういうことだろうかと彼を見上げるけれども、白っぽくなった仮面からは何も読み取れない。


「あの夜のことは、どうしても忘れられなかった。清涼の泉は枯れてこそいなかったが、すでに半分ほどの水量に減っていた。誰かが必要以上に水を奪わないようにと、毎晩寝ずの見張りを立てたが、誰も枯れるなどとは夢にも思わない。わかるか? 一度も枯れたことのない泉だ。それも、古の竜王から賜った泉が枯れるわけがないと、誰もが疑いもしなかった。年が変われば、また前のように満たされるだろうと、な」


 そう、クレメントはシャール月に向かって嘆くように息を吐き出した。


「あの夜も、銀のシャール月がきれいに輝いていた。人間の隊商がやってきたその日ということもあって、歓迎の宴を開き賑やかな夜だったよ。だが、その宴のさなかに、泉に入ろうとした人間がいた」


 その不届きな人間は、左目に大きすぎる眼帯をした青年だった。

 先代の火竜族の長の前に引きずり出された青年は、年代物の宝飾品と引き換えに清涼の泉に立ち入らせてほしいと堂々と訴えたらしい。

 当然、火竜たちは古の竜王から賜った唯一の水源に近づくことすら、人間たちに許さなかった。


。まったく、その通りだったのにな。価値のある宝飾品と、たったコップ一杯の水。悪い話ではなかったのにな」


「その男を追い出したのですか?」


「いや、荒野に追い出すほど、俺たちは非道ではない。だが、男の要求を突っぱねたことには、かわりない。一晩納屋に閉じ込めて、隊商に警告とともに引き渡す――はずだった」


「はず、だった?」


「ああ。朝になると、納屋はもぬけの殻で、隊商の人間たちに問い詰めても、眼帯の男などいなかったと口をそろえて言う。おかげで、忘れられない夜になった。あの時、水を分け与えていれば、枯れることはなかったかもしれない。…………ふん、今さら考えてもしかたないことだがな」


 肩をすくめた彼は、姫さまと真摯な口調で続ける。


「愚かな俺は、取り返しのつかない後悔を抱えている。これからも、死ぬまで抱え続けるだろうよ。姫さまには、そんな後悔を抱えてほしくない。姫さまが愚かな選択をしようとしても、俺が止める。俺だけではない。竜の森の全ての竜とおんなたちが、止めるだろう。姫さまは、それほどまでに愛されているのだからな」


 ゴワゴワした手袋で頭を撫でてくる。いくぶん口調を和らげた彼は、仮面の向こうできっと優しい笑みを浮かべているに違いない。


「何もしなかったとこを悔やむほど、くだらないことはない。せめて、何がしたいのかはっきり言ったほうがいい。さっきも言ったが、もしそれが取り返しのつかないことになろうだろうと判断したら、俺が止める。だから、考えすぎるな」


「…………」


 クレメントは、いったいどこまでわたしの胸の内を見透かしていたのだろうか。

 骨のように冷たくて悲しかった灰色の仮面が、暖かく見えるから不思議だ。

 彼のおかげで、ようやく何がしたいのかはっきり言うことができる。


「わたしは…………」


「おっと、姫さま」


 せっかくわたしの決意を口にしようとしたのに、クレメントはおどけた様子でさえぎってきた。


「姫さま、何がしたいのか言うべき相手は、俺でよいのかな?」


「むぅ?」


 彼は城壁のほうを見上げる。どういう意味だろうと困惑したまま、彼の視線を追いかけると、城壁の上に一人たたずむ黒い人影があった。

 その人影が誰か、考えるよりも先にわかってしまった。


 コートを抱えている腕の力が抜けていたというのに、またぎゅっと抱きしめるように力がこもってしまったではないか。


「行って来いよ」


 背中を押してくれたクレメントに、頭を下げるのが精いっぱいだった。


 ファビアンがたたずんでいるのは、ちょうどニコラスがイサーク帝の剣をかかげた場所だ。

 はおっていた毛布が風に飛ばされても振り返らずに、わたしは城壁の上に駆け上がる。

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