呪いの正体

 灰霧城塞――霧が晴れたから、これからはセルトヴァ城塞と記そう――セルトヴァ城塞は、いわゆる城塞都市だ。月影の高原へと続く断崖絶壁の下に広がる黒の森の北にある。セルトヴァ城塞の西には、暗黒地帯の入り口。北には、ベルン平原が広がっている。

 暗黒地帯は、盗賊や祖国から逃亡してきた罪人が集まる不毛の地だ。イサーク帝が大陸統一を掲げた混乱の時代以降、西の聖王国と北の帝国はあえて暗黒地帯を放置してきた。それが、西と北の大国の関係の象徴でもあった。混乱の時代の前は、交易の拠点としても栄えた街だったとされている。その富を守るために、鼠一匹通さないとうたわれた城壁は、今となっては無残な姿に変わり果てていた。


 崩れた城門から都市部に進んだドミトリー皇子は、軽く眉をひそめた。


「過去の栄光もなんとやら、だな」


 彼はかつての栄光をそのまま目のあたりにできることを期待していた。

 人の往来が途絶えなかったという、大通りの石畳は至る所で土をむき出しにして曲がりくねった木が育っている場所もあった。

 イサーク帝が城壁から飛び降りて、もう八百年以上経っている。いくら不気味なきりに閉ざされていたとはいえ、過去の栄光をとどめておくことはできなかったらしい。


 先頭を行くドミトリーと彼が引き連れている小隊の歩みが遅くなる。


 廃れた大通りの両側に並んでいる崩れた煉瓦の山から、かつての城塞都市を想像するのは難しい。それでも、帝国に生まれたものなら誰もが知っている灰霧城塞の有様に、何かしらの思いがこみ上げてきたのだろう。

 先頭を行くドミトリーは、すでに悲観的な思いを振り払っていた。彼が求めるのは、廃墟でしかないセルトヴァ城塞ではない。

 ラトゥール砦の大将として、ドミトリーは西の暗黒地帯ににらみをきかせている。屈強な体に父親譲りの紺碧の瞳で豪快に笑う姿は、砦の軍人たちのみでなく、多くの帝国の戦士たちを魅了していた。

 そして今、彼は背後の戦士たちに笑いかけた。


「お前ら、しみったれた顔をするな。いいか、俺が求めるのは、サイファだ。ラトゥール砦の大将であるこの俺にふさわしい武器を手に入れに来たことを忘れるな!」


 するとたちまち、五十人ほどの小隊を取り巻いていた陰鬱な空気が払拭された。

 誰もが、音に聞く至高の武器を大将の腰にと願っている。


 部下の士気があがったところで、ドミトリーは険しい顔で正面の城をみすえた。

 明け方近くに、彼らの頭上を火竜が追い越していったことに気がついていた。はっきりと確認したわけではないけれども、あれは灰色の仮面をかぶっていた。彼は火竜族の長と直接関わったことはない。混乱の時代以降、帝国は陽炎の荒野の火竜族とは疎遠になっている。火竜族が忌み嫌うサイファ製の武器を、喜んで渡してくれるわけがない。


「ま、引き返すのはもってのほかだがな」


 もとより、楽観的な性格をしているドミトリーはなるようになると険しい顔を崩した。




 ラトゥール砦の大将ドミトリーがセルトヴァ城の城門をくぐったとき、日が西に傾いていた。

 それから、ずいぶん影が長くなっている。


 帝国との最初の対話は、セルトヴァ城の前庭で行われている。

 ラトゥール砦の大将と呼ばれるドミトリー・ルカーチ・フェッルムは、ルカ帝の二番目の息子。ニコラスとは腹違いの兄だ。暗黒地帯ににらみをきかせているラトゥール砦の指揮官だけあってか、わたしのお父さんが小さく見えるほどたくましい体つきの武人だと思った。

 セルトヴァ城の前庭には、ファビアンの他に、城主として頑丈な椅子に座ったニコラス、クレメントとローワンとマギー、アンバーとドゥール、ヴィクターが、ドミトリーと彼が引き連れてきた帝国人と向き合っていた。わたしとターニャは少し離れたところで、見守ることしかできない。


 ファビアンは、まだ目を白黒させている大将に語り続けている。もはや交渉とは呼べないほど、ファビアンが一方的に話し続けていた。まるで別人のように堂々としている。それは、古の竜王を彷彿させるほどに。やはり、ユリウスの息子だと思い知らされた。


「繰り返すが、ラトゥール砦の大将よ、北の帝国にとって悪い話ではない。城塞の再建も竜族に任せればよいし、サイファを再び手にすることもできる。悪い話どころか、よすぎる話ではないか」


 にこやかに笑う彼に、頑丈な椅子に座ったニコラスが居心地悪そうにもぞもぞと体を動かす。わたしなどより付き合いが長いせいか、おそらく彼の豹変ぶりが居心地悪いのだろう。


 口を挟まないと約束させられたクレメントは、いつファビアンに飛びかかっていかないかと、背後に控えているローワンは気が気でなさそうだ。少し離れたところで見守るしかないわたしでも、クレメントが仮面の奥で醜く焼けただれた顔を怒りに歪めているのがわかる。


 ファビアンがあらかじめ彼と約束を交わしたのは、彼が激怒するとわかっていたからだ。そう、クレメントは激怒している。

 当たり前だ。

 サイファを再び鍛えるなどとファビアンが言い出したときでも、彼の周囲の空気が一気に張り詰めた。その上、武器庫に眠っていたサイファの輝く長剣を振り下ろしたファビアンは、武器としては三流だと火竜族の誇りを傷つけた。

 誰よりも火竜であることを誇りにし、美しの陽炎の荒野を愛するクレメントが激怒しないわけがない。


 けれどもファビアンが言ったことは、事実だ。

 ものづくりに長けた火竜族でも、人間があつかう武器類は、カヴァレリースト帝国の鍛冶師に劣る。そう言われなければ気がつかなかったけれども、竜族には剣や弓矢などという武器は必要ない。だから、必然的に鉄と毛皮の帝国に劣るのだ。

 クレメントが飛びかかろうとしたのをローワンが必死で止めたことも、それが事実であることを決定づけている。


「もっとも、これらの話は大将には荷が勝ちすぎるだろうな」


 だからと、ファビアンはにこやかに笑って右手を頭上に掲げた。

 何か起きるのかと、誰もが固唾をのんだ。竜族の王族と呼ばれている世界竜の力を、理解している者はここにはいない。世界竜族も、他の四竜族と同じように自分たちの力を知られないようにしてきた。

 わたしたちが息を飲みながらファビアンの右手を見つめていると、一羽の大きな鳥が舞い降りてきた。その見たこともないほど大きな鳥は、群青色の体に臙脂色の見事な羽冠と尾羽根を持っていた。鋭く気高い鳥の名前を、私は知らなかった。ファビアンの右肘で羽を休めた姿は、それだけで美しい絵のようだった。


「嘘だろ、スラヴァ鳥……」


 隣りにいたターニャが信じられないと、目を見開いて呆然としていた。よく見れば、ターニャだけでなく、椅子に座った飾り物の城主ニコラスも、ドミトリーとその部下たちも、帝国の人々はみなその鳥の登場に驚きおののいている。

 ターニャの軽く袖を引っ張ってどういう鳥なのか尋ねようとしたけども、だめだった。彼女は完全に鳥に魅せられていた。


 あとで興奮した彼女から嫌というほど、スラヴァ鳥の伝説を聞かされるとは、この時はまだ夢にも思ってなかった。

 そう、ファビアンに片足を差し出して結つけられた書簡を解いてもらっている鳥は、伝書鳩代わりに使っていいような鳥ではなかったらしい。


 カヴァレリースト帝国で、スラヴァ鳥は開国の皇帝を導いたとか蛮族との戦いを勝利へと導いたとか、とにかく吉兆の鳥として語り継がれているらしい。帝国人にとって、飛ぶ姿を目にするだけで三代先まで幸福を約束されると言われるほどの、鳥らしい。なるほど、ドミトリーが率いてきた屈強な男たちの中には感極まって涙ぐんでいる人も少なくない。


 書簡を広げたファビアンは、満足そうに目を細めてニコラスを振り返った。


「ニール、もうすぐ日が暮れる。同胞をもてなしてやれ。すべては明日、決まる」


 スラヴァ鳥に目と心を奪われていたニコラスに、彼は書簡を押しつける。我に返ったニコラスは、書簡に目を通す。うげっと城主らしくない声をもらす。


「…………嘘だろ、明日って、うわぁ」


 それは、ファビアンがあらかじめ彼に書かせた皇帝への書簡の返事だった。

 頭を抱えたニコラスに、ファビアンがクスリと笑ってドミトリーに向き直る。


「明日の昼、ルカ帝にあらためてこのセルトヴァ城塞の話をしよう。もう日が暮れる。もてなしらしいもてなしもできないが、今夜はこのセルトヴァ城塞で、ゆっくりと休むがいい」


 ドミトリーは、頭を抱える異母弟を見やってなんとも言えない表情で肩をすくめる。もう、どうとでもなれという、諦めもあっただろう。

 ため息をついて、大将はなげやりな様子で部下たちに野営の指示を出していく。


 かすかに疲労をにじませた笑顔で肩の鳥の頭を撫でるファビアンの横顔を見て、わたしはふと気がついてしまった。


 これが、世界竜族の呪いだったのだ。

 人を言いくるめる堂々とした姿は、やはり偽りだ。

 わたしにとって傲慢で腹立たしいユリウスを、あのライオスは最期まで尊敬していた。おそらく――あくまで、わたしの想像にすぎないけれども、ユリウスもまた、竜王として求められる姿を演じていたにすぎないのではないだろうか。演じ続けなければならなかったのは、最弱の竜だったという過去を暴かれたくないという恐れがあったから。

 わたしだって、あまり他人に知られたくないことはある。それが暴かれたときを思うだけで、嫌われるのではないかという恐怖もわかる。ただ、聖典を書き換えてまで隠そうとした真実と、わたしの恥ずかしい話では推し量りようもないけども。


 人が増えて慌ただしくなるなか、夜が訪れる。

 わたしは、これから何ができるのだろう。わからない。でも、誰かに教えてもらうのを待っているのは、嫌だ。

 何ができるかわからないなら、わたしにできることはないのだろうか。


 ライラのこと――つまり、真理派のこと。

 ユリウスが言っていた世界が揺り起こされたこと。

 書き換えられた真実のこと。

 わたし自身のこと。


 そう、わたし自身のことだ。


「決めたわ。わたしは前に――未来に進むしかないの。立ち止まってなんていられない」


 慌ただしくなる城塞で、わたしの小さな決意なんて誰の耳にも届かずに黄昏の空に消える。

 それでも、前に進み出すには必要なことだった。


 何ができるかわからないけれども、その一歩を踏み出さなければ、わたしはずっとみんなに守られたのままだ。そんなのは、絶対に嫌だ。





 ――

 ベルン平原の北の天幕で、ルカは一人で酒を煽っていた。味はわからない。ただ、高揚した気分を酒のせいだと、言い訳がしたかっただけなのかもしれない。


「まぁ、どうでもよいがな」


 ククッと喉を鳴らす彼は、酔っていた。歓びに酔いしれていた。

 もう叶うことはないと諦めていた望みが、ようやく叶うのだ。


 昼下がりにスラヴァ鳥が運んできた放蕩息子からの書簡は、思いがけない歓びを彼にもたらした。


 今このときばかりは、何もかもがもうどうでもよかった。南の都市連盟と竜の森の忌々しい共同声明も、西の聖王国の不穏な動きも、竜を殺す兵器も、暗黒地帯のことも、まるで夢物語のように現実離れしていた。


「クククッ、ファビアン、会いたかったぞ。ずっと、ずっとな」


 抑えきれなくなった歓びが、狂ったような哄笑に変わる。

 もう酒を煽っていたことも、彼は忘れてしまったのかもしれない。

 それほどまでに、彼は歓びに酔っていた。


「…………ハハハハッ、ハハッ」


 ひとしきり笑って、シワの目立つ無骨な両手で顔を覆いうつむく。

 立ち入ることはもちろん、天幕に近づくことも禁じておいてよかったと、戻ってきた理性が苦笑いする。


「ファビアン、ファビアン…………」


 彼は、両手の向こうで何度も特別なその名前をつぶやいて、ようやく顔を上げた。

 北の帝国では珍しい紺碧の瞳に、歓びはない。


「ファビアン、今度こそ思い知らせてやる」


 そこにあったのは、純粋な闘志だった。

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