始まりの物語 〜名もなき竜の呪い〜
一なる女神さまが竜族からメスを奪い、もっとも強き竜族が種を残すために人間と共存せざるえない条件を受け入れた――それが、この世界に生きる人間と竜族なら誰もが知っている聖典だった。
誰もが息をのむ中、ファビアンの淡々とした声だけが響く。
「一なる女神さまは、名もなき竜にそのわけをお尋ねになられました。
名もなき竜は答えます。
『もっとも強き我らからメスを奪い、人間の女を妻として迎え入れることで、子孫を残せるようにすれば、我らは決して人間に鋭き牙をむくことはないからです』と。一なる女神さまは、名もなき竜の答えに満足され、地上からメスの竜が姿を消しました。みな、楽園に迎えられたのです」
たった一頭の竜の訴えが、地上から竜のメスを消し去った。何百、何千という命が奪われたのだ。それが、一なる女神さまがされたことだとしても、ぞっとする。
聖典を書き換えたことの恐ろしさを、本当の意味で突きつけられた。
ファビアンの淡々とした声で紡がれる真実の物語は、まだ続く。
「名もなき竜は、一なる女神さまに訴えました。
『わたくしに力を与えてください。ひと口にもっとも強き竜族といっても、強さを競い続ける四つの竜族にわたくしのような者と、まとまりはございません。ですから、わたくしがすべての竜族の王となるべきだと考えました。どうか、わたくしにすべての竜族の王となる力をお与えください』と。
一なる女神さまは、一つの条件を与えました。
『名もなき竜よ、その力をみだりに使わないよう、一つだけ条件を与えます。竜の王となるそなただけでなく、そなたの
名もなき竜は、迷うことなく答えました。
『はい』と。
こうして、一なる女神さまは、名もなき竜の訴えを聞き届けられました」
ふぅと、ファビアンが息をつく。その横顔には、さっき見たホッとしたような柔らかい表情はなかった。隠しきれない陰りがあった。
ひどく頭が混乱していた。
なぜ、始まりの竜王は一なる女神さまの行いを書き換えたのか。
なぜ、始まりの竜王は竜族のメスを奪えばいいと訴えたのか。
なぜ、始まりの竜王は力を求めたのか。
そもそも、始まりの竜王とはどういう竜だったのだろうか。
今まで一度も抱いたことがなかった疑念で、頭がくらくらする。
混乱していたのは、わたしだけではない。沈黙が、そう教えてくれた。
ただ一人アンバーだけは、まだ何か知りたそうに追求しる。
「それだけ? 他になにか隠していることは……」
「聖典に書かれるべきだった事柄は、それだけだ」
もういいだろう。もう充分だろうという、ファビアンの声が聞こえてくるようだった。わたしも、もう充分だ。ゆっくりしっかり考えて頭を整理したい。もっとも、その前にじきに来る帝国の小隊を、灰霧城塞に招き入れなければならない。
ファビアンは、やるべきことを話し合いたいはずだ。
小さく、それでいて深く息を吸って吐いた。旅の仲間のリーダーとして、しっかり言わなければいけない。アンバーが納得するまで、今は彼の追求に付き合う必要はないということを。
「アンバー、気になることがあるみたいだけど、こうしている間も帝国の小隊がこっちに向かっているんだから」
「そうだけど……」
アンバーは、引き下がりたくないようだ。
もう朝とは言い難い頃だというのに、彼は何をそんなに追求したいのか。わたしは、はっきりと苛立っていることを自覚した。
「いい加減にしなさいよ。何を確かめようって……あっ」
言葉にして、初めて意識してしまった。
アンバーは、何か知っているのだ。追求したいというよりも、確かめたいのだ。
あらためて、視線が集中する中で、彼は肩を落として本を閉じた。
「フィオの言うとおりだね。もうすぐ、お客さんが来る。今はそちらのほうが、大事だ」
そう言ったけれども、彼の本心ではないはずだ。やはり、彼は何かを知っていて確かめたがっている。気がついてしまうと、知りたくなる。いったい何を確かめたがっているのだろうか。一なる女神さまとのやり取りの他に、何かを隠しているということにほかならない。
複雑な気分だった。これからやってくる帝国の兵士たちのことが最優先だというのに、知りたくてしかたない。知らなくてはという気すらある。今、知らなくてはいけない。何かが警告しているような、複雑な気分だ。
ファビアンの横顔は、うんざりしているようだった。けれども、アンバーの追求から逃げたいという雰囲気は感じられなかった。
ため息を一つついて、顔を上げる。
「何が知りたいんだ。聖典に書き記されるべき事柄は、あれだけだ。他に何が知りたいと言うんだ」
この際だから、ということだろうか。
せっかく彼が尋ねてくれたというのに、アンバーは目を伏せて口をつぐむ。
このままでは、すっきりしないままで終わってしまう。もしかしたら、この先知る機会はないかもしれない予感すらしている。だというのに、アンバーはなにをためらっているというのだ。
「ねぇ、アンバー。何か……」
『何を黙っている』
苛立ったわたしの声を遮る声が、水鏡の向こうから聞こえてきた。
よく知る深みのある声に、アンバーが弾かれたように顔を上げる。
「父さん?」
水鏡の向こうで、ディランは険しい顔で振り返った。
アンバーは心配そうに水鏡を見つめるけれども、ディランの周りは暗くてよく見えない。
もしかしたら、初めから浩然の館の惨状を見せまいと、意図的に彼以外映らないようにされていたのかもしれない。今さらだったけれども、わたしが知らないところでも大変なことが起きているのだと思い知らされた。追い打ちをかけるように、クレメントが仮面の奥で舌打ちをする。
「……無理しやがって」
アンバーは、クレメントを泣きそうな顔で見上げてから水鏡に目を凝らす。
「父さん、大丈夫なの?」
息子の必死な声に、ヘイデンは深みのある笑い声で返した。
『大丈夫でなかったら、ここにはおらんよ。ヴァンくんが持ち帰ってくれたパナル草のおかげだ』
水鏡に向き直ったディランの表情から、本当に大丈夫かどうか推し量るのは難しかった。やはり、ライオスから受け継いだ伏目がちな笑みは、何かを隠すためのものだったのだ。
「父さん、パナル草って……」
アンバーは迷っていられなかった。ヘイデンは大丈夫だといったが、そんなはずはないとわかってしまったのだろう。世界の中心の塔の地下で、わたしはパナル草の効能を身をもって知っている。パナル草は、活力を与えてくれるけれども、体力や生命力を与えてくれるわけではない。むしろ、乱用すれば生命力を削るような危険性がある。
ヘイデンは、いったいどこまで計算してパナル草と口にしたのだろうか。
どちらにしても、アンバーにもう一度追求させるだけの力は与えたのは父だった。
「始まりの竜王の出自を知りたい。僕ら四竜族は、それぞれの力を司る神々の息吹から生まれた。それは、僕らが知っている聖典にも、この聖典にも書かれている。なら、黒いウロコと金色の瞳の始まりの竜王は、いったいどこから生まれたのか」
一なる女神さまへの訴えと同じくらいの動揺が、広間の空気を震撼させた。
なぜ、今まで疑問に思わなかったのだろうか。と疑問を抱くのと同時に、なんなくだけども答えがわかってしまった。だから、始まりの竜王はあんなことを一なる女神さまに訴えたのだろうと、わかってしまった。
ファビアンが鼻で笑う。まるで、茶番だと言わんばかりに、彼もとうに気がついているはずだ。アンバーがすでに答えを知っていることを。
「まるで、わかっているような口ぶりだな」
「けど、僕はあなたの口から聞きたいんだ。どうして、真実を隠したのかも」
「死に損ないにか?」
もう一度、鼻で笑う。今度は、死に損ないの自分をあざ笑うように。
「先に言っておくが、死に損ないの俺に言わせたところで、それほどの価値はない。あれは……真実は俺にとって呪いにはならなかった。だから、異端児で死に損なったのだろうが」
呪いという言葉の禍々しさに、息をのむ。
「少し考えればわかるだろう。混血児だ。上古の時代には、竜同士で交わり、種を残してきた。時には、種族違いのオスとメスが交わることもあっただろうよ。そうやって生まれた混血児は、親の糧となった。どういういわれがあったのかは、知らん。だが、想像はつく。異なる竜の血が流れる赤子を食べれば、強くなれるとでも信じられていたんだろう」
吐き気がした。子どもを食べるなんて、考えられない。四竜族たちは、祖先が行っていた悪行に嫌悪感を抱いたようだ。ローワンなどは、青ざめて顔で口をおさえている。
「始まりの竜王は、どうにか生きのびた混血児だ。運よく一なる女神さがご降臨されたときに、誰よりも早く駆けつけることができただけだ」
平静でいられたのは、顎をさすっているアンバーだけだった。
「呪いというのは? 始まりの竜王が混血児であることも、親の糧にされていたことも、玲瓏の岩窟に隠されていた壁画に描かれていた。けど、呪いだけは見当もつかない」
「見当もつかない、か。考えればわかることだと思うがな……」
やはり、アンバーは知っていたのだ。玲瓏の岩窟の壁画なんて、わたしは知らない。地竜族の中でも、長のヘイデンと息子のアンバーだけが知っている真実の壁画なのだから、知らなくて当然だった。けれどもその時のわたしは、アンバーは卑怯だと思った。
なぜ、今、こんな恐ろしい真実を暴かなくてはならなかったのだろう。いや、暴かなくてもよかったのではないだろうか。
ファビアンは物憂げに目を伏せている。
わたしは、ずっと世界竜に憧れを抱いてきた。たとえ、ライオスの受け売りだとしても、その思いに嘘はなかった。なんの疑問も抱かずに、花婿は素敵で素晴らしい竜だと、焦がれてきたんだ。
それが、始まりの竜王が四竜族を出し抜いたか弱い竜だったなんて、信じたくなかった。ファビアンの口から明かされなければ、わたしは絶対に信じなかっただろう。聖典が書き換えられていたことにも、目を背け続けただろう。そうか、だからこそ、アンバーはファビアンの口から明かしてほしかったのだろう。
幻滅したわけではない。わけではないけど、この胸に根づこうとする暗い気持ちを、どうすればいいのだろう。
「ぁ……」
ファビアンと目があった。自嘲するように目尻を下げた彼の金色の瞳には、わたしはどう映ったのだろうか。失望落胆している失礼な花嫁と映っただろうか。それはほんの一瞬のことで、彼はすぐに顔を上げてしまった。
「だから、期待するなと言っただろう。竜族の王族と呼ばれた世界竜族は、一なる女神さまから授かった力で築き上げた地位と名声を失いたくがないために、真実を隠し続けた。そうしなければ、また非力な竜族として狩られるのではないか……ずっと怯えてきた。まるで呪いのように、ずっと都を支配し続けた。たとえ、それが世界を歪めて、終焉の危機に晒し続けることになっても、隠し続けてきたわけだ」
今度こそ憂鬱になる暗い話は終わりだと、彼はテーブルを軽く叩いた。
「一なる女神さまは、人間と竜族がともに並び立つ世界を望まれた。それを支配という形で破ったのは、名もなき始まり竜王だ。俺に言わせてもらえば、それをよしとした始まりの女王リラにも、問題はあったはずだが、まぁ、それはいい。一なる女神さまが望まれた世界にすることが、死に損なった俺のなすべきことだ」
先ほどまでとは別の緊張感が広間を包み込んでいく。いや、広間だけではない。水鏡の向こうのディランやヘイデンも、思わず居住まいを正したことだろう。
もしかしたら、ファビアンが呪いと呼んだ恐怖に縛られないように、息子と呼ばなかったのではないだろうか。彼は死に損なったのではない。ユリウスは希望として、彼を残したかったのではないだろうか。輝きを失った二重の腕輪に触れてみるけれども、冷たさだけが返ってくる。
わたしがぼんやりしている間にも、やるべきことに向けて話が進んでいく。
「まずは、客人をもてなさなくてはならない。サイファはどれだけ見つかった?」
「まだ三つだ。長剣が二振り、馬上槍が一本」
ローワンの答えに、ファビアンは顔を曇らせた。
「ニール、足りるか?」
「動きの早さからして、小隊を率いているのは、ラトゥール砦のドミトリーの兄者だろうな。はっきり言って、足りない。ドミトリーの兄者は、武器に目がないからな。ある意味、交渉に関しては厄介な相手だ」
「ラトゥール砦の大将か。噂は聞いている。……たしかに、イサークの剣を足しても足りないな」
「おい、ちょっと待て」
クレメントが仮面の奥から、苦虫を潰したような声を出した。
「まさか、サイファで北の帝国を釣ろうというわけではないだろうな」
彼の隣でローワンが首をすくめていた。それはそうだろう、サイファは竜のウロコすらも切り裂く金属だ。それを加工できるのは、火竜族のみ。クレメントがいい顔できるわけがない。
どうやって彼を納得させるのだろうかと気をもんでいると、ヴァンの長兄ヴィクターが軽く手を上げた。
「来たよ。まだ都市部に入ったところだろうけど、ものすごい勢いでこっちに向かっている」
わたしには、まったくわからなかった。耳ざとい風竜だから、はるか遠くの馬の蹄の音も聞き取ることができたのだろう。
結局、満足に話をすすめることもなく、北の帝国と手を結ぶために交渉を始めなくてはならなくなった。不安でしかたがない。ディランやナターシャから、今の皇帝は一筋縄ではいかないと聞かされていたせいもある。
けれども、わたしはたしかに見た。
ファビアンが不敵に笑うのを。その笑顔に、わたしの中に根づこうとしていた暗い何かはきれいに消え去ってしまった。その代わりに、信頼、安心感と呼ぶべきものが芽生えていた。
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