始まりの物語 〜抑止力〜
灰色仮面のクレメントが、ファビアンに対して抱いた最初の印象は、頼りない男だった。最後の竜王の息子で竜の森の頂点に立つ男には、とても見えなかったらしい。
確かめることがあると、ファビアンは夜更け過ぎから姿を消していた。そして、城内で水鏡で報告をしていた広間にクレメントを案内したときに、忽然とまた姿を現した。
ドゥールからあらかた話を聞いていたクレメントは、中央の赤茶けた一枚岩のテーブルを叩いた。
「今は北の帝国と手を結ぶ必要はない。さっさと引き上げるべきだ。今は西の聖王国の混乱と真理派を叩くときだ」
クレメントの言うことは、もっともだったかもしれない。
小ロイドが王宮を襲撃したことで、聖王国はもちろん真理派も混乱しているはずだ。その混乱に乗じて、ライラが何かする前に、真理派の動きを止める。そのほうが北の帝国や東の小国群、南の都市連盟を巻き込まなくてもすむではないか。身勝手な考えかもしれないけれども、考えれば考えるほどクレメントの主張は正しく思えてきた。
今、この部屋には、中庭で眠っているアーウィン以外、全員集まっている。水鏡の向こうには氷刃のディランもいる。
その誰もが、ファビアンの言葉を待っていた。
「西の聖王国を……真理派を追い詰めるのは、最悪手だ」
ファビアンはため息をついて、一冊の大きな本をテーブルの上においた。いったい、いつから本を持っていたのだろう。姿を現したときは何も持っていなかったはずだ。
「今さら、隠すこともないだろう。世界は揺り起こされてしまったからな」
黒い表紙の大きく分厚い本に視線が集まる中、わたしはファビアンの横顔を盗み見ていた。同じように嘆きの夜を経験して、混乱の時代を乗り越え、千年も生きてきたライオスに比べたら、ファビアンは若々しかった。すべての竜族は、美しい青年の姿をとる。だから、外から見るだけではわからないのだけど、感じられないのだ。ライオスに感じたような、歳を重ねた者がもつ思慮深さやそういったものが、感じられない。ユリウスや小ロイドのほうが、よほど老成していた。若いのは、彼が成竜していないからだろうか。
などと考えこんでいる場合ではないのに、わたしは彼のことが気になってしかたない。
クレメントの隣りにいたアンバーは、自信なさそうに顎をさすった。
「聖典?」
「そうだ」
ファビアンは、テーブルの上で本を前に押し出した。
「これは、ただの聖典ではない。何一つ書き換えられていない偽りのない聖典だ」
息を飲んだのは、わたしだけではないはずだ。
聖典は、始まりの竜王の命によって、一なる女神さまの行いを讃えるために書かれたこの世界の始まりの物語だ。それが、書き換えられていたというのか。いったいなぜなんのために、誰が書き換えたというのだろう。
本から手を離したファビアンは、まだ決心がついていない。そんな迷いやためらいが、横顔に浮かんでいた。
呆れたことに、アンバーはなんの断りもなく素早く本を引き寄せて、ものすごい勢いでページをめくり始めた。ものすごい勢いで文字を追いかけている茶色い瞳に、恐怖を覚えるほどだった。
ファビアンは呆れたようにちらりとアンバーを見たが、本を取り返そうとはしなかった。
「抑止力、とだけ、その中に書かれている。一なる女神さまが大地に降り立ったときに、始まりの女王リラが授かったモノだ」
「一なる女神さまが……」
ピタリとアンバーの手が止まったかと思うと、先ほどの勢いを上回る速度でページをめくりだした。
隣りにいた火竜族の長が半歩ほど体を引く。彼が地竜族は何を考えているのかわからないと、陽炎の荒野で世話になったときによく愚痴をこぼしていたことを思い出した。今なら、わかる。得体の知れない恐ろしさが、今のアンバーにはあった。もし、彼から本を取り上げようものならという、恐怖がわたしたちを支配していた。
唯一、沈黙に支配されなかったファビアンは、やはりさすがというべきだろうか。
「もっとも強き種族ともっとも弱き種族の共存など、いくら一なる女神さまが降臨されたからといって、無条件で受け入れられるわけがなかったという話だ。始まりの女王リラは、竜族の暴力での支配を恐れていた」
ハッとさせられた。なぜ、今まで疑問に思わなかったのだろうか。
暴力が支配していた上古の時代に、なんの疑念もなく受け入れられるわけがないはずだ。それに、もっとも強き竜族の力の不平等を訴えている真理派の考えに、近いような気がしてしまった。
この真実の物語の先には、おそらくユリウスが語ろうとしなかった世界竜族が背負ってきたことが待っている。確信に近い恐ろしい予感に、わたしは胸元のウロコを握りしめずにはいわられなかった。
アンバーがページをめくる音が、ピタリとやんだ。
「ここだ。人の子リラは、一なる女神さまに訴えました。人間にも力を与えてほしい……」
ファビアンもアンバーに読み上げさせたほうがいいと判断したのか、息をついてテーブルから手を離した。
抑揚の少ない、それでいてよく通る強いアンバーの声が、灰霧城塞の一室に響き渡る。
「人の子リラは、一なる女神さまに訴えました。
『人間にも力を与えてほしい。もっとも弱き人間は、もっとも強き竜の暴力を止めるすべを持ちません。今はよくても、いつか力で支配しようとする日が来るかもしれません。もっとも弱き人間に、どうか力を与えてください』と。
一なる女神さまは、首を横に振りました。
『もっとも弱き者だからこそ、選んだのです。力を与えてしまっては、もっとも弱き者ではなくなってしまう』とおっしゃいました。落胆の表情を浮かべるリラに、一なる女神さまは微笑まれました。
『ですが、そなたの恐れはもっともなことです。恐れを取り除くために、もっとも強き者たちを懲らしめるための抑止力を授けましょう。もっとも強き者たちが、もっとも弱き者を力で支配しようとしたときに、お使いなさい。そのような日が来ないことを、心から望みます』…………つまり、ライラはこの抑止力ってやつを、持っているかもしれないってことだよね」
「失われていてくれれば、それに越したことはないんだがな」
ファビアンはそう答えつつも、失われていないと確信しているのだろう。
一なる女神さまから与えられたモノのほうが、アーウィンを死にながらに生きるような姿にした兵器よりもずっと恐ろしい。
「抑止力が具体的にどういうものかは、どこにも記されていない。ただ、抑止力がみだりに使われてはならないからと、それ相応の代償が必要になるだろうとは、伝えられている」
なぜ、真理派を追い詰めるわけにいかないのか、よくわかった。ライラは、代償など恐れていないはずだ。認めたくはないけれども、モーガルの彼女にはそれほどの覚悟と決意をたしかに感じていた。
悔しい。わたしは、ライラに負けていたのだ。
水鏡の向こうのディランのため息が聞こえてきた。
「クレメント、ここはファビアンさまに従ったほうがいい。俺は月影の高原のことだけで、手一杯だしな」
無責任なほど投げやりに聞こえたけれども、実際、ディランはよくやってくれているはずだ。小ロイドが死んで、ヘイデンは重傷を負い、クレメントはわたしたちの身を案じて、今ここにいる。竜の森に残った長は彼だけだ。月影の高原のことだけで、手一杯なのは事実に違いない。ライオスによく似た伏し目がちな笑顔を取り繕う余裕もないほどに、彼は疲れている。彼にしてみれば、クレメントだけでも戻ってきてほしいはずだ。
注目を集めるクレメントが仮面の奥でどんな表情をしたのか、誰にも確かめることはできない。けれども、彼もまた疲れていたのかもしれない。仮面の奥からもれてきたため息には、ありったけの気苦労があった。
「しかたがない、北の帝国と手を結ぶことにしよう。モーガルの鉄球は脅威になりえないが、一なる女神さまに授けられた力となれば、話が違ってくる」
クレメントの返事に、ファビアンはかすかに口元をゆるめていた。あとから聞いた話だけども、クレメントを説得できるか自信がなかったらしい。一族が守り通してきた真実を明かしても、彼が納得しなかったらどうしようと気が気でなかったという。
これからやって来る帝国の小隊をどう招き入れるか、目の前の問題に話が移ろうとしていたところに、アンバーが聖典に目を落としたまま口を挟む。
「あのさ、すごく気になることがあるんだけど……」
「なんだ?」
聖典を返そうとしないアンバーに呆れていたファビアンは、彼の問いを聞かなければよかったと後悔したことだろう。
「軽く目を通しただけだけど、始まりの竜王の部分はほとんど書かれていないよね。一なる女神さまから始まりの女王が抑止力を授かったときも、始まりの竜王については、『一なる女神さまは、名もなき竜の訴えを聞き届けた』としか書かれていないんだ」
「アンバー、今はそんなこと……」
後にすればいいと肩に置いたターニャの手を、彼らしくない勢いで払った。
「そんなこと? 僕はとても重要な事だと思うけどね。世界が終焉とかにも、関係があるんじゃないのか。書くことすらもせずに、隠したいことがあるんだ……こんな中途半端に秘密を明かされるほど、僕にとって不愉快なことはないよ。それに、僕らだけじゃなくて、竜の森と北の帝国の手を借りたいというなら、今こそすべて明かすべきだ」
真実を追求するアンバーの声は、聞いたこともないくらい厳しい。
ファビアンには、アンバーの問いに答えないこともできたはずだ。けれども、彼はアンバーの問いに答えた。真実の聖典をテーブルの上に置いたときには、あるいはモーガルで世界が揺り起こされたあの日にはもう、覚悟を決めていたのかもしれない。
「名もなき始まりの竜王の一なる女神さまへの訴えは、父から息子へ口伝というかたちで教えられてきた。親なしの俺は、ユリウスさまから教えられた」
世界竜族の妻にも語ることを禁じられていた真実を語る彼は、どこかホッとしたようにみえた。
それにしても、彼はなぜかたくなにユリウスを父と呼ばないのだろうか。わからない。
「名もなき竜は、一なる女神さまに訴えました。
『もっとも弱き人間と共存するために、我ら竜族からメスを奪ってほしい』と」
冷たいものが背中をつたう。
世界竜族が隠し続けてきた偽りなき物語こそが、すべての始まりだった。
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