第四章 セルトヴァ城塞

北の皇帝

 北のカヴァレリースト帝国は、鉄の毛皮の国とも呼ばれている。だが、かつてはそれらよりも、ずっと価値のある繁栄の証があった。

 サイファと呼ばれる白金に輝くはがねだ。帝国でしか採掘されない、最上級の金属だった。軽くて、決して錆びず、欠けもしない。サイファで作られた剣は、竜のウロコすらたやすく切り裂いたという。

 けれども、サイファは火竜の炎の中でしか鍛えることができなかった。

 混乱の時代の終わり、悪名高きイサーク帝の暴挙の贖いとして、帝国はサイファ製の武器防具のみならず、食器や装飾品などといった物まで、すべて手放さなければならなかった。ただ一つ、皇帝の証としてのみ残された竜殺しと呼ばれる宝剣を残して、帝都の広場に集められたのだ。

 そして、三日三晩、十頭の火竜の炎がサイファを溶かした。以降、火竜たちは、サイファを忌まわしい金属としてみなすようになった。

 帝都で溶かされたサイファは、今日こんにちも炎の広場の中央で戒めのオベリスクとなってそびえ立っている。

 決して曇ることもない白金の輝きは、あまりにも眩しすぎて、過去の栄光と愚行を突きつけてくるようだ。


『説話集 戒めのオベリスク』より




 ――


 カヴァレリースト帝国は、地方の豪族たちの争いが絶えない国だ。鉄と毛皮の国と言われているだけあって、鉱山や獣が豊富な土地をめぐる争いだ。もちろん、北国特有の農作物もあるのだけど、帝国人にとって、鉄と毛皮こそが繁栄の証だった。

 地方の争いが絶えないから、皇帝の力が弱いというわけではない。むしろ逆だった。

 帝国人にとって、皇帝は絶対的な存在だ。

 ブラス聖王国に決して膝を折らない皇帝に名を売るために、民たちは競うように地位と名声を求める。

 開国のヴィクトル帝の時代から、反乱や革命などで皇帝の血筋が変わることはあるけども、皇帝が不在だった時代はほとんど無い。


 現皇帝ルカ・ダビードヴィッチ・フェッルムには、三人の妃と五人の息子と六人の娘がいる。

 二十歳で即位して、御年四十九。彼は、五百年前に廃止された移動宮廷を復活させ、帝都のカヴァルにとどまることなく、帝国の各地を巡行していた。臣下を引き連れてのルカ帝の一行は、まさに街が移動するようだったと、人々は圧倒した。


 カヴァレリースト帝国から遠く離れた橋の街モーガルで、世界が揺り起こされた日より数日前、ルカは滞在していた帝国の北西部――つまり、灰霧城塞からほぼ真北の海岸部――を離れた。予定にはないことだったが、皇太子のセルゲイを始めとした側近を三十人ほど従えた一行は、西の聖王国の国境となる暗黒地帯にほど近いベルン平原の北へ向かっていた。


 冬の終月5日。

 星辰のうみの氷刃のディランの奥方ナターシャも、その一行の中にいた。

 今までも、ルカはナターシャを移動宮廷に呼び出すことがあった。たいていはルカの気まぐれのようなものだった。けれども、帝国の豪族の家に生まれたナターシャは、息抜きのような感覚で応じていた。星辰のうみの水竜族と、良好な関係を築くために、必要なことでもあった。普通の人間たちが近づかない星辰のうみの奥方が、帝国の民の前に姿を見せる。それだけで、帝国の水竜族への不信感はやわらぐ。彼女の隣に長の氷刃のディランがいたら、いたずらに威圧感を煽るばかりで親近感はわかなかっただろう。


 いつもなら、ルカに暇乞すれば引き止めない。けれども今回は、なぜか引き止められてナターシャはいらだっていた。昨夜、モーガルと月影の高原のことをディランから水鏡で聞かされてから、早く星辰の湖に戻りたくて居ても立っても居られない。

 毛皮と古く貴重な陽炎の荒野の織物で贅を凝らした天幕の中で、ナターシャは落ち着きなく歩き回っていた。彼女を案内した小姓は、天幕のすみで居心地悪そうに縮こまっている。天幕の主であるルカは、不在だった。朝早く訪れたというのに、もう昼近い。いったいどこで何をしているのかと、ナターシャのいらだちが最頂点に達しようとしていた頃、ようやくルカは一人でやってきた。


「氷の乙女と呼ばれたナターシャともあろう人が、珍しく落ち着きがないな」


「やめとくれと、いつも言っているだろう。昔の呼び名を持ち出すのは」


 ルカの背中に流れる太い三つ編みの細い金髪のほとんどは白くなっている。母譲りの帝国にしては珍しい紺碧の目の周りには、歳相応のシワが刻まれていた。それでも、彼の風格はまったく損なわれていない。若い頃から明朗快活な表情がよく似合う男だったけども、抜け目ない皇帝とも呼ばれていた。


「嫌味くらい言いたくもなるだろうよ」


 黒い鞘に収められている宝剣を剣帯から外したルカは、頭付きの大熊の毛皮が敷かれた肘掛け椅子に腰を下ろす。


「なにしろ初めて見たときから、お前は美しいままだだからな。あの頃、俺がまだはなたれ小僧だった。俺はこんなにも老いたというのに」


 あからさまに嫌そうな顔をしているナターシャを揶揄しながら彼は、天幕の隅の小姓に軽く手を振って人払いをした。


「あたしを待たせておいて、ずいぶん機嫌がいいじゃないか」


 ナターシャは、ルカが上機嫌の時に限って何度も聞かされた嫌味を言うことを知っている。かつてナターシャが竜の花嫁の宿命に抗って結婚しようとした男の面影があるはずなのに、性格はまるで似ていない。一人息子のドゥールとそれほど変わらない歳というのに、彼女はルカが苦手だった。

 短く息をついた彼女は、ルカの話に合わせることはないと、軽く首を横に振った。


「まぁ、いいさ。それよりも、昨夜ゆうべ伝えたとおり、あたしは星辰の湖に帰らなきゃならないんだ。だから……」


「座ったらどうだ? ナターシャ」


 ナターシャの話しをさえぎって、ルカは近くの長椅子を顎で示す。その余裕ある態度は、今すぐに彼女の訴えを聞き入れるつもりはないと告げていた。

 しばし、ナターシャはルカをにらみつけていたけども、埒があかないと肩をすくめて腰を下ろした。

 満足気に笑みを深めたルカは、宝剣の鞘をなでた。


「これは竜殺しなんぞと呼ばれているが、竜を殺すことはできない。せいぜい、ウロコに傷をつけるだけだ。肉を断ち骨を断つことはできない。ましてや、心臓をつらぬくなど、な」


 たとえウロコを切ることができたとしても、振るうのは人間だ。体格も力も、竜を殺すにはおよばない。わかりきったことだった。


「何を今さら。あたしは、急いでいるんだ」


 気色ばんだナターシャに冷めた一瞥を与えて、ルカは宝剣に目を戻した。


「だが、そのわけを教えてはくれない。人間と竜族は、初めから対等ではないのだ」


 まぁいいと、ルカは顔を上げた。抜け目ない笑みを浮かべて。


「先日、聖王国の使者が、我が国の鉄を大量に欲しいと偉そうに言ってきおったわ」


 ナターシャはそれが何を意味するのか、すぐにわからなかった。

 繁栄の証である鉄と毛皮を国外で取引するには、皇帝の許可が必要だった。何十代も前から続く皇帝を皇帝たらしめる決まり事だ。北の帝国と西の聖王国の関係は良好とはいえない。明確な線引がされていない国境の暗黒地帯が、ならず者や双国の罪人の巣窟であるままにしている。それが、良好な関係を築く意志がないというあらわれでもあった。ルカもその例に漏れず、取引を持ちかけようものなら、使者の首が無言の返答を聖王国にもたらされることになる。実際に、彼が皇帝になったばなりの頃に起きたことだった。

 だから、わざわざ竜の森に嫁いだナターシャに聞かせるような話ではないはずだ。

 彼女の困惑を見て取ったルカは、ことさら上機嫌な笑みを浮かべた。


「竜を殺す兵器のために、鉄がほしい。そう言ってきおったわ」


「なっ」


 ナターシャは思わず腰を浮かせた。彼女はまだ、アーウィンが生きていることを知らない。

 彼女の激しい動揺は、ルカをますます上機嫌にさせるだけだった。


「明日、現物を披露してもらう。どうだ、ナターシャ。気になるだろう?」


 拳を握りしめて腰を下ろしたナターシャは、すぐに答えられなかった。竜を殺す兵器などあるわけがないと、笑い飛ばせたらどんなに楽だっただろうか。


「氷刃殿には伝えてくれるなよ。それはつまらない」


「……わかった。それが、条件だというなら」


 どのみち、月影の高原とモーガルの騒動で、竜の森に余裕などない。ならば、星辰の湖の奥方ナターシャが、その目で確かめるしかない。

 どうしてこんな時にと、さらに拳に力を入れて皇帝を見すえる。


「ルカ、まさか取り引きに応じるんじゃないだろうね」


 ルカは、声をあげて笑った。


「悪い話ではない」


 そう言ってルカの顔から、笑みが消えた。


「だが、実際に見てみないことには、なんともいえん」


 ナターシャは、小さくため息をついた。竜を殺す兵器に、関心を持たない者などいない。彼女自身もふくめてだ。


「どうしても帰るというなら、俺はこれ以上引き止めはせんが」


 今すぐに帰るという選択肢がナターシャに残されていないと、もちろんルカはわかっている。


「ところで、朝から何も食べていないのだろう?」


 彼が退出を促しているのは、明らかだった。ナターシャは、彼の意向を確かめたかったけども、諦めた。


「ああ、そうだな。明日を楽しみにしているよ」


 肩を落として出ていくナターシャを見送ったルカは、変わることのない彼女の姿に老いを見た。以前の彼女は、人を寄せよせつけない高貴な美しさがあった。


「氷の乙女も、ずいぶんもろくなったものだ」


 物憂げにため息をついた彼は、シワが刻まれた手に目を落とした。かつてかなわないと知りながら恋い焦がれていた激しい想いは、いったいどこへ行ってしまったのだろうか。


「俺も、老いたものだ」


「でしたら、わたくしに宝剣をお譲りください」


 誰ともなくこぼした弱音ともとれるひとり言に、答える声があった。

 ルカが顔をあげると、許可もなく三十歳くらいの女性が天幕に入ってきた。きっちきり編みこまれた金髪と同じくらいきっちりとした彼女は、ルカの一番上の娘だった。

 娘とはいえ不遜な態度に、ルカは苦笑した。


「皇太子はセルゲイだ。ジーナ、女のお前にはこの剣は似合わんよ」


 ジーナは肩をすくめて、いくらか表情をやわらげた。


「ナターシャさまに、言わなくてよろしかったんですか?」


「何をだ?」


 話を聞かれていたことに、ルカは腹を立てることもしなかった。彼は、行き遅れた長女との会話を楽しんでいた。


「暗黒地帯のことですよ」


「ああ、それか」


「それだけじゃないですけどね」


 ジーナは父から直接聞いたわけではないけども、父にとってナターシャがどういう存在か知っている。けれども、その領域に踏み込むのは無粋でしかない。

 腕を組んだ娘に、ルカは喉を鳴らして笑って答えた。


「どのみち、明日になればわかることだ。まったく、ろくでもない国だな。西の聖王国は」


「なるほど、北の皇帝陛下は事態を楽しんでおられるようですね。結構なことです」


 今朝方、暗黒地帯からもたらされた報せは、楽しめるような事態ではない。それなのに、ルカは楽しんでいた。


「当たり前だ。南では竜の森と人間が手を組み、西では真理派が混乱を引き起こそうと画策している。北も東も、いつまでも傍観者でいられるわけがなかろう。ならば、楽しむのみよ」


「父上らしい。ところで、先ほどラトゥール砦より急使が、面白い話を持ってきました」


「ほぅ、ドミトリーからか?」


 第二皇子ドミトリーが取りまとめるラトゥール砦は、灰霧城塞の代わりに暗黒地帯ににらみをきかせている砦だ。


「ええ。3日の夜に灰霧城塞に向かった竜がいたとのこと。火竜、風竜、地竜、それぞれ一頭ずつ。夜に飛ぶことも珍しいことだというのに、三頭の竜は霧の中に姿を消したままだったので、小隊を率いて灰霧城塞に向かうとのことです」


「霧が晴れたわけでもないのに、呆れた息子よな」


 やれやれと苦笑するルカに、ジーナはまったくだと首を縦に振った時だった。


「失礼いたします」


 長い三つ編みを振り乱して入ってきた男は、先にいたジーナに驚き不快そうに顔をしかめた。皇太子のセルゲイだった。

 同じ年に生まれた第一皇女と皇太子は、あまり仲が良いとはいえなかった。セルゲイにとって、結婚もせずに国政に口出ししてくる異母姉は目の上のこぶだった。


「セルゲイ、ラトゥール砦のドミトリーの話なら、たった今ジーナから聞いたところだが?」


 先を越されたというセルゲイの焦りは、無用だった。彼は密かに安堵の息をついて居住まいを正す。


「ラトゥール砦ではなく近隣の複数の豪族からの、昨日の夕方、灰霧城塞の霧が消えたとの報せがありました」


「灰霧城塞の霧が消えただと、ククッ、これはこれは……」


 ルカは、いよいよおかしくてたまらないと声をあげて笑った。

 立て続けにやっかいなことが起きているというのに、父に呆れたジーナとセルゲイはそろってため息をついた。

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