竜王の息子

 やはり、狼たちは好きになれそうにない。

 井戸のそばで待ち構えていた狼のつがいに、わたしは嫉妬のような感情を抱いてしまった。狼を撫で回して、甘噛までするファビアンが、どれほど獣たちに心許しているのか、見せつけられた気分だった。

 わたしのことなどすっかり忘れているのではないだろうかと、不安になってきた頃、ようやくファビアンは狼たちから手を離した。


「本当に、いい奴らなんだ」


「ふぅん」


「何を怒っているんだ?」


「別に。怒ってないわよ」


 ファビアンのため息が、余計に癪にさわる。井戸の縁を蹴りつけながら、狼に嫉妬している自分に対する腹立たしさをもてあましていた。


「おい」


「なに? む、むぅ」


 近くで声がしたと思ったら、頬を包み込まれてぐいと顔をあげさせられた。ファビアンの顔が近い。竜族は、なぜ皆美しい青年の姿をしているのだろうか。彼もその例に漏れず、長いまつ毛に縁取られた切れ長の金色の瞳に見据えられて、胸を高鳴らせない女性などいないのではないか。


「ひどい顔しているな」


「む、むぅ」


 黒い長衣の袖で、ゴシゴシと目元をこすってきた。痛かったけども、我慢した。言われて初めて気がついたけども、井戸の中であれほど泣きじゃくったのだから、本当にひどい顔をしていたのだろう。


「少しはマシになったな」


「……どうも」


 灰色の霧はきれいに消えていたけども、あたりはすっかり暗くなっている。やけに夜空が明るいけども、今は夜に間違いない。

 夜風がヒリヒリと痛む頬を撫でる。ずっと羽織ったままの毛皮のコートを、どうすればいいのだろうか。返さなくてはと思うのだけど、なかなか言い出せないままだった。


「あの、このコー……」


 場違いな音がわたしのお腹から聞こえてきた。

 ファビアンが目を丸くする。間違いなく聞かれてしまった。恥ずかしくて、恥ずかしくて、顔が赤くなるのがわかる。


「腹、減ってるのか?」


「そ、そうよ」


 当たり前だ。最後に食べたのは、ドゥールと水鏡でやり取りする前のポテトケーキだ。その前も、彼からもらった豆だけで、モーガルの騒動から、ほとんど食べていない。

 そんな目で見ないでほしい。

 仲間たちなら、笑ってくれる。わたしが、ムキになる。それはそれで気持ちのいいものではなかったけれども、心配されるほうが、ずっと恥ずかしい。気のせいだろうか、ファビアンの口元がふっと緩んだ。


「行こう」


 どこにと尋ねるより先に、彼はわたしの手をとって、廃墟に向かう。

 気に入られていないのでは、というのは杞憂だったらしい。彼は、わたしを背負って深い井戸を登ってくれた。今も、手を引いてくれる。胸が高鳴る。これが、恋というものだろうか。この時は確かにわたしは彼に恋をしていた。廃墟のホコリや蜘蛛の巣がなくなっていることにも気がつかないほど、わたしは彼と手をつないでいるだけで幸せだった。

 彼が前を行く狼たちが意味ありげに振り返るたびににらみ返していたことなど、まったく気がついていなかった。

 しばらくして、わたしの手を引いていたファビアンが少しだけ歩調を緩めて尋ねてきた。


「それで、モーガルで何があった?」


「それって、わたしたちが消えた時のこと?」


 そういえば、彼には話していなかった。どこまで彼が把握しているのかわからなくて、尋ね返してしまう。ライラのことを、どこから話せばいいのか。

 わたしの手から、彼は戸惑いを感じとってくれたようだ。


「聖王国の姫君が、真理派の女王と名乗りを上げたのは知っている。その姫君に裏切られたことも。あの水竜が街を破壊した時に、一緒にいたはずだろう。そうでなかったら、他にどんな理由があって、街を破壊したんだ?」


「その通りよ。あんなことになる前に、わたしが仲間たちと向き合っていればよかったのよ」


 思い返すだけで、胸がきりりと痛む。

 返しそびれたままの大きいコートの袖口を掴んで、つま先を見つめる。これで三回目だというのに、まだ慣れない。いや、彼に話すのがなぜか一番つらかった。


「モーガルに着く前に、アーウィン……モーガルを破壊した水竜のことだけど……アーウィンは、ライラの裏切りに気がついていた」


 知らない間に、わたしたちは歩みを止めていた。今にも消えてしまいそうな光石ランプの光が頼りない。そのせいだろうか、彼の手を握っていないと、後悔に押しつぶされそうだった。


「アーウィンは、わたしが考えていたよりもずっと賢かったの。ライラの正体に気がついていたし、彼女のことは彼が目を覚ましたら、聞いたほうがいいと思う」


 アーウィンがわたしに特別な感情を抱いていたかもしれないとは、花婿の彼には言えなかった。そのことを話さずに、どう話せばいいのか、自分の履き潰されたブーツを見つめても、なかなか答えが見つからない。頼りにしていた、彼の手がするりと離れた。


「あっ……」


 思わず顔をあげると、金色の瞳がすぐそこにあった。


「俺に言い難いことでも?」


「そういうわけじゃ……」


 どうしてこんなにも鋭いのだろう。目を背けてしまったら、肯定したも同然なのに、射抜くような瞳から逃げてしまった。


「ああ、そうか。あの水竜のガキは、お前に惚れていたのか」


「そ、そうじゃないわ。そんなフリをして、ライラを油断させただけよ」


 思わず彼をかばってしまったけども、本当のことはわからない。わたしはアーウィンがわからなくなっている。けれども、確かなこともある。


「アーウィンは、真理派を排除する正当な理由を作ろうとしただけで……その、わたしがもっとしっかりしていれば……」


「真理派が竜族を排除する正当な理由もできてしまったがな」


 返す言葉もないわたしは、彼に嫌われてしまっただろうか。うつむいてしまったわたしに耳に、彼のため息が聞こえてきた。


「伊達に千年も死に損なってきたわけじゃない。何があったのか、だいたいのことは察しがついた。真理派の女王は、お前に花嫁の宿命にあらがってもらいたかったわけだ」


 力なくうなずくことしかできなかった。目頭が熱くなって、慌ててまばたきを繰り返す。もう、泣いては駄目だと言い聞かせる。


「あの水竜のガキとくっつけばいいとでも言われたか?」


「うん。……でも、わたしはちゃんと……だって、花嫁が花婿を選ぶなんてできないじゃない」


 アーウィンは、ずっと弟分だった。わたしは、彼に恋愛じみた感情を抱いたことがなかった。恋のときめきだって、ファビアンに出会うまで知らなかったのだ。


「竜の森で、わたしに恋心抱いていた竜がいたのだって、つい最近、聞かされたんだから。少なくとも、わたしは、わたしは……」


 花婿の他に一緒になるとか考えたこともなかったと、やっとの思いで続けた。それが、愛の告白のようだと気がついて、顔が赤くなるのがわかる。


 と、わたしの頭の上に彼の手のぬくもりを感じた。


「悪かった。お前を責めるつもりはなかったんだ。もう泣くなよ」


「むぅ」


 わたしだって、もう泣きたくない。でも、落ち着くまで頭をなでてほしい。恥ずかしくて言えなかったけども、彼の手はまだ頭の上にあった。しばらく彼の手に甘えていると、気恥ずかしそうに、彼が咳払いをする。頭の上の手はそのままに。


「ユリウスさまが、よくこうしてくれた。俺は、嬉しくて落ちこんだふりもよくした。どこまで、あの方は知っていたんだろうな」


 きっと、わたしがどんなにユリウスが彼を息子として愛していたのだと言っても、受け入れてもらえないだろう。なぜか、彼はかたくなにユリウスの息子であることを認めようとしないのだから。

 彼が頭をなでてもらうことが好きだったというのは、初めて知った。それが、ちょっと嬉しくて涙は結局溢れることはなく、火照った体も少しずつ落ち着いていった。彼のしっかりとした手に伝わったのか、軽くポンポンとされて手が離れていった。


「ところで、さっきの話だが……」


 彼の声をさえぎるように、またお腹が空腹を主張してきた。間抜けな音に、今度はファビアンも肩を震わせて笑い出す。


「むぅ、笑わないでよぉ」


 腹を抱えて笑うようなことはしないものの、肩を震わせて涙目だ。


「悪かった」


 再びわたしの手をとった彼の目の鋭さは、いくらか柔らかくなっていた。けれども、声音は逆に固くなっていた。


「さっきの話だが、竜のウロコを握りしめて生まれた花嫁が、花婿と結ばれずにすむ方法はある」


「え?」


 竜が自分の花嫁にしか発情しないように、花嫁も花婿しか受け入れられないはずだ。もちろん、無理やりということもあるだろうけども、苦痛しかもたらさない。

 恐ろしい考えから逃れるために、胸元に納めているウロコを握りしめていた。

 ちらりとウロコを見やったファビアンの金色の瞳が、冷たく光る。


「ウロコを花婿に返す前に、花婿を殺せばいい。そうすれば、花嫁は約束された花婿以外の男も、苦痛ではなく快楽とともに招きれられるようになる。子供だってなせる」


「でも、それって人間が竜を殺すってことじゃない。無理よ」


 もっとも弱き種族の人間が、もっとも強き種族の竜を殺せるわけがない。おとなしく命を差し出せば別だろう。けれども、少なくともライラが言ったように、わたしを始めとして多くの花嫁にも真似てもらうなど、無理だ。だから、事実上、花嫁が花婿を選ぶ方法なんてない。


 けれども、ファビアンは悲しそうに深いため息をついて、首を横に振った。


「だが、あの水竜は人間に殺されかけた。実際、名無しがここに連れてこなければ、モーガルで殺されていた」


「そんな……」


 真理派は、竜を殺す方法を見つけてしまったのだ。

 冷水を浴びせられたように、足がすくんでしまう。そんなわたしの手を、彼は力強く握りなおしてくれた。


「立ち止まるなよ。世界は揺り起こされた。一なる女神さまが望んだ世界へ導く、最大にして最後の機会だ」


「うん、そうね」


 アーウィンが人間の街を破壊したことは、なかったことにはならない。

 ならば、せめてこれからは目を背けずに、しっかり向き合っていくしかない。しがないパン屋の娘のわたしにできることは、そのくらいだ。


『小娘。諦めるのも、絶望するのもまだ早い。お前は、一人ではないのだからな』


 そうユリウスは、言ってくれた。

 今、わたしの手を引いてくれている未来の夫のファビアンだけではない。

 わたしには、旅をともにしてきた仲間たちや、故郷の家族、それから竜の森でお世話になった多くの竜とその妻たちがいる。

 それは、おそらくファビアンも一人ではないということだ。仲間たちも、家族も、みんな一人ではない。


 胸が温かくなるような決意を新たにしていると、ふいに明るい開けた場所に出た。あの中庭だ。


「これまた、ずいぶん集まったものだな」


 足を止めたファビアンがげんなりと見下ろす中庭の視線を集めて、あわてて彼の手を離した。

 彼の言ったとおり、中庭にいたのは仲間たちだけではなかった。

 水竜が数人に、風竜が二人――何があったのだろうか、ヴァンはひどい顔をしている。わたしもあんな顔をしていたのだろうか。


 ファビアンの黒い髪と金色の瞳に気がついた竜たちが、あわてて膝をつき両の手のひらを天に捧げる。最上級の礼を払わなかったのは、彼とわたしの仲間たちだけだった。中庭の一角で巨大な水球の中で尻尾を抱えているアーウィンは、まだ眠っているようだったけれども。


 わたしは、彼はこういう堅苦しいのが嫌いなのだとばかり思っていた。けれども、それは思いこみだった。


「立て」


 たったひと言で、ファビアンはあたりの空気を変えた。ひざまずいていた竜たちも、わたしたちにも、緊張が走った。体が勝手に反応してしまうほど、彼の声には力があった。ひざまずいていた竜たちが全員立ち上がり、わたしたちが居住まいを正す。


「やるべきことは山のようにある。時間を無駄にしたくはない」


 中庭を見渡す彼の金色の瞳に、鋭い光が宿っている。


「俺は親なしのファビアン。竜王は、もう二度とこの世界にあってはならないが、世界が揺り起こされた今、統率者は必要だろう。俺のような死にぞこないでも、少しは役に立つはずだ」


 最後の竜王の息子と、あくまでも認めようとしないファビアンに戸惑ったのは、わたしだけではないだろう。

 今、わたしのかたわらで中庭を見下ろしているのは、竜族の王族世界竜族の生き残りで、最後の竜王の息子だった。つまり竜王の資質を備え持った男が、そこにいた。


「まずは、に何か食べさせてやってくれ」


「むっ」


 やはり、ファビアンは竜王の息子でもあるけれども、それ以前にユリウスの息子だと思い知らされた。

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