ヴァンの涙

 ダグラスが息子を抱きしめている姿を見守っていた六人の耳に、甲高い子供の声が聞こえてきた。


「ヴァン兄さぁああああん」


 弾かれたように顔を上げたヴァンの視界に飛びこんできたのは、銀色の疾風――ではなく、弟のヴィードだった。戸惑う間も与えず胸に飛びこんできた弟を、ヴァンはなんとか転ばずに受け止めた。

 小柄な風竜の少年は、しっかりとヴァンの背中に手を回して、そう簡単には離れそうにない。


「怪我してない? 大丈夫? 元気? 生きてる?」


 弟の矢継ぎ早の質問に、困惑気味だったヴァンの顔に怒りが表れた。弟を乱暴に引き剥がしたのは、そんなことをするような弟ではなかったからだ。


「やめろよ、ヴィード。らしくない」


 ヴィードも思い当たる節があるのか、顔を曇らせた。


 気まずい沈黙に、別の声に割りこんできた。


「ヴァン、そんな言い方ないだろう」


 ふわりと銀色の長衣をひるがえしてヴィードの隣に着地したのは、長兄のヴィクターだった。


 顔をこわばらせたヴァンが、家族に対して劣等感を抱いているのを、アンバーは知っている。知っているけども、ヴィクターとヴィードも複雑な表情を浮かべているせいで、間に入れなかった。それなら、ダグラスの後に続いて来た水竜たちと再会を喜んでいるニコラスとターニャ、ローワンたちと一緒に、現状報告するべきだ。わかっているのに、アンバーはヴァンのそばから離れられなかった。


「ヴァン、ヴィーだけじゃない。俺もお前が無事でよかったと思っている」


 そう言ったヴィクターは、ヴィードのようにあからさまに喜びを顔に浮かべていなかった。それでも、その声にはしっかり安堵の響きがあった。

 残念なことに、ヴァンにはその響きがうまく伝わらなかったようだ。


「……気持ち悪い」


 小さく、けれどもはっきりとヴァンは吐き捨てた。

 アンバーはよくわからないものの、ヴァンの態度はよくないと、彼の袖を軽く引っ張った。


「ちょっと、言いすぎだって」


「言いすぎ?」


 そうかもしれないと、ヴァンは深く息を吐き出して拳を握りしめた。


「でも、俺の家族は、俺を心配するような奴らじゃない」


 うなだれたヴィードの頭を軽く叩いたヴィクターは、天を仰いだ。もうすっかり霧は拭われている。


「そう言うと思ったよ、ヴァン。でも、言ってほしくなかった。だから、この際、はっきりさせておくよ」


 夕闇が迫る晴れた空から、ヴァンに向き直ったヴィクターも強く拳を握りしめていた。


「お前が勝手に卑屈になっているだけだろ。いい加減にしろよ」


 ヴァンは息をのんだけども、すぐに動揺を兄に悟られまいと表情を取りつくろう。


「たしかに、俺たち風竜族は個人主義で他人のことにあまり干渉しない。だからって、勝手に卑屈になることはなかっただろう。お前が、風竜族の代表として旅の一行に選ばれたとき、祝いの席で父さんになんて言った? あんな酷いことを平気で言うとは、思わなかったよ」


 穏やかな声音の中に、怒りをにじませる長兄に、ヴァンは言い返す言葉を持たなかった。

 目を泳がせているヴァンに、うつむいていたヴィードは居心地悪そうに地面を蹴った。


「父さん、すごく傷ついてたんだよ。母さんは、泣いていたし」


「そんなはずは……」


「ないとは、言わせないからな」


 ヴィクターは、目を背けようとしたヴァンに詰め寄った。

 今にも、掴みかかりそうな様子だったけども、アンバーは間に入らなかった。ただ、仲間たちの中でも一番親しくなった彼を見守りたい。必要とあらば、支えてやりたい。そう考えていた。


「楽の才がないお前が、名誉あるお役目をいただいた。父さん、どんなに誇らしかったか。それなのに、お前は父さんにあんなことを……厄介払いできてよかっただろうなんて、よく言えたな!! ヴァン、お前は本当に言いすぎだ」


「…………」


 まともに長兄の顔を見ることができずに、ヴァンはつま先に落としていた視線を助けを求めるようにアンバーに向けた。アンバーは、軽く首を横に振っただけだった。


 ツケが回ってきたのかもしれない。ヴァンはそう考えながら、アンバーから目をそらした。

 奏者を父に持ちながら音楽の才に恵まれなかったヴァンは、厨房に居場所を求め、料理の腕を磨いた後、五年前に浩然こうぜんの館で働くことになった。そうだ、真理派の女王のライラを仲間に引き入れた小ロイドのもとに、ずっといた。家族は自分がいなくなってせいせいしているというのも、小ロイドから聞かされた。

 長兄と弟に向き直ったヴァンは、乾いた唇を湿らせる。


「ごめん、言いすぎてた、かも。ヴィクター兄さんの言う通りだよ。風竜族は、個人主義で誰かのことを当てにしなさすぎた。だから、俺は長に……」


 利用されたと、ヴァンはまだ認めたくなかった。

 たったひと言だったけども、弟の口から謝罪の言葉が聞けたヴィクターは、握りしめていた拳を開いた。


「わかってくれたら、それでいい。父さんにもちゃんと謝ってくれるよな」


「……わかった。ちゃんと謝る」


 ほっと口元をゆるめたヴィクターだったけども、すぐに厳しい顔つきになる。ここからが本題だと言わんばかりに。


「それで、教えてくれ。小ロイドさまの目的を知っていたのか?」


 ヴァンは、ゆっくり首を振った。橋の街モーガルでのことが、ライラの裏切りとともに知れ渡っていることを、知った。


「知らなかったよ。ライラが真理派と通じているんじゃないかって疑うようになったのも、リュックベンを出たあとだし。そうだ。兄さんたちはどうなの? 俺なんかよりも……」


「なんかとか言うのは、お前の悪い癖だ。父さんがもっと早くはっきり言ってやるべきだったよ。まったく」


 そう言ったヴィクターも、今まで兄弟とはいえ自分のことは自分でと、ヴァンに兄らしく振る舞ったこともなかった。

 彼らが生まれるよりもずっと前からある風竜族の気風のせいで、素直になれない彼らに、とうとうアンバーが口を挟んだ。


「あの、ちょっといいかな。ヴァンも、ご兄弟も、話を整理したほうがいい。奏者の息子ヴィクター、ヴィード、?」


 アンバーには、どうしてもヴァンの身を案じて駆けつけただけとは、考えられなかった。何か別にあるのではという疑問は、今では確信に変わっていた。

 ずっとヴァンのそばにいた彼に、ヴィクターはようやく気がついた。


「君が一枚岩の息子アンバーか?」


「最先端という二つ名をもらったんだけどね」


「そうか、それは失礼した」


 ヴィードが不安そうにヴィクターの袖を引っ張る。どうしようという声すら聞こえてきそうだった。


「小ロイドさまがご乱心なされた」


「え?」


 体中から血の気が引いていく音を、ヴァンは聞いた。目を伏せたヴィクターの声が、遠のく。それでいて、はっきり聞こえる。


「三日前だ。小ロイドさまは、浩然の館に月影の高原の者を集めての宴で、昏睡剤入りの飲み物を我らに振る舞った。さすがだよ。小ロイドさまがそんなことをするなど、誰も思わないし、誰よりも薬学の知識に長けたお方だ」


「僕もヴィクター兄さんも、今朝まで動けなかったんだ」


 こわばって何も言えないでいるヴァンの代わりに、アンバーが口を開いた。


「つまり、風竜族は一族の父のことを疑わなかったということだね」


「まったく疑わなかったわけではなかったけど、同じことだ。小ロイドさまは、薬の効きが悪かった父さんたちにも、鉄枷をはめた。そうやって、単身で聖王国の王宮を襲撃したんだ。風竜族が責めを負うべきだと、僕はそう考えている」


 きつい口調でヴィクターに問い詰めていたアンバーも、言葉を失った。父のヘイデンが尊敬していた小ロイドが、そのような愚かなまねをするはずがないと、信じられなかった。信じられなかったのは、ヴァンも同じだ。


「小ロイドさまが、王宮を襲撃した? 嘘だ。そんなはずない」


 首を横に振って、ヴァンは長兄と弟を押しのけるようにして中庭に降りる。


「小ロイドさまに会ってくる。ライラのことも、全部……」


「ヴァン、最後まで聞けよ」


 地面を蹴ったヴァンの腕を掴んだヴィクターは、悲痛な顔で首を横に振る。


「小ロイドさまはもういない。楽園へ旅立たれたんだよ」


 ヴァンを顔から表情がはがれ落ちた。否定するには、ヴィクターとヴィードの顔があまりにも悲しすぎた。


「信じられないだろう。僕もだ。だが、事実だ」


 震えるヴィクターの声を、ヴァンは否定できなかった。

 青ざめているアンバーをちらりと見やって目を閉じたヴィクターは、ヘイデンが小ロイドを楽園に送ってくれたのだと言った。震えながら、しっかりと言い切った言葉の意味は、ヴァンにもアンバーにも重くのしかかった。


「月影の高原に戻るというなら、最先端のアンバー、君も一緒に来てほしい」


「まさか、親父殿が危ないとか言わないよね!」


 小ロイドの凶行を父が無傷で止められたはずがないと、アンバーはわかってしまった。

 同族である風竜族が、長を止められなかったのか。思えば、父はライラの正体に気がついていた様子があった。そうだとして、父がなぜ黙っていたのかはわからない。直接尋ねるしかない。けれども、やはり風竜族が止めるべきだった。そうアンバーは唇を噛んだ。


「命にかかわるような傷ではなかったけど、しばらくは……」


「そう、少しは安心したよ」


 知の地竜族にふさわしい冷静な態度をたもとうと、アンバーは息を吐きだした。


「竜族には、その個人主義をどうにかしてもらいたいね。月影の高原には、ヴァンだけを連れていけばいい。僕は行かない」


 きっぱりと言い切ったアンバーは、父の身を案じる気持ちよりも、世界の終焉を知ることが優先すべきことだった。


 ヴァンの心は揺れていた。

 長兄と弟が、嘘をついていないのはわかる。いくら、彼が壁を作っていたからといっても、家族は家族だ。

 今すぐにでも、月影の高原に向かうべきなのだ。自分の目で、何が起きたのか確かめなくてはならない。そうわかっているのに、いくらか冷静さを取り戻した彼は、迷っていた。


「ヴィクター兄さん、あの……」


 ヴァンは、なぜ迷っているのか考えた。

 父に失礼なことを言ってしまったという気まずさは、もちろん大きい。世界竜族の生き残りとも出会い、旅の目的も達せられた。それなのに、なぜこんなにも、迷っているのか考えた。

 しばらくして、ああそうかとヴァンは口の中でつぶやいた。


「ごめん、ヴィクター兄さん。やっぱり、俺もまだ月影の高原に帰れない」


「ヴァン?」


 この一大事にと怪訝そうな顔をしたヴィクターに、ヴァンはしっかりと頭を下げた。


「わがままで、ごめん。本当にごめん。俺、本当はわかっていたんだ。父さんやみんなが、俺のこと祝ってくれたことくらい。なのに、俺、恥ずかしくてあんなこと言って、そのくせすっかり忘れていて……本当にごめん!」


 ヴァンは、頭を上げられなくなっていた。頬を伝う涙を見られたくなかった。勝手に卑屈になっていたのは、他でもない自分だと思い知らされた。あんなことを言わなければ、小ロイドに対する疑惑も家族に相談できたかもしれない。もしかしたら、モーガルでアーウィンは片目を失わずにすんだかもしれない。

 不甲斐なくて、悔しくて、ヴァンの涙は止まらなかった。


「帰ったら、ちゃんと謝るから。だから、今は真理派のことも全部、俺ができることをしたいんだ。本当に、本当に……」


「ヴァン兄さん、もう謝らないでよ」


 唇を尖らせたヴィードが顔をあげるようにうながすけども、ヴァンは頭を上げられなかった。困り果てたヴィードは、長兄を見上げた。


「ヴィクター兄さんも言いすぎだよ」


「…………そうだったな、ヴィー」


 肩を落としたヴィクターは、その時はじめて実の弟に対して気が張っていたことに気がついたようだ。

 勝手に卑屈になっていたヴァンに、ヴィクターは長兄らしいことを何一つしてこなかった。浩然の館で居場所を見つけるまで、父はヴァンを持て余していたけども、ヴィクターはヴァンとひと言も口を利かない日が多かった。嫌いだったとか、そういうわけでは決してないけども、風竜族には無関心は珍しいことではなかった。けれども、心のどこかではヴィクターは音楽の才に恵まれなかったヴァンを見下し軽蔑していたのだ。

 胸にたまったわだかまりをすべて吐き出せなかっただろうけども、ヴィクターは深く息を吐きだし、ヴァンに負けないほど深く頭を下げた。ヴィードも、長兄に習うように頭を下げる。


「ヴァン、こっちの方こそ、すまなかった。僕らも、言えたはずなんだ。お前が酷いことを言った時に、後ろめたかった父さんに代わって、お前を叱りつけることもできた。そうしていれば、こんなことにならなかったかもしれない。お前だけじゃない。僕らにも……風竜族の責任だ。本当にすまなかった」


「ヴァン兄さん、本当にごめんなさい。僕、ヴァン兄さんが浩然の館に行ってから、ずっと帰ってきてほしかった。ヴァン兄さんがいなくなって、初めて気がついたんだ。当たり前だと思ってた美味しいごはんが食べられなくて、ヴァン兄さんが大切な家族だったって。本当にごめんなさい」


 ヴァンは、ますます顔をあげられなくなった。それどころか、膝をついて嗚咽をこらえきれずに泣きじゃくった。言葉にならない感情が、涙となって彼の内側から溢れていた。

 今、ようやく彼は、家族に認められたかっただけだと素直に受け入れた。そんな彼を抱きしめた長兄の目にも、涙があった。

 見守っていたアンバーも、思わずもらい泣きしそうになったけども、火球を浮かせながら近づいてきたローワンに見られる前にこらえてしまった。


「やっと、落ち着いたみたいだな。アンバー、水竜の奴らが水鏡で状況報告したいってよ」


「すればいいじゃん」


 なぜ自分に確認してくるのかと、アンバーは首をかしげた。

 呆れたように肩をすくめたローワンは、水竜族の薬師の息子が生成した治癒の水に包みこまれたアーウィンの周りに集まる水竜を顎で示す。


「そりゃあ、あれだ。昨日からのことを、うまく説明できないからだ。フィオの花婿が見つかったってだけじゃすまないだろ。ライラのこととか、マギーが言ってた世界の終焉とか、な」


「納得。というか、僕も整理できてないんだけど」


 と答えつつも、手短に竜の森に伝えるべきだろうと、アンバーは考えた。詳しいことは、ファビアンが戻ってきてからあらためて伝えればいい。それとも、長たちをここへ呼ぶべきかもしれない。父のヘイデンには、無理をさせたくないけども、報告すべきことは報告して、長たちに判断してもらうのが、最善だろう。

 ヴァンは泣き止みかたを忘れてしまったように泣きじゃくっていたけども、大丈夫そうだとアンバーは口元を緩めて水竜たちのもとへ向かおうとした。

 背後で獣の息遣いを感じたアンバーが、向けかけた足をおろして振り返ると、二頭の狼に続いてファビアンが姿を現した。


「これまた、ずいぶん集まったものだな」


 げんなりした様子で黒い前髪をかきあげた彼のかたわらには、もちろんわたしがいた。

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