ローワンの夢

 ローワンが目をさますと、赤毛の少女が腕の中にいた。


「えーっとぉ」


 肌でじかに感じる少女の体温と重みに、彼はゆっくりと昨日の出来事を思い出していった。


 モーガルにいたのが、ずいぶん昔のことのようだ。

 なりゆきで、他に選択肢がなかったとはいえ、お互いをよく知りもしないで結婚してしまった。


「……どうしよう」


 あどけない安らかな寝顔。薄く開いた唇からこぼれる寝息が喉仏にかかって、くすぐったい。

 風邪を引かせてはいけないと、自由がきく方の手で、ずり落ちてたシーツを肩まで引きあげる。


 こんな余韻に浸っている場合ではないとわかっている。わかっているけれども、彼は新妻を起こせない。


 ローワンには、大家族の父になるという夢がある。親なしだったために、大勢の息子に囲まれた生活に憧れている。最低でも二十人は欲しいと考えている。


 突拍子もないことを思いついたりして、平気で行動に移すローワンだけども、人知れず愛あふれる家族計画を夢想する一面もあったのだ。

 ローワンの家族計画には、妻となる花嫁の存在がかかせない。

 変化へんげできない子どもの頃から、何度も何度も花嫁との馴れ初めを考えてきた。

 花嫁を見つけた時の第一声や、表情や態度。どうすれば、花嫁に安心してもらえるか、大人たちの会話に耳を傾けたり、日輪の館の書庫で恋愛指南書を読みあさったりと、彼なりに研究してきた。


「どうしてこうなったんだ」


 ぼやかずにはいられなかった。

 何度も思い描いてきた初夜は、もっとロマンチックでムーディな忘れられない夜になるはずだった。

 たしかに、忘れられない夜になっただろう。

 発情した体で新妻を乗せて飛んだせいで、余裕なんてまったくなかった。

 必死で理性をたもとうとしていた彼を、顔を真っ赤に染めた新妻に埃っぽいベッドまで案内させてしまった。


 理性をかなぐり捨てて求めあった一夜を思い出したローワンは、劣情に体が疼いた。


 思えば、リュックベンで出会ってしまったあの時から、腕の中で眠っている少女に振り回されていた気がした。


 マーガレット・メイジャーは、何一つとして彼の思い通りにならなかった。

 彼はモーガルで飛び蹴りを食らうまで、陽炎の荒野で待っていてくれると信じて疑っていなかった。


 わけがわからない。

 妻との相性は、理屈じゃないと聞いてはいた。

 それを今、彼は痛いほど理解している。


 まだお互いのことをほとんど知らないまま、激しい初夜を過ごしてしまうほど、ローワンは腕の中の少女が愛おしくてしかたがない。

 このまま二人きりでという誘惑に抗って、そっと新妻のマギーを揺り起こす。


「起きてくれ、マギー」


「ぅん?」


 寝ぼけまなこの妻の下から体をずらしてベッドから降りるローワンが、どれほどの誘惑に抗わなければならなかったのか、想像するのは難しくないだろう。

 ベッドの上で目をこする妻に背を向けて、彼は陽炎をまとうように赤い長衣を着た。


「おはよ。便利な服ね」


「まぁな、ウロコみたいなもんだし。……って、変な意味じゃねぇからな!!」


「ふぅん」


 黒い都で常に裸でいるのかと白い目で見られたことを思い出して、ローワンは耳まで真っ赤に染まった。


「と、とにかく、えーっと、あー……」


 一人で勝手に焦りに焦ってパニックになっているローワンは、床に水が入った桶と比較的きれいな布切れが置いてあることに気がついた。


「こ、これで、体拭いて、ふ、服、着ろよ!」


「うん、ありがと」


 パニックになっている割には、こぼれないようにそっとベッドの足元に桶を運んでくれたローワンを、マギーは微笑ましく思った。


 ローワンとマギーが初夜を過ごした狭い部屋は、ファビアンがターニャとわたしを置き去りにしてモーガルに戻っていった部屋だった。

 本棚と、小さなテーブル。それから、頑丈なベッド。

 気まずさを紛らわせようと、部屋の窓から外をうかがうと風に揺れている枯れ草の中に井戸が見えた。その向こうには城壁と城門。

 窓の向こうが中庭でなくてよかったと、安堵の息をついた。もし、初めての情事の余裕のなさを悟られでもしたらという心配は、杞憂ですんだようだ。


 小さくため息ついた彼は、脱ぎちらした服を集めている新妻をなるべく視界に入れないように、そっとわずかに扉を開けて外をうかがう。

 廊下に布巾をかぶせた盆があった。布巾をめくると、ポテトケーキと水差しが並んでいる。


「ヴァンの野郎……」


 冷めきっているものの、まだら模様の焦げ目をつけたポテトケーキは、充分すぎるほど食欲をそそる。

 ちょうど二人分の朝食を用意してくれたことに感謝しながら、余計なことは考えるまいと、ローワンは盆を手にとってマギーと二人でいただくことにした。


 まだ話さなければならないことは、たくさんある。ありすぎて、何から話せばいいのか、わからないくらいだっただろう。


「なぁ、マギー。俺たちは、話し合うべきだと思う。これからのこととか、いろいろとあるだろ」


「うん」


 とは言ったものの、ベッドの端に並んで腰掛けて、二人は黙々とポテトケーキを頬張った。空腹を意識していなかったけども、二人とも腹が減っていないわけがなかった。

 しばらくして、指先についたポテトケーキの屑をなめとったローワンは、慎重に言葉を選びながら言った。


「あのさ、なんで、陽炎の荒野で待っててくれなかったんだよ」


 やはり、ローワンはまだ気にしていた。

 モーガルで口論になったにもかかわらず、まだ言うかという目でマギーににらみつけられた彼は、慌てて続ける。


「いや、その、あれだ、陽炎の荒野って、名前が聞こえが悪いって、人間たちに言われているって聞いててよ。それで、あれだ、やっぱり、陽炎の荒野に行くのが嫌だったのかなってよ」


「あー……」


 しどろもどろになっているローワンの話を聞いて、マギーにも得心がいった。


 陽炎の荒野は、竜の森でもっとも人間が足を踏み入れるのが困難なところだ。西の月影の高原、東の玲瓏の岩窟を経由しなければ、とてもたどり着けないのは、南に砂漠地帯があるからだった。

 砂漠と、灼熱の泉から、人間がいい印象を持つことはないだろう。

 実際にはそれほど過酷な環境ではないのだけども、清涼の泉が枯れてしまった今、水竜族に水源を頼らなければならないのも、また事実だった。


 しばらく唇を尖らせて考えたマギーは、肩をすくめる。


「別に、考えたことなかったけど」


「え、あ、けどよ……」


「いやいや、あんたに逃げられたので頭に血が上って、そこまで考えたことがなかったけど」


「……すまん」


 もう勘弁してくれと首をすくめるローワンに、マギーはでもと続ける。


「でも、考えておかなきゃいけないよね。で、どんなところなの? 陽炎の荒野って」


「お、おう。陽炎の荒野ってのはな」


 正面から笑顔を向けられたローワンは、顔から火が出るかと思ったらしい。よくよく考えてみれば、マギーが純粋な好意を彼に向けるのは初めてのことだったから、しかたのない反応だった。

 照れを隠そうとした咳払いが、いったいどれほそどの効果があったのだろうか。

 マギーは、笑顔でローワンの話を待っていた。


「そもそも、俺たち火竜族は、手先が器用なんだ。……そんな顔をするなよ。俺も、木彫りの腕には、自信があるんだぜ。やっぱり、花形は鍛冶師だな。陽炎の荒野は、彩り豊かに飾り立てられているんだ。土作りの家々の壁には、壁画。地竜族の玲瓏の岩窟には及ばないが、浮き彫りレリーフだって、すげぇんだぜ。それから、窓辺に翻る日よけの織物。人間たちは刺繍とか織物は、女の仕事らしいが、陽炎の荒野は、そうじゃない。数は少ないけど、人間たちの間じゃ、陽炎の荒野の織物は高値で取引されてるんだってよ」


 拳を握りしめて熱く語るローワンの輝く瞳には、ありありと故郷の姿が映っているのだろう。

 残念ながらマギーはまだ見ぬ陽炎の荒野に思いを馳せられなかったものの、夫のいきいきとした姿を見ているだけで、幸せな気持ちになった。


 ローワンが、故郷の陽炎の荒野を誇りに思っているのは、よくわかる。


「とにかく、陽炎の荒野は、美しの荒野って呼ばれるくらいなんだ。清涼の泉が枯れてからは、いろいろあって大変だったりしたけど、これからは、大丈夫。だから、マギー……」


 熱く故郷がどんなに素晴らしいか語っていたローワンは、一度言葉を切った。目の輝きには、真摯なものも宿った。


「これから、大変なことになると思う。花嫁狩りも復活するかもしれない。だから、俺も火剣の使い手として、戦わなきゃいけなくなる。だから、マギーは陽炎の荒野で待っていてほ……」


 待っていてほしいとは、言えなかった。いや、マギーが言わせなかった。部屋に響き渡った小気味よい音が、言わせなかった。



 中庭に姿を現したローワンの頬には、真っ赤な手形があった。

 すねた顔のローワンとすました顔のマギーに、回廊の階で話し合っていた四人は笑いの発作を鎮めるのに苦労したことだろう。


「ありがとよ」


「あ、ああ」


 空になった盆と水差しを受け取ったヴァンの口元には、隠しきれない笑みがある。

 わざとらしく咳払いしたローワンは、何を話していたのか尋ねた。

 アンバーはなるべくローワンの顔を見ないようにして、二人がいない間にあったできごとを手短に教えた。


「もういい加減、霧が消えるはずだから、その後のことを相談してたんだよ」


 軽く首を縦にふって、ターニャが薄っすら茜がさす空を見上げた。


「ドゥールの水鏡が上手くいかなかったら、ただ待っているなんて、無駄でしかないだろ」


「食糧も調達しなきゃいけないしね」


 さすがにダフ芋だけではと、ヴァンは肩をすくめる。

 だいたいのことがわかったローワンは、軽く息をついた。


「つまり、誰が竜の森に飛ぶかってことか」


「そういうこと」


 首を縦に振るアンバーから、ちらりと横目でマギーをうかがったローワンは、どさくさに紛れて陽炎の荒野に向かうという考えを捨てた。


「で、フィオとファビアンは?」


「さぁね。どこかで一緒に寝ているんじゃないか」


 空を見上げたまま答えたターニャは、はっと目を見開いてかすれる声で来たと言った。何がとは、誰も尋ねなかった。

 薄っすら茜さしていた霧の名残りを、水竜が突き破ってきた。

 霧が完全に拭いさられるのが待ちきれなかったダグラスは、中庭に足をつけるよりも先に息子のアーウィンをしっかりと抱きしめた。


「馬鹿息子が」


 鋭い爪で傷つけないようにアーウィンの顔を包みこんだダグラスの声は、震えている。


「お前は、俺の跡を継いでいればよかったんだよ。馬鹿が。こんな姿になって、お前は、どうしようもない馬鹿だ」


 微動だにせずに、ぐったりしていたアーウィンの尻尾がピクリと揺れてた。


「ぅ、いた、い」


「アーウィン、しっかりしろ!」


「うるさいよ、とうさ、ん……父さん?」


 無事だった右目を薄っすらと開けたアーウィンは、夢かと思ったらしい。


「なんで、父さんが?」


「なんでも、こうもあるか。馬鹿息子が」


「いやでも……」


 弱々しい声でまだ言い募ろうとしたアーウィンの顔に、ダグラスの涙がこぼれ落ちた。

 状況が理解できていないアーウィンだったけども、今は素直に父に抱えられていようと、目を閉じた。


「ごめん、父さん」


 苦しいと弱々しく呻く声を無視して、父は息子を強く抱きしめた。


 水竜の父と子に何があったのか、火竜のローワンが知るわけがない。

 けれども、親なしのローワンにはうらやましい光景だった。クレメントは親代わりで、本当の親ではない。実の親子のようだと、周囲の者は言ってくれるけども、彼にとってクレメントはいつか越えるべき恩師だった。

 寂しそうに目を伏せた彼の手を、マギーはそっと握りしめる。握りかえしたローワンの目は、いつものように輝いていた。


 そう遠くない未来、ローワンは父になる。二十人の息子に囲まれる家庭を築くために、感傷に浸っている場合ではなかった。

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