友との別れ

 ヘレナ・ラウィーニア。

 それが、小ロイドの妻となり、息子たちの母となる花嫁の名前だった。


 銀のウロコを握りしめていた小さな手を開いて、泣きはらした目でじっと見つめる。

 後に小ロイドと呼ばれることになる風竜の少年は、もう七日ほど一人きりで部屋に閉じこもり、誰の呼びかけにも答えようとしなかった。


 また銀のウロコを握りしめて、彼は泣いた。喉が痛むけど、かすれた声をあげて泣きじゃくった。

 もう、十歳だ。声を上げて泣きじゃくることを、恥だとする年頃だった。

 けれども、花嫁のの知らせとともにウロコが届けられてから、彼はずっと泣きじゃくっていた。

 まだ変化へんげもできない子どもだった。

 まだ見ぬ花嫁に夢想するよりも、百薬の大樹の周りで遊ぶことに夢中な子どもだった。

 だから、なぜこんなにも悲しいのか、彼はよくわからなかった。

 ただただ、泣きじゃくることしかできなくなっていた。


 泣きじゃくって、泣きじゃくって、泣き疲れたら泥のように夢も見ずに寝て、目が覚めれば、また泣きじゃくる。時おり体が求めるままに、泣きながら誰かがそっと置いていってくれた食糧を食い散らかしては、また泣きじゃくる。


 気が狂ってしまうのではないかと、彼の両親は気が気でなかっただろう。息子への不条理な仕打ちに、楽園の神々すらも呪ったかもしれない。

 どんな薬もどんな言葉も、誰にも、彼の悲しみを癒せない。

 彼が一人で閉じこもっている部屋から出てくるのを、待つしかなかった。それが、いつになるのか、親ですらわからなかった。明日なのか、それとも気が狂ったまま衰弱して楽園に召される日なのか。


 当の少年ですら、わからなかった。


 そして、八日目の朝。

 静かになった部屋に様子を見に来た父は、息子がいないことにさぞかし肝を冷やしたことだろう。

 花嫁の後を追って自殺したのではないかと、慌てて外に飛び出した父が目にしたのは、銀のウロコを朝日にきらめかせて不器用ながらも風に乗ろうとしている小さな風竜だった。

 もしやと父が声をかける前に、その小さな風竜は懸命に翼を動かしながら近づいてくる。


「父上! おはようございます!」


 昨日まで声がかれても泣きじゃくっていたとは思えないほど、小さな風竜は声を弾ませていた。


 得意げに宙返りを披露する息子に、なんと声をかけたらよいのか、父はすぐにわからなかった。


「昨夜、どういうわけか、ウロコを食べたくなってしまったのです。で、気がついたら、空を飛んでいたんです」


 息子の笑い声など、二度と聞けないのではと考えていた父は、その楽しげな笑い声に目頭が熱くなる。


「父上、僕、一人じゃない気がするんです。なんだか、上手く言えないんですけど、なんだかそんな気がするんです」


 鈴を鳴らすような笑い声が聞こえる。小さなぬくもりが、いつも背中にある。後に、小ロイドはそれが花嫁だと語るようになるけども、その時はただただ無邪気に笑っていたのだという。


 彼の父は、戸惑っていた。

 まだ十歳の息子が変化だけでなく、ウロコを受け入れて成竜してしまうなど、前代未聞のことだった。普通は、花嫁が何らかの事情で得られなくても、ウロコだけが残された場合でも、しかるべき歳まであってはならないことだった。すべての竜族が、生まれ持った忌避感で精神が未熟な成竜は、よからぬことだと悟っていたからだ。

 父が戸惑ったのは、そういう本能的な理由があったのかもしれない。


「そうか、おめでとう、ロイド。こんな小さい竜は見たことないぞ」


 ただ、息子の無邪気な笑い声の向こうに潜む狂気から目を背けても、父は息子の笑顔を守りたかった。

 今は小さくても、もう十年もすれば、他の竜と変わらないはずだと、考えていたのかもしれない。


 だから、花嫁の墓を参りたいという願いも、二つ返事で叶えてやりたかったに違いない。


 長と父とともに訪れた王宮での返事は、あまりにも残酷すぎた。

 火に焼かれた少女の遺灰は、大河に流されたというのだ。


「なぜ、僕の花嫁の墓がないのですか? 人間は、墓を作って弔うのではないのですか?」


 父は答えられなかった。答えたくなかった。

 怒りと悲しみに胸が張り裂けそうな息子が、花嫁が自殺したのではと疑念を抱いているのがわかってしまった。


 その疑念が真実だった。


 ヘレナ・ラウィーニアの伯父である国王にしてみれば、花婿の来訪は青天の霹靂以外の何物でもなかっただろう。

 恨むなら、娘を手放したくない一心でウロコを隠した弟の妻を恨めと、王はつばを飛ばしながらロイドに言い放った。あまりにも、愚かで身勝手極まりないことだったけども、王にとっては当然のことだった。

 始まりの女王リラの血筋である王族に、竜の花嫁などいてはならないのだから。


 純粋な怒りに駆り立てられたロイドを鎮めたのは、父でも長でもなかった。


「わたくしが、従妹のヘレナを死へと追いやったのです」


 髪を振り乱した乱入者は、次期国王となる若者だった。

 多くの制止の声と手を狂ったようにはねのけた若者は、幼い妹のようなヘレナに、恋慕の情に似た気持ちを抱いていたと告白した。彼女の母が病に倒れた時に、銀のウロコが見出みいだされたこと。それがほんの三ヶ月前であること。身勝手なことに、ヘレナを裏切り者と罵ったこと。

 やつれた若者は、狂ったようにヘレナを追い詰めたのは自分だと告白した。


 ロイドは狂った若者に、自分の中に潜んでいる狂気をみたのかもしれない。

 だからこそ、自殺して償うと短剣を抜いた彼に、底冷えするような声で断罪したのかもしれない。


「自殺など許さない」と。


 許せるわけがなかった。

 花嫁を奪った若者に、同等の死など、許せるわけがない。


 小ロイドの凍てついたひと言が、若者に残っていた理性を容赦なく吹き飛ばした。

 将来を期待されていた若者が、人前に姿を現したのは、これが最後となった。


 小ロイドが聖王国に干渉していかなければと決意したのは、おそらくこの時だっただろう。


 後に、あの若者が花嫁とともに葬り去られるはずだったウロコを届けさせたのだと知る。けれども、そんなことはどうでもよかったに違いない。


 十年たっても、二十年たっても、大きくなることのなかった体で、長になった。

 醜く映った聖王国の中枢が、高潔になればとできることをしてきた。

 変えられなかったと小ロイドは叫んだけども、四百年近い歳月の中で少しずつではあったが、聖王国は竜の森に歩み寄るようになった。

 きっかけは悲劇以外の何物でもなかった。けれども、小さな体で彼は確かに聖王国を変えてきたのだ。

 彼の思うようにはならなかったとしても、ライラのような姫君が現れたのは、彼がいたからだ。


 そう、始まりの女王の血筋だからと竜の花嫁を否定せずに育てていく、そんな当たり前なことが当たり前になった。だからこそ、女王を認めない男性中心の世の中に疑問をいだく者が現れたのは、必然だったのだろう。

 小ロイドが彼女に希望をいだいたのも、必然だったのだろう。

 聡明なライラ姫を女王にしたい。その希望のために、竜族と人間の関係の象徴となる、世界竜とその花嫁を利用しないわけにはいかなかったに違いない。

 たとえ竜の森を敵に回しても、小ロイドはライラ姫に世界を変えてほしかった。


 顔も知らないままの花嫁の笑い声は、もう聞こえない。

 最後に聞いたのは、いつだったのかもわからない。

 小ロイドの咆哮は、友と呼び酒を酌み交わした地竜の片翼を切り裂こうとした。


「言葉も忘れてしまった、のか」


 ヘイデンはかろうじてもがれなかった片翼の激痛に耐えて、眼前までせまりくる友に全力でぶつかっていった。そう、小さい体の小ロイドに、頭からぶつかっていったのだ。

 それはまるで、ヘイデン自身が礫となって小ロイドを地に落とそうとするかのように。


「がぁああああああああ」


 暴れ、呻き、吠える小ロイドの首に噛み付いたヘイデンは、体中に切り傷を負っても、決して友を離さなかった。

 一枚岩のヘイデン。その二つ名は、頑固で素直に言うことを聞かなかった次男を持て余していた父が、長男の失踪のさなかに与えられた実にありがたくないものだった。けれどもヘイデンは今、一枚の巨石となっていた。


 歳が離れた弟だった。ただそれだけの理由で、長の息子でありながら、期待されていなかった。自分のことを誰も知ろうともしないくせに、出来が悪いとみなされた。

 花嫁を守りきれずに失踪した兄の身代わりなど、冗談だろうと笑ってやりたかった。

 どうせ誰も期待していないならと、自棄になっていた自分を、肯定し期待してくれたのは、小ロイドが初めてだった。

 同族ではなく、風竜族の長に救われたのだ。

 それなのに、ヘイデンは小ロイドを救えなかった。


 せめて自分がこの手でと、折れたる火剣のクレメントを説得してここにいる。

 もし許されるのなら、このまま小ロイドとともに死にたい。そういう思いがヘイデンの中にあったかもしれない。


 けれども、ヘイデンには、最愛の妻ユリアがいる。二つ名を与えたばかりの可愛い息子アンバーがいる。土竜もぐらの秘術を与えて、影から支えてくれる兄ベンがいる。

 なにより――


「すまない、友よ」


 小ロイドの首に食らいついていた口を開いたヘイデンは渾身の力を込めて、友の体を下へと突き放した。


「がっ!!」


 槍の穂先のように変形させた始まりの塔が、小ロイドの体を貫く。


 ぼろぼろになって、動くことが奇跡のような翼を休めるために、ヘイデンは友の血と内臓がこびりついた塔の先端に降り立った。


 まだ、小ロイドは生きている。弱々しくも、もがき苦しんでいる。

 先程まで、自ら命を絶とうとしていたはずの小ロイドが、生きようとあがいている。

 滑稽だとは、ヘイデンは考えなかった。

 ただただ、悲しそうに友の最期を見届けようとしていた。


「ぐぅ、がっ、くぅう……」


「俺は、見せてやりたかったんだよ」


 もう言葉も忘れてしまうほど狂ってしまった友に、ヘイデンは語りかける。

 最後の理性を砕き狂わせたのは、他ならぬ自分だということはわかっている。そうでもしなければ、友を楽園へ送ることなど、できなかった。


「世界は変わる。姫さまたちが変えてくれる。ひと月前に、あの港町で見ただろう? 人間と竜族がともに並び立つ未来を、見せてやりたかった」


 涙で滲む目で見下ろす小ロイドは、もうもがくことをやめている。


 見せてやりたかった。

 隠された真実の壁画を見つけてしまった少年時代から始まって、自分を肯定してくれた友の小ロイド、竜の妻の有り様に疑問を呈した最愛の妻に導き出された、理想の世界を見せてやりたかった。


「わしの友は、年寄りには、きつすぎることを平気で言いおる」


「っ?!」


 呆れたような小ロイドの声が、弱々しくもはっきりとヘイデンの耳に届いた。

 身を乗り出したヘイデンが見えていただろうか。小ロイドの銀色の瞳から光が失われていく。


「長い旅になるだろうよ。わしが楽園から見下ろした世界がどうなっているのか……楽しみ、だ、のぅ」


 短く笑った小ロイドの口から血がこぼれ落ちる。

 身を乗り出しているヘイデンが口を開くよりも先に、首をもたげた小ロイドは、よりはっきりとした声で告げる。そう、別れの言葉を。


「よく聞け、我が友。ライラ姫の理想も、わしの希望だ。どのみち、避けては通れない障害よ。わしに見せたかったという未来を築きたければ、乗り越えてみせろ。ライラ姫を……歴史のしがらみを……真理派の悲しみ憎しみ、すべて乗り越えてみせろ。わしには、無理だったが、のぅ」


「待て、待ってくれ!! 逝くな、友っ……」


「お前が、逝くなというのか。ははっ、は…………こんな愚かなわしを、まだ友と呼んでくれる、おかしな地竜に、一なる女神さまの祝福あれ」


 もたげていた首から力が抜けていく。もう二度と、銀色の瞳が輝くことはない。


 それが、小閃光のロイドの最期だった。


 ヘイデンは激しい喪失感と、忘れていた全身の傷の痛みに襲われ、しばらく声が出なかった。ただ、友の血に染まった塔の先端で震えるだけだった。

 彼には永遠に限りなく等しい時を震えていたように感じただろうが、実際にはそう長くはそうしていられなかった。

 背後から近づいてきた翼の音と兄の声が、友との別れの時間に割って入ってきた。


「……終わったな」


「いや、まだ何も終わっていないよ、兄さん」


 深い息をついた弟と息絶えた小さな年老いた風竜に、人形遣いのベンはかける言葉を持たなかった。


 傷ついた体で、どうやって月影の高原まで小ロイドの亡骸を運ぼうかと、現実的なことも考えなくてはならない。

 それに、兄に任せた小ロイドの凶行の情報操作の首尾の方も確かめなくてはならない。


 いつまでも無力な喪失感に打ちのめされているわけにはいかなかった。


 そう、何も終わっていない。

 乗り越えろと友が言い遺してくれた。

 乗り越えなくてはならない。


 まずは、その友の亡骸をと、今一度見下ろしたときだった。


 風が、舞い上がった。

 ヘイデンの目に浮かんだ涙を吹き飛ばすような、力強い風だった。


「嘘だろう?」


 ベンが驚きの声を上げる。が、ヘイデンにはほとんど届いていない。

 奇跡だと、知の地竜でも驚きとともに受け入れるしかなかった。


 小ロイドの亡骸が、風に還った。

 それ自体は、自然なことだけども、死して間もなく還ることはありえないことだった。


「我が友、小閃光のロイドの旅路が、短く平坦な道のりでありますように。どうか、どうか、一なる女神さま」


 奇跡の風は、最後に長の証である銀の指輪をヘイデンに委ねるように舞い上げた。

 目の前に舞い上がってきた指輪を握りしめたヘイデンの目に浮かんでいた涙は、もうない。すべて友の風が拭い去ってしまったのだ。


 ヘイデンの目に浮かぶのは、乗り越えてみせるという決意だった。

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