第二章 小閃光、墜つ
小閃光の涙
この小閃光のロイドが、今日この時より、すべての風竜族の父となる。
知っての通り、僕には妻がいない。
その姿も声も、僕は知らないまま、彼女は逝ってしまった。
二度とこのような間違いが起きないように、僕は聖王国とより友好的な関係を築きたい。
できるはずだ。一なる女神さまは、もっとも強き竜族ともっとも弱き人間がともに生きることを望まれたのだ。なさねばならないだろう。
僕の体は小さいが、風竜族の父だ。
未来は、過去よりも良いものにしなければならない。諸君らのためにも、諸君らの子らのためにも。
『小閃光のロイドの長就任の演説』より
――
冬の
ちょうど、わたしが灰霧城塞で夜明けをむかえていた時、小ロイドはブラス聖王国の王宮にいた。
鍵のかかった古い扉に向かって、彼が気だるそうに小さな手をかざすと、音を立てて扉が吹き飛んだ。
「なんじゃ、もう夜明けか」
夜明けの風に、彼はうっとりと目を細める。
冬の終わりから春の終わりまで、月影の高原から吹き下ろす風が、この王宮まで届いている。
夢見るような足取りで、彼はふらふらと外へ出た。
もう間もなく、黄金の朝日が月影の高原を縁取るだろう。
すがすがしく心地よい夜明けの風を、胸いっぱい吸い込もうとして、やめた。
血の匂いまでも、吸いたくなかったからだ。
ぼんやりと目を向けた両手だけではなく、全身に返り血を浴びていたことを、思い出したのだ。
「どうして、人間も血が赤いのだろうな」
花嫁がこんなこと望んでいなかったことくらい、わかっている。いや、わかっていたはずだった。
風になびく銀の髪にまで、血がこびりついている。
「花婿にふさわしい姿ではないな」
小ロイドは力なく笑って、手を下ろす。
夜明けの風は、まだ吹いている。
けれども、彼はもう風の匂いも色も何も感じられない。
花嫁が身を投げた始まりの塔を訪れるのは、これが初めてではない。
何回も、何十回も、何百回も、何千回も、数え切れないほど訪れては、花嫁に思いを馳せていた。
「自殺した者の魂は、楽園へ召されずに、地上にとどまり続けるなら、一度くらいは、と。そう、考えておったのだよ」
けれども、彼は一度として花嫁の幻も見ることはなかった。
もう、涙も流れない。
風は、いつもより少しだけ冷たい。それだけだ。
一晩かけて、王族たちを切り刻んできたというのに、ほとんどいつもと変わらない夜明けだった。
「そういえば、やけに月が明るかったな」
ただ、それだけだ。
世界は、何一つ変わっていないように、彼の目には映っていた。
花嫁を自死へと追い込んだあの時代から、彼は世界を何一つ変えられなかった。
「僕は、何をしてきたんだろう、ね」
花嫁は、彼にウロコしか遺してくれなかった。
心優しい少女だったと、聞いている。
王の娘にさえ生まれなければ――
母親が保身のために、ウロコを隠さなければ――
もっと早く、花嫁を迎えにいけたら――
小ロイドは長になることもなく、ありきたりだけども幸せな生涯を終えているはずだった。
「四百年、か。ヘレナ、君が来てくれないなら、僕から行くよ」
心優しい少女がどんなに追い詰められて、どんな思いでここから身を投げたのか。
「今なら、わかる気がするよ」
花嫁に思いを馳せながらも、恨まなかったことがなかったわけではない。
もっと早く、もっと早く、月影の高原に助けを求めてくれれば、彼女を救うことだってできたはずだ。
朝日が月影の高原を、ゆっくりと黄金に縁取っていく。
「きれい、だな」
夜明けの風は、まだ吹いている。
けれども、小ロイドの心は凪いでいる。
やがて、太陽が月影の高原を離れる頃には、風向きも南へと変わってしまう。
「君はこの吹き下ろす風に、僕を見たのだろう?」
そうであってほしい。
心は凪いでいるはずなのに、小ロイドの頬に涙がつたう。
「ごめん、本当にごめん。今まで、ずっと一人きりにして、本当にごめん」
滲んでぼやけた視界に、ぼんやりと白い人影が浮かび上がる。
花嫁の幻に魅せられた小ロイドは、ふらふらと塔の端へと歩み寄る。
「今、逝くよ」
フワリと狭間胸壁の上に立った小ロイドは、その向こうで微笑んでいる花嫁の幻に手を伸ばした。
一歩踏み出せば、すべてが終わる――はずだった。
「なっ?!」
根が生えたように踏み出せなかった足を見下ろして、小ロイドは目をむく。
胸壁の石が変形し、彼の足を縫い止めていた。
「我が友らしくないな」
彼が振り返るよりも先に塔の上に姿を現したのは、ヘイデンだった。地竜族の長でありながら、公私共に小ロイドを友と呼ぶヘイデン以外に、彼をつなぎとめる者などいやしなかっただろう。
長い濃い茶色の髪を振り乱していたヘイデンを、振り返った小ロイドは冷たく鼻で笑った。
「僕らしくない? よく言うよ」
凍てついた旋風で胸壁と足を切り離した小ロイドが、フワリと宙に浮かび上がる。
「一枚岩のヘイデンには、番狂わせの一つくらいあったほうが、楽しいだろう? ライラ姫が真理派の女王であることは、人間を攻撃するちょうどいい口実だったよ。リュックベン市で足止めを食らったが、所詮は時間稼ぎにすぎなかっただろう?」
「俺のための番狂わせにしては、やりすぎだ。王族を皆殺しにする必要などなかった」
「皆殺し? いや、まだライラ姫は残っている」
凍てついた笑みを浮かべて首をかしげる小ロイドに、ヘイデンは落胆のため息をついた。
「そうだ、ライラだけを残した。だが、それは真理派の女王として、だろう?」
「まぁ、そういうことになるかな」
「だったら、お前が手にかけた王族たちは、とばっちりで死んだことになる。皆が皆、いや、ほとんどが真理派だったわけではない。なのに、お前は……」
「この国の王族は、竜族を受け入れなかった。真理派とどこが違うんだ? 始まりの女王の血筋だからと、竜の花嫁を受け入れなかった奴らは、真理派と同類だろうが!」
小ロイドの怒りの声とともに、旋風が唸り声をあげてヘイデンを襲う。背に翼を広げたヘイデンが飛び上がった直後、彼の背後の塔の一部が瓦礫となって宙を舞う。
「一つだけ教えてくれ、友よ。なぜ、ライラを生かしている?」
悲しそうなヘイデンの問いに、小ロイドは答えなかった。答えの代わりに襲ってきた旋風を、ヘイデンは宙を舞っていた瓦礫で壁を作り防ぐ。
「自分の花嫁を重ねたのか?」
「違う!」
小ロイドは、感情を抑えきれなくなった。
あれほど、余裕を見せていた彼の顔が癇癪を起こした子どものようにくしゃくしゃになっている。
「貴様に何がわかる。何が、わかるっていうんだ」
次から次へと襲いかかる旋風を、ヘイデンは冷静に瓦礫の盾で防いでいく。
「ライラ姫は、僕の希望だったんだ! 四百年かけても変えられなかったこのどうしようもない国を変えてくれる希望だったんだよ! 始まりは女王であったにもかかわらず、女から権力を奪いさったこの国を、ライラだけが変えてくれるんだ。彼女にとって真理派の女王という称号すらも、その踏み台にすぎない。僕らが守り育ててきた姫さまよりも、ずっと尊い女性になるだろうよ!」
ひときわ大きな旋風がヘイデンを襲った。それすらも、ヘイデンにかすり傷一つ与えられなかった。
「僕は、変えられなかった。けど、彼女なら変えてくれる」
「だから、ライラにとっても邪魔になる王族を皆殺しにしたというわけか」
ヘイデンは冷徹な目で、壮絶な笑みを浮かべる友を見下ろしていた。彼にとって、小ロイドはまぎれもない友だった。たとえ、小ロイドにとって自分が友でなくとも。
「そうじゃないだろう、友よ。ただ、許せなかっただけだろう? 自分の花嫁を死に追いやったこの国が、憎かっただけだろう?」
「僕の花嫁が悲しむとか、心にもないことを言うつもりか?」
嘲るように鼻で笑った小ロイドに、ヘイデンは力なく首を横に振る。
「そうではないさ。ただ、我が友は、大切なことを忘れているようだ。小閃光のロイドよ……」
できることなら、ヘイデンは言いたくはなかっただろう。それでも、言わなくてはならない。
そもそも、自分が小ロイドから目を離さなければよかったのだ。息子の成長と、オーナ大隧道の驚異に目がくらんでしまわなければよかったのだ。
友である小ロイドが、幼い顔の下に聖王国への憎しみを抱えていることくらい知っていた、はずだった。
花嫁を得られなかった竜が狂気にのまれることは、有能だった兄から身を持って教えられた、はずだった。
だからこそ、四百年を超える驚異的な長寿でありながら、良き風竜族の父であり続けている小ロイドを、ヘイデンは尊敬すらしていたのだ。
おそらく彼がこんな凶行に駆り立てたきっかけは、北の石舞台で小さな少女が黒いウロコを掲げたことだったに違いない。
竜の森に希望をもたらした世界竜の花嫁が、皮肉なことに彼を狂わせたのだ。
そのことに気がついたのは、ライラ姫を旅の仲間に加えた時だ。
始まりの女王の血が流れる聖王国の姫君だからと言った彼の本心を、老竜ライオスも折れたる火剣のクレメントも、気がついていたはずだった。
けれども反対しなかったのは、真理派を徹底的に叩く好機が巡ってくるかもしれないという思惑があったからだ。
もし、あの時、ヘイデンが反対の声を上げていたら、こんなことにはならなかっただろうか。
ひと月前、リュックベン市で見た新しい希望では、友の心を変えることはできなかったということだろうか。
聡明なヘイデンですら、答えが見つからない。
もっともすでに起こってしまったのだから、答えがあったとしても、無意味でしかない。
この先、ずっと後悔にさいなまれ続けるだろうと、ヘイデンは覚悟を決めていた。
「花嫁が握りしめたウロコを手に入れた時、俺たち竜は彼女と一心同体なのだよ。つまり、我が友の花嫁の魂は、ずっとそばにあり続けていたのだ。そう、胸に刻んでいると、笑っていたではないか、我が友よ」
それは、もしかしたら、強がりだったのかもしれない。そう胸に刻まなければ、やってこれなかったのかもしれない。
けれども、小ロイドが酒を飲む度にそう言って笑っていたのは、まぎれもない事実だ。
そう言わなくなったのも、そもそも勝手知ったる友の酒だと酔いつぶれるほど飲まなくなったのも、すべて守り育ててきた姫君が現れてからだ。
小ロイドの目がゆっくり見開かれていくのを、ヘイデンはどんな気持ちで見下ろしていたのだろうか。
「あはは、あは、あ、あ、あ……あああああああああああああああ!!」
悲痛な慟哭をあげた小ロイドの小さな体が、銀色に輝く竜へと変化する。
それはまるで、二つ名の小さな閃光となって、ヘイデンの記憶に焼き付いたに違いない。
「すまない、友よ。だが……」
もはや言葉すら忘れてしまった獣のように吠えながら一瞬で迫ってきた小柄な小ロイドの目に、ヘイデンは確かに涙がこぼれていくのを見た。
「せめて楽園へ送るのが、友としてのつとめだからなぁ!」
変化し上空へと舞い上がったヘイデンを、怒り狂った小ロイドが追う。
自殺などさせない。
友の凶行を止められなかったヘイデンにできることは、自分が友に手をかけることで楽園へ旅立たせてやることだけだ。
許されなくてもいい。憎んでくれればいい。
ただ、自殺などさせて魂に地上をさまよわせるわけにはいかなかった。
黄金に縁取っていた太陽が月影の高原から離れ、吹き下ろしていた風は向きを変えた。
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