過去と未来の間に

 夕日が橙色に染め上げる部屋で、壮年の男が一人、部屋を歩き回っている。

 白いものも混ざっている金髪が太く短く三つ編みにされていることから、北の帝国の男だとわかる。


 わたしは、また夢を見ている。夢見の乙女だと教えてくれたユリウスは、いったいつまで沈黙しているのだろうか。


「……まだか、まだ来ないのか」


 帝国の男は、誰かを待っているのか、時折立ち止まっては、いら立ちを吐き出している。

 もう、どのくらい彼はそうしているのだろうか。

 どこかで会ったことある顔をしているような気がするけど、はっきりとしない。


 男の他のモノに意識を向けても、部屋の壁や床もはっきりしない。

 部屋を歩き回る男と、橙色の西日だけが、そこにある。


 不意に背後に人の気配を感じたと思うのと、壮年の帝国人が少年のように顔を輝かせたのはほとんど同時だった。


「待ったか? イサーク」


「ああ、待ちくたびれたとも。だが、そんなことはたいしたことない。我が友、ファビアンよ」


 今、目の前で抱擁を交わしているのは、わたしの花婿と暴君と呼ばれたイサーク帝だった。


「五年ぶり、か」


 数少ない友の背中に回した手を緩めたファビアンは、どこか悲しそうに微笑んでいた。


「老けただろう? まったく、竜族はうらやましいな」


「そうでもないさ、イサーク。老いが緩やかな分、お前たちのように世界のために命を削るようなこともない。本当につまらない存在だよ。何がもっとも強き種族だ」


 鼻を鳴らすファビアンの肩を叩いたイサーク帝は、顔を引き締めた。


「ファビアン、俺がしてきたことを無駄にしてくれるなよ」


「ああ、約束する。もう二度と、こんな時代を繰り返さない」


「ありがとう、ファビアン。お前は、本当にいいやつだよ」


 わたしは、この二人の間に何があったのか、知らない。


 二人は、いつの間にか現れたテーブルの上にあった酒を酌み交わして談笑し始めた。


 他愛もない話だとわかるのだけども、具体的な内容まで聞こえない。


 聞きたい。彼のことを、もっと知りたい。知りたい。

 はっきり言って、なぜこんなにも彼のことを知りたいと思うのか、自分でもよくわからない。

 それに、わたしはまだ彼のことを愛していない。

 わからないのだ。

 ホーンばあさんから黒いウロコを返してもらった時から、ずっとずっと求めていた花婿だというのに、わたしは彼とどう接したらいいのか、まったくわからない。

 そもそも、どう思っているのかも、わからない。

 わからない。こんなにも、自分の気持ちがわからないことなんて、初めてだ。


 視界が滲む。

 わたしは、泣いているのだろうか。それすらもわからない。


 そうか、わたしはただ、彼にどう接したらいいのか、知りたいんだ。そして、彼に花嫁と認めてほしいんだ。

 涙が止まらない。止められない。

 どうしたらいいのかわからなすぎて、途方にくれる。

 今まで、ただ花婿と出会うことしか考えていなかった。出会ったあとは、自然な流れで結ばれるものだとばかりだと思いこんでいた。現実は、こうして夢の中でも途方にくれている。

 誰か、誰でもいいから、花婿とどう接すればいいのか、教えてほしい。

 暴君と呼ばれている男と談笑しているファビアンの姿が見えない。

 誰か、誰か……


「フィオ、どうしたんだ?」


 聞き覚えのある声に、はっと顔をあげると、もう西日が差す部屋ではなかった。


 いつの間にか、涙はすっかり乾いてしまった。


「……ヴァン?」


「急に泣き出して、びっくりしたよ」


 わたしの顔を覗きこんできたヴァンは、白い前掛けをしてコック帽をかぶっていた。

 素早くあたりを見渡すと、馴染みのある小麦粉の袋が積み重ねられたガードナーベーカリーの貯蔵室だった。大好きなマーマレードの瓶などを並べた棚を背にして、わたしは年季が入ったスツールに腰掛けて泣いていたのだ。


「えっと、あの、ヴァン、そのボーッとしてて、その……」


 わたしは、出会ったばかりのファビアンの過去の夢を見ていたはずだ。たしか、そう、灰霧城塞で。そう、どう接したらいいのかわからない花婿の背中を追いかけて井戸の中に落ちたはずだ。

 けれども、ここはわたしの家だ。

 まだ夢を見ているのか、それともモーガルでのライラの裏切りもすべて夢だったのだろうか。

 困った顔だったヴァンが、急に短い驚きの声を上げた。

 わたしがひどく混乱して狼狽している様子に、何か思い当たるものがあったのかもしれない。


「フィオ、もしかして……」


「親方ぁ、マフィンが焼きあがったんですけどぉ」


「ああ、ちょっと待ってろ」


 ヴァンの体で見えなかったけども、誰か若い男が彼を親方と呼んでいた。


「ヴァンが、親方?」


 困惑するわたしに、ヴァンは大人びた余裕のある笑顔で返してくれた。


「フィオ、ちょっと待っててくれ。すぐ戻ってくるから」


「ヴァン、あ、ちょっと……」


 コック帽姿のヴァンは行ってしまった。


 いったい、何がどうなっているのだろうか。ここは間違いなく、わたしが生まれたリュックベンの我が家の一部だ。


「それにしても、ヴァンが親方って……」


 混乱しているせいか、どうも頭がうまく働かない。


「おまたせ、フィオ」


 ヴァンはすぐに戻ってきて、木箱の上に座った。


「フィオ。さっきまで、何を話していたか、覚えていない?」


「……うん」


「そうか。じゃあ、やっぱり……」


 申し訳なく答えると、ヴァンはますます上機嫌に笑う。


「フィオは夢を見ているんだよ」


「ゆ、夢?」


 わけがわからない。

 今まで夢の中のわたしに接してくるのは、ユリウスだけだった。無意識のうちに、輝きを失った腕輪に触れようとして、腕輪がないことに気がつく。


「腕輪が、ない! どうしよう……」


「落ち着きなよ、フィオ。ここは、そう、夢を見ているフィオからしたら、未来なんだよ」


「みら、い?」


 あまりにも突拍子もないことを言われて、頭も体も固まってしまった。

 そんなわたしがおかしいのか、ヴァンは声に出して笑う。


「そうだよ、フィオ。前に、フィオから聞いたことがあるんだ。夢の中で未来の俺にと話をしたことがあるってさ。そうか、本当だったんだな」


 感慨深そうに息をついたヴァンは、コック帽を外した。


「もし、本当に未来なら、教えてほしいことがあるの。わたしは……」


「ちょっと待って、フィオ。具体的な出来事までは、教えられないよ」


「どうして、わたしは、ただ、ただ、ちゃんと花嫁になれたか、知りたいだけなのに」


 嘘だ。

 もう困った顔をしているヴァンに、わたしは嘘をついた。本当は、全部知りたい。

 わたしのことももちろんだけども、アーウィンやライラに真理派のこと。


「教えないって、約束したんだよ。フィオと」


「わたしと?」


「そう、フィオと。正確には、俺が未来の夢を見ているフィオに出会うことを教えてくれた、フィオだけど。だから、今話しているフィオにとっては未来のフィオと約束したんだ」


「そう、なんだ」


 いったい、何を考えては、ヴァンに未来のことを教えるなと言ったんだろう。

 こんなにも、こんなにも、今のわたしは花婿との接し方に悩んでいるというのに。


「でも、伝えてほしいって約束したこともあるんだよ」


「む? わたし、から?」


「そう、フィオから」


 腰を下ろしている木箱を引いて、わたしの正面に来たヴァンは頼りがいのある紳士な顔をしていた。たしかに、わたしが知る彼よりも、ずっと頼りがいのある大人の雰囲気があった。わざとらしく大きな咳払いをする。


「わたしらしさを、忘れないで。しがないパン屋の娘って、胸を張っていれば、乗り越えられるから、いつまでも一人で悩まないで。……てさ。似てたかな?」


「もしかして、わたしに? 全然似てないわよ」


 残念そうに肩を落としたヴァンの裏声がおかしくて、思わずお腹を抱えて笑ってしまった。


「似てると思ったんだけどなぁ」


「ううん、全然似てない。でも、ありがとう、ヴァン。なんとかなりそうな気がしてきた」


 一人で勝手に花婿に対して悩んでくよくよしていたことが、馬鹿みたいに思えてきた。全然、わたしらしくなかった。


 わたしは、フィオナ・ガードナー。

 しがないパン屋の娘で、リュックベンの女。それから、世界竜族の生き残りで、最後の竜王ユリウスの息子ファビアンの花嫁で、世界をあるべき姿に導くという宿命をともに背負わされた、食い意地の張った女。


 目が覚めたら、今度こそ花婿をまっすぐ見よう。


「お礼なら、フィオ自身に言いなよ」


「わたしに? どうやって」


「それは、そうだなぁ……」


 腕を組むヴァンが、どうしてだかお父さんに似ていると思った。

 お父さんほど腕は太くないしけど、多分、としてガードナーベーカリーを継いでくれたんだと思う。それだけわかっただけでも、充分すぎるかもしれない。


「そうだ。この伝言にこたえるんだ。それが、一番のお礼だと思う」


 ヴァンは一度言葉を切り、ことさら真剣な顔つきになった。


「具体的なことは教えないって約束したけど、これだけは言わせてもらうよ。フィオ、辛いことも苦しいこともたくさんあるけど、乗り越えなくちゃいけない。正直、今――この未来でも乗り越えられたとは言えないことも多い。まだまだ、途中なんだ。いや、そうじゃないな……」


 軽く首を横に振ったヴァンは、優しく勇気づけるように笑って、わたしの肩を叩いた。


「とにかく、フィオ。未来で待っているよ」


「うん、待っていて」


 急に意識があいまいになっていく。嫌な感じはしない。とても充実した安心感が羽毛のようにわたしを包み込んでくれている。夢の中でまどろむなんて、おかしな話だけだ。


 と、目が覚めた。

 けれども、瞬きを繰り返しても、真っ暗だ。


「むぅ?」


 今度こそ目が覚めたというのに、自分の状況がわからない。

 花婿の背中を追いかけて井戸の中に落ちたことも思い出すのに、しばらく時間がかかる。

 その頃になって、ようやく闇に目が慣れてきた。

 真っ暗だと思っていたけども、高い天井に心もとない光石のぼんやりとした光があった。今にも消えそうな光では、岩山の中に広がる玲瓏の岩窟の使われていない穴蔵とよく似た広い空間だということしか、わからなかった。


「風?」


 仰向けに横になった頭の向こうから、生ぬるい風がフゥフゥと吹いてくる。それはまるで、竜の規則正しい寝息によく似ている。

 そう、竜の森で馴染みのある寝息によく似ている。


「む?」


 そこまで回らない頭で考えて、急に頭が冴え渡った。


 おそるおそる手を動かして床の感触を確かめる。


「……やっぱり」


 寝返りを打って確かめようかとも考えたけども、やめた。彼を起こしたくない。


 わたしは、ファビアンの大きな体の上で寝ていたのだ。

 これは推測でしかないけども、井戸の底には、彼の寝床があったのではないか。だから、彼は井戸が使えないことも知っていたし、石を投げ入れたと聞いてショックを受けたのだろう。


 不思議と生あたたかい彼の寝息が心地よくなってきた。

 目が覚めたばかりだというのに、眠気に抗えそうにない。

 次に目が覚めたら、約束された花嫁として彼とまっすぐ向き合おう。わたしらしく。

 重たくなったまぶたすらも、心地よかった。




 ――


 わたしが夢の中で過去と未来を垣間見ていた頃、城壁の上のニコラスはまだ迷っていた。


 灰霧城塞を取り戻せれば、聖王国との緩衝地帯となっている暗黒地帯も手に入れられる。

 それがまた争いの種になりうるだろうことが、ニコラスをためらわせていた。


「あの人は、絶対に黙っていないよなぁ」


 ニコラスをためらわせる顔が、何度も脳裏をよぎる。

 このまま霧に閉ざされたままのほうがいいかもしれない。


「ファビアンが霧を払ってくれたら、あの人も簡単には手出しできなかったんだけどなぁ」


 彼は頭の中で、いったい何通りの未来予想図を描いたことだろう。そのどれもが、遅かれ早かれ、争いで血が流れることになってしまう。


「ドゥールを呼んでしまったけど、わかってくれる、よなぁ」


 結局、灰霧城塞ことセルトヴァ城塞を祖国に戻す男としての覚悟ができないまま、時間だけが流れていく。


「フィオ! ニルス! どこにいるんだぁ? 返事してくれ。フィオぉ、ニルス!」


 どれくらい時間がたったのだろうか。

 ターニャの声に、ニコラスは顔を上げた。

 城壁の上から手を振りながら、最愛の人に答えた。


「ここだ、愛しのターニャ!!」


「大声で、恥ずかしいこと言うな!!」


 城壁の上からでも、枯れ草の中で自分を探しに来てくれた許嫁の顔が赤くなったのがわかる。

 城壁の上に駆け上がったターニャは、ニコラスしかいないことに、怪訝な顔をする。


「ニルス、だけなのか?」


「俺だけだが……ああ、二人なら大丈夫だろうさ。ファビアンも一緒にいるだろうしな」


 ターニャは、ニルスと同じように胸壁に背中を預けた。


「そうか、それで、ニルスはどうして一人でこんなところにいるんだい?」


「あの霧を払うには、俺がイサーク帝の剣をかかげなきゃならないんだと」


 気の重いため息をついたニコラスに、ターニャは目を丸くする。


「何言ってるんだい、ニルス。帝国人なら、誰だって知っているだろ。暴君の血を継ぐものが、城壁で剣をかかげれば霧は消える。何を迷っているんだい」


「イサーク帝の遺志も継げってさ……」


 ニコラスは最愛の人に、ファビアンから聞かされたよき友としてのイサーク帝の話を聞かせた。


「俺としては、ファビアンが霧を払ってくれれば、あの人のこともうまくいくと思うんだが……うぉお!」


 無言で顔面めがけて繰り出されたターニャの拳を、ニコラスは大きく飛び退ってよけた。もうあと一瞬でも遅かったら、と思うとニコラスの背中に冷たいものが流れる。


「馬鹿だね、ニルス。とっとと、剣をかかげな。イサーク帝の遺志なんざ、悩むことじゃないだろ。ようは、世界が……人間と竜族が平和に暮らせるようにつとめるだけだろ」


「ターニャ、俺にはそんな力……うぉ!」


 まだ心決まらないニコラスに、ターニャはもう一度拳を繰り出す。


「力なんて関係ないだろ。大事なのは遺志だろ! 力が足りないって言うなら、あたしや他の連中も力になってくれるだろ。それこそ、世界竜族の友だちもいるお前が、力がないとか冗談にしか聞こえない」


「……あっ」


 マヌケな声を出したニコラスは、声に出して笑った。


「そうだな、ターニャ。その通りだ。さすが、俺の最愛の人だ」


「だから、恥ずかしくなるようなこと言ってないで、さっさと剣をかかげな」


 耳まで真っ赤な許嫁に言われなくとも、覚悟を決めたニコラスは唇を引き結んでイサーク帝の剣をゆっくり抜いていく。

 とても、九百年ほど前の剣とは思えないほどの、鋭い輝きを放つ片手剣は、ニコラスが手にしてきたどの剣よりも、手に馴染んだ。まるで、ニコラスのために鍛えられた剣のようだった。

 イサーク帝の剣に目も心も奪われながら、ニコラスはゆっくりと霧のはるか向こうにある楽園に切っ先を向ける。


「我が祖、イサーク帝よ。俺はニコラス・ルキーチ・フェッルム。第五皇家の者。このセルトヴァ城塞を目指す友がいる。イサーク帝よ、人間と竜族が対等に並び立つ世界を、俺も志す。どうか、城塞を閉ざす霧を払い給え」


 おそらく、何も言う必要はなかっただろうけども、ニコラスは形式的にも覚悟を声に出さずにはいられなかったのだろう。


 すぐに変化は訪れなかった。

 けれども、ゆっくりと霧が薄れていく。霧が完全に消え去るまで、そう時間はかからないだろう。ニコラスとターニャは、ただじっと城壁の上で、その時を待つ。


 混乱の時代の終わりよりおよそ八百年。

 ようやく、その時が訪れた。

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