城壁の上で
ファビアンに引きずられていたニコラスは、薄暗い城内を少し行く頃には、自分を取り戻した。
「ファビアン殿、ファビアン殿。そう急ぐな。お前の花嫁がついてこられないぞ」
「ちっ」
「おー、怖っ」
廃墟に響き渡るような盛大な舌打ちをしながらも、ファビアンは足を止めてわたしを振り返る。その苛立った鋭い
「あ、あのっ」
何か言わなくてはという思いとは裏腹に、わたしは何も言えなかった。
わたしが、ダメで元々とか言わなかったら、ドゥールに無理をさせることはなかった。
だから、何かできることがあればと後を追いかけてきたけど、できることなどないのかもしれない。わたしは、しがないパン屋の娘にできることなど。
もしも、ファビアンが戻れと言ったら、仲間たちのもとへ戻った。
けれども、ファビアンは何も言わずにまた歩き出した。気のせいかもしれないけど、先ほどよりも少しだけゆっくりとした歩調で。
何よりも、わたしはそれが一番こたえた。
結局、戻ることはできずに、トボトボと少し距離をあけてついていく。
情けなくて、惨めで、悔しかった。そう、どうしようもなく、悔しかった。
どうしようもなく膨れ上がった悔しさに、気がついてしまった。
わたしは、ドゥールのことよりも、花婿に相手にしてもらえないのが、悔しいだけなのだと。
気がついて、そんな自分が嫌になる。
わたしは、リュックベンの女失格だ。強くないし、こうと自分で決められたことなんて、一度もないではないか。いつだって、誰かがそばにいて一緒に考えてくれた。
「そう、落ちこむなよ」
「む?」
いつから、わたしの横にいたのだろうか。
長く細い金髪の三つ編みを揺らしながら、ニコラスが笑いかけていた。
「寝不足とかで気が立っているみたいだけど、いいやつなんだぜ、ファビアンは」
声を潜めているけども、前を行く本人の耳に届いていないはずがない。黒い長衣の背中だけでは、彼が何を考えているのかわからない。
そもそも、わたしはまだ毛皮のコートを返していない。
「ドゥールも、きっと大丈夫。君の無事とアーウィンだったっけ、あの水竜のことを誰にも伝えないまま、くたばったりしないって」
「でも……」
「たぶん、俺は君がダメ元でとか言わなくても、氷鈴を使わずにはいられなかった。それに、誰も止めなかっただろう。みんな、何もせずにファビアン殿が起きてくるのを待ってられなかったのさ」
答えられなかった。まだ出会ったばかりのニコラスが言うことは、もっともかもしれない。けれども、わたしが反対しなかったのは事実だ。
唇を噛みしめたわたしに、ニコラスは肩をすくめて、前のファビアンの背中に声をかけた。
「それで、そろそろ教えていただけないだろうか、ファビアン殿。俺に何をさせたい?」
扉のない戸口で足を止めて振り返ったファビアンは、あいかわらず不機嫌そうだった。
「お前次第だ、ニール。水竜の奴らを招き入れたかったら、お前が霧を払う他にないだろう」
「えっ……」
ニコラスは数瞬の間まばたきを繰り返して、ファビアンの言ったことの意味を理解したようだ。
「俺が、伝説の
「馬鹿が」
「えっ」
拳を振り上げて喜ぶニコラスに、ファビアンは短く吐き捨てる。
「イサークの遺志を継いでもらうということだ」
「えっ、暴君の……?」
困惑するニコラスに、ファビアンの舌打ちが廃墟に響きわたった。
「イサークはいいやつだったよ。俺なんかに出会わなかったら、暴君などと呼ばれることもなかった」
戸口を出て城門に向かって歩くファビアンが、一瞬だけ苦悩に顔を歪めていたのを見てしまった。
「このセルトヴァ城塞は、俺があいつから預かった。…………イサークは、俺の数少ない友人の一人だった」
外は、霧のせいか薄暗い。そして、寒い。思わず、借りたままの毛皮のコートをかきあわせてしまうほどに。
ファビアンにとって、暴君と悪名高いイサーク帝は、かけがえのない友人だったのだと知った。
一夜にして、黒い都が無人の廃都となったことで始まった混乱の時代。
知識としてのみ知っている忌まわしい時代で、彼が若きイサーク帝に出会ったのは、偶然だった。
「ニールとマギーの時と違って、あいつは初めから俺が世界竜族の死に損ないだと知っていた」
落とし格子の開かれた城門の向こうではなく、城壁に作られた細い急な階段にファビアンは足をかける。人が一人通るのがやっとで、しかも石造りの城壁の反対側には何もない。もし、高いところで足を踏み外したら、無事ではすまないだろう。
ファビアンとニコラスの後についてきてしまったことを、また後悔しながら、城壁に手をやりながら階段を上る。
後悔しながら、階段を上る間も、ファビアンの昔語りは続いている。
「俺はまだ若かったし、混乱していた。たった一人で、一族の尻拭いをするはめになったからな。死にたくてしかたなかったよ」
ニコラスの前を行くファビアンの背中は見えない。
淡々と語られる話は、わたしなどが想像もできないような孤独な過去だったのだろう。
そういえば、わたしが夢で見る彼の過去は、いつも黒い都でユリウスと過ごすまでの少年時代だけだ。
もっともっと、彼のことが知りたい。
こんな欲求に苦しめられるとは、思わなかった。
今まで、彼に会うまで、ただぼんやりとした世界竜族の生き残りとしてでしか、花婿をとらえていなかったことに、嫌でも気付かされた。
胸が苦しい。
「イサークはな、人間たちを一つにまとめれば、四竜族に並び立てると考えていた。今ほど四竜族は友好な関係ではなかったからこそ、人間が一つにまとまるべきだと。俺は、それを面白いと、そう言ってしまった」
そう言ってしまった。
そのひと言から、彼の苦悩と後悔のような感情を感じ取ったけれども、わたしはすくい上げられないまま階段を登り続ける。
「俺はまだ、世界竜族の言葉がどういうものか、わかっていなかった。友との他愛もない会話ですむはずがなかった。それから五年後に、あいつは大陸統一を掲げた。俺があの時、否定していれば、暴君と呼ばれることもなかっただろうにな」
城壁の上に立った彼は、もう一度いいやつだったと、はっきりと口にする。
黙って耳を傾けていたニコラスは、軽く肩をすくめた。
「関係ないだろうよ、ファビアン。イサーク帝が、西の聖王国を侵略したきっかけが、それだけのわけがない」
「だ、ろうな」
あっさりと首肯したファビアンは、わたしが登り終えるのを待って胸壁を右手でなぞりながら先へ進む。
「イサークとは、数年に一度しか会わなかった。また、俺が軽率なことを口走って、あいつの人生を狂わせたくなかったからな。だから、あいつが本当にやりたかったことに、俺は最後まで気がつかなかった。本当に、いいやつだったよ」
そういえば、暴君イサーク帝がこの城塞の城壁から身を投げたことが、濃い霧で閉ざされるきっかけになったはずだ。
「イサークが聖王国へ牙をむかなかったら、四竜族が人間に力を貸すこともなかっただろうよ。おわかりか、ニコラス殿下? 暴君イサーク帝が、あの混乱の時代を終わらせたのだ」
足を止めて振り返った彼は、笑っていた。息を飲むほど、美しく悲しい笑みだった。
「イサークの遺志は、大陸統一ではない。人間を一つにまとめ、竜族に対等に並び立つこと。そしてこれは、一なる女神さまの意志でもある」
厳かに告げたファビアンは、やはりユリウスの息子だった。
そして、胸壁をなぞっていた右手にはいつの間にか、一振りの剣があった。
「これは、ここから身を投げたイサークの剣だ。よく考えろ、ニール。イサークは失敗した。混乱の時代を終わらせることしかできなかった。俺は約束した。竜族と人間が並び立ち、世界があるべき姿となった時、あるいは、イサークの遺志をやり遂げられる者を俺が
皇帝の剣にしては飾り気のなさすぎる剣を、ファビアンはニコラスの前に突き出す。
「悪いが、俺にはまだお前にこの剣を掲げる資格があるかどうかはわからない」
「……なら、俺にどうしろって」
ためらいながらも、ニコラスは両手でイサーク帝の剣を取る。
「お前たちが水鏡で灰霧城塞に来いといったなら、霧を払うべきだろ。霧で閉ざしたまま呼び出そうとしたのは、馬鹿としか言いようがない」
ニコラスの両肩に手をおいたファビアンは、軽く息をつく。
「だから、俺が起きるまで待っていればよかったんだ。よくよく考えてから、イサークの遺志を継ぐかどうか決めてくれ。それに、お前ならわかるだろう。ある日突然、セルトヴァ城塞の霧が晴れたら、何が起きるのか」
「ああ。よく考えるよ」
安堵の息をついたファビアンは、軽くニコラスの肩を叩いてあくびをする。
「そうしてくれ。それから……」
ほんのまばたき一つ分だけ、ファビアンがわたしに目を合わせてくれた。
それだけで、ドキリとしてしまう反面、もっと見てほしいと唇を噛んでしまう。
「それから、俺はもう隠れるつもりはない」
言うべきことは言ったのだろう。ファビアンは、もう一度大きなあくびをして、階段へと体を引きずるように行ってしまう。
追いかけたいのに、すれ違うときに目もくれてくれなかったせいで、足が前に出せないでいる。悔しくてしかたがない。こんなことなら、中庭で仲間たちと横になって休んでいればよかった。
どうも、昨日からやることなすこと裏目に出て空回りしてばかりではないか。
「悪いが、フィオナ嬢、しばらく一人にしてもらえないだろうか」
「……わかった」
ニコラスは、胸壁を背にイサーク帝の剣を抱えてうずくまる。
剣を掲げることは、簡単なことだろう。けれども、人間を一つにまとめて、竜族と対等に並び立とうとした遺志を継ぐことは、簡単なことではない。口先だけで、剣を掲げるには、あまりにも重すぎる遺志だった。
しかたなく、ファビアンの後を追う形で城壁から降りる前に、ニコラスにどうしても言わなければならないことがあった。
「フィオ。フィオって呼んで。しがないパン屋の娘だから、フィオナ嬢とか、そういうの体がムズムズするの」
まだ竜族に姫さまと呼ばれるのだって、諦めたけども抵抗があるのだ。
目を閉じていたニコラスは、器用に片目を開いて、わかったと笑う。
「フィオ、くどいようだけど、花婿のファビアンはいいやつだ。今は余裕がないだけだろうよ」
「そう、そうだったらいいけど」
もしかしたら、ニコラスはわたしに気を遣ってくれたのかもしれない。もちろん、一人で考えたいこともあっただろう。けれども、一歩も前に踏み出せないでいるわたしの背中を押してくれた。
今の今まで感じなかった身を切るような冷たい風に、毛皮のコートをかきあわせた。
彼はもう、階段をほとんど降りている。足を滑らせないように、慎重に急いで彼の後を追わなくてはならない。それでも、彼の疲れきった重たい足取りは、わたしをひきはなさなかった。むしろ、その背中は近くなっていく。
「むぅ?」
階段を降りきったファビアンは、重い足取りで昨日の涸れ井戸に向かっていることに気がついた。
そういえば、わたしが井戸に石を投げ入れたと言ったときに、彼はひどくショックを受けたような顔をしていた。
もしかしたら、あの井戸は何かとても重要な物が隠されているかもしれない。
わたしの足は、疲れとためらいを忘れた。それでも、思うほど早くならない足にいら立ちを覚えていると、ずっと追いかけていた黒い背中が井戸の中に消えた。
慌てて井戸の縁から中をのぞきこもうと、縁に手をかけようとした時だった。疲れもためらいも忘れていたはずの足がもつれて、腹を井戸の縁に強く打ったかと思うと、真っ逆さまに井戸の底へと体と意識が落ちてく。暗い暗い光が届かない井戸の底へと。
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