父と子 〜結び直された絆〜

 星辰の湖が騒然とした夜明けを迎えた頃、水竜族の長氷刃のディランは、月影の高原にいた。

 浩然こうぜんの館の一室の窓辺に立ったディランは、物憂げに前髪をかきあげて朝日に目を細めた。


「…………姫さま、どうかご無事で」


 最大の懸念から無理やりは目を背けて、ディランは仮眠のために篭っていた部屋から出た。


 薬湯の匂いに、なかなか鼻が慣れない。

 薬学に優れ、貴重な薬草も育てている月影の高原は、ディランにとって居心地のよい場所ではなかった。


 けれども、広間で所せましと横たわる風竜の妻と息子たちを見れば、居心地がどうとは言っていられない。


 濃い青の長衣の袖をまくり、変化もできない子どもを診て回っている水竜を見つけ、彼は声をかける。


「ブルーノ、どうだ?」


 薬師のブルーノは、疲れた顔で笑った。


「大丈夫です。昼までには、子どもたちも目を覚まします」


「そうか」


「それより長、少しよろしいでしょうか?」


 ディランの孫のブライアンと同じ年頃の風竜の少年の毛布をかけ直して、ブルーノは外で話がしたいと言外に告げてきた。

 風竜を診てるのは、ブルーノだけではない。玲瓏の岩窟からも、陽炎の荒野からも、医術の心得のある竜たちが集まっている。


 周囲の子どもたちの寝息も、昨夜に比べたらずいぶん落ち着いている。

 何より、ブルーノが言うのだから、大丈夫だろう。

 心配ではあるけども、ディランは首を縦に振った。


 広間に面した中庭は、薬草園だった。それも、月影の高原でも随一の薬草園だ。

 その主は、ここにはいない。


 若い地竜と妻らしき女が、蔓状の薬草をつんでいる一角から少し離れた木陰に、鉄の丸テーブルと椅子と二脚あった。


 丁度いいと、二人は蔦が絡むような装飾が施された椅子に座りこんだ。

 ほとんど休まずに風竜族を診てたブルーノは、疲れを吐き出すように大きな息をついた。


「まさか、小ロイドさまともあろうお方が……」


「それほど、許せなかったのだろうな」


 小ロイドが、なぜ子どもの姿で成竜してしまったのか、ディランは知っている。


 聖王国の王宮にある始まりの塔から、花嫁は足を滑らせ落ちたのだと、小ロイドのウロコを届けに来た使者は、告げたらしい。

 まだ十歳の少年が、受け止めるにはあまりにもつらすぎる現実だっただろう。

 今でこそ、竜の花嫁は守られているけども、そうではない時代もあったのだ。


 花嫁の姿すら知らないまま、小ロイドは成竜してしまった。不幸なことだったと、偉大なるライオスは言っていた。


『花嫁を自死に追いこんだ西の王族たちに、二度と繰り返してほしくないと、干渉するのはわかる。だが、四百年だ。不幸を繰り返してほしくないというのもわかるが、な。……はたして、四百年たつ今、あれは同じ志でいるのだろうか』


 ディランは、ひんやりとしたテーブルの上で拳を力なく開いた。


「大おじいさまがもっとはっきり言ってくだされば、小ロイドさまを止めることもできたのに」


「……ですが、長。ライラ姫が真理派の女王であることを、長もご存知だったのですよね」


「ああ」


 ディランは曖昧な笑顔を浮かべて、軽くうなずいた。

 歳が近いブルーノになら、打ち明けられることもあるのだろう。


「アーウィンに、ライラ姫を説得したいと言われてね」


「説得?」


 それはどういうことかと、ブルーノは首を傾げる。


「あの子は、自惚れが強いし素直じゃないところもあるが、優しい。だから、分かり合えると考えたんだろうね」


「そんなことできれば、混乱の時代など……」


 どんなに賢いアーウィンでも、やはり子どもだったのだと、ディランは自嘲する。


 真理派の根底にある竜族を拒絶し排除しようとする感情は、始まりの竜王と始まりの女王の時代にはあったのだ。

 アーウィンも知らないわけがないというのに、真理派の女王に情が移ったのか、説得という道を選んだ。


「モーガルまでと、許してしまったせいで、あの子は焦ったのかもしれない」


 昨日のモーガルを破壊し、消息を絶った姫君たちを思っているのだろう。

 ブルーノは、これ以上の追求を諦めた。


 二日前、異変を知った地竜族の長に請われて、薬師のブルーノは月影の高原を訪れた。

 信じられない光景を目にした彼は、目を覆いたくなった。

 おそらく、なにか宴か何かで集まっていたのだろう。浩然の館の広間や庭で、ぐったりと横たわる風竜とその妻と子の姿を、ブルーノは生涯忘れることはないだろう。月影の高原を離れていた者まで呼び集められていたらしい。

 なぜこうなったと考えるよりも先に、ブルーノは横たわる風竜たちを救わなければと体が動いていた。


 不幸中の幸いか、みな命にかかわる状態ではなかった。だが、昏睡状態が長く続けば何かしらの後遺症が残る可能性がある。一刻も早く原因を解明し、目を覚まさせてやらなくてはならなかった。

 原因解明は知の地竜族にまかせ、ブルーノは応援に呼び寄せた医学に心得のある水竜と火竜とともに、できうることは全てやった。


 小ロイドがやったのだと知ったのは、日が暮れてからだった。

 信じられないという気持ちよりも先に、小ロイドならば納得してしまった。

 風竜族の長の小ロイドならば、同族ですら気がつかないほどの毒薬を調合できるだろう。いや、彼以外に、こんなことできる者は世界中探してもいない。


「長、小ロイドさまは見つかったのですか?」


「さぁな。彼の友のヘイデンにまかせるしか……」


「氷刃の、探したぞ」


 火竜族の長、灰色仮面のクレメントのくぐもった声が、ブルーノの背後から響いてきた。


「さっき目を覚ました風竜の若造が、鉄枷の牢にも囚われている奴らがいるらしい」


「なんだと!」


 ディランがテーブルを叩く。

 駆け寄ってきたクレメントが灰色の仮面の向こうで、狼狽しているのがありありと伝わる。


「それも五頭だ。まともな状況じゃない」


 目を見開いたディランは、言葉を失った。

 口を開きかけて閉じる彼の肩を、クレメントは叩く。その右手には赤の指輪があった。


「小ロイドの他に鉄枷を外せるのは、俺とお前しかないだろうが」


「あ、ああ」


 まだ動揺しつつも席を立つ長に、ブルーノは我に返って立ち上がった。彼もまた、あまりのことに自失していたのだろう。


「では、僕は戻りま……」


「……なんだ、こんな時に」


 頭を下げるブルーノをさえぎって、ディランは苛立ちと焦りの声を上げる。その視線の先には右の中指にある青の指輪だった。青の指輪が光る時は、長に直接報告しなければならない水鏡の呼び出しだ。

 こんな時だからこそ、星辰の湖で何か起こったのかもしれない。見過ごせない何かが。


「クレメント、すまないが先に行ってくれ。すぐに行く」


 ディランは鉄の丸テーブルに水鏡を開き終わっていた。

 灰色の仮面の向こうで何を考えたのかわからないけども、クレメントはとどまった。もしかしたら、星辰の湖で何が起きているのか把握したかったのかもしれない。


「何があった?」


 ディランと戻りそこねたブルーノとクレメントが覗きこむ水鏡の向こうに、映ったのはアーチボルドの泣きはらした顔だった。


灰霧城塞はいぎりじょうさい!」


「は?」


 アーチボルドが叫んだ言葉の意味がわからずに、三人は素っ頓狂な声を上げてしまった。けれども、それも最初のうちだけだ。




 ――


 目を覚ましたドゥールは、星辰の湖の底にいた。

 鉄枷はまだ両手両足に嵌められているけども、右の薬指が欠けた傷口の血は止まっている。

 まだ力が戻らない体で起き上がろうとすると、横から伸びてきた手に押さえられた。


「まだ、じっとしていろ」


「ネイサン、か」


「ああ、そうだ。無茶をしたな、ドゥール」


 もたげた長い首をおとなしく横たえたドゥールだったけども、口はおとなしくできなかった。


「ダグラスは?」


灰霧城塞はいぎりじょうさいへ向かったよ。まったく、お前が無茶しなかったら、ただのほら話ですんだってのに……」


「ほら話じゃない。それで?」


「それでって……」


 薬師の息子は、父から教わった秘術で星辰の湖の水を浄化しながら、ドゥールの治癒を続けている。

 周囲に誰もいないのは、治癒に専念するためにネイサンが人払いをしたからだろうと、ドゥールはぼんやりと結論づけた。


「ドゥール、お前は知らないだろうけど、竜の森は大混乱だ。モーガルで、アーウィンは破壊行動するわ、姫さまは消えてしまうわ、一行も夜に何処かへ行ってしまう。それから、小ロイドさまが風竜族に毒を盛る。信じられるか? 四竜族一の薬師の小ロイドさまが、だぞ」


「……すまん、俺の頭も混乱してなにがなんだか」


「だ、ろうな」


「どわっと」


 浄化された水の勢いにまかせて、うつ伏せに横たわっていたドゥールの体はぐるんと仰向けに転がされる。

 まだドゥールよりも若いネイサンの治癒は、まだまだ手荒い。


「じっとしていろよ」


「お、おう」


 ドゥールを包みこむ浄化された水は、ネイサンの術によってまるで揺り籠のように心地いい。

 鉄枷さえなければ、眠っていたかもしれない。


「そのうち、長も戻ってくるから、鉄枷は我慢してくれよな」


「あ、親父殿が出してくれたんじゃないのか」


 ドゥールは、父のディランが牢から出してくれたものだと思いこんでいた。


「キールさまの独断で、牢を壊したんだ」


「へぇ」


「指の一本くらいって考えてたなら、大馬鹿野郎だ。死には死ななかっただろうけど、二度と飛べないくらい衰弱して寝たきりになっていたかもしれないんだ」


「へぇ」


「聞いてないね」


「聞いてる聞いてる。お前の治癒が気持ちよすぎるんだよ」


 ネイサンはため息をついて、上の空のドゥールの体を浄化の水で起こした。


「それで、本当なのかよ。姫さまが灰霧城塞はいぎりじょうさいにって話は」


「俺は、たしかにそう聞いた。間違いなく、姫さまだった」


 ぼんやりとしていたドゥールの青い瞳に、強い光が宿った。

 正面に回りこんだネイサンが、彼の手を取って止血の具合を確かめる。


「正直、信じられないね。モーガルと灰霧城塞はいぎりじょうさい。あまりにも離れすぎている。姫さまたちが消える直前に、まぶしい光に包まれたとかいう話もあるけど、一瞬で聖王国を縦断だなんて、ありえない。それこそ、古の世界竜族でも……っ! まさか、そうなのか?」


 ドゥールは答えなかったけども、水鏡が一方的に打ち切られる直前、黒髪に金色こんじきの瞳の男を見た気がした。ほんの一瞬のことで、確かなことではない。


「ネイサン。俺は何日寝ていたんだ?」


「いや、まだ一日もたっていない」


 ネイサンが手を離すと、ドゥールは翼を広げた。


「おい、まだ、おとなしくしていろって」


 慌てたネイサンが、寝かしつけようとしたけども、遅かった。


「悪いな、ネイサン。俺は、早くこの目で確かめたいんだ。大おじいさまが待ち焦がれた世界竜をさ」


 水の縄に絡め取られたネイサンに、ドゥールは笑いながら浮上していく。


「馬鹿っ、鉄枷をはめたままで、無茶だ」


「死にはしないだろ。無茶くらいするさ、世界竜をこの目で確かめるためならな」


「ドゥー……」


「この馬鹿息子が!!」


 湖面の方から、氷の刃が一振りドゥールの目の前をものすごい勢いで滑り落ちていった。


「……」


「長……」


 息をのんだドゥールと、安堵の息をついたネイサンの間に、現れたのは氷刃のディランだった。他に誰がいようか。


「大馬鹿息子が、無茶ばかり……」


「……親父殿?」


 反射的に身構えたドゥールは、言葉に詰まった父に戸惑う。


「ネイサンの縛めを解け」


「……わかった」


 気まずくぎこちない父と子。

 無理からぬことだった。

 思えば、ドゥールに鉄枷を嵌めたあの日からおよそひと月。この親子は一度も顔を合わせることはなかった。


 ドゥールに縄を解かれたネイサンは、さぞかし居心地が悪かっただろう。とはいえ、黙ってその場を離れるわけにもいかない。

 気まずくぎこちない沈黙は、それほど長くは続かなかった。

 ディランは、息子の指が欠けた右手に目を向けた。


「何をするつもりだった?」


「……灰霧城塞はいぎりじょうさいに」


 右手を背中に回して隠そうとしたけども、ディランがその手を取る。


「もうすでに、ダグラスたちが着いているだろう。それでも行くと言うのか?」


「…………」


 答えられずに目をそらしたドゥールは、手が軽くなったことに驚き目を見張る。

 右手だけではない。両手両足にあった、重たい鉄枷が順に一つずつ外れていく。


「薬師ブルーノの息子ネイサン、お前も一緒に行ってやれ」


「長っ」


「親父殿っ」


 ディランは止めに来たものと、ドゥールとネイサンは疑いもしなかった。

 驚き言葉を失う二人に構うことなく、ディランは続ける。


「アーウィンが怪我をしているなら、ネイサン、お前の力が必要になるだろう」


 一度湖面を仰いでから息子に正面から向き直ったディランは、今度ははっきりと行けと言った。


「どうせ、止めても言うことを聞くまい、馬鹿息子。灰霧城塞はいぎりじょうさいへ向かうがいい。だが、その前にブライアンとメアリーを安心させてやれ。ずっと、心配していた」


「親父殿……」


 ドゥールは、自分を信じてくれたことが嬉しかった。ただ、目頭が熱くなる気持ちを素直に言葉に出来なかった。


「上で、ブライアンとメアリーが待っている」


 けれどもディランには、ドゥールの言葉など必要なかった。

 ぎこちなかったけども、ディランはたしかに息子を励ますように笑いかける。


「……行ってきます」


 やっとの思いで、ドゥールは頭を垂れてネイサンを連れて浮上してく。


 しばしの間、ディランは湖の底で二頭を見上げていた。

 迷っていたのかもしれないけども、結局は意を決して声を上げた。


「待て、ドゥール」


 父が呼び止める声に、ドゥールが素直に応じたのは初めてのことだった。


「鉄枷を外してやったら、二つ名を与えてやろうと決めていた」


「親父、殿?」


 それは、ディランがドゥールを認めたということに、他ならない。

 頭をかいたディランは、照れくさいのだろう。


「九本指のドゥール。無茶ばかりするなという戒めと、人間の友を思う力。今この時より、九本指のドゥールと名乗れ」


「……っ」


 何度、ディランは息子の言葉を奪えば気が済むのだろうか。


 ドゥールは何も言えず、体を反転させて湖の底の父を抱きしめる。

 つかの間の親子の抱擁だったけども、ようやく一度断ち切れてしまった絆を取り戻せた。


 気を遣って先に行ったネイサンを追いかける息子が見えなくなっても、ディランはまだ湖の底にいた。


「……馬鹿息子」


 二つ名を与えれば少しは息子を見る目も変わるだろうと、ディランは期待していた。

 けれども、結局のところ、たった一人の大事な息子は泣き所のままだった。

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