星なき湖で

 自らの血溜まりで生成した水鏡が、突然何も映さなくなった。


「クソが」


 ドゥールは忌々しく口の中に残っていた血を吐き捨てる。

 ニコラスに渡した氷鈴の気配をたどってみるが、無駄だった。すぐにもう破壊されてしまったのだと悟った彼は、暗い牢の中で目を閉じた。


 時間がない。


 鉄枷で牢につながれていなければ、今すぐにでも灰霧城塞はいぎりじょうさいへと飛んでいけるというのに。

 頑丈な石の牢を破壊するには、水鏡のために噛みちぎった右の薬指だけでは足りない。

 力の糧となる水がない牢の中では、自ら体の中を流れる血しか操れるモノがない。

 信頼する友のために覚悟を決めて噛みちぎった指の付け根から流れる血は、まだ止まっていない。


 世界竜族が作ったとされる黒欒石こくらんせきの頑丈な牢が、四竜族の力の糧を奪うものなら、鉄枷は強靭な体に見合った体力を削ぐものだった。

 人間からすれば、驚異的な自己治癒能力も発揮できずにいる。


 まぶたを押し上げて頭上を振り仰げは、風のみを通す忌々しい小さな格子窓。

 昨夜は、異様に空が明るかった。不吉な予感を覚えるほどに。

 けれども、ようやく白み始めた空を見れば、夜明けだとわかる。


「死ぬわけにはいかないんだよ」


 子どもの頃に父の膝の上で聞いた愚かな水竜のように、鉄枷と牢を破壊して外へ出たはいいものの血を流しすぎて死んでしまうわけにはいかない。


 従弟の息子アーウィンが右目を失ったことを、早く誰かに伝えなくてはならない。

 守り育ててきた大切な姫君は、かなり必死な様子だった。

 おそらく、まだ誰もあの賢すぎたアーウィンの窮地を知らないのだろう。


灰霧城塞はいぎりじょうさい、か」


 歳の離れた友ニコラスの言葉だけではとても信じられなかった。だが、大切な姫君がいた。それに――――


 姫君の話を、彼は信じていた。疑うことなど、少しも頭になかった。


 けれども、霧に閉ざされ人間も竜族も寄せ付けなかった忌まわしき地に、姫君がいることを、信じる者がいるだろうか。

 そもそも、実の父に罰せられた自分の水鏡に、誰が応えてくれるのだろうか。


「クソが……」


 格子窓が霞む。

 痛みが麻痺してしまっているけども、噛みちぎった傷口からまだ血は流れ続けている。


 うめきながら目を閉じた彼の瞼の裏に、息子の顔がよぎる。


「ブライアンの十三の誕生日、祝ってやれなかったな」


 自分が罰せられたことで、妻とともに肩身の狭い思いをさせてしまった。

 元気にしているだろうか。どこか抜けているが、いつも明るく笑っている息子だけに、不憫だ。母のナターシャがいてくれれば、爪弾きにされることもないだろうが……


 朦朧とした意識の中で、ドゥールは息子のことばかり考えてしまった。そんな場合ではないというのにだ。


 それは一瞬の出来事だったかもしれない。

 けれども、その一瞬の気の迷いが、奇跡を起こしたと言ってもいいだろう。


『父さん? 父さん?』


「ブライアンっ」


 息子の声にはっと我に返ったドゥールは、意図せず息子に向けて水鏡を開くよう呼びかけていたことを知った。


 血溜まりの水鏡は、赤黒く濁っている。

 けれども、ドゥールは確かに心配そうな息子の顔を見た。


『本当に、父さんなの? お祖父さまは、父さんは……』


「ブライアン、父さんだ。時間がないから、よく聞け」


 困惑しきりの息子の声をさえぎって、ドゥールは弱った声を聞かせないようにニコラスの水鏡のことを教えた。


「よく聞け、ブライアン。アーウィンが右目を失った」


『アーウィンにいちゃんが? なんで? どうして?』


『兄さんがどうしたの?』


 ブライアンの側に、アーウィンの弟アーチボルドもいたらしく、赤黒く濁った水鏡に彼の姿も映る。泣きはらしたのか、アーチボルドの目元が腫れぼったいのが、赤く濁った水鏡でもよくわかる。


「アーチもいたのか。そうか……よく聞け、二人とも。俺も詳しいことはわからない。だから、灰霧城塞はいぎりじょうさいに誰か行って確かめるんだ。姫さまもニコラスも、みんな灰霧城塞はいぎりじょうさいにいる」


『父さん、灰霧城塞はいぎりじょうさいって、あの……』


「そうだ。いいから、急げ! 誰でもいい。誰か大人に灰霧城塞はいぎりじょうさいに行ってもらうように、お願いするんだ」


 信じられないと目を見張ったブライアンは、ゆっくり首を横に振る。


『ありえないよ、父さん。姫さまもアーウィンにいちゃんも、モーガルで死ん……』


『わかったよ。ドゥールおじさん。兄さんも、姫さまも、灰霧城塞はいぎりじょうさいで無事なんだね』


 アーチボルドは、違った。

 目ににじんできた涙を拭うと、父さまに知らせなきゃと走り去った。


「ブライアン、お前も行け。行くんだ。そして、確かめてくれ……」


『父さん、父さん、父さん!!』


 限界だった。

 ただでさえ、食糧も最低限しか与えられず、体力もぎりぎりだったのだ。

 ドゥールは、ぐらりと回った視界にゆっくりと血溜まりが近づいてくるのを、まるで夢でも見ているかのように感じた。


『父さん、父さっ……』


 いっそのこと、夢ならいいと、ドゥールは力なく笑いながら意識を手放した。



 ドゥールから兄が右目を失ったと聞いたアーチボルドは、大人たちのいる明け星の館へと夜明けの湖の上を走った。


「兄さんは、まだ生きている。生きているんだ」


 詳しいことまで、父のダグラスは教えてくれなかった。

 橋の街モーガルで兄のアーウィンが人間に危害を加えてしまったことと、姫君も含めて生死すらわからないと、教えられたのが、昨日の夕暮れ時。

 死も覚悟するようにと、ダグラスに言われたけども、受け入れられるわけがなかった。

 詳しいことまで理解できているわけではないけども、父は兄の旅立ちに反対していた。そのせいで、何度も父が何に手を上げていたことも。


「死んだら、許さないんだからね」


 兄が旅の一行に選ばれたのは、本当に嬉しかった。喜ばしかった。

 でも、同時に父が悲しそうな顔をすることが多くなったのが、辛かった。


「父さまと仲直りするまで、死んだから許さないんだからね」


 アーチボルドは、走った。

 必死に、湖の上を走った。


「死んだらダメだからぁああああああああああああ」


 守り育ててきた姫君の消息を案じながら、まんじりとした夜明けを迎えた星辰の湖を叩き起こしながら、彼は走った。



 船頭のダグラスほど、二つの満月を憎んだ者はいなかっただろう。

 星さえ見えれば、息子の生死も居所も読み解くことができるというのに。


「一なる女神さま、どうか姫さまにご加護を」


 明け星の館の外回廊で、空の向こうの楽園に両の手のひらを捧げながら、夜明けを迎えた。

 信心深いダグラスが、声に出して長男のために両の手のひらを捧げたことはない。


 それでも、心の中ではいつも長男の無事を祈っていた。


「……バカ息子が」


 両手を下ろして、顔を上げる。


 昨日のモーガルでの知らせから、新しい情報がないまま夜を迎えてから、誰もががれに気を遣って、そっと距離をおいてくれる。そのことが、今のダグラスにはとてもありがたかった。


 伯父で、一族の父たる長のディランは、二日前から月影の高原にいる。もちろん、モーガルの一件は耳に入っているだろう。

 けれども、長は月影の高原の風竜族を救わなければならなかった。


「……バカ息子が」


 もう一度ポツリとつぶやいたダグラスは、どうすればアーウィンを止められたのかと、何十回、何百回と繰り返してきた問いの答えを探すけども、見つからない。


 アーウィンは、幼い頃から星が好きだった。

 だから、三歳になる頃には、星の名前を一つずつ教えていった。

 それが、船頭としての勤めでもあったから。

 星の名前をすべて知ること、そして今を読み解くこと。それが、船頭の勤めの一つだった。

 船頭が代々受け継いできた星の名前を、まるで水が染み渡るように学んでいく幼いアーウィンは、ダグラスにとって誇りだった。

 自分よりもよい船頭になるだろうと、将来が楽しみだった。


 それがどうして――


「一なる女神、星となった女神ルグーよ。どうか、どうか……」


 この期におよんで、どうして将来を楽しみにしていた息子の身を素直に案じられないのか。

 一番、歯がゆい思いをしていたのは、ダグラス本人だっただろう。


 アーウィンが七歳になる頃には、星の名前をすべて覚えた。

 そろそろいいだろうと、船の漕ぎ方を教え始めたのもその頃だ。

 船頭の本分である操舵技術に、息子は関心を持たなかった。ダグラスにとって、あってはならないことだった。

 船頭が舵を持たないなど、楽園で憩うている祖先に顔向けが出ない。

 今振り返れば、ひどいこともしたと、ダグラスはため息をつく。

 それでも、いつかは船頭の誇りを理解してくれるはずだと、そう信じていた。


 賢すぎたアーウィンは、あろうことか、姫君に恋心を抱いているをして真理派が接触してくる可能性で、偉大な老竜ライオスに説き伏せてしまった。もしかしたら、初めから小ロイドが一行に引き入れたライラが真理派の中枢を担っていることを確信していたのかもしれない。

 旅の一行に選ばれたその日の夜に、ダグラスは息子が船に関心を持たなかった理由わけを初めて知った。


『僕は、船頭なんかになりたくないんだ。そんなつまらないことのために、星の名前を覚えたんじゃない』


 船頭の二つ名を誇りとしてきたダグラスにとって、許しがたい言葉だった。それが、船頭としての将来を楽しみにしていた息子が得意げに言い捨てたのだ。

 許せる、わけがない。


『つまらないだと? アーウィン、二度と星辰の湖に戻ってくるな』


 死んでしまえばいい。怒りに震えながら、そう言い放った時、アーウィンがどんな顔をしていたのかも覚えていない。


 あの日から、ダグラスとアーウィンの親子が正面から向き合うことはなくなった。


 もし、あの日から――いや、そのずっと前から、アーウィンの自惚れに気がついて、正面から向き合っていれば、こんな思いをしなくてすんだかもしれない。

 素直に、無事を願うこともできただろう。


「バカ息子が……」


 ダグラスが夜明けの湖に声を震わせたその時だった。


「父さまぁあああああああ! 兄さんが、兄さんがぁあああああああ」


「アーチ?」


 湖面を走ってくる下の息子の姿を見つけた。

 外回廊から降りる前に、アーチボルドはダグラスに飛びついてきた。


「アーチ、どうしたんだ? 家でブライアンと待っているようにと……」


「兄さまが、兄さまが生きてるって。でも、右目を失ったって。でも、兄さまは生きているって。生きているんだって」


 泣きながら訴えてくるアーチボルドは、ひどく混乱しているようで、ダグラスはすぐには信じられなかった。


「落ち着きなさい、アーチ。どうしたんだ、いきなり……」


「だから、兄さまが生きているんだって。姫さまもみんな、みんな、灰霧城塞はいぎりじょうさいにいるって。兄さまが生きているんだって」


灰霧城塞はいぎりじょうさい? アーチ、すまないが、何を言っているのかわからない。落ち着きなさい」


「だからぁあああ」


 アーチボルドがますます強くしがみついていると、外回廊に彼の声を聞きつけた大人たちが集まってきた。


「ダグラス、何をしているんだ?」


 長の留守を預かる船造りのキールの厳しい声に、ダグラスは唇を引き結んだ。


「申し訳ございません、キールさま。すぐに息子を帰らせますので……」


「そうではない!」


 滅多に声を荒らげないキールが、いら立ちを隠そうともしなかった。

 あれほど泣きわめいていたアーチボルドですら、ピタリと泣き止むほど、キールの声は厳しく鋭かった。


「そうではない、ダグラス。大体の話は聞かせてもらった。なぜ、すぐに灰霧城塞はいぎりじょうさいに向かわない?」


「え、キールさま、しかし……」


 ダグラスは戸惑う。

 下の息子の信じられない話を真に受けろと、言うのか。

 彼は、周囲の同胞たちを見渡して、自分の言い分に加勢してくれる者がいないことを知る。


「父さま、ドゥールおじさんが教えてくれたんだ」


「なんだと!!」


 誰よりも早くことの重大さに気がついたのは、やはり年長者のキールだった。


「ダグラス。長の留守を預かる者として、命ずる。今すぐに、灰霧城塞はいぎりじょうさいへ向かえ」


 船造りのキールは、有無言わせない厳しい口調で続ける。


「雷鳴のバーナビーと、その息子ボールドウィンは、ダグラスとともに灰霧城塞はいぎりじょうさいへ。真相がどうであれ、水鏡で鏡番で報告を。細氷さいひょうのフィリップは、月影の高原にいる長に、報告を。アーチボルド、今度は落ち着いて長に全て話しなさい。よいかね?」


「うん、わかった」


 目元をゴシゴシとこすったアーチボルドは、力強く頷いた。


「いい子だ。蒼海のサイラスは、ドゥールの妻と息子を、この明け星の館に。それから、蒼槌そうついのマイルズと、薬師のブルーノの息子ネイサンは、わたしについて来い。ドゥールの大馬鹿者を死なせるわけにはいかない」


 異を唱える水竜など、いるはずもなかった。

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