信頼の証を
わたしは今、どんな顔をしているのだろう。
ターニャのように呆れて物が言えない顔だろうか。
それとも、ヴァンとアンバーのように今にも怒りが爆ぜそうな険しい顔をしているのだろうか。
どちらにしても、笑っていられたのは、ニコラスだけだった。
水竜の信頼の証である
チリンチリンと、氷鈴を鳴らしたニコラスの表情がなぜか曇る。すぐにわかった。その氷鈴の水竜に問題があったのだ。
「やはり、この氷鈴は使えない。
落胆のため息は、誰のものだったのだろうか。
それもそのはず、人間びいきで知られるドゥールは、ニコラスにわたしの情報を漏らしたことと、リュックベンで捕らえられた彼らを逃した罪で、
鉄枷は、竜の森でもっとも重い罪に対する罰だと聞いている。そう、話で聞いたことがあるだけだ。何十年に一度しか、使われることのない枷だ。竜の森でも鉄枷は、罪を犯さないための脅しや戒めの言葉として使われることが多い。だからだろうか、わたしは具体的なことは何も知らない。
鉄枷と聞いて青ざめたヴァンとアンバーと違って、わたしは鉄枷の恐ろしさを知らない。
ほんの少しの可能性も試さずに、このまま寝るのは嫌だ。
「もしかしたら氷鈴が使えるかもしれない。一度試してみようよ。駄目で元々で、さ」
竜族のヴァンとアンバーは気が進まないようだったが、肩をすくめただけで賛成も反対はしなかった。
ターニャを見れば、彼女は困ったように笑った。
「あたしは、ニルスが決めればいいと思うよ」
それはもっともな話だ。
ドゥールが信頼の証として与えたのは、ニコラスだ。彼が決めるべきだ。もっとも、彼の答えは決まりきっていた。
「駄目で元々でもいいなら、やるしかないだろう」
わたしは、急いで桶に水を汲みに行った。
早く、わたしたちの無事を竜の森に伝えたい。わたしたちの無事だけではなくて、ファビアンのことも、ローワンの結婚のことも、ライラの裏切りのことも、アーウィンの右目のことも、たくさん伝えなくてはならない。
万に一つでも、可能性を
桶に満たされた水の中に、ニコラスは静かに氷鈴を沈めていく。
「始めるぞ」
小さな桶を、両手の指の数の瞳が見守っている。
リン、リィン……
氷鈴は、水の中のほうが綺麗な音を立てる。それはおそらく、水竜の秘術だから当たり前のことだけども、わたしは単純にこの音が好きだ。
リン、リィン……
ずっと耳をすませていたくなる綺麗な音に、ニコラスのため息が混ざった。
「やはり、駄目だったか」
しかたがないと、彼が氷鈴を引き上げようとしたときだった。
……ーィン
水面が一瞬磨き上げられた鏡となった。
「むっ」
すぐさま、わたしたちの顔を映した鏡は暗くなり何も映さなくなった。そう、何も映さなかった。わたしたちの顔も、本来ならすぐに映るはずのドゥールの姿も、何も映さなかったのだ。
それが何を意味するのか、深く考えなかったことを後悔することになる。そんなことは少しも思わなかったわたしは、弱々しくもはっきりと響いてきたドゥールの声に、短い喜びの声を上げてしまった。
『なんのようだ、ニコラス。俺が鉄枷をはめていることを知っていて、たいしたことなかったら、縁を切るぞ』
「もちろんだ、ドゥール。鉄枷があってもなくても、俺がくだらないことで氷鈴を使ったことなど、一度もない」
『ハッ、どうだったかな。まぁ、いい。手短にしてくれよ。これでも、結構無理しているんだ』
何も映さない桶を覗きこんでいたニコラスが、顔を上げてわたしに話すよう真剣な眼差しで促してくる。
「ドゥール、聞こえる? わたし、フィオナ・ガードナー。わかる?」
『っ! 姫さま? まさか、そんな……』
ズルズルと地を這う音がしたと思ったら、大きな青い目が桶の中に映し出された。
『姫さま、失礼ですが、本当に姫さまですか?』
「本物よ、ドゥール」
桶の向こうの大きな目が、困惑したように瞬きを繰り返す。
「あのね、ドゥール。わたしたち、今、
『は?』
「
得意げに話し始めたニコラスのお尻に、ターニャの容赦ない蹴りが見舞われる。
長くなりそうな話を止めさせてくれた彼女は、よくやってくれた。
気を取り直して、わたしは再び桶を覗きこむ。
「ドゥールよく聞いてほしいの。実はアーウィンの右目が潰れてしまって……」
『なんだと! なぜだ、誰がやった? クソが……』
ドゥールの青い大きな目が水鏡の向こうに消えたかと思うと、ありったけの悪態、呪いの言葉が恐ろしい声で聞こえてきた。
「落ち着いて、ドゥール」
『落ち着けだと、落ち着いていられるか! クソ忌々しい鉄枷さえなければ……クソがっ』
金属がぶつかりあう嫌な音も聞こえてくる。
時々、彼の青いウロコや目が水鏡に映る。どうやら、彼は暴れまわっているようだ。
彼が落ち着くまで待ってから、事の詳細を話したほうがいいのだろうか。と、考えていた時だった。
「ニール、お前っ」
ファビアンの鋭い声が中庭に響きわたった。
振り返るよりも早く、血相を変えたファビアンがニコラスを押しのけて来た。
『なっ……おまっ……』
「むっ」
あまりの剣幕に飛び退いたわたしたちに、止める暇なんて誰にもなかった。
ファビアンは、水鏡の桶を蹴り倒すと氷鈴を踏み潰した。
呆気にとられていたニコラスは、信頼の証である氷鈴が割れた音で我に返った。
「何するんだよ、ファビ……」
「何をする? それはこっちの台詞だ!」
掴みかかろうとしたニコラスの胸ぐらを、ファビアンが逆に掴み上げる。
ただならぬファビアンの剣幕に、二人の間に入れる者など誰もいなかった。
「なぜ、鉄枷の水竜の氷鈴を使った!」
「なぜって、ダメ元で……」
「……馬鹿がっ」
そう吐き捨てながらファビアンは、ニコラスを胸ぐらを掴む手を緩めかけたけども、すぐにより力をこめた。
「俺は、はめられた鉄枷を破壊して牢から逃げ出した水竜を知っている。だが、その水竜はすぐに死んだ。なぜだかわかるか?」
ニコラスはしばらく考えて、首を横に振った。
けれども、アンバーは何か気がついたらしく息をのんで目を見開いた。
「そうだろう。知っていたら、わかっていたら、友を殺すような真似はしなかっただろうな。……よく聞け、血を失ったからだ。おわかりか? ニコラス殿」
「そんな……」
みるみるうちに青ざめたニコラスの胸ぐらを、ファビアンはようやく離した。
崩れるように膝をついたニコラスのせいではない。
わたしも、ようやく理解できた。
なぜ、ドゥールがはっきりと姿を映さなかったのか。
なぜ、声が弱々しかったのか。
ドゥールは自分の体を傷つけて流した血で、わたしたちの呼びかけに応えてくれたのだ。
なぜ、ファビアンが桶を蹴り倒して氷鈴を割った
血の気が引いていくのがわかる。ニコラスのように崩れ落ちそうな膝に力を入れる。
「わたしが、わたしが、無理を言ったの」
思っていたよりも、声は震えていなかった。
けれども、ファビアンは鋭い
「来いっ」
「来いって、星辰の湖か?」
掴まれた腕をそのままにニコラスが尋ねると、ファビアンは苛立たしく舌打ちをした。
「お前たちが馬鹿な真似をしてくれたおかげで、こっちはロクにまだ休めていない。いいから、黙って来いっ」
ファビアンの剣幕に圧倒されて、ニコラスだけでなく、誰も何も言えなかった。
でも、ニコラスを引きずるようにどこかへ行ってしまう彼を、黙ってみているだけなんて、おかしい。
わたしが、ためらったニコラスの背中を押したのだから。
「わたしも、行かなきゃ」
たとえ、嫌われていたとしても、かまわない。
わたしは二人の後を追って、城塞の中へと急いだ。
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