第五部 人間と竜族

第一章 灰霧城塞

生きながら死ぬことと

 我が友ファビアン。

 君がこれを読むことはないだろう。

 だが、俺の覚悟を揺るぎないものにするために、決して届くことのないこの手紙を書いている。いや、手紙ではなく、遺書というべきか。

 ファビアン、君のおかげでこの醜い争いを終わらせられる。

 俺は、最悪な皇帝として語り継がれることになるだろう。

 大陸統一など、愚かな野望だったと、後の世の教訓となるかもしれない。それでもいい。


 ファビアン、君だけが理解してくれた。それだけで、充分だ。


 唯一無二の友よ。

 いつの日か、人間と竜族がより親密な関係を築き、一なる女神さまが望まれた世界になると確信している。


 いつか訪れるだろうその日のためなら、この命、決して惜しくはない。



『暴君イサーク帝の遺書と思われる覚え書き』より




 ――――


 灰霧城塞はいぎりじょうさいに、モーガルから仲間たちがやってきたのは、夜更け過ぎだったと思う。もしかしたら夜明け前だったかもしれないけども、濃い霧に閉ざされているせいで、確かなことはわからない。


 その時、わたしたちは狭くなったあの部屋を出て、アーウィンがいる中庭のすみで焚き火を囲んでいた。

 ターニャの婚約者のニコラスが、鍋に皮をむいたダフ芋を放りこんで火にかける。本当に、彼は北の帝国の皇子なのだろうか。


「あの灰霧城塞はいぎりじょうさいで、こんな芋を茹でる羽目になるとはなぁ」


「文句があるなら、食うな」


 ニコラスに言い返すファビアンの声は、あいかわらず疲れが色濃くにじみ出ている。

 あれから、ファビアンは一度もわたしと目を合わせてくれない。


 疲れた、休みたい、と愚痴をこぼしながらも、薪と小ぶりなダフ芋をニコラスとどこからか持ってきてくれたのだ。今わたしが話しかけても迷惑ではないか。そう考えてしまったから、まともに話もしていない。

 ターニャも同じことを考えてしまったのか、あれから婚約者とも話をしていない。気になってしかたないのに、話しかけられない。彼女のもどかしさが、嫌というほど伝わってくる。


 それもこれも、すべて疲れを隠そうともせずに焚き火を睨みつけているファビアンのせいだ。狼のつがいは、いつの間にかいなくなっている。

 そんなに疲れているなら、いっそのこと――


「なぁファビアン、寝たら?」


 鉄輪に乗せた鍋の位置をちょうどよい位置にずらしながら、ニコラスがわたしが言いたかったことを言ってくれた。

 盛大なため息をついたファビアンは、あのなと口を開いた。


「眠れるものなら、眠っている。眠れないんだよ、約束したせいで。マギーたちを招くまで、どんなに眠くても寝れないんだよ」


「……世界竜族の約束は命をも縛るってやつか」


「そう言えば聞こえはいいが、名もなき始まりの竜王が一なる女神さまに与えられた制約だ」


「むぅ、制約?」


 思わず口を挟んでしまったけど、彼はわたしを見ようともしなかった。それはおそらく疲れのせいで、わたしのことを嫌っているわけではない。そう、信じたい。


「もっとも強き竜族と、もっとも弱き人間が共存するには、竜族からメスを奪うだけでは無理な話だ。…………来たな」


 ゆらりと立ち上がるファビアンの金色こんじきの瞳が、焚き火に照らされて、鋭く光る。まるで、朝日にきらめく露のような光だった。


 霧に閉ざされてぼんやりとした夜空を彼が見上げると、すぐに聞き知った翼の音が聞こえてきた。

 最初に霧のむこうから中庭の上に姿を現したのは、銀色のウロコのヴァンだった。

 さすが風竜だけあって、彼が巻き起こした旋風に焚き火の炎が大きく揺れる。

 危険だと考えるよりも先に、炎から離れたターニャとわたしだったけども、芋を茹でていたニコラスはそうもいかなかった。


「げっ、ちょ、あっつ……」


 とっさに鍋を持ち上げようとしたニコラスの努力もむなしく、鍋はひっくり返ってしまった。

 誰も火傷をしなかったから、よかったものの、ヴァンの荒っぽい登場のせいで、ダフ芋が台無しだ。


「アーウィン! なんで、その目、まさかっ……そんな……」


 中庭の中央に降り立ったヴァンは、ぐったりと横たわるアーウィンの姿に愕然と目を見開いた。

 信じられないと首を横に振りながら彼は、右目がつぶれたアーウィンにふらふらと近づいていく。

 一度は折りたたんだ翼を、開いたり閉じたりしながら、意識のない仲間の水竜にかける言葉を探しているようだった。


 その様子に戸惑っていたのは、わたしだけではなく、隣りにいたターニャもだったようだ。


「片目ですんでよかったじゃないか」


「片目だけだって? 冗談じゃないよ。俺たちにとって……ああっ、くっそ……どこが、無事なんだよ、これのどこがっ」


 ヴァンの取り乱した台詞の半分は、かろうじて消えなかった焚き火のそばに立っていたファビアンに向けたものだった。


「……悪い。言いそびれた。モーガルでその事実を伝えたところで、どうにもできなかっただろう」


「そんなっ……」


 心の底から申し訳なさそうに答えたファビアンに、さらにヴァンが言い募るより先に、頭上から声が聞こえてきた。


「確かに、ファビアンの言う通りだけど、無事とは言えないよね。これは」


 茶色い長衣をひるがえした人影が、中庭に膝を曲げて着地する。


「久しぶりだね、フィオ。それから、ターニャも。まさかこんなところで、再会するなんて思わなかったけどね」


「アンバー、久しぶりね」


 モーガルで合流するはずだったアンバーは、まだ翼を広げたりたたんだりを繰り返すヴァンに父によく似た笑顔を向けた。


「ヴァン。いい加減、変化へんげしなよ。狭すぎる」


「悪い」


 その気持もわからないでもないけどとアンバーは、つむじ風を巻き起こして変化をしたヴァンを見やりながらため息をつく。


「誰にも言ってほしくないんだけど、僕ら竜族にとって失明は生きながら死ぬことなんだ。心臓が命の源なら、目は力の源なんだ」


「じゃあ、アーウィンは……」


 ターニャも息をのんだのがわかる。


 そんなことがあっていいのだろうか。

 片目とは言え、力を失うようなことがあるというのだろうか。


 足元がぐらぐらと揺れるような絶望に響いたのは、ファビアンのため息混じりの声だった。


「あのまま死なれるよりは、マシだっただろうが」


 マシだった。――確かにそうかもしれない。

 アーウィンが意識を失う前の死にたくないという言葉を信じれば、確かにマシだったかもしれない。


「まさか、このまま目を覚まさないとかないだろうな?」


 ターニャの問いかけに、誰も答えない。


 それはつまり、目を覚まさないこともありうるということだろうか。


 絶望の淵へと引きずりこもうとしている沈黙が、恐ろしくてしかたない。

 消えなかったのが奇跡のような焚き火の炎が爆ぜる音が、不気味なほど響く。


 恐ろしい沈黙は、かすかに聞こえてきた二つの足音すら、おとぎ話の怪物へと変えてしまっていた。


「っ!」


 反対側の回廊の奥から近づいてくる揺れる松明。

 誰もいないはずではなかったのかと身をすくませると、よく聞き知った声が恐ろしい沈黙を破った。


「なんだ、なんだ。なんか、暗いぞ、お前ら」


「むぅ、ローワンかぁ」


 考えてみれば、ローワンしかいない。

 張りつめすぎていたせいで、拍子抜けしてしまった。もちろん、ローワンのせいではない。


 回廊に現れたローワンの頭上に浮かぶ火球に照らされた赤毛の少女は、リュックベンで見かけた彼の花嫁だろうか。


「ヴァンが、いつまでたってもちっこくなってくれねぇから、外に降りるはめになって……ま、それはいいけどよ、真理派のやつら、許せねぇな」


 火球が彼の怒りに答えるように、一瞬ボゥっと燃え盛る。


 みんな我がことのように怒りをあらわにしている。

 それほど、失明することが恐ろしいのか。


 胸元の小袋を強く握りしめると、一人で鍋からこぼれた芋を集めていたニコラスが耐えかねたように声をあげた。


「あのさ、お仲間の身を案じるのもいいけど、そろそろ行動するべきではないかな」


 穏やかな口調だけども、怒りがにじみ出ている。


「おわかりか? 竜の森の方々は、いざ知らず。俺たち人間は腹を空かせている。ようやくかき集めた芋も灰まみれ。おわかりか? 俺は今、最高に機嫌が悪い。いつまでもただ突っ立っていられるのは、不愉快極まりない」


「むぅ」


 言い過ぎではと思うけど、わたしのお腹はいびつなダフ芋も欲しがっている。


 重苦しい沈黙が、絶望から気まずいものへと変わっていくのを、肌で感じる。


「それに時間がもったいないではないか。これから、真理派の連中は遠慮などしない。立ち尽くしている場合ではないだろう。なぁ、ファビアン……あれ? いない」


 ニコラスが振り返った先にいたはずのファビアンがいない。

 いつの間にか、こつ然と姿を消している。

 みんな、戸惑いの声をあげながら、あたりを見渡す。

 姿を消したのは、ファビアンだけではなかった。


「あーっ、俺のマギーもいねぇ!」


 ローワンの鼻息が荒い。

 マギーというのは、彼の花嫁のことだろうけど、なにか引っかかる。

 火球を五つに増やして中庭を探し回るローワンは、やけに興奮しているというか、いつもよりも落ち着きがない。


「ローワン、花嫁を連れてくるために、モーガルで結婚したんだよ」


 あたり見回しながら近くにやってきたアンバーが、ニヤニヤ笑いながらターニャとわたしに教えてくれた。

 納得と首を縦に振ったターニャも、ニヤニヤ笑っている。


「それは、めでたいな。けど、祝ってやりたいのにあれじゃあな……」


「後のほうがいいんじゃないかな」


 アンバーの言うとおりだろう。

 中庭を走り回る彼を見ればわかる。


「マギー、マギー、どこにいるんだよ」


 火球は七つになっている。

 今にも中庭を飛び出していきそうな勢いだというのに、まだ中庭にとどまっている。

 よほど混乱しているのだろうか。らしくないのだけども、鼻息が荒かったり、どうも様子がおかしい。


 明らかに様子がおかしい彼に、ヴァンが呆れた声をかける。


「ローワン、落ち着けって。灰霧城塞はいぎりじょうさいの中を探すなら……」


「そうだったっ、ありがとうな、ヴァン。中庭にいないなら……あ、マギー」


 まったく落ち着こうともせずに廃墟の建物に駆け込もうとしたローワンの血走った目に、ようやく回廊に立つ新妻の姿が映る。


「マギー、どこ行ってたんだよ! また、また、勝手にどこか行っちまったんじゃねぇかって、心配しただろうか」


 長衣が赤い残像の線を描くほどの勢いで新妻に駆け寄った彼は、やはり様子がおかしい。

 まだニヤニヤ笑いながら眺めているアンバーの袖を、引っ張る。


「ねぇ、アンバー。モーガルで、ローワンになにかあったの?」


「ん? 結婚しただけだよ」


 アンバーは、ローワンの様子がおかしいことに気がついていないのだろうか。


 ひと目も気にせず強く抱きしめて、心配したどこにも行くなと大きな声で繰り返すローワンを強引に引き剥がした新妻のマギーの顔が赤い。


「そういうのは後にしなって。…………ファビアンから伝言だけど」


 ファビアンと聞いて、わたしたちは一斉に彼女に注目する。

 短い赤毛と同じくらい真っ赤な顔で、彼女は早口で続ける。


「限界だから、寝るって。起きてくるまで、おとなしくしていろだって」


「……だよなぁ」


 ボソリとつぶやいたのは、わたしたちよりもファビアンをよく知るニコラスだった。


 たしかに、隠しきれないほど疲れていたのだから、約束が果たされた今、限界を超えてしまったのだろう。


 とはいえ、この霧に閉ざされた廃墟で、わたしたちはどうすればいいのだろうか。


「むぅ」


 とてもとても、ファビアンにならって寝る気にはならない。

 多くのことが起きすぎた。

 わたしたちがいなくなった後のモーガルで何が起きたのかも知りたいし、久しぶりに再会したアンバーから聞きたい話もある。それから、ターニャの婚約者であるニコラスのことも――とにかく、一度整理したいことがありすぎて、とても寝る気にならない。


 まずは、ダフ芋を茹でながらと考えていたせいか、ローワンとマギーがいなくなっていたことに気がつくのが遅れた。


「むっ、ローワンたちがいない」


 探さなきゃと、マギーを離さないと抱きしめていた回廊に行こうとすると、アンバーがニヤニヤ笑いながら止めてきた。


「いいんだよ。結婚したばかりなんだ。二人きりにさせてあげないと、ね」


「むぅ、でも、アンバー……」


「だから、いいんだよ、フィオ」


 探さなくてはと言おうとしたら、アンバーは急に真顔になる。


「フィオ、わかるだろう。ローワンは、花嫁のウロコを手に入れて成竜したんだ。今は二人きりにさせないといけないんだよ」


「むぅ、新婚だから二人きりってのもわかるけど、でも今はそんな場合じゃないよ」


 結婚して成竜したのは、もちろんめでたいことだ。こんな時でなかったら、目一杯祝福したい。

 けれども、今はそんな場合ではない。

 今は、これからどうするか考えるべきではないのか。


 首をかしげるわたしの肩を、ターニャが叩く。


「フィオ、もしかして知らないのか?」


「何を?」


 わたしがさらに首をかしげると、ターニャは不敵な笑みを浮かべる。


「成竜したら、さっさとすませないと手に負えなくなるってさ」


「むぅ、何をすませるの?」


「フィオ、初夜ですることくらいわかるだろ?」


「むぅ!」


 顔が赤くなるのがわかる。


「ナターシャさまから聞いた話だと、発情ってやつ」


「は、発情ぉ!!」


 まさかと思ったけど、先ほどのローワンの様子がおかしかった原因が発情だとすれば納得だ。


 耳まで真っ赤になっているのがわかる。


「ターニャ、言い方! あってるけど、言い方! あのね、フィオ、ターニャはああ言ったけど……」


 焦って訂正しようとするアンバーの声は、火照ったわたしの耳に届かなかった。


「むぅ、むぅうううううううう」


 初夜にすることくらい、知ってる。けれども、あくまで人間としての知識としてだ。

 まさか、竜族にとってそれほど重大な意味を持つなんて、知らなかった。

 なぜ、八年も竜族に囲まれて育ったのに、誰も教えてくれなかったのだろうか。――その答えは、ヴァンのボヤキが教えてくれた。


「俺たちだって、羞恥心くらいあるよ」


 ますます火照る体を沈めてくれたのは、ドキドキが止まらない心臓よりも下から聞こえてきた空腹を告げる間抜けな音だった。


「とにかく、まずは腹ごしらえとしようか。腹が減っては、ろくなことがない」


 笑いを噛み殺しながらではあったけども、ニコラスの提案を拒む理由などどこにもなかった。

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