さいはての島から

 さいはての島は、ノアン大陸のはるか西の海に浮かぶ孤島だ。

 一説によれば、上古の時代に一なる女神さまが沈めた三つの大陸の一つの名残らしい。


 予言者のアーウィンが、十数年前から移り住んでいる孤島は、想像していたよりも大きかった。人間の足で一周するのに、一日はかかるだろう。

 北の岬から、なだらかに裾野を広げている島には、青々とした美しい草原が広がっている。


 父さんは、予言者のアーウィンをこう言っていた。


 ――――あいつは、母さんを悲しませた。それも二度も。俺はあいつを許すわけにはいかない。だがな、ユリウス、よく聞けよ。お前たちはあいつに感謝するべきだ。


 なぜ、という問いに、父さんはわかる日が来ると答えた。

 今にして思えば、僕が母さんを乗せてこの島を訪れることを、父さんはわかっていたのかもしれない。


 予言者のアーウィン。

 僕が生まれた頃には、彼はさいはての島に心が壊れた妻と人間の夫婦とともに移り住んでいたという。

 予言者の二つ名は、水竜族の長が与えたわけではないし、親から引き継がれたものでもない。誰が呼び始めたのかはわからないけど、いつの間にかそう呼ばれていたらしい。

 すべての星の名前を知り、失われたはずの知識で、星から未来を読み解く。

 三十三年前、行方知れずになった彼が、どこでどうやって失われた知識を学んだのか、彼は誰にも語ろうとしていない。

 そもそも、彼は盲目で星の光すら届かない暗闇の中で生きているというのに――。


 藍色の目隠しをした予言者のアーウィンを知らない者などいない。

 だが、その二つ名にこめる響きは、人によって違う。

 ある者は、希望を。ある者は、恐れを。ある者は、尊敬を。その二つ名にこめる。


 僕は、まだ予言者の二つ名にこめる思いがわからない。

 まだ、さっきの彼の言葉が頭の中でグルグルと何度も繰り返している。




 母さんとアーウィンは、岬の上の石造りの古い塔の前でぎこちない再会を遂げた。ぎこちない空気のまま、母さんは僕を彼に紹介してくれた。


「ユーリ、彼が予言者のアーウィン。あいさつしなさい」


「予言者なんて、僕は一度も名乗ったことないんだけどね」


 困ったように笑いながらも、アーウィンは空いた方の手を差し出す。もう片方の手は、心が壊れた妻のものだった。

 彼の手を取る僕の手は、滑稽なくらい強張っている。


「ユリウス。ユリウス・ガードナーです。母たちから、あなたの話はたくさん聞いています」


「どんなひどい話か気になるね」


「ひどいだなんて、そんなことは……」


 失言だったのかと慌てたけど、杞憂だったらしい。


「わかっているさ」


 ニッコリと笑った彼にホッとしたのも、ほんのわずかな間のことだった。

 彼はすぐに唇を引き締めて、痛いくらい強く僕の手を握りしめてきた。見えないはずの藍色の目隠しの向こうから、僕の内側までを見据えているようで恐ろしい。


「君はその名前の理由わけを知っているね?」


「ええ。……最後の竜王さまの名前をもらいました」


 なぜ、そんなことを尋ねるのだろうか。最後の竜王ユリウスの名前を、父が僕に与えてくれたことは、父から直接聞いてなくても、わかりきったことだというのに。

 けれども彼は、僕の手を握りしめる力を少しも緩めてはくれなかった。


「そうじゃないだろう? ユリウスは


「……っ」


 心臓が止まるかと思った。

 盲目の水竜は、僕がこの島に来た理由わけを知っているというのか。


「その、通り、です」


 やっとの思いで吐き出した答えに満足してくれたのか、アーウィンはようやく手を離してくれた。


 に、会いに行ってもいいのだろうか。

 僕の決意は簡単に揺らいでしまった。

 父さんですら、おそらくに会いに行かなかっただろうに。


 僕から離れた手で、妻の髪をなでた彼の口元には厳しさはもうなかった。


「ユリウスくんは、散歩でもしてくるといいよ。長旅で疲れているだろうけど、あいにく君とアーチが運んできてくれた荷物を整理したりで、慌ただしくなるからね。外のほうが、ゆっくりできるはずだ」


「あ、はい」


 それは、に会いに行けということだろうか。


「西の海岸に行くことをおすすめするよ」


 盲目のアーウィンの言葉に、僕は弾かれたように岬を下っていったんだ。




 すぐに、僕は後悔した。

 あれから、僕はずっと繰り返し、これが正解だったのか、考え続けている。

 母さんは、僕の様子に何か気づいてしまっただろうか。


「でも、僕は……」


 西の海に浮かぶさいはての島の西の海岸の白い砂浜に寄せては返す波。

 はいはての向こうには、本当になにもないのだろうか。

 無限に広がる大海原を前にすると、僕らの世界がひどくちっぽけに感じてしまう。

 たった一つの大陸は、人間と竜族が共存していくには狭くはないのか。

 ここは、本当に世界の果てなんだろうか。


 砂浜を南へ歩きながら、また予言者の言葉を繰り返す。


 本当に、に会えるのだろうか。

 そもそも、は僕が考えている人物なのだろうか。


「父さんは、はっきり教えてくれなかったもんなぁ」


 父さんは、いつもそうだった。

 いつも大事なことほど、はっきり言わない。

 そのことで、母さんによく怒られていたっけか。


「まぁ、それが、父さんらしいところだけど……」


 それは、波打ち際にあった。

 白っぽい岩を、細い円柱に削り出したそれは、墓標だった。


 名も無き墓標。


「そっか、もう楽園に旅立ったんだった」


 二年前の春に旅立ったと、聞いている。


 膝をついて目を閉じ、両の手のひらを空の向こうの楽園へと捧げた。


 さいはての島からの祈りは、楽園に坐す一なる女神さまへと届くのだろうか。

 そもそも、本当に空の向こうに楽園はあるのだろうか。


 実際に会ったことのない魂のために、純粋に祈りを捧げるには、僕はまだまだ若すぎる。


 それでも、少しでもこの祈りが届けばいい。


「なぜ、ここで祈りを捧げている」


 祈ることに没頭しすぎたせいで、背後に男が立っていたことに気がつかなかった。

 だろうか。

 まぶたを押し上げるだけの覚悟すら、僕はない。

 心臓が早鐘を打つ。


「楽園へと旅立った魂に祈りを捧げるのは、それほどおかしいことでしょうか?」


 まるで、他人のように聞こえる僕の声は、驚くほど冷静だった。


「誰とも知れぬ魂に祈りを捧げるのか?」


 ひどく呆れたその声は、しゃがれた老人のそれだったが、張りは失われておらず堂々としていて力強い。


 やはり以外にありえない。


 この名もなき墓標は、が愛した人のものだから。


 覚悟が決まれば、心臓も早鐘を打つのをやめて、まぶたも軽くなった。


「確かに、僕は彼女に会ったことはないですけど、墓標に刻まれるべき名前は知っています」


 両手を下ろしてゆっくりと立ち上がる。まだ、振り返る覚悟まではできていない。


「リラ。いえ、ライラ・ラウィーニア。そうですよね?」


「……聞いていたのか」


「いいえ。父さんは、いつも大事なことをはっきり言ってくれなかったですから」


 背中で、の動揺をかすかだけど感じ取る。


 父さんは、僕らは盲目の予言者に感謝すべきだと言っていた。

 それはたぶん、三十三年前に失踪したアーウィンが再び姿を現した十八年前に一緒にいた人間の夫婦にも、感謝するように言っていたんだと思う。


「父さんは、子どもを持つつもりはなかったそうです。自分で最後にしようとう決意が揺らいだのは、盲目の予言者の影にあなたの存在を知ったから……僕は、そう考えています」


 振り返れば、日に焼けた肌にシワを刻んだ背の高い老人がいた。

 その金色こんじきの瞳に、僕はどう映っただろうか。

 ただの未熟な若者だろうか。


 真っ白な短い髪の頭をかいて、彼は肩を落とす。


「……似ていないな」


「よく言われます」


 誰になど、尋ねるまでもない。


「来なさい。もうすぐ潮が満ちてくる。たいしたもてなしもできないが、この先に漁師小屋がある」


「ありがとうございます」


 年寄りとは思えないような確かな足取りで歩き出した彼を背中を追いかける。まだ、追い越す時ではない。


 父さんの魂が楽園へと旅立って、三ヶ月。もう三ヶ月。

 僕らは、これからどう生きればいいのか、決めなくてはいけない。

 そのために、さいはての島にやってきたんだ。


 このさいはての島から、僕らは――新しい時代を始めるんだ。

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