月が昇る

 灰霧城塞はいぎりじょうさい――正式な名はセルトヴァ城塞は、北のカヴァレリースト帝国の西部、ブラス聖王国と竜の森に近い場所にある。


 北の帝国と西の聖王国の国境は、ゼラス大河のように明確に線引されていない。


 どの国にも属さない盗賊や蛮族がうろつくベルン平原と広大なヒョーリンの森が、緩衝地帯として広がっているだけだ。


 セルトヴァ城塞は、蛮族から帝国を守るために築き上げられた。


 守るためのセルトヴァ城塞が、侵略の拠点となったのは一度のみ。

 混乱の時代、暴君として悪名高いイサーク帝が、大陸統一を掲げた時だ。


 後の世からしたら、初めから約束されていた敗戦に、暴君は城壁から身を投げ自殺。

 その時から、濃い霧に閉ざされてしまったセルトヴァ城塞は、いつしか灰霧城塞はいぎりじょうさいと呼ばれるようになった。


 北の帝国にとって、忌々しい歴史の舞台だ。

 けれども、呪われた忌々しい灰霧城塞はいぎりじょうさいを取り戻したいと願う帝国人も多い。


 イサーク帝の意思を継ぐ者が、灰霧城塞はいぎりじょうさいの城壁で剣を掲げる時、霧は消える。


 いつの頃からか語り継がれている約束の時を、帝国人は待ち望んでいる。




 人間も竜族も立ち入ることを許さない灰霧城塞はいぎりじょうさいを目指す三頭と一人は、風竜ヴァンを先頭にゼラス大河に沿って上流へと飛んでいた。


 黒い影となってそびえ立つ月影の高原の灯りは、まだ見えない。


 ヴァンの故郷であるはずの月影の高原の影は、そのまま自分の胸に巣食う影に見えたのかもしれない。


「月が昇ってくれれば、もっと速く飛べるのに」


 陰鬱なため息とともに吐き出された独白を聞き逃さなかったのは、火竜のローワンだった。


「もうすぐ昇るだろ。つか、小ロイドさまに、報告しに行くなら、行けよ。里帰りしても、夜明け前には間に合うだろ」


 先ほどまで、成竜した衝動で新妻のマギーが悲鳴を上げるのも構わずに、曲芸飛行をしていたローワンの前向きな言葉にも、ヴァンはため息をついた。


「帰らないよ。……帰れるわけがない」


 月影の高原の手前で北へと折れる大河から外れて北東へと向きを変えたヴァンと、彼の故郷をさえぎるように、地竜のアンバーが横に並んだ。


「ヴァンは、ライラの裏切りを小ロイドさまが知っていたと考えているのかい?」


「おいおい、さすがにそれは……」


「そうだよ」


 アンバーの反対側に並んだローワンの声をさえぎるように、ヴァンははっきりと言い切った。

 どういうことだと追求しようとしたローワンから逃げるように、ヴァンは一度速度を上げる。


「でも、俺はまだ小ロイドさまを信じていたいんだ」


「……ヴァン」


 一族の父となる存在の長を疑うことがどれほど苦しいことか、火竜の長の養い子として育ったローワンがわからないわけがなかった。


 体半分前に出ていたローワンとヴァンに、アンバーが並ぶ。


「とにかく、灰霧城塞はいぎりじょうさいに急ごう」


 星の明かりは、不気味なほど弱々しい。


 竜族は夜を飛ぶのを好まない。

 火急の用でもない限り、彼らは夜の空を飛ぼうとしない。

 夜の空は、彼らを憂鬱な気分にさせ、翼が重くなるのだという。


 しばらくの間、陰鬱な沈黙のまま彼らは飛び続けた。


 最初に気がついたのは、ローワンの背に乗るマギーだった。


「ねぇ、あれ見てよ」


「なんだ……嘘だろ、おい」


 首を曲げて背後に目を向けたローワンは、言葉を失った。


 南の低い空に、月が昇っていた。

 大きな銀のシャール月に、小さな黄のムスル月。

 あってはならないことに、どちらも満月だった。


 言葉を失ったのは、ローワンだけではない。アンバーもヴァンも、まさか再び二つの満月を目にするとは夢にも思わなかっただろう。

 人間でも竜族でも、二つの満月が空に昇った夜がなんと呼ばれているのか、知らないものはいない。


「……世界の終焉」


 不吉な満月に、マギーはオーナ大隧道だいすいどうでのことを思い起こした。


「なんだよ、マギー。満月が二つ昇ったからって、怖いこと言うなよ」


 ローワンは笑い飛ばそうとして、失敗した。


「ファビアンが言っていたんだもん。この世界は、常に終焉と隣り合わせだったって。世界竜族は、ずっと世界の終焉を先延ばしにすることが宿命だったって」


「ローワンの奥方殿、それはぜひとも詳しく聞かせてもらいたいね」


 すかさず興味をしめしたのは、知の地竜のアンバーだけではなかった。ヴァンも、どこか新婚の二人をからかうように笑う。


「俺はいつどこでどうやって、世界竜族の生き残りを仲良くなったのか知りたいね」


「それな。俺も気になってた」


 ローワンが長い首を縦に振ったせいで、マギーは思わずしがみついてしまった。

 竜にとって、花嫁そのものが欠けた一枚のウロコだとも言われている。だから、決して妻を落とすことはないのだが、怖いものは怖いのだろう。

 アンバーとヴァンが聞かなかったことにしようと心に決めるほどの悪態を、彼女は夫に浴びせかけた。


「わりぃ」


 さすがのローワンも、妻を乗せることに慣れていない自分を恥じたのだろうか。


「わかればいいんだよ、わかれば。さっきの曲芸飛行だって、生きた心地しなかったんだからな」


 口をとがらせたマギーが、その曲芸飛行の途中から笑顔だったことを、アンバーとヴァンは見なかったことにしたい――そう思ったかもしれない。


 とはいえ、灰霧城塞はいぎりじょうさいも夜明けも、まだ遠い。


「あたしがファビアンと出会ったのは、本当に偶然だったの」


 機嫌を直したマギーは、去年の暮に港街ティンガルでのことから、モーガルまでの旅路を語り始めた。


 わずかな金を握りしめて家を飛び出したマギーは、自分の旅路を振り返りながら、一なる女神さまの導きとしか言いようのない幸運の数々に感謝を捧げずにはいられなかっただろう。

 ただし、リュックベンの神殿でローワンが逃げ出したくだりは、夫にとってさぞかし耳が痛かっただろう。

 オーナ大隧道で聞かされた世界の終焉のこと、それから大河を下ってモーガルでローワンたちを待ち構えていたこと、マギーが全部語り終えた。その頃には、二つの満月は南の空を離れて、銀のシャール月は天頂に昇りつめ、黄のムスル月は西の海の上に浮かんでいた。


 マギーが語り終えてしばらくすると、ローワンは鼻を鳴らした。


「真理派がいる限り終焉がつきまとうなら、チャンスじゃねぇか。ライラは間違いなく表立って竜族を批難して、人間たちを煽動してくる。俺たちにも好都合だ。誰が敵かはっきりすれば、こっちが真理派を排除してやる」


「ローワンは単純だね」


 アンバーは他に思うことがあるのか、どこか上の空だった。


「今さら竜王は必要ない、か。……きっとそれだけじゃない。あの壁画のことも、早く確かめないと」


 上の空の独り言は、あっという間に風に流されて消えてしまう。


灰霧城塞はいぎりじょうさいが見えてきたよ」


 ヴァンの声に、顔を上げたマギーは息をのんだ。


「あれが、灰霧城塞はいぎりじょうさい


 霧に閉ざされた城塞の話は、国こそ違えど聖王国の北部で育ったマギーもよく知る伝説だった。

 恐ろしい伝説として聞き知っていた灰霧城塞はいぎりじょうさいは、彼女の目にはやはり恐ろしく見えただろう。


 眼下に広がる大地を滑る三頭の竜の影もはっきりわかるほどの月明かりの中で、灰色の霧はまるで大地の上にそびえ立つ雲の山のようだった。


 右手に広がるヒョーリンの森の半分ほどは飲みこんでいるだろう、本当に霧の山の中に蛮族たちが恐れた城塞があるのだろか。

 思えば、マギーが伝説の中でのみ存在する場所を訪れるのは、これで二度目だ。オーナ大隧道に灰霧城塞はいぎりじょうさい


 彼女を乗せたローワンの目にも、濃い霧の山に息をのんでいた。


「本当に大丈夫なんだろうな」


 マギーは大きな体をしていても、夫と同じように霧の山が映っていることを知って、軽く笑った。


「大丈夫。あたしは、オーナ大隧道を通ってきたの。灰霧城塞はいぎりじょうさいも大丈夫、行けるよ」


「マギーがそう言うなら」


 大きく翼を羽ばたかせたローワンを先頭に、三頭と一人は旅の仲間たちが待つ伝説の城塞目指して霧の中に姿を消した。



 天頂の銀のシャール月と、西海の上の黄のムスル月。

 人間と竜族の道標となる女神ルグーの星明かりを奪った二つの満月は、この夜から真理派の女王ライラの死をもって新しい時代を迎えるその日まで、毎夜、空に昇ることになる。


 それは、星の導きに頼ることなく人間と竜族に正しい道を見出みいだしてほしいという、神々の願いだったのかもしれない。


 とはいえ、この夜の二つの満月は、このあとの戦いの予感を覚えた者たちにとって、嘆きの夜に等しい不吉な象徴だった。

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