幕間

さいはての島で

 ファビアンは、この世界がどんな風に見えていたのだろうか。

 彼の魂が楽園へと旅立って、もう三ヶ月がたつ。まだ三ヶ月と言うべきだろうか。


 わたしには、三人の息子がいる。

 一番下のヴォルフは、いまだに父の死を理解できていない。癇癪持ちのヴォルフはまだ五歳。変化へんげできるようになる頃には、父親の面影はおぼろげなものになっているだろう。

 真ん中のライオスは、すっかりおとなしくなってしまった。あの子なりに、やんちゃな甘えん坊のままではいられないと、無理をさせているのではだろうか。

 唯一、変化できるようなった一番上のユリウスは、父の死に動揺を見せなかった。もともと責任感の強い大人しい子だけども、やはり気がかりだ。


 息子たちのために、しっかりしなくてはいけない。なのに、わたしの心は半身をもがれて麻痺したまま。

 もう二度と世界を歪めてほしくないと願いながら書き続けてきた物語も、あの日から止まったまま。とてもとても、ペンを取る気にならない。もう、書かなくてもいいのではないかとすら、考えてしまう。


 ファビアンは、自分が死ぬ日をあらかじめ知っていた。

 そのことを知ったのは、彼の体が世界に還ったあとのこと。


 船頭のアーチボルドから、ファビアンがさいはての島を訪れていたことを、聞かされた。

 すべての星の名前を知り、失われたはずの知識で未来を読み解くことができる唯一の水竜、予言者のアーウィンに会いに行っていたのだと、知った。

 まさかと思った。

 夫のファビアンは、アーウィンのことを心底嫌っていたはずだだから。



 目の前で藍色の布の目隠しをして口元に困ったような笑みを浮かべているアーウィンの顔に、夫は拳の一つくらいは御見舞したかもしれない。

 そんなどうでもいいことを考えていたわたしは、彼の困惑した声に我に返った。


、僕のこと嫌いだと思ってたんだけど……」


「まさか、ありえないわよ」


 ほっと息をついた盲目の彼の右腕に、薄汚れた少女がしっかりと抱きついていた。まるで、威嚇する獣の目つきでわたしをにらみ続けている彼女の栗色の瞳は、病的な光を宿していた。


「う゛ー」


「カーラ、大丈夫。フィオは君を傷つけたりしないから」


「う゛う゛ー」


 アーウィンの妻に会うのは、初めてだった。

 頭をなでてなだめるアーウィンの手は、とても優しそうで愛おしそうだ。


 話には聞いていた。

 アーウィンの花嫁は、心が壊れていたのだと。

 ライラが竜族と人間の男たちに立ち向かったあの時、過激な行動に走った人間の手で彼女の心はボロボロに壊されてしまった。

 当然の報いだと、口さがない者たちに言われているのを知っている。わたしも、ほんの少しでもそう思わなかったと断言できない。

 アーウィンのせいで、傷つき死んだ者たちがいるのは事実なのだから。


 それでも、わたしは――


「兄さん、いつまでお客さまを立ちっぱなしにさせてるんだよ」


 大陸から運んできた大量の荷物を、アーウィンの背後にある石造りの塔に運び入れていた船頭のアーチボルドが額の汗を拭っている。


「アーチ、僕が邪魔なら、邪魔って言ってくれればいいのに」


「じゃあ、遠慮なく。兄さん、邪魔」


 カーラは義理の弟の軽口に慣れているのか、むしろはにかみながらアーウィンの腕を引きながら道を譲る。


「あ゛あ゛ー」


 失われたはずの知識をアーウィンから学びに来た若者たちが、わたしに会釈しながらアーチボルドの後を追う。その若者たちには、人間も竜族もいた。見知った顔は、最先端のアンバーの息子のジェイドだけ。あの子もずいぶん大きくなった。


「アーチにはかなわないよ、まったく。フィオ、なにもない辺鄙なところだけど、お茶くらいは出せるから、中で話をしようか」


「そうね」


 アーウィンに紹介するとすぐに一人で散歩に行ってしまったユリウスが気になったけども、小さな島だ。暗くなる前には戻ってくるだろう。


 カーラに腕をひかるアーウィンに案内された塔の中の一室は、お世辞にもきれいとは言えなかった。


「むぅ」


「ちょっと散らかっているかもしれないけど、我慢してね」


 ホコリや乾いた泥で汚れた冷たい石の床の上に、これでもかと散らかる星見盤に、計測器らしき金属物に、何に使うのかわからない木片。

 明り取りの窓から差し込む日光のお陰で薄暗くはないけども、小さなテーブルと椅子だけのスペースを確保したしたのが、よくわかる部屋だった。

 二人がけの長椅子に妻と並んで座ったアーウィンが申し訳なさそうに唇を歪める。


「他の部屋は、アーチたちが荷物を整理したりで、落ち着いて話もできないから」


「……そう、それならしかたないわね」


 アーウィンたちとテーブルを挟んで向かいに用意された椅子のホコリを払ってから、腰をかける。


 すぐに弟子の誰かがお茶を持ってきてくれるからと言って、アーウィンは暗澹たるため息をついた。


「まさかとは思うけど、フィオも楽園へ旅立つ日が知りたいとか言わないよね?」


「言わないわよ。わたしはただ……」


 何をしに来たのだろう。

 自分の気持ちを見失ってしまったわたしを、アーウィンの肩に頭をあずけるカーラが病的な目でにらんでくる。


「う゛う゛ー」


「カーラ、大丈夫だから、ね」


「むふぅん」


 嬉しそうな声をあげたカーラを、まるで猫のようだと思ってしまった。動物にたとえてしまった愚かさに気がついて、唇を噛む。

 かつて故郷のリュックベンで出会った醜いプリシラに、そんな失礼なこと思わなかったというのに。


「安心したよ。誰かの死を読み解くのは、何度やっても嫌な気分になるからね」


 言葉が見つからなくて黙したままのわたしの代わりに、アーウィンが話し始める。


「カーラがいるから、僕は星が見えるんだ。こうやって、最初にルグーの涙を導いてもらうんだ」


「んふぅ」


 妻の手を取って、アーウィンは見えない星を頭上高く指し示す。


「次に、水瓶の欠片……西風の息吹……。世界の中心の塔が崩れなければ、もっと楽に読み解けたのかもしれないけど、ね。未来を読み解くなんて聞こえはいいけど、根気のいる作業だよ、実際は」


 目隠しの向こうの暗闇で、彼は本当に星が見えているのだろうか。

 いくつか星の名前を挙げた彼は、妻の手を握りしめたまま静かに手を下ろすふぅっと息をつく。


「誰もが幸せになろうとしただけ……そう言ったのは、誰だったけ?」


「クレメントさまよ」


「それって、だと思わない?」


 いたずらっぽくクスリと笑うアーウィンに、心臓が止まるかと思った。

 偶然だろう。彼が最後の竜王ユリウスの言葉を知っているわけがない。


「僕も、フィオも、クレメントさまも、みんな幸せになろうとしただけ。小ロイドさまも、ライラだって、そうだったんだ」


 アーウィンの話の意図が見えない。こんな風に脈絡なく話をする男だただろうか。


「ライラだって、幸せになりたかったんだよ」


「それだけじゃないわ。ライラは、すべての女性の幸せのために戦っていた」


「うん」


 焼け落ちてくる天井の幻影が見えた。ほんのつかの間の幻影の向こうに、ライラの最期の姿を垣間見た。それから、女王のかたわらに現れた人影も。


 テーブルの上で、両手を強く握りしめる。


「生きてほしかった」


「うん」


「生きて、生きて、今の世界を見てほしかったの!」


「うあ゛っ」


 大きな声に怯えてしがみついてきたカーラを、アーウィンは優しくなだめる。大丈夫だと、繰り返しながら。


「ごめん、わたし、何しに来たんだろう? わたしは……」


 なぜ夫がこの島に来たのかが、気になったのは確かだ。

 あれほど嫌っていたアーウィンに会いに行ったのか、知りたかったわけではないのだと、ようやく気がついた。

 わかりきったことだった。彼がこの島を訪れたのは、残された時間を知るためだった。わたしたちの物語を書き上げるために、残された時間を知る必要があったのだろう。

 もちろん、他にも何か話をしただろう。

 アーウィンが、父のダグラスとの関係を修復しようと決めたきっかけになる何かが、夫との間にあったのも間違いない。


 けれども、そんなことのためにわざわざここまで来たわけではない。


「カーラ、大丈夫。僕がいるから。僕はカーラがいてくれないと、なにもできないから、ね」


「むふぅん」


 おとなしくなった彼女は、アーウィンの膝の上で幸せそうに目を閉じる。


「ごめんなさい、アーウィン。わたし、ただ気分転換したくて、ここまで来ただけかもしれない」


「そうなの? どんな顔でフィオに会えばいいのか、怖かったんだけど。なんか、損した気分」


「アー坊、あなたねぇ……」


 生意気に口を尖らせる彼が懐かしくて、笑ってしまった。

 そういえば、この三ヶ月、声に出して笑ったことはなかった。


 むすっと何か言おうとした口を一度閉じた彼は、軽く首を振って話題を変える。


「フィオは、あの旅を記録に残そうとしているんだって、聞いているけど」


「ええ。もう二度と、繰り返してほしくないから。でも、ファビアンがいなくなってから、もうどうでもよくなっているの」


 妻の乱れた髪をなでていたアーウィンの手が止まる。


「最後まで書くべきだよ、フィオ」


「え?」


 聞いたこともないくらい、アーウィンの声は真剣だった。


「過去の物語は、星なんかよりも未来への道標になる。だから、最後まで書くんだ、フィオ」


 ああ、そうか。

 わたしは、わたしたちの物語を書き続ける力が欲しかったんだ。


 誰でもよかったのかもしれない。

 アーウィンでなければならなかったかもしれない。

 でも、アーウィンでよかった。心から、そう思えた。


「そうね、最後まで書くわ。未来のためにも」


「楽園のみんなも喜ぶだろうね」


「そうかしら?」


「そうに決まっているよ」


 だったら、いいな。

 楽園でるみんなと再会したとき、本を書いたのだと話のきっかけになったら、どんなに素敵なことだろう。


「そういえば、みんなはどうしているの? アーチのやつ、父さんのことしか話してくれないんだ」


「ローワンは、まだ息子がほしいって、よくマギーと仲良く喧嘩しているわ。もう十六人もいるのに」


「ローワンらしいよ、まったく」


 長い月日のわだかまりなど、ほんのひと時しかもたなかなった。

 もっと、早く会えればよかったとすら、思う。

 でも、それは、今だからこそ思えるのだろう。


 わだかまりを抱えていた月日は、この日のためにあったのだと思えばいい。


 もう二度と、この地上で会うことはないだろう。

 だからこそ、かつてともに旅をした時のことや、星辰の湖での昔話に花を咲かせているこの時間が、たまらなく愛おしい。

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