恋人たち
いつの間にか、眠っていたらしい。
「んっ……」
ベッドに寄りかかって膝を抱えていたはずなのに、チクチクした暖かい毛皮に包まれていた。
クゥン
「むっ」
鳴き声を直ぐ側で聞いて、一気に目を覚ました。
狼だった。
黒い狼にもたれかかるように、わたしは眠っていたんだ。
「あ、君、は……むぅ」
強張った膝を伸ばそうとすると、むくりと起き上がった狼が頬に鼻先を押し当ててきた。のっそりと、狼が頭を乗せたベッドの上には、ターニャに白い狼が寄り添っていた。
光石ランプの頼りない光しかない暗い部屋の中で、急に寒さに身震いする。
「もしかして、君たち、わたしたちを温めてくれていたの?」
黒い狼は、こちらをちらりと見ただけだった。
狼が怖くないといえば、嘘になる。
花婿の夢の中では、家族のような存在だったのに。
「そうだ、ファビアン。……ファビアン」
わたしの花婿の名前。
クゥン
花婿の名前に反応したのだろうか、白い狼が可愛い声で鳴く。
すぐ側で鳴いたせいか、ターニャが身じろぐ。
「ぅん」
「ターニャ!」
「ん? フィ、オ……うわっ」
さすがのターニャも、すぐ横に狼がいたことに驚き飛び起きた。
「大丈夫だよ、ターニャ」
のっそりとベッドから降りて黒い狼に寄り添う白い狼に、警戒や敵意よりも恐怖の表情を浮かべた彼女が、とても可愛らしく見えた。不謹慎かもしれないけども、心がほぐれるのがわかった。そして、どれだけ自分の心が強張ってしまっていたのかも、よくわかった。
「フィオがそう言うなら……」
ベッドの上で膝を抱えたターニャの隣で、わたしも膝を抱える。
ようやくターニャの目が覚めてくれて、本当は抱きしめたいくらい嬉しい。けれども、モーガルにいる仲間たちや裏切ったライラの顔が脳裏をよぎってしまった。
ターニャも見ず知らずの場所で――それも狼の隣で目を覚ましたのだから、わたしなんかよりも混乱しているだろうに、肩を寄せてきた彼女の口からこぼれた声には、わたしを心配してくれる響きもこめられていた。
「何があったんだ? あたしは、ヴァンに言われてフィオたちの後を追っていたことまでは覚えているんだけど……」
「ヴァンが?」
そういえば、彼はモーガルに行くことをやめるように言っていたではないか。ライラを旅の仲間にしたのは、風竜族の長、小ロイドだ。もしかして、彼も――
「フィオ、どうした? やっぱり、あたしよりも、フィオが話した方がいい。ひどい顔してる。あたしなんかじゃ頼りにならないかもしれないけど、一人で考えこむより、とにかく話したほうが楽になるかもしれないから」
「そう、だね。本当は、わたしがターニャのこと気遣ってあげなきゃいけないのに、ごめん。今日は本当にいろんなことがありすぎて……」
目頭が熱くなる。もう、しばらく泣くことはないと思っていたのに、駄目だった。
毛皮のコートでも、狼の体温でもなく、頼りになるターニャが背中に回してくれた温もりに甘えてしまう。
「あのね、ターニャ、ライラがライラが……」
順番にきちんと説明しようとしたのに、駄目だった。
それでも、ターニャに聞いてほしくて泣きながらモーガルでのライラの裏切りから、アーウィンの暴走。ユリウスのことだけは話せなかったけども、花婿の世界竜が助けてくれたことまで話した。話さずにはいられなかった。
背中に回してくれた彼女の腕が強張ったり震えたりしたけども、彼女は一度も口を挟まずに聞いてくれた。
感情にまかせて話し終わっても、まだわたしは泣いていた。
「…………また、肝心なときに役に立てなくて、ごめん」
「違うの。わたしがもっとしっかりしていれば、こんなことには……」
「フィオ」
彼女の声が、いつもよりも力強く響いた。そんなはずはない。彼女も、この状況が不安でしかたないはずだ。
それなのに、それなのに、わたしは彼女に甘えてしまう。
なんて情けないのだろう。
「フィオだけのせいじゃない。アーウィンのバカは、あたしを眠らせたりなんかせずに、もっと早く言えばよかったんだ。それに、ライラの裏切りも、昨日今日のことじゃないんだ。っていうか、フィオは長たちに怒っていいんだ。真理派の女王を名乗ってるライラを仲間にしたのは、長たちなんだから」
「うん、でも……」
でも、わたしがしっかりしていれば、モーガルの人たちは傷つかずにすんだのだ。
「でもじゃない。それよりよかったじゃないか、フィオの花婿が見つかって」
「むぅ、そうだけど……」
黒い髪はひどく乱れていた。それから、金色の瞳。あれは、竜族の王の瞳ではない。ただの若者の瞳だ。すぐに吊り上がって怖いと怯えてしまったけども、今になって思い返せば、とても千年生きたような老練な雰囲気はなかった。老竜ライオスに比べれるのもはばかれるほど、ファビアンと名乗った花婿は若く見えた。もしかしたら、ウロコがまだ一枚足りていないせいかもしれない。
うまくやっていけるかどうか、まだわからない。
親なしで死に損なったと卑下していた彼に、ユリウスが愛していたのだと伝えたかった。そう思って、ユリウスの息子だと伝えたときの、彼の泣きそうな顔が忘れられない。
わたしは、なにか間違ったことを言ってしまったのだろうか。
ファビアン。名前を教えてもらったばかりの花婿のことを考えるうちに、涙は止まっていた。そのかわり、胸が苦しい。
「フィオ、顔が真っ赤だよ」
「むぅ、そんなこと……」
ターニャがやっと笑ってくれた。
わたしもつられて笑っていた。
「やっとフィオが元気になった。それで、フィオが顔を真っ赤にするほどのいい男は、どこにいるんだい?」
「だから、真っ赤になんか……いい男って決まったわけじゃないし……」
最後の方は、なぜか恥ずかしくて小声になってしまった。
そうだ、まだターニャに彼がモーガルに戻ってしまったことを伝えてなかった。
「ここにはいないよ。モーガルに戻ってる。夜明け前までに戻るって約束してくれたけど……」
「はぁ? 何それ!」
壁を背にして並んで膝を抱えていたターニャが、急にわたしの前に回りこんで肩を掴んできた。
「そもそも、ここどこだよ。安全な場所なのは、わかったけど、花嫁を置き去りにするとか、頭おかしい! あたしが叩きのめしてやる」
「ターニャ、落ち着いてよ。世界竜族の約束は命をも縛る。だから必ず戻ってきてくれるから」
「それはそうだけど……」
「もしかしたら、ローワンたちも連れてきてくれるかもしれない。それに……」
「それに、なに?」
言い出しづらくてうつむいてしまったのは、ターニャの許婚がリュックベン市から追いかけてきているのを黙っていたからだ。彼女はやはり怒るだろうか。
「……ニコラス・ルキーチ・フェッルム」
「は? なんで、あいつの名前が出てくるんだい」
彼女の肩から手が離れて、顔を上げる。彼女の頬が赤く染まっているのが、頼りない光石ランプの灯りでもわかった。
「ファビアンが、モーガルにいるターニャの許婚に約束したって言ってたの」
「は? ファビアンって、フィオの花婿だろ。なんで、なんで、あいつが……わけがわからない」
「落ち着いてよ、ターニャ。あのね、わたしもよくわからないけど、わたし、リュックベンで会ってるの、その……ターニャの許婚さんに」
「はぁあああ? どういうことだい」
やはり、隠さずにきちんと伝えておくべきだった。
声を荒げた彼女に驚いたのか、狼たちの耳がピクリと反応した。
「実はね、ターニャ……」
許婚が、ずっとターニャを探していたこと。
水竜族の長、氷刃のディランの息子ドゥールが与えた手がかりから、式典の日にリュックベンにいたこと。それも、我が家を訪ねてきていたこと。真理派に襲われたときに助太刀してくれたこと。ローワンの花嫁と一緒に、わたしたちを探していたことまで、全部話した。
ようやく、順を追って話ができるようになったのはいいけども、黙って聞いてくれたターニャの様子がおかしい。
「なんでだよ、なんなんだよ、あのバカ。いっつも、あたしを待たせてばかりなのに、なんで待ってられないんだよ」
「ターニャ、その本当に、ごめん。ドゥールが鉄枷で罰せられたりとか、ターニャが責任感じるんじゃないかって……」
「馬鹿なこと言うなよ、フィオ。全部あいつがしでかしたことじゃないか。なんで、あたしまで責任とらなきゃいけないんだい」
ベッドから降りたターニャは、外してあった戦斧のベルトをつける。
「前にも話したけど、あたしはいつも待ってばかりだった。あのバカを好きにさせている皇帝陛下もどうかと思うけど、あたしが女だからって、あいつは連れて行ってくれなかった。だから、あたしは……」
光石ランプの灯りに浮かび上がるターニャの横顔は、真剣そのものだ。
「花婿を待たずに探しに旅をするフィオが、うらやましかったんだ。それなのに、あのバカは、ぶちのめしてやらないとね」
「うん。でも、ほどほどにね」
わたしとターニャだけでは、整理できる事態ではないのだ。
またひどい顔をしているだろう。
花婿のファビアンが戻ってくる前に、ちゃんとした顔に戻らなくては。
顔を洗おうと、ベッドから降りようとした時、なんとも間抜けな音がした。
「むぅ……こんな時に、なんで……」
間抜けな音は、わたしのお腹の虫だった。
そういえば、朝から何も食べていない。
「あははは、フィオは本当に……あははは……」
「ターニャ、笑いすぎ。むぅ」
ファビアンが残してくれた炒り豆が入った袋を思い出す。
「これしかないけど、ターニャも食べよう」
「豆? そういや、竜王の屋敷の汚い部屋にも豆が散らばっていたよな」
「たぶん、彼の部屋だったんじゃないかな」
「へぇ」
ベッドの縁に腰を下ろして、彼女にユリウスのことが話せないのがもどかしくてしかたない。
豆を食べながら、やはりこれは彼の好物なのだろうかと、少しだけ愉快な気分になった。
ターニャにはああ言ったけども、わたしはあの汚い部屋がファビアンのものだと知っている。
そう考えると、千年以上前から、彼は豆が好きだったのかもしれない。
「意外と美味しいね」
「だな」
袋いっぱいの炒り豆は、あっという間になくなってしまった。
「むぅ」
足りないけども、贅沢を言っている場合ではない。
「そうだ、フィオ。さっきの話だと、ここは帝国のどこか、なんだよな?」
「うん。ターニャ、心当たりあるの?」
顔を拭った彼女は、乱れた細かく編み上げられている細い金髪を解きながら答えた。
「霧に囲まれた城って言ったら、
「ターニャ?」
「誰か来る」
彼女は腰の戦斧に手をやりながら、扉を鋭い目つきでにらむ。
黒い狼も、悠然と彼女の横に並ぶ。
すぐに、足音が聞こえてきた。
「フィオ、あたしの後ろに……」
「うん」
ファビアンがターニャの許婚を連れて戻ってきたのかと思ったけども、それにしては足音が荒々しい。
ターニャが戦斧の柄を握りなおすのと、扉が勢いよく開かれたのは、ほとんど同時だった。
「愛しのターニャよぉおお」
長い三つ編みの金髪を揺らしながら飛び込んできたのは、やはりターニャの許婚に間違いなかった。
両手を広げてターニャを抱きしめようとした彼だったけども、彼女がそれを許さなかった。
「ニルスのバカ野郎っ」
「おっと」
ターニャの拳を、許婚はギリギリのけぞってかわす。
「あいかわらず勇ましいな、愛しのターニャ」
「その恥ずかしくなるような台詞をやめろっていっつも言っているんだ」
第二撃目はなかった。
ターニャたちにとって、拳はあいさつのようなものだったのかもしれない。
すぐに抱きしめ合う二人を見れば、そうとしか思えない。
「探したよ、ターニャ」
「…………」
「ようやく、俺がターニャにしていたことがわかったんだ。いつも待たせて、ごめん」
「バカ野郎、遅いんだよ」
「本当に、ごめん」
解いたままの癖のない髪を撫でられながら、ターニャは許婚の胸に顔をうずめている。
ターニャは、わたしが見たことなかった恋人の顔をしていた。
二人のように、わたしも花婿と抱きしめ合うことができる日が来るだろうか。
うらやましく思いながら、ぼんやりと二人を眺めていると、黒い髪に金色の瞳の彼がやってきた。
「……邪魔」
そのひと言が、なぜかおかしくてまた目頭が熱くなる。
さっきあった時は、余裕がなさすぎただけだ。
再び会えたファビアンは、少しも怖くなかった。
仲睦まじい恋人たちの姿にイラ立つ、ただの男だった。
そのことが、なぜか嬉しかった。
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