婚礼の儀
竜の婚礼の儀は、花嫁が生まれ育った土地の風習や竜族によっても違ってくる。
だが、どれほど盛大に祝おうが、結局のところ花嫁が握りしめていたウロコを花婿が受け取ればいいだけのこと。
一枚だけ欠けたウロコを得ることは、完全な成竜になることだ。
竜に一人ずつ与えられた花嫁は、ウロコそのもの。花嫁狩りが横行した混乱の時代以降、花嫁が生まれるたびに神殿を介して竜の森で花嫁の存在を把握されるようになってから、成竜しない竜はほとんどいない。
子孫を残すことよりも、竜族にとっては完全体である成竜するために、花嫁を求めると言ってもいい。
花嫁は、すべての竜族にとってなくてはならない存在だ。
そのための共通する儀式なら、簡単に行える。
花婿のローワンの腹が決まれば、あとは早かった。
本来なら花婿と花嫁の親族がつとめる証人は、最先端のアンバーとニール。
そして、進行をつとめる介添人は俺になった。もちろん、普通は神官か竜族の長が務めるはずの介添人など、やったことはない。だが、そうも言っていられなかった。
戸口にもたれかかり見張りを買って出たヴァンに、緊張をほぐそうとしたのか、花婿のローワンが声をかける。
「ヴァン、何かあったら、遠慮なく言えよ」
「わかってる。ついでに、一なる女神さまに無事に婚礼の儀が終わるまで、邪魔が入らないことを祈っているよ」
返すヴァンの声も、硬かった。
時間がない。
俺は、花婿と花嫁の前に立った。
「始めるぞ」
硬い表情で向かい合う花婿と花嫁の間に、年季の入った木の盆を差し出す。
「花嫁、マーガレット・メイジャー。産声をあげるよりも前からともにあったウロコをここへ」
「はい」
緊張のせいか、待ちに待った結婚する喜びのせいか、マギーの声はかすかに震えていた。
ゆっくりとウロコを取り出した赤い布袋は、ティンガルの港街で出会った頃よりもかなり擦り切れている。
俺が知らないところで、何度も何度も握りしめていたに違いない。
赤く輝くウロコを盆の上に置いて、彼女は名残惜しそうに指を離す。
「これより、婚礼の儀を始める。花嫁、マーガレット・メイジャー」
「は、はい」
癖で胸元にやろうとしていた手を下げた彼女の頬が、ほんのりと赤い。
「そなたは、真理派の蛮行から愛する家族を救わんと、一人で家を飛び出した。その無謀とも言える勇気を、一なる女神さまはお認めになられ、幸運の御手でそなたを導き、この夜を迎えた」
出来損ないの俺が即興で考えた割には、うまくマギーを讃えられた。
「花嫁、マーガレット・メイジャー。この婚礼の儀をもって、花婿に生まれもったウロコを捧げ、妻になることを誓うか?」
「誓います」
はっきりと、マギーは答えた。
彼女の伏せられていた琥珀色の瞳は、しっかりと花婿の赤い瞳を見すえていた。
「証人、最先端のアンバー」
「最先端のアンバーは、花嫁、マーガレット・メイジャーの誓いを楽園の神々に証言することを誓う」
形式通りとは言え、ローワンの背後に控えていたアンバーの声は硬かった。
「では――」
俺も、形式通りとは言え、一度呼吸を整えてから続けた。
「マーガレット・メイジャーは、今一度、夫の一部となるウロコを手に取るように」
「はい」
マギーは両手で赤いウロコを愛おしそうに握りしめた。
街は竜族を排除しようと人間たちが騒いでいるだろうが、いまこの時だけは、婚礼の儀にふさわしい神聖な静寂さがあった。
「続いて、花婿――」
親なし、あるいはクレメントの後継者と二つ名代わりに呼ぶべきだろうが、そのどちらもふさわしくないだろう。
竈でひときわ大きく火が爆ぜた。
「花婿、陽炎の荒野の息子ローワン」
「っ……はい」
息を呑んだローワンは、震える声で答えた。
「そなたは、陽炎の荒野の息子。美しい陽炎の荒野のすべてが、そなたの父であり、母であり、兄弟である。多くを学んできたことであろう。歓びも痛みも、そなたは学んだがゆえに火剣を継ぐ者として、この夜を迎えた」
即興で、それもよく知らない花婿を讃えた言葉が、どうも花婿の琴線に触れたらしい。
目頭を押さえたローワンは、小刻みに肩を震わせていた。
「花婿、陽炎の荒野の息子ローワン。この婚礼の儀をもって、花嫁と欠けたウロコを受け入れ、夫となることを誓うか?」
大きく深呼吸したローワンは、気恥ずかしそうに涙をぬぐった。
「……誓う」
期待に頬を上気させているマギーの肩越しにニールを見やれば、満足そうに首を縦に振った。
「証人、ニコラス・ルキーチ・フェッルム」
「ニコラス・ルキーチ・フェッルムは、花婿、陽炎の荒野の息子ローワンの誓いを楽園の神々に証言する」
盆を下げて、あとは口づけをうながすだけだ。
「では……」
「やっぱり、ちょっと待ってくれっ」
ローワンは、震える声で叫んだ。
彼の赤いウロコを握りしめるマギーの手に力がこもる。
「ぁん?」
「だ、だってよ。俺なんかが、こんな時に結婚していいのかよ」
目をこすりながら、ローワンは続ける。
「俺さ、俺。嬉しすぎるんだよ。幸せすぎるんだよ。だってよ、だってよ、俺なんかのためによ、こんなところまで追いかけてきてもらってよぉ」
マギーの手が出るのではと、彼女の後ろに控えていたニールはさぞかし肝を冷やしたことだろう。だが、それは杞憂だった。
「ばっかじゃない。泣きたいのはこっちだっつぅの」
マギーの声は怒りではない感情に震えていた。おそらく、怯えとか恐れとかそういう感情に震えていたのだろう。
「今、結婚しなかったら、あんたが、あんたが、またどこか行っちゃいそうで、嫌だ。結婚するってさっき言ったんだから、グダグダ言ってないでさっさと続けろよ」
「けどよぉ」
時間がないというのに、この期におよんで、これはないだろう。
ため息をついて、どうやって口づけをさせようか頭を悩ませていた俺は、証人のアンバーとニールが意味ありげに目配せしていたことに気がつかなかった。
証人の二人は息を合わせて花婿と花嫁の背中を押した。
「わっ」
とっさに抱きしめあった二人の顔が真っ赤に染まる。
今、口づけをさせなければ、いつさせられるというのだろうか。
「では、花婿は己の一部である花嫁とウロコを抱きしめ、口づけを」
「……お、おう」
目を閉じて待つマギーに、おそるおそるローワンは唇を重ねた。ぎこちなく初々しい口づけは、ほんのひと時。
「きゃっ」
あれほど、結婚することに抵抗を示していたローワンは、マギーを抱き上げてグルグルと回りだす。
マギーを離すまいと何度も唇を重ねながら、狭い部屋の中でグルグルと回る。
壁際に避難した俺の肩をニールが叩く。
「見せつけてくれるねぇ。俺も早く愛しのターニャを……」
許嫁の幻を抱きしめているニールには、苦笑するしかなかった。
欠けた一枚のウロコを手に入れて成竜した瞬間、じっとしていられないほどの力がみなぎってくるという。
だからといって、ローワンのように新妻を振り回すのは珍しい。
「もう、恥ずかし……んっ」
さすがに疲れてきたのか、回ることをやめたローワンだったが、マギーを離そうとしない。
めまいも疲れも、ひと時でも忘れさせてくれる光景だったが、ふいに
あの時、とっさに抱きしめてしまった震える小さな肩を思い出す。
もうないと、諦めていた。
欠けたウロコも花嫁も、俺には与えられなかったはずではなかったのか。
死に損ないの俺の体は、不完全なままで終わるはずではなかったのか。
もし、俺にこの最悪な夜を乗り越えさせるために、出会ったのだとしたら、一なる女神さまの導きはあまりにも――。
祝福の時は、ヴァンの鋭い声によって終わりを告げる。
「来るぞっ」
一瞬にして張り詰めた空気が、支配する。
パチリと竈の火が爆ぜる音に混ざって、複数の荒々しい足音も聞こえてきた。
俺は、ニールの腕を掴んで夜明けまでと、マギーの竜の若者たちを振り返る。
「夜明けまでなら、
「お、おう」
ニールの腕を掴んだまま一歩後ろに下がっただけで、俺たちが消えたように見えたことだろう。
消えた俺たちがいた場所を眺めながら、アンバーは顎をさする。それが、父親と同じ癖だと自覚していたかどうかはわからない。
「すごいな。世界の隙間だったかな、こうして実際に目の当たりにすると……」
ドンドンと、扉が壊れそうなほど乱暴に叩かれる。いいや、叩かれたとか生易しいものではない。
初めから押し入る気だったのだろう。
ニヤリと笑ってみせたローワンの赤い瞳に、物騒な光が灯る。
「黙って退散することはないだろうよ」
やれやれとヴァンが肩をすくめるのと、錆びた扉の蝶番が壊れるのは、ほとんど同時だった。
もともとそれほど頑丈ではなかった扉は、いとも簡単に殺気立ったモーガルの男たちの侵入を許してしまう。
「開いたぞっ」
「街を壊した奴らが……」
「……いない?」
寝室への扉は開け放たれている。隠れる場所などない。
「絶対、どこかに隠れているはずだ。探せ!」
「屋根の上に逃げたんだ!!」
リーダーと思わしき顔に傷がある男が声を張り上げるのと、警戒することを知らない無謀な若者が天井に穴があいているのに気がついて声を上げたのは、ほぼ同時だった。
それが合図だったのだろう。
竈の中からゴウと激しく燃え上がった炎が、彼らに襲いかかる。
借家の外で殺気立ちひしめきあっていた人々は、火達磨になって飛び出してきた男たちに驚きおののく。逃げようとする者もいるが、下町の狭い路地にひしめき合う人間たちが邪魔になっている。
「かーかかかっ」
屋根の上から、快活なローワンの笑い声が響き渡る。
悲鳴を上げていた男たちの炎も消える。よくよく見れば、男たちはせいぜい上着を焦がした程度だった。
「聞けよ、モーガルの人間ども」
妻のマギーを抱きかかえた彼の赤い瞳は、赤々と燃えているようだった。
恐れ、怒り、憎しみ、あるいはそれらすらも忘れて呆然と見上げる人々には、恐ろしい火竜の姿が見えていたのかもしれない。
「俺は、陽炎の荒野の息子ローワン。昼間、この街を揺るがした水竜、船頭の息子アーウィンに代わって、告ぐ」
だが、その腕の中にいた新妻のマギーの目には、頼もしい夫の姿が映っていたに違いない。
再会した途端に、痴話喧嘩を始めた二人だが、それは互いを求めていたからこそかもしれない。
マギーは家族を思い一人故郷を離れ、遠く離れた最南端の港町でほんの一瞬出会ってしまった花婿を追いかけたのは、二度と会えないのではという不安でしかたなかったからだ。
ローワンは、親なしの負い目をなくして花嫁が待つ陽炎の荒野に凱旋しようと、今まで以上に努力を重ねながら旅を続けていた。すべては、花嫁に負い目を与えないために。
「俺たちは大切な存在を守るためなら、昼間のように人間たちに危害を加える。お前たちが、こうして俺たちをモーガルから追い出そうと武器を手にしているように。俺たちも戦わなければならない時がある」
誰かが彼に投げつけた礫は、彼の後ろに立っていたヴァンの風にはたき落とされる。
「真理派の女王ライラ・ラウィーニアに伝えろ。俺たちが守るべき存在、フィオナ・ガードナーは生きている。もし、このまま俺たち竜族にとって大切な存在を傷つけるというのなら、俺たちは戦う」
彼はもう一度、しっかりと妻を抱き上げた。
「それは、今日ではない。だが、覚えておけ、人間たちよ」
熱風が橋の街モーガルを襲う。
とっさにその身をかばった人間たちが顔を上げたときには、屋根の上には誰もいなかった。
はるか頭上より、羽ばたく音だけが聞こえてくるのみ。
この夜、まだ竜族を排除することに抵抗があった人間たちも、そこにはいた。興味本位で集まったいう者も少なくなかった。昼間、アーウィンが破壊したのは街のごく一部で、他人事だった者も多かった。
そんな人々にとってローワンの言葉は、やはり他人事だっただろう。自分には関係ないと、決めつけていたに違いない。
だが、この夜のローワンの言葉は、そんな無関心な人々の心の奥に種となって植えつけられた。心の奥で根を張り芽吹くのは、まだ先のこと。
種をまいたローワンですら、多くの命を左右することになるとは、夢にも思わなかっただろう。
世界はまだ揺り起こされたばかりだ。
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