夜を迎える

 西の空を、日の名残りが不気味なほど不吉な茜色に染めている。


 ようやくたどり着いた一軒家がある下町は、いつもより人影がなかった。

 だが、静まり返っているというわけではない。


「だぁから、俺は、かっこいい二つ名をもらったら、ちゃんと迎えに行くから、陽炎の荒野で待ってろって!」


「待てるわけねぇだろ! つか、何? あたしが気に入らないってか?」


「んなわけねぇだろ! 親なしの俺なんかのために、リュックベンまで来てくれて嬉しかったさ。あれから毎晩、何してるかなとか想ってたんだぜ」


「だったら、今すぐ結婚しろよ」


「だぁから、それは……」


 頭痛がひどくなった。


 もしかしなくとも、マギーとローワンは痴話喧嘩を続けていたのだろう。


 ニールとアンバーは、横目で互いの顔をうかがいながら、無言でどちらが先に中に入るか押しつけあっている。

 それはそうだろう。俺もできることなら関わりたくない。


 だが俺は今、疲れきっている。早く体を休めたくてしかたない。


「どけ」


 ニールとアンバーを押しのけながら、乱暴にボロい一軒家の扉を押し開けた。


「どうしてわかってくれねぇんだよ。俺は……」


「わかるわけねぇだろ。わかりたくもねぇ……」


 まだ、部屋の真ん中でまだ痴話喧嘩を続けようとする二人に、俺は借りていた外套を投げつけた。


「なにす……あ」


 仲がいいのか悪いのか、わからなくなるほど、同時に外套をはねのけて口をそろえて、俺をにらんできて、同時に目をそらす。なんなんだ、この二人は。


「どいてくれ」


 すごすごと壁際にどいた二人がいた場所の奥にあった、椅子に腰を落ち着けると気が遠くなった。

 ひどいめまいがする。


 疲労だけでは、こんなことにはならないはずだ。

 耳鳴りと吐き気をともなうめまいが、古い記憶を呼び起こす。


 そう、俺が死に損なった夜。二つの満月が空に昇った夜。千年前の忌々しい夜も、黒い都から遠く離れた東の地で、ただただ不吉な予感に怯え震えていた。

 流星のライオスのように、駆けつけることができれば、ユリウスさまを救うことができただろうか。遺言だけでも聞くことができただろうか。


 後悔ばかり積み上げてきた。


 ユリウスさまの息子だなんて、あの小娘の口から聞きたくなかった。


 めまいがおさまってくると、まわりの声がようやく耳に届いた。


「そうとうお疲れらしい」


灰霧城塞はいぎりじょうさいでフィオもみんな無事だってさ」


「そいつはよかった。アーウィンの奴、あのままあっさり楽園に召されるなんてことがあってたまるか」


 ニール、アンバー、ローワンの明るい声に、胸に渦巻く後悔も楽になる。それが彼らの虚勢だとしても、ありがたい。

 だが、聞いた話ではもう一人いるはずだが見当たらない。


「で、風竜もいると聞いていたが、どうした?」


「なんか、街の様子を見に行くって出ていったけど……。あ、ファビアン、何か食べる?」


「……ああ、腹が減ったな」


 逃げたな。

 マギーとローワンは、風竜が街の様子を見に行ったと思っているかもしれないが、ニールとアンバーの顔を見れば、俺と同じことを考えているのだとわかる。


 それなら、風竜はそのうち帰ってくるだろう。


 水竜の小僧の右目が潰れてしまったことを、すっかり言いのがしてしまった。

 まぁ、いい。どのみちわかることだ。今、言ったところで、いらぬ混乱を招くだけだろう。


 マギーは、火が燃えるかまどでパンを温めている。

 大隧道で集めた貴金属のおかげで金に余裕があった俺たちは、ほとんど外食ですませていた。

 そのせいか、火のある竈が新鮮だ。

 北の灰霧城塞はいぎりじょうさいで疲れて冷えた体が、少しずつ温めてくれているのがわかる。


 竈でパンを温めてくれているマギーを眺めていると、神妙な顔つきでやってきたローワンが目の前にひざまずく。両の手のひらは、当たり前のように天に捧げている。


「申し遅れましたが、火竜、親なしのローワン。灰色仮面のクレメントの火剣を継ぐ者です」


 なんの拷問だ。


 よほど面白くない顔をしていたのだろうか。ニールが苦笑しながら肩をすくめた。


「しかたないさ、ファビアン。そんな顔をするなよ。お前が世界竜だって、あの状況であの納屋じゃなかったら、俺もひざまずいていたさ」


 そんなニールの姿、想像もしたくない。


「やめてくれ、ニール。……立てよ、クレメントの後継者」


 顔を伏せたまま立ち上がったローワンは、まだ若い。

 妻を得て、成竜するには若すぎる。


「俺はファビアン。出来損ないの死に損ない。狼に育てられた親なしの異端児に、お前たちは何を期待している?」


「親なしって、そんな……」


 ローワンの驚きの声には、責めるような響きも混ざっていた。


「あなたさまは、最後の竜王ユリウスさまのご子息。亡き流星のライオスさまは、たしかに……」


「ユリウスさまは、一度も俺を息子と認めなかった」


 聞きたくなかった。

 ユリウスさま以外の者から、聞きたくなかった。


「あの忌々しい夜、俺だけが都の外に行くよう命じられ、死に損なったのが、何よりの証拠だろうよ。俺は、あの方の息子じゃない」


「……だが、あなたさまは、世界竜だ。フィオの花婿だ」


 ローワンは、震えるほど強く拳を握りしめた。


「陽炎の荒野を昔のように豊かにしてくれると、ずっと、ずっと、信じてここまで来たんだ」


 竈の火が爆ぜる音がする。

 パンはもう温まった頃だが、マギーはローワンと俺の間に入り難いのだろう。そして、ニールもアンバーもこの重苦しい沈黙を破れない。


 かつて、陽炎の荒野を火竜族の郷と定めた時に、世界の頂点に立っていた世界竜族は、陽炎の荒野に特殊な泉を作った。清涼の泉と名づけられたその泉は、荒野の中で永久に、潤いをもたらすはずだった。

 清涼の泉が枯れたのは、もう百年以上前のことだっただろうか。


 おそらく、ローワンは昔話の中でしか知ることができない陽炎の荒野を取り戻したいのだろう。


「清涼の泉のことなら……まぁ、いい。水竜族の力を借りたくないと、また同じ過ちを繰り返されるくらいなら、もう一度復活させてやってもいい」


「本当か! いや、本当ですか」


 本当は枯れる前に、人間のふりをして先代の長に解決策を提言したことは、黙っておいた。

 顔を輝かせたローワンに、また頭痛の種が増えそうになったが、軽く頭を振って切り捨てた。

 すでに起こってしまった惨劇は変えられないと。


「敬語、やめろ」


「あ、はい。……よっしゃ! これで、長に無理させなくてすむし、水竜の奴らに頭を下げなくてすむぜ」


 水竜族に頭を下げなくてすむ、か。まぎれもない本心だろう。

 俺がもっと早く、火竜族のその本心に気がついていればよかったのだろう。泉が枯れても、水竜族とうまくやっていると思いこんでしまわなければ――


 クレメントがその身を焼き尽くそうとした業火が、脳裏によみがえる。


 と、湯気を立てたパンがすっと横から割り込んできた。


「ありがと、マギー」


「顔色が悪いけど、大丈夫?」


「ああ」


 大丈夫なわけがない。

 めまいに吐き気、耳鳴り。これは、疲れだけではない。

 昼間の騒動の後、人々の前に姿を現したライラ・ラウィーニアが、竜族を敵とみなように群衆を煽動したおかげで、世界が歪んで見える。

 じきに慣れるだろうが、早く真理派を抑えなくてはならない。


 最悪だ。出来損ないの俺には、もうどうしたらいいのかわからなくて、諦めてしまいたいほど、最悪だ。そんな時に、現れないと思っていた花嫁とか、もう、笑ってしまいたいほど、最悪だ。


灰霧城塞はいぎりじょうさいに俺たちを、連れて行ってくれるんだよな」


 ニールの声に熱がこもっていた。おそらく、伝説の灰霧城塞はいぎりじょうさいに早く行きたくてしかたないのだろう。

 たしかに、このままモーガルにいてもしかたがない。


「ああ。夜明け前までに戻ると向こうでも約束してしまったからな。ニールだけなら、俺が世界の隙間を抜けて連れて行ってやる」


「よし、これでターニャを抱きしめられる」


 ニールは愛しい婚約者の幻影を抱きしめながら、喜んだ。


 案の定というべきか、アンバーが軽く手を上げて発言の意思を示してから口を挟んできた。


「僕らも、フィオたちの無事をこの目で確かめたい。できれば、世界でもっとも安全という灰霧城塞はいぎりじょうさいで」


「なら、空を駆けてくればいい」


「えっ。あの霧に閉ざされた灰霧城塞はいぎりじょうさいは、四竜族すら立ち入ることを許さないはずじゃ……」


 アンバーの顔には、戸惑いよりも好奇心が色濃く浮かんでいる。

 なんとも、地竜らしくて思わず顔が緩んでしまった。


「ニールなら、知っているだろう。灰霧城塞はいぎりじょうさいは、あるじに招かれた悪い子が閉じこめられるって」


「ああ、知ってる。けど、あれは子どもを怖がらせるおとぎ話だろ?」


 もとは俺が適当に流したうわさ話が形を変えたのだが、一つだけ織り交ぜた真実が今でも語り継がれているのは、なんだか不思議だ。


「だから、主に招かれれば入れるんだよ。灰霧城塞はいぎりじょうさいの主は、俺だ。俺が、招き入れると決めれば、それだけで霧を抜けられる」


「おい、ちょっと待て、どうしてファビアンが、灰霧城塞はいぎりじょうさいの……」


 ダンっと、マギーが床を蹴りつけて、興奮したニールの声をさえぎった。


「あたしは、どうすればいいの?」


 自分を指差すマギーを、世界の隙間を超えて灰霧城塞はいぎりじょうさいまで連れて行くだけの余力はない。もともと、二人連れて行くのが、限界だ。それを今、二人も連れたらどうなるか、考えたくもない。

 ニールを灰霧城塞はいぎりじょうさいに連れて行ったあと、再び戻ってくるか、あるいは――


 思案にふけっていると、ローワンがマギーの肩に手を置く。


「そりゃあ、決まってるだろ。俺の花嫁には、安全な陽炎の荒野で……」


「だから、ふざけんなって!」


 また、痴話喧嘩が始まるのかと身構えたが、アンバーがにらみ合う二人の間に入っていった。


「あのさ、ずっと気になってたんだけど、ローワン。君、どうやって彼女を陽炎の荒野に連れて行くつもりだい? 現実を見なよ。アーウィンがいなきゃ、竜の森と連絡を取るのも難しい」


「そ、そりゃあ、そう、だけど、よ。考えれば何か方法が……」


 アンバーの言ったことは、正しい。

 モーガルの街を出て、南の都市連盟の都市国家をいくつも超えて陽炎の荒野までの陸路を、十五歳の彼女一人で行けるわけがない。


 うろたえるローワンに、アンバーは父親によく似た腹の底が読めない穏やかな笑みを浮かべて詰め寄る。


「選択肢は二つだよ、ローワン。今、ここで結婚。そうすれば、妻になった彼女を乗せて飛べるだろう。もう一つは、放浪の皇子を連れて行った世界竜のファビアンさまが戻ってくるのを彼女と待つ」


は、やめてくれ。ファビアンでいい。俺は、結婚を選択してほしいがな。手間が省ける」


 ローワンは結婚して成竜するにはまだ若すぎるが、できないわけではない。精神が未熟というわけでもないのは、先ほどのやり取りでよくわかった。


 勝ち誇った笑みを浮かべている花嫁のマギーに、まだローワンは結婚すると言わなかった。


「じゃ、じゃあ、第三の選択で、ファビアンにその帝国人よりも先にマギーを陽炎の荒野に送りとどけてもらうってのは、どうだ! それが一番いいじゃねねか」


「あ゛ん」


「どこが一番よいのか、わからないのだが、ローワン殿」


 マギーがキレるよりも先に、今度はニールが間に入っていった。


「俺は、一刻も早く愛しのターニャを抱きしめたくてしかたないのだ。おわかりか、ローワン殿。俺はこの一年近くの間、ずっと愛しのターニャを探し求めてきたのだ。もうすでに、出会って仲良く痴話喧嘩をしているお二方には、譲れない思いが俺にもあるのだ」


 芝居がかったおどけた口調と身振りだが、ニールの目はまるで笑っていなかった。むしろ、その腰にある彼の片手剣よりも剣呑な輝きを放っていた。


「わかったよ。今のはなしだ。なし。くっそぉ」


 再び選択肢は二つに戻ったとき、勢いよく扉が開いてつむじ風が飛びこんできた。

 勢いよく扉が閉まると、そこには銀髪を振り乱した風竜の若者がいた。彼が奏者の息子ヴァンだろう。


「大変だ。早く、この街を離れないと……っ」


 アンバーに詰めよったヴァンは、途中で俺に気がついて、慌てて居住まいを正して手のひらを天に捧げようとする。


 やはり、拷問以外の何物でもない。


「やめてくれ、奏者の息子ヴァン。出来損ないの俺を、いちいち敬わないでくれ。それより、何があった」


「え、しかし……」


 戸惑うヴァンに、アンバーは軽く首を振った。


「ついでに、ファビアンって呼ばないと、ものすごく機嫌悪くするみたいだよ。で、何があったのさ、ヴァン」


「あ、ああ」


 所在なさげに両手を下ろしたヴァンは、すぐに戸惑いを飲みこんでくれたようだ。


「街中で、人間たちが竜を探して出ていくように、迫っているんだ。花嫁探しに来ていたりしていた奴らは、みんなおとなしく離れている」


 ヴァンの口ぶりから察するに、モーガルにいる竜は俺たちだけだろう。


「もうすぐ、ここにもやってくる。俺たちが抵抗すれば真理派の思う壺だし、抵抗するほどこの街に縁があるわけじゃない」


「まじかよ……」


 頭を抱えたローワンに、ニールが追い打ちをかける。


「俺もマギーも昼間の騒動で、顔を覚えられているかもしれないな」


 二つあった選択肢が一つになった。


 アンバーがローワンの肩を叩く。


「ローワン、もう結婚するしかないね」


「くっそ。なんでこうなるんだよ。俺は二つ名をもらってから……ああ、わかったよ。結婚すればいいんだろ! 結婚してやるよ」


 昨夜の星が告げてくれたとおりになった。


「やったぁ……あっ」


 両手を叩いて喜ぶマギーだったが、我に返る。


「でも、結婚って何をすればいいの?」


 ずいぶん久しぶりに、心から笑った気がする。気がするだけで、そんなことはないのだが、最悪な今この時を、諦めずにいられそうだ。

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