街を駆ける
モーガルの街の混乱は、俺が戻った夕暮れ前には落ち着いたように見えた。
「くそっ」
目立つ金色の瞳を見られる前に、ひと気のない路地に身を隠す。
ニールとマギーは下町の借家に戻っているだろうが、すぐに足を向ける気にならなかった。
なぜ、どうしてという思いがグルグルと胸で渦巻いている。
「……くそ、今さら花嫁っ……俺にどうしろというんだ」
拳を振り上げたが、どこに何をぶつければいいのかわからなくなって、腕を下ろす。
渦巻く思いも、息とともに吐き出せれば、どんなに楽になるだろう。
「さすがに、疲れたな」
血を流して落ちる水竜とともに、フィオナ・ガードナーとニールの婚約者が光とともに消えたのが、名無しのしわざだとすぐにわかった。
だが、ニールには――いや、俺以外の人々には水竜が大河に落ちたように見えたらしい。水しぶきも何もなかったというのに、混乱したあの状況で冷静に忽然と消えたのだと気がつく者はいなかった。
大河に飛びこむという自殺行為をしようとしたニールをなだめてから、すでに閉じかけた世界の隙間をこじ開けて名無したちの後を追ったのだ。おかげで、若干場所がずれてしまった。
それは問題なかった。なにしろ、俺がよく知る場所だったのだから。
だが、閉じかけの世界の隙間をこじ開けるのは、眼帯を外して力を解放した直後の体には負担が大きすぎた。水竜の目に刺さったままだった礫を取り出して、目の傷があれ以上体に害をなさないように、かなりの力を使った。
「その挙句、名無しは眠り、俺の花嫁だと……」
夜明けまでに戻ると言ったが、疲労がひどい。
今すぐにでも、夢も見ずに眠れる。
いつまでも、こんな路地裏にいてもしかたがない。
ニールたちが待つ借家に急ごうと、一度大通りに目を向けたときだった。
「あ、いたいた」
なぜ、おとなしく待っていられなかったのだ。
長い三つ編みを踊らせながら駆け寄ってくるニールに、めまいがした。
「ターニャは? ターニャはどこにいる?」
俺の胸ぐらをつかんで揺さぶってきたニールのせいで、めまいが頭痛に変わりそうになった。
「無事だ。ぐっすり眠っている。他の連中も無事だ」
「本当か? どこにいる?」
ニールに抵抗する力もないほど疲れ切っていたせいで、激しく揺さぶられることになった。
「ニール、離せ。ここにはいない」
「どういうことだよ! 約束は? 世界竜族の約束は、死んでも果たされるはずだろうが」
「声がでかいぞ、ニール」
さすがに耐えかねて、ニールを突き離した。
「この世界でもっとも安全な場所にいる。このモーガルに連れ帰るよりも、お前を連れて行くほうが、よほど賢い選択だから、あとでその約束は破棄させてもらう」
よろめいたニールを殴る気力が残っていれば、落ち着きをなくした彼の目を覚まさしてやるというのに。
「そんなことよりも、お前のほうこそ、マギーはどうし……」
マギーの姿がないことにすぐに気がついていたが、彼が別の人間を連れてきたことに今さら気がついた。いや、ニールの肩越しに俺を狼狽えた顔で見つめてくる男は、人間ではない。
ますます頭痛がひどくなった。
「……
目深に被っていた外套を外した男は、思いの外若かった。まだ十代後半といったところだろうか。
肩をすくめたニールの前に進み出てきた彼は、胸の前で手のひらを天に捧げて頭を垂れる。
「僕は地竜族の長、一枚岩のヘイデンの息子――先日貰い受けた二つ名で名乗れば、最先端のアンバー。さすがです、
「やめろ。
途絶えたはずの
ニールはもう一度肩をすくめて、困ったように笑った。
「手短に言えば、ファビアンがいなくなった直後に、マギーが花婿を見つけて、それからなし崩し的に、お前のことがバレたというところか。……睨むなよ、ファビアン。俺もマギーもお前の正体を明かさないって約束していたし……」
「僕に説明させてください。それから、これをどうぞ」
アンバーと名乗った
「そのお姿は目立ちます」
「わかった」
緊張からか、こわばっていたアンバーの顔に安堵の色が浮かんだ。
「とりあえず、急ごうぜ」
「ああ」
マギーと彼女の花婿が待つ借家に急ぎながら、俺がモーガルを去ったあとの出来事を聞いた。
――
俺がニールを説得して世界の隙間に姿を消したあと、マギーが混乱する人々の中から、花婿の火竜をすぐに見つけ出したらしい。
「いた。いたぁあああああああああああああ」
ニールが止める間もなく、西門の近くにいた花婿のもとへ彼女は走り出した。
それはもう恐ろしいくらいの勢いだったと、ニールが後々までマギーをからかうことになるのだが、花婿のほうはまったく気がついていなかったのだという。
「でりゃあああああああああああああ」
器用に瓦礫を避けながら走ったマギーは、背を向けていた火竜の背中に飛び蹴りをくらわせた。
「みぃつぃけぇたぁあ」
驚き混乱する花婿の胸ぐらを掴んだ彼女の声に、花婿は震え上がったに違いない。
胸ぐらを掴んだ彼女を引き剥がそうとしたのは、一緒にいた風竜の若者だった。
「ローワンを離せよ」
「あん? なに、あんた、あたしを花婿から引き離そうってか。やろうってのか?」
反射的に風竜が引き下がるほど、マギーの怒りは恐ろしかったらしい。
だが風竜が意識をそらしてくれたおかげで、混乱していた花婿も我に返った。
「ちょ、なんでここにいるんだよ。陽炎の荒野で、俺を待ってくれてるんじゃなかったのかよ」
追いかけてきたニールは、思わず天を仰がずにはいられなかった。
頂点に達しているかと思われたマギーの怒りは、さらに苛烈なものになった。
「誰が、待ってるってぇええ」
「っ! なにすんだよ」
マギーが繰り出した拳は、花婿にいなされた。続いて右手左手と繰り出された彼女の拳も、花婿の大きな手に掴まれ押さえられた。
「なんで、そんなに怒ってるんだよ。てか、なんでここにいるんだよ。わけわかんねぇよ」
まだ、バタバタと足で蹴ろうとする彼女を、ニールと風竜の若者の二人がかりで引き剥がすことになったらしい。
「マギーも落ち着けって」
「離せ、ニール! 落ち着いてられるか。だいたい、逃げた向こうが悪いんじゃない」
花婿も、さすがに黙っていられなかったらしい。
「ああ、そうだよ。あの時逃げたのは、俺が悪かった。それは謝る。その後、俺がリュックベンの市庁舎に行けなかったことも、謝る。悪かった。だが、どうして、長と一緒に陽炎の荒野で待っててくれなかったんだよ」
「ああ、くっそ」
マギーを羽交い締めにしていたニールは、もう一度天を仰いだ。
「花嫁が待っているのが常識だとか、くそくらえ!! あたしがどんな思いで……」
ドンと、地面が揺れた。
水竜を攻撃した何かの時とは、似て非なる音だったが彼らを黙らせるには、充分だった。
「痴話喧嘩は後にしてよ」
「アンバー、いたんだ」
風竜の視線の先には、追いかけていたあの地竜がいた。その左足のまわりの地面には放射線状のヒビがはいっていた。
「いたんだ、じゃないよ、ヴァン。周りをよく見てよ。何がどうなってるかよくわからないけど、アーウィンがやらかしてくれたおかげで、僕ら、今にも襲われそうだよ」
地竜――最先端のアンバーの言ったとおり、遠巻きに様子をうかがっていた人間たちの怒りの目に、彼らはようやく気がついたらしい。
「今は、フィオたちの行方を探すことが、最優先だからね」
最先端のアンバーは、父のヘイデンによく似た穏やかな笑みを浮かべていたが、その目はまるで笑っていなかったという。
フィオという名前に、ニールとマギーはハッとしてうなずきあって、ニールが片手を上げて口を開いた。
「竜の森の方々、ひとまず俺たちと一緒に来てもらえなだろうか? 花嫁マギーのこともあるし、フィオナ・ガードナーの無事を知りたければ、なおさら来るべきだ」
フィオナ・ガードナーと聞いて、火竜の花婿の目尻が吊り上がった。
だが、アンバーが彼を制するように頭を下げる。
「僕も、君たちから話を聞きたかったんだ。ローワン、君の花嫁とご友人の言葉に甘えようじゃないか」
誰かが、彼らに向かって石を投げた。
「痛っ」
その最初の一石は、マギーの腕にあたってしまった。
せいぜいアザになるかならないかという一石だった。
「誰だっ、俺の花嫁に……」
だが、花婿のローワンを怒らせるには、充分すぎる一石だった。
そのことは旅をともにしてきた仲間もよくわかっていた。
「ローワン、今回は俺らも悪い。キレるなよ」
風竜が両手を振り上げると、彼らを中心に旋風が起きる。
ニールとアンバーはうなずき合った。
「行くぞ、マギー」
「えっでも……」
「痴話喧嘩の続きは後だ!」
土埃舞い上げる旋風に悲鳴を上げる人々を押しのけながら、ニールとマギーは走った。
借家に向かう路地を息を切らしながら走っていたマギーは、すぐ横を昨日の失礼な若者が走っていることに気がついた。
「あんたはっ……」
「昨日はどうも。僕は地竜だよ。さっきの最先端のアンバー」
「……えっ」
地竜の特徴である茶色の髪も瞳ではない。灰色がかったくすんだ榛色の彼をよく見れば、面影を見いだせるかもしれない。
ひと気もなくなり、もう大丈夫だろうと速度を落とした先頭のニールに続いて彼女も足を止めないように速度を落とした。
ようやく、ニールとアンバーしかいないことに気がついた彼女のすぐそばでローワンの声がした。
「お前も
「二つ名だよ、ローワン。まだもらったばかり」
得意げに笑ったアンバーが、竜の姿は目立つからと、地竜族以外の竜族には目立たなくなる秘術があるのだと、彼女たちに教える。驚く彼女の手を、見えないローワンが引く。
「おめでとう、最先端のアンバー」
路地の上からヴァンの声が、風の唸る音とともに聞こえてきた。
「それで、ローワンの花嫁が信用できるのはわかるが、そっちの帝国人は大丈夫なのか?」
足を止めて振り返ったニールを見たアンバーは、肩をすくめて不自然な旋風を見上げた。
「まだ推測の域を出てないし、話が長くなるから、端的にいうと、彼らが世界竜の生き残りと行動をともにしていたからだよ」
ニールとマギーもアンバーがなぜ知っているのかと驚いたが、ローワンとヴァンの驚きは声を失うほどだったらしい。
――
頭痛がひどくなった。
最先端のアンバーが、俺たちが借りていた家でした話では、フィオナ・ガードナーが見た夢を手がかりに、オーナ大隧道を調べ上げ、古い髪飾りをしていたマギーが俺と一緒にいることを知ったらしい。
「……夢見の乙女か」
「やはり、そう思われますか。父を始めとした地竜族には、夢見の乙女の知識が乏しく断定できなかったのですが……」
「敬語、やめろ。頭痛がひどくなる」
もしかしたら、頭痛の一番の原因はこの地竜の若者の敬語ではないか。
「俺は出来損ないの死に損ない。今さら必要とされていない竜王の器じゃないんだ」
「それを聞いて、安心しました」
まだ敬語のままだったが、彼の硬かった声音が柔らかくなったようだ。
あの騒動のせいか、俺の気のせいか、不気味なほど黄昏時の下町は静まり返っている。
俺がモーガルを離れていた間に、ニールとマギーがフィオナ・ガードナーの仲間と合流したのは、幸運としてよいのだろうか。
ライラ・ラウィーニア。
よりにもよって、始まりの女王リラの血を引く女が真理派の中枢にいることが、おそろしくまずい事態だ。
こめかみを揉みながらため息をつくと、前を行くニールが金色の縄のような長い三つ編みを踊らせながら振り返る。
「それで、だいたいの状況をおわかりいただけたところで、ファビアン殿、そろそろ教えていただけないだろうか」
「なんだ?」
ニールの芝居がかった物言いに、思わず苦笑してしまう。
「愛しのターニャと、ファビアン殿の花嫁、それから手負いの水竜がいる、もっとも安全な場所とは、どこなのか?」
目が笑っていない。金色の瞳が、彼の腰にある剣のように鋭く光る。
俺の横を歩く
「……セルトヴァ城塞」
霧に閉ざされ、人間も竜族も立ち入ることのできない、不可侵の地。
これ以上、安全な場所はないだろう。
目の玉ひん剥くほど驚愕の表情を浮かべるニールがおかしくて、疲れていなければ腹を抱えて笑ってやりたかった。
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