第五章 二つの満月

夜が来る

 悪い子は、灰霧城塞はいぎりじょうさいに連れて行かれるよ。

 灰霧城塞には、こわぁいこわぁい悪い皇帝に城壁の上から落とされるよ。


 こわぁいこわいぁい暴君イサーク帝に城壁から落とされた悪い子は、灰色の霧になってしまうよ。


 楽園にも行けずに、灰色の霧になった悪い子は、灰霧城塞の霧が晴れるまで、ずっとこわぁいこわぁい暴君イサーク帝のしもべ。


 『カヴァレリースト帝国西部に広く伝えられている伝承』より




 ――


 どれだけ、花婿の黒い長衣をわたしの涙で濡らしてしまったのだろう。


「……落ち着いたか?」


「ぅん」


「立てるか? フィオナ・ガードナー」


「うん」


 ようやく、彼に支えてもらっていた体を、自分の足でしっかり支えられるようになった。

 よほど、自失していたのだろう。わたしは、整った彼の顔をぼんやりと見上げて、自分の名前を呼ばれたことに、すぐに気がつかなかった。


「あ、あの……」


 なぜわたしの名前をと尋ねる言葉をさえぎるように、彼はわたしの右手首を掴み上げる。


「名無しはどうした?」


「むっ? 名無しって……」


 輝きが失せた腕輪を見て、名無しがユリウスのことだと気がついた。それから、彼が名無しの正体を知らないことにも。


 いろいろなことがありすぎて戸惑うわたしに、彼は吊り上がった目をさらに吊り上げた。


「世界の中心の塔で会っているだろう。知らないとは言わせない」


「……っ、な、名無しなら、わたしたちをここに運んでくれたけど、魂をたもつのがやっとだから眠るって言ってた」


 ユリウスと声に出せないことをもどかしい。


 落胆した様子を隠そうともせずに、彼はわたしの手を離した。


「そうか。そうだろうな、モーガルから、こんな場所まで世界の隙間を抜けてきたのだからな」


 わけがわからない。

 彼は、わたしが花嫁だということに気がついていないのだろうか。

 わたしの名前だけではなく、わたしが世界の中心の塔にいたことも、名無しと名乗ったユリウスの腕輪のことも、モーガルにいたことも知っているようなのに、わたしが花嫁だということに気がついていないのだろうか。


 黒い前髪をかきあげた彼は、もう一度、わたしの背中に手を回した。


「羽織ってろ。風邪をひく」


「むっ?」


 両肩にずっしりとした重みが加わった。


「これ……コート?」


「ああ。臭うだろうが、我慢しろ。ここは夜になれば、もっと冷える」


「あ、ありがとう」


 灰色の毛皮のコートをかきあわせていると、彼は身をかがめて先ほどの狼のつがいを撫で回している。いつの間に彼の足元にいたのだろう。


「元気にしてたか? 悪いが、もうお前たちの言葉はわからないんだ。それでも、俺のことを嫌いにならないでくれるか?」


 クゥンと鳴いて、甘えるように彼の体にすり寄る狼たちが、もう恐ろしくなかった。


「……可愛い」


「いいやつらだよ、本当に」


 さてと、立ち上がった彼の手には桶があった。わたしが落とした桶だ。


「水、欲しいんだろう?」


「うん。あ、でも、井戸が枯れていて……」


「井戸?」


 アーウィンが倒れている中庭に向けた足を止めて、彼は不思議そうに振り返る。けれども、すぐに何か納得したの再び歩きだす。


「ああ、あの城門の近くの……」


「そ、そう……」


 わけがわからないままだけど、わたしが花嫁だと気がついていないままかもしれないけど、なんでもいいから会話を続けたくて、彼の背中を追いかける。

 彼の両隣は、狼たちに奪われた。


「井戸に石を投げ入れたけど、水音がしなかったし、枯れているはずよ」


「石を投げ入れた……」


「うん」


 まるで石を投げ入れたことに、彼はショックを受けているようだった。


「……あのぉ?」


「いや。気がつかなかったなら、しかたないだろう」


 ため息をついて、彼は眠るターニャを横目で見やりながら、アーウィンの尻尾の近くの壁の前で足を止めた。

 彼が持つ桶が転がっていたあたりだ。


「あれは、初めから井戸の役割を果たしていない。この桶も、この中庭に転がっていたはずだ」


「むっ」


 どうして、知っているのだろう。もしかしたら、彼はこの廃墟のことを知っているのかもしれない。


 さっきは気がつかなかったけども、石造りの灰色の壁の中に浮き彫りレリーフが施されている石が、ちょうど彼の胸の高さにあった。

 彼は慣れた様子で、その風雨にさらされ何が彫られていたのかわからない石を壁の中に押し込んで、中で何かをひねったようだ。


「むっ」


 アーウィンの尻尾と壁の隙間に、腰のあたりまで地面から突き出ている黒光りする細い円柱があった。そう、あの黒い都にあった磨き上げられた石によく似ている。


 彼は、大股でその円柱の下に桶を置く。

 すると、円柱の先からきれいな水がコンコンと湧き出てきたではないか。


「桶に水が貯まるまで、時間がかかるから、放っておけばいい」


「あ、ありがとう。そのぉ……」


 円柱から湧き出る水を浴びながらじゃれ合う狼に背を向けた彼が、次に向かったのは泥のように眠っているターニャだった。


「その、あなたの名前、まだ聞いていない。わたしはフィオナ・ガードナーで……」


「知っている」


 ターニャかたわらに膝をついた彼は、彼女に首筋や胸に手を当てながら、そっけなく答える。


「探せと言われたからな。世界の終焉をふせぐ鍵となると言った、ムカつくが頼りにしていた名無しも連れ去った。まさか花よ……ああ、俺はファビアン。二つ名はない。親なしのファビアンだ」


 竜族にとって蔑称でしかない親なしと吐き捨てるように名乗った彼は、本当にユリウスの息子だと知らないようだ。


「あ、あの、ファビアン……さん、わたしは……」


「ファビアン、でいい。俺は期待されるようなやつじゃない。桶、そろそろ水が貯まっているはずだ」


 ベルトごと戦斧を外して、ターニャを軽々と両手で抱え上げた彼は、わたしに狼がいる水場にいけと言うのだ。


「むっ」


 さすがにムカッとしたのが、顔に出たのだろう。


「ああ。すまなかった。狼が怖いなら、俺が後で取りに行く」


「むっ。平気よ、狼くらい」


 嘘だ。

 彼にじゃれついている姿は確かに可愛かったけども、本当は恐ろしい。その牙や、その美しいしなやかで強靭な体躯が、恐ろしくてしかない。

 ただ、彼の小馬鹿にしたような物言いに腹が立ってしまった。

 だから、狼たちに襲われたら、彼のせいだ。


 おそるおそる水場に行くと、狼たちがわたしに譲ってくれたのか、さっと円柱から距離をおいてくれた。


「あ、どうも」


 思わずターニャの短剣に伸ばしかけていた手を下ろして、水で一杯になった桶を両手で掴んで、足早に彼のもとに戻る。

 ターニャを抱きかかえている彼は、ひどくうろたえた顔をしていた。


「まさか、本当に取りに行くとはな」


「むっ。あなたが取りに行けって言ったんじゃない」


「それは、そうだが。本当に取りに行くとは思わなかった。……すまない」


 塔があった棟の反対側の回廊から、迷うことなく等間隔に並ぶ扉のない入り口から一つを選んだ彼の背中を追う。

 わたしのさらに後ろを狼たちが着いてきている気配がするけども、気にしないことにする。


「それで?」


「む?」


「それで、名無しはお前に何を教えた?」


 まただ。

 また、そっけなく『お前』と呼ばれてしまった。

 やはり、あのユリウスの息子だ。


 勝手に話を進めようとする失礼なところが、そっくりではないか。


「フィオ。わたしは、お前じゃないわ。みんなは、わたしをフィオって呼ぶの」


「そうか」


「ねぇ! わたしはあなたの花嫁なのよ!!」


 彼の背中に桶の中の水を全部ぶっかけてやりたいという衝動に駆り立てられた。

 ターニャがその腕の中にいたから、思いとどまったけども、彼のそっけない態度はあんまりではないだろうか。


「見ればわかる」


 ぴたりと足を止めて振り返った彼の鋭い目は、また吊り上がっていたけども、怖くなんかなかった。むしろ、腹立たしさしかない。


「むぅ。だったら……」


「だったら何だ! ああ、そうだろうさ、名無しの口ぶりから、あの時、花嫁だと気がついてもよかっただろうよ。そもそも、名無しが原因だろう。俺が世界の中心の塔で配置した星をめちゃくちゃにして、地下水路にお前たちを落とした名無しが、諸悪の根源だろう」


「フィオ! お前じゃないわ! え……、あなた、わたしたちが世界の中心の塔にいた時……」


「ああ、その場にいた。それから、一年近く、ずっと探していた。フィオナ・ガードナーという名前だけで、やっとリュックベンにたどり着いたと思ったら、また目の前で逃げられる」


「え……」


「モーガルに先回りして、やっとと思えば、お前たちは何をした! あの街を破壊しただろう。竜族と一部の人間の対立の表面化は避けられなくなった。俺が、今までやってきたことが、全部台無しだ。それで、名無しが生じさせた世界の繋ぎ目をたどってきてみれば、よりにもよって、セルトヴァ城塞とは……」


「ぅん」


 ターニャがうめき声を上げるまで、一気にまくし立ててきた彼の剣幕に、わたしは腹立たしさを忘れてしまった。

 まだ目を覚まさないターニャを抱えなおして、彼は再び歩き出した。


 薄暗い廃墟を、気まずい雰囲気を引きずりながら、彼の背中を追う。


 もしかしたら、彼も戸惑っていたのかもしれない。


 リュックベン市の神殿で、心の準備もなしに花嫁と出会ってしまったローワンのことを思い出す。

 まさか、千年以上生きている彼が、精神が未熟ということはないだろう。それでも、戸惑うのはしかたないことなのかもしれない。


 彼が、今まで何をしてきたのか知らない。


 結局のところ、わたしは彼のことを知らないのだ。夢で見てきたことは、何一つ役に立ってくれなかった。


 彼とわたしは、たくさん話さなくてはならないのだろう。



「……開けてくれないか?」


 考えごとをしていたわたしは、立ち止まった彼の背中にぶつかりそうになった。


「あ、うん」


 桶を置いて開けた扉の先には、他の部屋とは違ってベッドやテーブル、本棚があった。


「えっ?」


「どいてくれ」


「あ、ごめん」


 ターニャを抱えた彼に、狼たちが続く。


 黒い狼が、器用にターニャの戦斧を落とさないようにベルトを運んできてくれていた。


 ターニャをベッドに横たえた彼の手には、いつの間にか手ぬぐいがあった。


「ホコリっぽいだろうが、外よりはマシだ。それから、その水で顔を洗え。おま……フィオ、ひどい顔をしているぞ」


「あ、ありがとう」


 彼にわたされた手ぬぐいを桶の水でぬらして、素直に顔を拭う。

 あれだけ蜘蛛の巣とホコリだらけの塔を登ったりして、彼の腕の中で散々泣いたのだから、ひどい顔をしていて当然だろう。

 顔を拭う手に力がこもる。

 ようやく花婿に『フィオ』と呼ばれて、思わず緩んでしまった顔を見られたくなくて、必要以上に顔をこすり続けた。


 もう大丈夫と手ぬぐいを下ろすと、彼は光石ランプに灯りをともしてテーブルの上においていた。


「今さらだが、この娘がタチアナ・レノヴァだな?」


「そう。ターニャ。タチアナ・レノヴァよ。でも……」


「彼女の許嫁と約束したからな。タチアナ・レノヴァをモーガルに連れて戻ると……勘違いするなよ。俺が探していたのは、おま……フィオだ。そう約束しないと、タチアナ・レノヴァの許嫁が大河に飛びこみかねなかったからな」


「むっ」


 ターニャの許嫁で思い出した。

 ローワンの花嫁と一緒にわたしたちを探しているという許嫁に、わたしは会っている。

 そう、リュックベンの式典の日に、真理派に襲われた時に乱入していた帝国の青年だ。あの時、その青年と一緒に、灰色の毛皮のコートの隻眼の男がいた。

 ちょうど今、わたしが羽織っている毛皮のコートはもしかしてと思案にふけっていると、彼がわざとらしく咳払いをした。


「だから、俺はモーガルに戻る」


「今から?」


「早く戻らないと、奴は一人で真理派に喧嘩を売りかねない。だが、戻るのは俺一人だ」


「そんな、わたしたちを置いていくの?」


 声には出さなかったけども、彼の足元で寝そべる狼に思わず目がいってしまった。


「しかたないだろう。俺も疲れた。水竜と人間二人も運ぶだけの余力はない」


 深く息をつく彼は、気だるそうに前髪をかきあげた。


「モーガルより、ここのほうが安全だ。狼も、おとなしく待っているだろうよ。夜明けまでには戻る。……フィオから、まだまだ聞かせてもらいたい話があるからな」


 そう言った彼の手に、今度はパンパンに膨らんだ袋があった。


「豆だ。腹が減ったら、食べればいい。少しは腹の足しになるだろうよ」


「……ありがとう。アーウィンとターニャを助けてくれて」


 両手で革袋を受け取ると、自然と頭が下がった。

 わたし一人では、彼らを死なせてしまっていたかもしれない。わたしだって、誰もいない廃墟で凍え死んでいたかもしれない。


「本当に、ありがとう」


 彼のため息が聞こえた。


「モーガルに戻る前に、これだけは言っておく」


 顔をあげると、目の前に彼が立っていた。

 わたしを見下ろす金色の瞳に、ドキリと心臓が跳ね上がる。


「世界竜族の生き残りだかと、俺に期待するな。俺は親なしの異端児だ。ただの出来損ないの死に損ない。竜王にはなれないし、なるつもりもない。だが、楽園への道が断たれるわけにはないから、真理派の好きにはさせない」


 どこか自嘲するように唇を歪めて笑った彼に、胸が痛んだ。


 本当に、彼は知らないのだ。


「夜明けまでに、戻ってくる」


 部屋を出ていこうとした彼の背中を、ウロコが入った小袋を握りしめて呼び止めた。


「待って。わたしからも、これだけは言わせて」


 振り返った彼は、まだ何かあるのかと不機嫌そうに目を吊り上げていた。


 この目つきが苦手だけども、言わなくてはと握りしめる手に力を込めた。


「あなたは、親なしなんかじゃない。最後の竜王ユリウスの息子よ。ライオスさまが嘆きの夜にそう聞いているの。だから……」


 わたしはなんて言おうとしたのだろうか。

 彼の泣きそうなほど悔しそうな表情かおを見たら、出かかった言葉が消えてしまった。


 何か言おうと開きかけた唇を強く噛んだ彼は、背を向けて行ってしまった。


 乱暴に閉められた扉の音に、部屋の隅でごろりと寝そべっていた狼たちがピクリと顔を上げていた。


「わたしは……」


 彼のことを何を知らない。


 ターニャのベッドの端に腰掛けて、わたしはまた泣きたくなった。


「しっかりしなさい、フィオナ・ガードナー」


 もう泣くわけにはいかない。


 もう仲間たちのように距離を置いて向き合わないわけにもいかない。


 もうすぐ、夜が来る。


 いつの間にか忍び寄っていた冷たい空気に、わたしは重い毛皮のコートをかきあわせる。


「みんな、無事かなぁ」


 早く仲間たちに会いたい。

 それから、たった今行ってしまった彼に会いたい。


 わたしたちは、まだお互いのことを知らなすぎる。


 旅の目的であった花婿を見出したというのに、よくある物語のように、めでたしめでたしとはいかなかった。


 まだ漠然としか思い描けないけども、何かが始まったばかりなのだと思い知った。


 革袋の紐を緩められないまま、ジャラジャラともてあそぶ。


「……これからよ」


 諦めるのも、絶望するのもまだ早い。わたしは一人じゃない。

 そばには、ターニャもいる。

 アーウィンもいる。

 モーガルには仲間たちがいる。

 故郷には家族もいる。

 竜の森には大切な竜たちと妻たちがいる。

 それから、花婿もいる。


「ファビアン、か」


 膝を抱えて、目を閉じる。


 夜が来る。

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