邂逅
ユリウスと初めてあったときのような明るい闇の中にいた。
「ユリウス?」
姿は見えないけども、呻くような苦しげなユリウスの声だけが聞こえてきた。
『こんなことのために、地上にとどまったわけではないというのに、忌々しい』
「ユリウス、わたしは……」
そうだ。
わたしは、橋の街モーガルでライラに裏切られて――
「アーウィンっ、アーウィンは?」
『まだ、生きている』
「まだ? まだってどういう……」
不吉な予感を覚えた。
身の毛もよだつアーウィンの絶叫。
何が起きたのか把握できなかったけども、彼の身が心配だ。
『お前も、愚かな水竜の小僧も、帝国の女も、この世界でもっとも安全な場所に運んだ』
「もっとも安全な、場所って……」
『聞け、小娘。わたしは、再び力を蓄えるために眠らなければならない。魂をたもつのがやっとのありさまだ』
目の前に竜の形をした黒い
苦しげに息をするたびに、靄の形が乱れる。
『世界は揺り動かされた。選択を誤るな。正しい道へと世界を導かなければ、楽園への道は閉ざされる』
「そんな、わたしはしがないパン屋の娘よ。ライラの裏切りにも、アーウィンの気持ちにも気がつかなかった大馬鹿者よ」
無理だ。
まだ、正しい道だってわかっていない。
わたしは、仲間たちと距離を置いて、目を背けてしまった。
無理だ。
『小娘。諦めるのも、絶望するのもまだ早い。お前は、一人ではないのだからな』
――わたしと違って。
竜の形をした靄が崩れた。
「待って!」
目が覚めた。
懐かしいリュックベンの屋根裏部屋でもなく、このひと月の旅路で過ごしてきた幌馬車の中でもなく、薄曇りの空が見える。
「ここは……」
世界でもっとも安全な場所と、夢の中でユリウスが言っていた。
むき出しの地面の上ではなく、荒れた石畳の上から上体を起こす。
「傷が、治っている」
破けた袖はそのままだけども、右腕の傷はきれいに塞がっていた。
体も痛まない。
ユリウスのおかげだろうか。
「くすんでいる」
「むっ、そうだ、アーウィン!」
頭にかかる
「アーウィン!!」
少し離れた場所でぐったりと横たわる青い巨体に駆け寄る。
「アーウィン……」
「うぅ、フィ、オ?」
右目から血を流している。薄っすらと開かれた左目の光も、今にも消えそうだ。
「フィオ、僕、死ぬ、のかな」
わたしもろくに見えていないのだろう。鼻面に触れるが、弱々しく体を震わせるのみ。
「死ぬなんて馬鹿なこと言わないで」
「あはは……僕、本当に馬鹿だ。あんなこと言ったのに、犠牲とか言ったのに、僕、死にたくない」
「アーウィン、しっかりしなさいよ」
「フィオ、本当にごめん。僕、死ぬかも。死にたくない、けど……」
「アーウィン!!」
その声はどんどん弱々しくなっていく。左目で、わたしが見えているのかもわからない。
「ねぇ、アー坊って呼ん、で……」
「呼んでやるわよ。年寄りになっても、呼んでやるわよ。だから、アー坊、死ぬなんて言わないで、しっかりしなさいよ」
「ははっ、さすがに年寄りになっても、は……」
アーウィンの薄っすらと開いていた左目のまぶたがゆっくりとおりる。
「アー坊っ! アー坊、死なないでよ」
「うぅ……」
返事をするのもままならないというのか。
でも、息はしている。弱々しいけども、息をしている。
まだ生きている。
そう、生きている。
「フィオナ・ガードナー、しっかりしなさいよ。リュックベンの女でしょう。弱くなんかないでしょう」
無意識のうちににじみ出ていた涙を拭って、自分を奮いたたせる。
わたしが仲間たちともっと向き合っていれば、こんなことにはならなかったはずだ。
わたしが、もっとわたしを信じていれば――。
「むぅ、そんなこと、今さら考えてもしかたないじゃない。とにかく、そう……ターニャ! ターニャ、どこにいるの?」
返事はなかった。けれども、わたしが倒れていた場所のすぐ近くに、彼女もぐったりと横たわっていた。
「ターニャ! しっかりして」
「……ぅん」
揺さぶったけども、ターニャが目を覚ます気配はない。
でも、生きている。
傷もない。
そういえば、アーウィンは眠ってもらったとか言っていた。
無理に起こさないほうがいいのかもしれない。
「今は、わたし一人でなんとかしなきゃ」
拳を握りしめて、ユリウスが言っていたもっとも安全な場所であるここはどこだろうと、あたりを見わたす。
四方を囲むのは、灰色の石造りの建物。
どれも、四階建てほどはあるだろうか。
中庭。
それも相当広い屋敷か何かだろうけども、人の気配がまるでない。
「寒い」
さっきまで感じなかったけども、季節が戻ったのではないかと思うくらい寒い。
夜になれば、もっと寒くなるはずだ。
「火だ。火を……」
ローワンがいれば、笑いながら火をおこしてくれただろう。
アンバーがいれば、ここがどこだか見当をつけてくれただろう。
ヴァンがいれば、耳をすませて人の気配を探り出してくれただろう。
「情けない」
今まで、どれほど仲間たちに支えられてきたのか、思い知らされる。
視界がにじむ。
「わたしが、なんとかするしかないじゃないの」
まずは、火。
焚き火に使えそうな物を集めなくては。
今はぐったりしているけども、ターニャが起きてくれれば火を
「それから、誰か助けてくれそうな人を見つけたり、それから、それから……」
いくら自分を奮い立たせても、最初の一歩が踏み出せない。
「情けな……むっ?」
ふと視界の隅で目にとまったものがあった。
アーウィンの尻尾の先に転がっていたそれは、桶だった。
「桶。そうよ、火もだけど、桶で水を……」
弾かれたように走って、桶を手に取った。
長いこと使われていなかったようだけども、丈夫な木の桶だ。底に穴もあいていない。
「水を探そう」
やることを一つでも決めれば、震えていたのが嘘のように肝がすわってきた。
寒さも、耐えられないほどではない。
フェルトのジャケットをターニャに掛けてあげよう。眠っている体には、こたえるはずだ。北の帝国の生まれでも、わたしよりも薄着で寝かせていては駄目だ。
「待っててね、アー坊、ター……」
ターニャの腰にある短剣が目に止まった。戦斧は持てなくても、短剣なら少しくらいあつかえる。
「借りるね、ターニャ」
まだ、彼女が目を覚ます様子はない。
短剣をベルトに差して、桶を手に中庭の中央であたりの建物をよく観察する。
月影の高原で過ごした屋敷と作りが似ている。
中庭を囲む石造りの四方の建物の一階部分は、回廊になっていた。その向こうには、幾つもの窓と扉のない入り口が等間隔に並んでいる。
「誰もいないなら、どこから入っても一緒ね」
首が痛くなるほど視線を上げて、もう一度灰色の建物たちを観察する。
四階建てくらいと考えていたけども、もっと高いかもしれない。
「むっ」
影もぼんやりとしている薄曇りの空の下では、方角すらも見当がつかない。
そんな中で、ぼんやりと中庭に影を落としていたのは、建物の奥にある塔だった。
最初にやるべきことは決まった。
あの塔に登って、少しでもあたりの様子を知ることだ。
ついでに、このひと気のないこの場所を知ることができるかもしれない。
塔に一番近い建物に入って、すぐに廃墟だと確信した。
「確かに、誰もいないって安全な場所よね」
家具らしきものもない、がらんとした部屋には、そこかしこに蜘蛛の巣があり、鼻がムズムズするほどホコリが溜まっていた。
確実に味方のいる竜の森に送ってくれればよかったのにと、ユリウスを恨めしく思いながら、奥の扉から廊下に出る。
「むぅ……。廃墟って、扉だけはきちんと残るものなのかしら?」
滑らかに開いた扉に首を傾げながらも、塔のあるほうへと進む。
途中から、短剣を鞘に収めたまま蜘蛛の巣を払いながら進まなくてはならなくなった。そうでもしないと、顔や体にくっついてしまうだろう。
「最悪……ううん、そんなことはないはずよ。諦めるのも絶望するのもまだ早いわよ、フィオナ・ガードナー」
塔の入り口はすぐに見つかった。
廊下の奥の扉の向こうにあった螺旋階段を登る。
石段で本当によかった。
「石なら、崩れるとかよほどない、はずよね」
あまりにもホコリが舞うので、ハンカチで口と鼻を覆いながら登る。
蜘蛛の巣を払うのも、ターニャの短剣ではなく廊下にあった燭台に変えた。
螺旋階段の明り取りの窓は、わたしが外をうかがうには高すぎる。
「ようやく、てっぺんね。何か見えればいいけど」
たどり着いた塔のてっぺんで、吹き抜ける風に髪が踊る。
「むぅ……」
水色のリボンのことを、ふと思い出した。黒い都で失った大切なリボンのことを。
黒い都で過ごした短い日々。
「今思えば、あの頃が一番楽しかったわね」
たとえ、ライラが旅が始まる前から真理派の女王であっても、そう簡単に楽しい思い出は色あせてくれない。
「とにかく、今はここがどこだか調べないと」
風に飛ばされないように、桶を螺旋階段に置いて、ハンカチを外す。
塔のてっぺんは円形で、五本の灰色の柱に支えられた石の屋根の中央には、大きな穴があけられていた。
「初めから、あいていたのかしら?」
薄曇りの空から目をそらして、手すりすらない塔の縁におそるおそる近づく。
螺旋階段のせいで、どの方角が一番廃墟の様子を見渡すのにふさわしいか、わからない。
「むぅ……」
太い柱に両手を回して風に髪をもてあそばれるまま、あたりをうかがう。
なにか、見えるかもしれないという希望は、それほど満たされなかった。
この建物をぐるりと囲む灰色の城壁の向こうは、霧のせいで何も見えない。
ちょうど正面にあった頑丈な門扉は開け放たれて、城門の落とし格子は上げられたままだ。
「がっかりしては、だめよ。ここが、大きな城かなにかだってわかったんだし」
それでも、ため息がこぼれてしまう。
城壁の手前は、枯れた草が風に揺れている。とてもとても、食べられそうにない。
肩を落として、塔を降りようと決めたときだった。
茶色の枯れ草の中に、あるものを見つけた。
「井戸? 井戸だわ」
足を滑らせて落ちないよう慎重に、急いで螺旋階段まで戻ると、桶を手にホコリが舞うのも気にせず、転がり落ちるように塔を駆け下りる。
「はぁはぁ……むっ」
塔の一番下で汗を拭いながら息を整えていると、登るときには気がつかなかった入ってきたのとは別の扉と、その扉の横にある銘板が目にとまる。
鈍色の銘板の蜘蛛の巣とホコリをハンカチで拭うと、馬と剣の紋章が現れた。
「これって、カヴァレリースト帝国の……」
第五皇家フェッルム家の紋章だ。
紋章の下に刻まれた文字はさすがに読み取れない。
「でも、ここは北の帝国のどこかってことは確かね。ターニャなら、ここがどこかわかるかも」
ついでに横の扉を開けてみると、さらに嬉しいことに枯れ草が広がる外に出ることができた。
塔の上で見つけた井戸もそう遠くない。
腰まである石積みの縁から、光が届かない井戸をのぞきこんで思い知らされた。
「縄がないわ。桶だけあっても……」
縄か、それに変わるものを探さなくてはならない。
その前に、せめて深さだけでも知っておかなくてはと、適当な小石を投げ入れてみた。
耳をすませるけども、水に落ちる音を聞き取れなかった。
「むぅ、そうとう深いのかな。それとも……」
今度は、桶を置いて両手で抱えるほどの石を投げ入れる。
返ってきたのは、乾いた音。
「そんな……」
この井戸は枯れていた。
立っていられなかった。
忘れていた寒さが、急に襲いかかってきた。
こんなことなら、強引にでもターニャを起こすべきだった。
わたし一人で、なんとかしようなんて、思い上がってただけなのかもしれない。
自分の無力さを認めたくなくて、一人で何かしたかっただけなのに、結局、なんの役にも立てない。
立ち上がろうと、井戸の縁に手をかける。
「戻ろう……っ!」
背後から視線を感じて振り返って、背筋が凍りついた。
城門の近くに二頭の狼がいた。
大きな黒っぽい狼と、一回り小さな灰色の狼が、じっとわたしを見ている。
狼を実際に目にするのは、これが初めてだった。
何度も何度も、夢の中で
狼の番から目をそらせないまま、短剣に伸ばす手が震えている。
夢の中で、狼が獲物を屠る姿を見てきたせいだろうか。
どのくらい張りつめた時を過ごしていたのだろう。
呼吸すら忘れそうになる時の中では、長さをはかることは不可能だ。
張りつめた沈黙の時は、城壁の向こうから破られた。
アオーーーーーン……
残響を残す遠吠えに、黒っぽい狼が答える。
アオーーーーーーン……
ピクリとも動かなかった狼は、互いの鼻面をこすりあう。それはまるで、喜びを分かち合っているように見えた。
アオーーーーーン……
城壁の向こうのひときわ大きな遠吠えの残響が消える前に、髪を躍らせた突風とともに、わたしの上に影が落ちる。
「う、そ……」
見上げた先に、確かにいた。
黒いウロコの竜が、確かにいた。
それはほんの一瞬のことで、すぐ後に地面が揺れたことから、アーウィンとターニャがいる中庭に彼が降り立ったのだと悟る。
「うそ……こんなことって……こんなことって……」
考えるよりも早く、わたしは駆け出していた。
来た道を無我夢中で戻る。
胸の奥からこみ上げてくるたくさんの思いは、何ひとつ言葉にならないまま、中庭に面した回廊まで戻ってきた。
「……あ、ぁあ」
ひと目見れば、わかる。ずっとずっと、そう聞かされてきた。
わたしが生まれたときに握りしめていたのと同じ黒いウロコの巨体に、早く触れたい。
けれども、わたしに背を向けている彼は、右目から血を流すアーウィンの様子を観察し終えたのか、アーウィンの首をつかみあげた。
「アーウィ……」
片手でアーウィンの首をつかみ、もう片方の手で右目に刺さったままだった何かを取り除こうとしているのだと知って、わたしは見守るしかなかった。
痛むのだろう。
身の毛もよだつ声を上げて身をよじるアーウィンから、目が離せない。
苦痛の時間は、すぐに終わった。
血塗られた大きな
ぐったりと横たえられるアーウィンの息が、少しだけ楽になっているのが、ここからでもわかった。
黒い大きな体の輪郭がぼやけたと思うと、黒い長い髪の青年が背を向けて立っていた。
もう大丈夫だと軽くアーウィンを叩いて、あたりを確かめるように振り向いた彼が、その金色の瞳にわたしを映して、ひどく驚いた表情を浮かべるのを確かに見たんだ。
夢ではなくて、現実の中で、ようやく巡り会えたのだと心が震えた。
カランっ。
ずっと手にしていた桶を落としてしまった。
体中の力が抜けていく。
「おいっ……」
けれども、膝が地面につくことはなかった。
「むぅうう」
わたしは、なんて情けないのだろう。
ようやく巡り会えた花婿もまともに見ることもできずに、その腕の中で泣いてしまうなんて。
でも、わたしは確かに花婿の腕の中にいるのだ。
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