崩壊

 ライラは、まさに女王だった。


「フフフ、驚いてくれて嬉しいわ」


 真理派の象徴シンボルを背にした彼女の左右に並ぶ男たちが、わたしを冷たい目でにらんでいるというのに、彼女だけはいつものように上品に微笑んでいた。


 悪夢のようだった。


 どうして、なぜという思いがグルグルと渦巻くけれども、喉につっかえて声にならない。

 玉座にしか見えない肘掛け椅子から、ゆっくりと優雅に立ち上がったライラが、ほんの少しでも豹変していてくれれば、どれほどよかったことか。


「安心してほしいの。花嫁狩りなんてしなくても、竜族から花嫁を取り上げることができるのよ。そう、わたくしだから、できるの」


 上機嫌に弾むような声は、出会った頃から変わらない。


「だから、フィオ。安心して、旅をやめていいのよ」


「……ライラ、何を、言っているの?」


 まだ体の自由はきかない。声を絞り出すのがやっとだ。


 逃げなくてはと頭でわかっているのに、ゆっくりと歩み寄るライラから目が離せないでいる。


「あら、わからないの? 聞いていたはずよ、タウデン市の納屋で」


「…………ライラ」


 知っていたのだ。

 彼女は、わたしがアーウィンの思いを聞いていたことを。いいや、わざと聞かせたのだろう。


 そうだ、アーウィンはどこに行ったのだろうか。


 わたしは、震える手で花婿のウロコの小袋を握りしめる。


「ライラ、アーウィンは? アーウィンは、どこにいるの?」


 まさか、アーウィンまで裏切ったなんて考えたくない。彼は水竜だ。真理派と相容れないはずだ。


 それなのに、タウデン市の納屋でのあの会話のせいで彼を信じられないでいる。


「さぁ? そのうち、ここを探し出して来るでしょうね」


 小袋を握りしめる右手の震えが止まる。


 目の前で足を止めたライラは、本当に美しい。

 彼女は、アーウィンが真理派だと言わなかった。わたしが彼女だったら、畳み掛けるようにアーウィンの裏切りを告げてやるというのに。


 信じよう。


 アーウィンが何を考えているのかわからないけども、わたしは助けに来ると信じると決めた。


「フィオ、誤解しないでほしいの。わたくしたちは、竜の花嫁が憎いわけではないのよ。わたくしたち真理派は、ただ世界をあるべき形に正したい。それだけよ」


「あるべき形? 竜族を排除した世界が、あるべき形だというの?」


「違うわ」


 ライラは困ったように笑う。

 その笑顔に、ほんの少しでも悪意を見出みいだせれば、彼女の話に耳を傾けるようなことはしなかっただろう。


「女が虐げられない世界よ。考えてもごらんなさいな、この世界は女神さまが創ったのよ。そして、わたくしたち人間の最初のリーダーは女王。それなのに、今のこの世界は、竜族だけではなく人間も男が中心になっている。間違っているのよ。今の世界は」


 彼女の意志なのか、真理派の意志なのか、わたしにはわからなかった。

 ただ、わたしを殺さなかったのは、理由があるのだろうということは、根拠も確信もないけどわかっていた。


「それで、わたしに何をさせたいの?」


「だから、古の竜を探すなんて、途方もない旅をやめてほしいの。そして、あなたが自由に花婿を選べばいいのよ」


「アーウィンとか?」


「そう、彼はあなたが思っているような生意気な弟分ではないのよ。彼、とても頭がよくて嘘つきなのよ。ああ、もちろん、彼でなくてもいいのよ。古の竜の花嫁が、さだめに逆らって好きな相手を選ぶ。きっと、世界中の竜の花嫁が、あなたに続くでしょうね」


「ありえないわよ、ライラ」


 ウロコを握りしめて、立ち上がる。

 笑ってしまうくらい、体は思い通りに動く。もしかしたら、わたしがライラに怯えていただけなのかもしれない。恐れる気持ちが、わたしの体を縛りつけていただけだろう。


「わたしたち花嫁が生まれたときから握りしめてきたウロコは、花婿の一部であると同時にわたしたち花嫁の一部でもあるのよ。早く会いたい、早く迎えに来てほしい、このウロコを握りしめるたびに、強く思うの。竜の森で竜の妻たちから、人間の男に求婚された話を聞かなかったと考えているなら、大間違いよ。そして、それが互いにとってどんなに辛い思い出に変わるか……」


「そう、残念ね。あなたに力を貸してほしかったのに」


 残念そうに微笑んだ彼女が、わたしの背後に視線を移す。


「っ!」


 いつからわたしが座っていた椅子の後ろにいたのだろう。

 突然、肩を掴んできた大きな手にすくみ上がっているわたしを、その手は椅子に押し戻す。


「フフフ。でも、フィオのそういうところ、好きよ。わたくしに従うフリでもして、時間を稼ごうとか、小賢しいことまったく考えないところが。本当にまっすぐなのね」


 彼女に言われて、時間を稼ぐという手があることに初めて気がついた。

 意識の範疇になかった男たちがゆっくりと近づいてきている。肩をつかむ手の持ち主もいれて、男たちは六人。

 男たちだけではない。壁際には、女たちも控えている。


「フィオ。古の竜を探す旅はここまで。このモーガルまでよ。できることなら、あなたに旅を終わらせてほしかったのだけど、しかたないですわ」


「何をするつもりなの?」


「大丈夫、フィオ。そんなに怯えないで。殺したりなんかしないから。一緒に聖都に来てもらうのよ。聖都に行けば、あなたの考えも変わるでしょう」


 背を向けて離れていくライラは、言い忘れていたと狭まる男たちの輪の外で足を止めた。


「アーウィンね、彼はあなたの味方よ。わたくしのことずっと疑っていましたけど、結局わたくしが真理派であることに確信が持てなかったようね。いくら頭がよくて嘘つきでも、まだまだ子どもですわ」


「え……」


 では、あの時のアーウィンの『ごめん』は何だったのだろうか。


 あの時、彼はライラが裏切ることを予想していたのではないのか。どんな考えがあるのかわからないけども、例えばライラ自身の口から真理派であることを明かさせるためとか目的があったはずだ。


 生意気な弟分でしかなかったアーウィンがそこまで考えていたらと気がつくと、背中に冷たいものが流れた。


『小娘、お前が今考えたこと以上に、あの船頭の息子は愚かなことをしているぞ』


 頭の中でユリウスの声がした。

 とっさに『ユリウス』と叫びそうになったが、忌々しい約束のおかげで声になることはなかった。


『愚かな小僧だ。あの乱暴者の流星のやつも、これほど愚かではなかったというのに。……小娘、体を借りるぞ』


「え?」


 ウロコを握りしめていた右手の金色こんじきの腕輪がまばゆい光を放った。


 次の瞬間、何が起きたのか、まるでわからなかった。まさに、一瞬の空白に襲われたようだった。

 一瞬の空白の次に襲ってきたのは、右手に走る痛み。

 わたしを囲んでいた男たちの動揺している。ずっと余裕を見せていたライラが振り返ったその顔も、驚きが隠せていない。

 わたしの肩を押さえていた男が、足元に転がっていた。


『目を閉じるな、小娘。逃げるぞ』


「むっ」


 体が勝手に動く。

 一番近くにいた正面の男に一気に距離を詰めて、その腹にわたしの拳がくいこむ。


「痛いっ」


『この程度のことで、いちいち声を上げるな。それから、もっと体を鍛えておけ』


 崩れ落ちる男の腰にあった剣を両手で引き抜いたわたしの体は、すでに悲鳴を上げている。

 体がユリウスの動きについていけない。

 剣を振り上げるだけで、両肩に痛みが走る。あまりの痛さに、目を閉じてしまう。


『目を閉じるな!』


「っ!」


 頭の中にユリウスの鋭い声が響く。

 痛みをこらえて目を開けると、まだ状況を理解しきれていない顔の年かさの男が、胸を真っ赤に染めて膝をつくのが見えた。


 すべては一瞬のことだっただろうに、わたしにはひどく長く感じられた。


 悲鳴のような音に、剣が風をきる音、嫌な音たちは耳に届いても、わたしの心に響かない。

 体が悲鳴を上げながら、肉を断つ感触が剣を持つ両手にこびりついていく。

 これで四人目だ。


「来ないでぇえええええ!!!」


 目を閉じれば、ユリウスから解放されるに違いない。

 けれども、わたしは必死で瞬きすらもこらえようと目を開けていた。

 行く手を阻もうとした男たちの怒りや憎しみの表情かおが、目に焼き付いていく。


『水竜の小僧が来る前に逃げる。それまで死ぬ気で持ちこたえろ!』


 出口は、わたしが座っていた椅子の後ろにあった。決して遠くないはずなのに、気が遠くなるほど遠くにある開け放たれた観音開きの扉。


 ユリウスの焦りなのか、それともわたしの焦りなのか、わからない。

 ただ、逃げなくてはいけない。わたし自身も頭の中で警鐘をならしていた。


 右腕に鋭い痛みが走る。


「いっ……!」


『目を閉じるな!!』


 わかっている。

 わかっているけども、限界はすぐそこだ。いや、もうすでに、わたしの体力の限界をこえている。

 いっそのこと、意識ごとユリウスが引き受けてくれればいいのに。

 痛みで朦朧としてきた意識のどこかで、楽になりたいと考えてしまう。


 やっと出口まで道が開けたら、白い影が飛び出してきた。ライラだ。


『…………っ』


 ユリウスが頭の中で叫んだ言葉を、聞き取ることができなかった。


 しっかり目を開けていたはずなのに、両手から剣がこぼれ落ちた。


 短剣を手にしたライラが、目の前で悔しそうに顔を歪めている。


「その腕輪に、そんな力があるなんて……」


 痛みすらも麻痺していたせいで、剣がこぼれ落ちた両手を包みこむ水の塊に気がつくのに、わずかだけど時間がかかった。


 そして、時間切れと悟った。

 ずっと沈黙していたユリウスが怒りと焦りをあらわにするほど、アーウィンが来る前に逃げなくてはならなかったというのに。


 よく見れば、ライラの足元にも床の絨毯に縫い止めるように、水の塊が包みこんでいた。


「……アー坊」


「アー坊って呼ぶなよ」


 ライラの肩越しに、アーウィンが扉のところに立っているのが見えた。


 振り返ったライラが忌々しそうに声を荒げる。


「これがあなたの狙いだったのね。信じられないわ!」


 ライラがこれほど声を荒げた姿を見たことがなかった。

 対して、余裕のある笑顔を浮かべたアーウィンは、右手を顔の横に持ち上げて小さな水鏡を見せつける。


「そうだよ、ライラ。ちなみに、この水鏡でライラがフィオに短剣を向ける姿を、しっかり記録させてもらったよ。これで、僕ら竜族と真理派は堂々と戦える」


 何を言っているのだろう。

 竜族と真理派が堂々と戦うなんて、あってはならないことだ。


 誰でもいい。アーウィンの水鏡を壊してほしい。

 真理派にすらすがりたい気持ちで首を巡らせるけども、この部屋で立っているのは、わたしたち三人だけだ。

 全員、水の塊に縫いとめられて動けないでいる。


「僕ら竜族と君たち真理派は、混乱の時代に決着を着けるべきだったんだ。大おじいさまが強引に終わらせてしまった争いを、竜王が復活する今なら、はっきりと決着をつけることができるだろうさ」


 混乱の時代。

 もっとも恐ろしい血塗られた歴史を、もう一度繰り返そうというのか。


「アー坊……」


「だから、アー坊って呼ぶなって、何度も言わせないでよ」


 まるで別人だった。

 わたしの知らない水竜が口をとがらせて立っていた。そして、彼の足元に誰かが倒れていることに気がついた。気がつけば、その見慣れた人影が誰かすぐにわかってしまった。


「ターニャ?」


「そうだよ。ちょっとややこしくなりそうだったから、眠ってもらってる。あーあ、ターニャにばったり出くわさなきゃ、フィオに怪我なんかさせなかったたのに」


 なぜだろう。

 裏切り者のライラには感じなかった、ムカムカするような怒りがこみ上げてきた。


「アー坊、この拘束を解きなさい。それから、その水鏡も壊しなさい!」


「やだよ。フィオ、いい加減、僕のこと認めろよ」


 顔を歪ませた彼は、水鏡を凍らせて長衣の袖の中に入れた。


 わたしが、アーウィンのことを認めていないなんてことは、ない、はずだった。

 けれども、もうよくわからない。


「僕は、フィオが好きだから、幸せになって欲しいんだよ。世界竜族が再来した新しい時代に、ライラたちみたいなのはいちゃいけないんだ!」


「子どもね」


「うるさいっ」


 ライラが吐き捨てた言葉に、激しく首を横に振るアーウィンの周りに水しぶきが舞い上がる。


「僕は子どもなんかじゃない。僕が一番、フィオのためを思っているんだ!」


 アーウィンの体が一気に膨れ上がった。


「アーウィ……っ」


 腕にまとわりついていた水の塊が、一気にわたしの体を飲みこむ。とっさに息を止めたけどもその必要はなく、水球の中に閉じこめられたのだと知る。


 あろうことか、屋内で変化へんげしたアーウィンの体は、天井も屋根も破壊してしまった。


「これで、ライラたちも、僕らに遠慮しなくてすむだろう。……お前たちは、フィオの幸せの邪魔なんだ」


 翼を広げた彼は、両手にそれぞれターニャとわたしを水球ごと掴んで飛び立った。


 彼の言うとおり、これで真理派は表立って竜族を排除する口実ができてしまった。

 突然降り注いだ瓦礫の下から、わたしたちを見上げる無数の目を見ればわかる。


 これが、アーウィンが望んだ光景だというのか。


「これで、長たちも重い腰を上げてくれるはずだ。犠牲なしで、やつらの危険な思想を世界から根絶やしになんかできないんだよ」


「……」


「とりあえず、下流に向かうよ。僕は水竜だ。フィオはちゃんと守るよ」


 その時だった。

 モーガルの中央にそびえ立つ尖塔が、ドンと鈍い音を立てて空気を震わせたのは。


 何が起きたのか、わからなかった。


 身の毛もよだつ恐ろしいアーウィンの絶叫。

 わたしを包んでいた水球の崩壊。

 視界の端でとらえた怯える人々に降り注ぐ鮮血。

 支える力を失い始まる落下。


 一瞬にして起きたそれらの出来事を、わたしはまるで他人事のように感じていた。


 死ぬ、のだろうか。

 このまま、落ちてアーウィンの下敷きとなって、死ぬ、のだろうか。


 死の恐怖ですら他人事のように、一瞬を永遠のように感じている。


『それほどまでに、許せないというのかぁあああああああ!!』


 頭の中に響き渡るユリウスの叫びとともに、右手の腕輪の光の眩しさに目を焼かれ、意識が途絶えた。

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