第四章 運命の街 モーガル
激震
橋の街モーガルが震えた日のことを、今でも鮮明に覚えているよ。
統一歴3459年 冬の
運命の日。
世界が揺り起こされた日。
――他にも、多くの呼び方があることを知っている。
あの日のひと月前に、最南端の港町リュックベン市で人間と四竜族がともに手を取り合うという歴史的な共同声明が発表されたというのに……。
そう、たったひと月。
たったひと月後に、人間と四竜族の関係にヒビが入った。
俺は、そのすべてを見てきた。
おじいちゃまは、いつも暖炉のそばでそうやって大好きな昔話を始める。
『カヴァレリースト帝国西方領土総督ニコラス・ルキーチ・フェッルムの孫娘の日記』より
――
冬の終月3日。
「くっそ、何度やっても……」
足元で戯れていたネズミたちが一斉に逃げ出す。
左目の眼帯をなでながらテーブルを離れ、窓を開ける。
「……最悪だな」
まだ夜明けと言っていい時間だ。
白く色づいたため息は、路地に落ちることなくひんやりと湿っぽい空気に溶けこんで消える。
水鳥の鳴き声が遠くから聞こえる。
もう、獣たちの言葉を聞き取れない。それでも、獣たちは俺によってくるし、俺も獣たちが好きだ。
今はまだ静かだが、すぐにこの下町の路地も活気づくだろう。
橋の街モーガルは、西の聖王国でも屈指の大都市だ。
聖王国へ行く者、出て行く者。
街に住む者。
人の出入りを商機と、夢に胸をふくらませて移住してくるもの。
聖王国の大都市としてふさわしい明るい街の姿があれば、影のようにうらぶれた下町がある。
ここが、そうだ。
オーナ
そして春の前触れの荒天に足止めされながらも橋の街モーガルにたどり着いたのが、先月の冬の中月17日。
「……ニールのやつに、どう言えばいいんだ」
下町で買い取った平屋の一軒家の窓を静かに閉めて、まだ薄暗い室内に視線を戻す。
たったひとつのベッドには、マギーが丸くなって寝息を立てている。ニールは床で毛布にくるまっている。
見慣れすぎた光景だ。
彼らとの共同生活は、少しばかり楽しすぎた。
昨日マギーが煎ってくれた豆を口に運びながら、彼らを起こさないように寝室を出る。
台所兼食堂と寝室の二部屋だけの小さな家だが、フィオナ・ガードナーの一行が来るまでとわかっていれば、無駄がなくてちょうどいい。
テーブルの上の水差しを素焼きのコップに傾けて、一気に冷たい水を飲み干す。
「また、長い一日になりそうだな」
覚悟はできている。
もう、なりふりかまっていられない。
今度こそ、フィオナ・ガードナーを捕まえてみせる。
そして、名無しから吐き気がするほどの歪んだ世界を正す方法を聞き出さなければならない。
「おはよう、ファビアン」
「マギー、おはよう。昨日は大変だったな」
胸元に手をやっている彼女の顔が曇らせながら、自分の小ぶりなコップに水差しを傾ける。
「ニールのおかげでなんとかなったけど、本当にしつこかったんだから……」
彼女は、俺よりもいい飲みっぷりで水を飲み干す。
昨日、ニールとフィオナ・ガードナー一行の情報収集のために宿屋街に繰り出していた彼女に、執拗に迫ってきた男がいたらしい。
なんでも、オーナ大隧道で見つけた翡翠の髪飾りの出処をしつこく尋ねてきたらしい。
ニールのおかげでその場を切り抜けたからいいものの、今後気をつけなければならない。
何しろ、今では見かけない細かい細工が鋼に施されている。
指先ほどの大きさの髪飾りで輝きもくすんでいるからと油断していたが、見るものが見れば貴重なものだとわかるはずだ。
もしかしたら、大河を下る前に換金した街から目をつけられていたのかもしれない。
「ねぇ、ファビアン。昨夜も星を読んでいたんでしょ。どうだった?」
「ああ、そのことだが……」
そわそわして落ち着かない彼女を見るのは、これで二回目だ。そう、あの最南端の港町リュックベンの長い一日の朝と、今だ。
「マギーの星は、今日、祝言を挙げると告げ……」
「ちょっと待って! 祝言って、祝言って結婚よね、結婚?」
悲鳴のような声を上げて、彼女は顔を真っ赤に染める。
「やだ、嬉しいけど、でもぉ、やっぱり、そういうことは、いろいろとはっきりしてから、あぁああ」
「マギー、前にも言ったが俺の星読みはあてに……」
「やっぱり、ガツンってガツンって言ってからじゃないと、無理無理」
「……聞いてないな」
目の前で逃げ出した花婿の火竜に対して罵詈雑言をことあるごとに口にしてきた彼女が、嬉しそうに赤面して身悶えするとは思わなかった。
彼女の声に目が覚めたのか、目をこすりながらニールがやってきた。
「どうしたどうした? 一体何が……」
「聞いてよ、ニール! あたし、今日結婚するんだって。どうしよう、心の準備がぁあ」
「よかったじゃないか、マギー。ここまで来た甲斐があったというものだ」
「うんうん」
抱きついてきたマギーの肩を叩いたニールは、目を輝かせて俺を見る。
「ファビアン殿、俺も愛しのターニャと熱い抱擁を交わすことができるのだな」
「それがな、ニール……」
ため息をつかずには、いられなかった。
「どうしたどうした、ファビアン殿。マギーが花婿と再会できるということは、俺もターニャと再会できるということだろう」
ニールの言うことはもっともだ。
目尻を釣り上げた彼に、マギーも手放しで喜ぶことをやめた。
「何度も言っているが、俺の星読みはそれほど正確じゃない。だから、タチアナ・レノヴァの星の輝きが消えかかっているからって……」
「ふざけるなよ」
テーブルに拳を打ちつけたニールの声が、怒りで震えている。
「だから、俺の星読みはあてにするなと言っているんだ」
「だったら、マギーは……マギーのもあてにするなって言うのかよ」
そうだと首を縦に振ろうとしたが、マギーの右手がニールの頬を叩く。小気味いい音が、狭い家に響く。
「だったら、こんなことろで喚いてないで、さっさと捕まえに行くしかねぇだろ! 消えかけてるなら、消える前に捕まえる! わぁったか?」
「……あ」
言葉は悪かっただろうが、マギーの言うとおりだ。
椅子の背もたれにかけておいた毛皮のコートを羽織る。
「じゃあ、とっとと行くぞ。マギーの結婚のためにも、ニールの大事な許嫁のためにも、終焉へ傾いている世界のためにも」
リュックベンの一日よりも、長い長い一日は始まったばかりだ。
モーガルは橋の街と呼ばれているが、ゼラス大河の上に横たわる大都市だ。
南の都市連盟のタウデン市側の南門と聖王国側の聖門で、人の出入りを取り締まっている。船で大河を渡るにしても、一度限りの許可証をどちらかの門で入手しなければならない。
俺たちは、カフェのテラスから南門が荘厳な鐘の音とともに開かれるのを見守っている。
「いつも思うけど、すごい人ね」
花婿のウロコが入った小袋を両手で握りしめながら、マギーはいよいよ落ち着きをなくしかけている。
「そうだな」
ニールは、人であふれかえる大通りから目をそらさない。
出ていく者も、入ってくる者も、せわしない往来の中から、彼は大切な人を見つけ出そうと必死になっていた。その証拠に、テーブルで拳を強く握りしめている。
二つの門をつなぐ大通りが、この街を二つに隔てている。
俺たちがいる下流の西側に対して、大通りの向こうの上流の東側は、文字通り上流階級を中心とした富裕層の街だ。
大河の中間にあるというのに、視界の端でその存在を主張する領主館の尖塔。まるで、空の向こうの楽園へと向けられた不遜な剣のようだ。
この街の領主が真理派を支援していることくらい、何年も前から知っている。だから、鋭い赤褐色の尖塔が禍々しく見えるのかもしれない。
「……嫌な予感しかしないな」
口の中でつぶやいた言葉は、小さなテーブルを囲む友人たちには届かなかった。
大河の向こうで、朝日を背にして黒い影を作っていた風竜族の月影の高原を離れた太陽は、ゆっくりと確実に俺たちの頭上高くに昇りつめて通り過ぎようとしている。
雲一つない晴天。
昨日までの降りそうで降らない曇天が嘘のようではないか。
しらずしらずのうちに、俺たちの周りだけ張り詰めた沈黙が支配していることに気がつく。
ふっと滞り濁りかけた肺の中の空気を吐き出すのと、マギーが短く鋭い声を上げて両手で口をおさえたのは、ほぼ同時だっただろう。
「マギー、見つけたか?」
「ごめん、ニール。あの外套の男が、昨日のしつこい男に見えて……」
「あ?」
彼女の視線の先にいたのは、茶色の外套をはおった地竜の若者だった。
「たしかに雰囲気が似てるな、あの地竜」
通りの人混みをかき分けながら南門に向かう地竜は、花嫁探しの旅をしているには若すぎる。
都市連盟ならば、共同声明の関係で来ていることもあるだろうが、ここは聖王国だ。なにより、水に関わる街に地竜が好き好んで来るだろうか。
「妙だな」
「なにか、気になるのか? ファビアン」
「あんな若い地竜が、わけもなく一人でこんなところにいるはずがない。……ああ、そうか、行くぞ、二人とも」
多めに金を置いて席を立った俺は、二人を急かしながらフィオナ・ガードナー一行と合流する可能性が高いと説明する。
「まぁ、ファビアンの考えが外れても、南門の近くで待ち構えていたほうがいいだろうしな」
「そっちのほうが目的だろう? ニール」
人混みを足早にかき分ける地竜の若者を見失わないように、俺たちも足早に南門に向かう。
その時、異変に気がついたのは、俺だけだっただろう。
いや、気がついたというのは正しくない。
まだ俺の中に残っていたわずかな獣の本能が、警鐘を鳴らした。
「マギー、ニール!」
体が、とっさに動いた。
両隣にいた二人を抱き寄せると、轟音とともに足元から突き上げるような激しい揺れが襲ってきた。
バラバラと瓦礫が背中に降り注ぐが、両足に力をこめて揺れに耐えた。
すぐに激しい揺れはやんだ。
両腕の力を緩めると、悲鳴を上げる間もなく折り重なるように転倒した人々と俺たちの上に影が落ちた。
「ターニャ?」
影の主を見上げたニールが、信じられないような声で大切な人の名を口にした。
悲鳴すらあげられなかったマギーを支えながら、俺もニールの視線の先にあるものを理解した。
若々しい青のウロコの水竜。
水竜の腹の下に浮かぶ二つの水球の中には、若い娘が一人ずつ。
一人は細い金髪を編み込んだ北の帝国の娘。
もう一人は、リュックベン市で捕まえそこねた娘。
「……フィオナ・ガードナー」
それは、ほんの一瞬の邂逅だった。
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