ヴァン
冬の中月30日。
わたしたちは、西のブラス聖王国の入り口となる橋の街モーガルに接している都市国家タウデン市の郊外にいた。
市街地以外は、広大な麦畑が広がる麦の街タウデン市。
モール商会タウデン支部の二階からも、春を待つ麦畑とその向こうにゼラス大河が見える。残念ながら、橋の街モーガルは見えない。
どんよりと降りそうで降らない鉛色の曇り空は、わたしの憂鬱な気持ちによく似ている。
大河の方から吹いてくる風も湿り気を帯びていて、癖の強い髪が思うようにまとまらないのも、ただひたすら憂鬱だ。
半月前に離脱したアンバーは、一足先にモーガルに着いていると、今朝タウデンの支部長から教えてもらった。モーガルで合流するように、と。
「むぅ。なんでモーガルで合流しなきゃいけないのかなぁ」
窓枠に頬杖をつきながら、ため息をついてしまう。
まだ昼前だというのに、今朝から何度目のため息だろう。
ずっとだ。ずっと、わたしは仲間たちと距離をおいている。
窓の下の塀に囲まれた庭では、ターニャとローワンが戦斧と両手剣を手に打ち合っている。
二人ともリュックベンでの苦い経験から、もっと強くなろうと決意してくれたらしい。
ターニャとローワンは、自分の婚約者と花嫁が探していることを知らない。知っているのは、アーウィンとわたしだけ。
わたしたちがリュックベンを去った後、毎日アーウィンの水鏡で星辰の湖へ状況報告する中で、その騒動を知らされた。
「ローワン、踏みこみが甘いぞ!」
真理派と戦ったローワンに加勢してくれた二人組の帝国人が、ターニャの婚約者だったと聞かされたときは、本当に驚いた。わざわざターニャを探しに、ガードナーベーカリーまで訪ねてきたらしい。
さらに、帝国の第四皇子で、真理派と一緒に拘束された彼の脱走に手を貸したのが、氷刃のディランの息子で人間びいきのドゥールと、ローワンが逃げ出した花嫁だという。
「くっそ……また一本取られたなぁ」
陽炎の荒野で花嫁が待っていると信じて疑わないローワンは、この探索の旅で活躍してから花嫁と再会したいと度々口にしている。
花嫁との再会を夢見る彼に、ターニャの婚約者とともに行方をくらませたと、教えられるわけがない。
「むぅ。なんか、うらやましい」
わたしも、ローワンの花嫁みたいに、花婿に思われたい。
窓の下の二人は、再び自分の腕を磨くために、戦斧と両手剣を構える。
そう、自分の腕を磨くためだろう。
「むぅ」
お姉ちゃんがいたら、無理矢理にでもわたしを笑顔にしようとするだろう。
わたしらしくない。
まるで、出口のない暗い森に迷いこんでしまったみたいだ。
こんな所でむくれていてもしかたないと窓を閉めたはいいけど、行き場所も特にない。どうしたものかと、与えられた部屋を見渡していると、誰かがドアを叩いた。
「フィオ、ちょっといいかな」
「ヴァン? いいよ」
仲間たちと距離をおいているのはわたしの方だけで、彼らは今までと変わらない。
はにかみながら部屋に入ってきたヴァンの手には、パンかごがあった。お昼には早いけども、わたしは食欲をそそられた。気のせいだろうか、かすかにマーマレードの匂いがするから、余計にだ。
「昨日、やっと手に入ったんだ。フィオが喜ぶんじゃないかって、ほら」
「ヴァン、それって、もしかして、お父さんのマーマレード?」
彼がテーブルに置いたパンかごから取り出した瓶に、わたしは目を輝かせた。
それは、間違いなくガードナーベーカリー自家製マーマレードとして、店先に並んでいるものだった。さすがに、パンまではお父さんが作ったものではないけども、充分すぎるほど、嬉しい。
「食べていいの?」
「もちろんだよ。フィオが喜ぶ顔を見たくて、リュックベンから取り寄せたんだから」
「ヴァン、ありがとう!」
「わっ」
思わずヴァンを抱きしめると、彼は困ったように笑ってわたしの腕をほどいた。
「フィオ、早く食べなよ。俺がこうして、フィオと二人っきりで話しているってバレたら、ライラになんて言われるか……」
「……どうして、ライラ?」
しまったときまり悪そうな顔でヴァンは、わたしにテーブルの椅子に座るようにうながした。
「フィオがずっと元気ないけど、時間が解決してくれるだろうから、そっとしておこうって、さ」
「えっとぉ……」
一なる女神さまへの祈りも忘れて、わたしは丸いパンを半分に割り、マーマレードを塗る。
「アンバーがいなくなってからは、特にひどかったよ。全然笑わないし、何を食べても美味しそうな顔しない。疑心暗鬼になっているなってのは、あのローワンだって察して心配してたんだし……」
「…………ごめん」
まったく気がつかなかった。
わたしのことを、世界竜の花嫁としか見られていないのではという疑念のせいで、仲間たちが心配してくれているという考えすらなかったのだ。
「それで、なんでライラがでてくるの?」
情けない気持ちを少しでもまぎらわそうと、マーマレードをこれでもかとたっぷり塗ったパンをかじる。
「ローワンが……っていうか、俺たちがフィオの相談に乗ろうとしたら、ライラがそっとしておいてやれってさ。俺たちが何を言ってもしかたないって」
「……むぅ」
意外だったと言ったら、ライラに失礼だろう。けれども、これから向かうブラス聖王国の王女という肩書きなしでライラを見ることが、わたしにはできていなかった。
「何を言ってもフィオは素直に聞いてくれないだろうって、ライラに言われて、なんとなく、あの頃の俺に似てるなって思ったんだ」
黙々とパンをかじるわたしに、彼は力なく――それでも優しい笑顔で、肩をすくめる。
「フィオが月影の高原に来るまで、俺も誰かの『美味しい』が素直に聞けなかったから、さ」
「そう、だったけ?」
「そうだよ」
確かに、わたしが出会った頃のヴァンは、内気でちょっと卑屈なところがあった。
「ほら、俺、
「そう、だったん、だ」
彼が料理を始めた
好きで始めたのではないのだと、意外な思いにパンをかじる手が止まる。
頬をかきながら、彼は窓の外を見る。
「そうだったんだよ。劣等感の塊の俺にとって、家族の『美味しい』は、慰めとか、義理に聞こえて、そんなことを考える自分が嫌になる。フィオも、そうなんだろう?」
「……うん」
そういえば、月影の高原で最初に食べたヴァンの料理は何だっただろうか。
思い出せない。
彼の作る料理はすべて美味しいから、思い出せない。
ただ、小ロイドに料理人だと紹介され、『美味しい』と言った時に、驚いて顔を真赤にして走り去ったヴァンなら、覚えている。
「俺にとって、フィオの『美味しい』は特別だったけど、俺は何を言ってもフィオの特別にはなれない。わかっているんだ、そんなこと」
「ごめん」
「謝らないでよ」
窓際のスツールを寄せて向かいに座った彼の顔を見ることができなかった。
「俺たち竜族にとって、花嫁は本当に特別なんだ。人間のように、誰でもいいわけじゃない。本当にたった一人だけなんだ。ウロコを握りしめて生まれてきてくれた女性にだけ、発情できるんだ」
「は、発情って……竜に花嫁は、たった一人きりって、そういう……」
思わず上げてしまった顔は、真っ赤に染まっていたに違いない。
そんなわたしがおかしかったのか、彼はクスッと笑っていた。
「そういうことだよ。知らなかった?」
「し、知らなかった」
よくよく考えてみれば、わかりそうなことだった。
花嫁もまた月のものが始まるのは、花婿にウロコを返した後なのだ。
「だ、だからって、言い方、あるじゃないの」
「そうだね。あったかもしれない。でも、どんな言い方しても同じことだ。俺だって、フィオみたいな女の子と話すのは、抵抗あるし……でも、今のフィオに知ってほしいんだ」
居住まいを正したヴァンの真摯な眼差しから、わたしは目をそらすことができなかった。
「フィオが竜の森にやってきてから、フィオに恋心を抱く竜がいたんだ。それもかなりの数」
「うそ、でも……」
「いたんだよ。フィオは気がつかなかっただろうけど、
それは、とても残酷なことなのだろう。
食欲なんて、すっかりなくなってしまった。大好きなマーマレードを塗ったパンは、ずっと膝の上の手の中にある。
「フィオは悪くない。もちろん、恋心抱いたやつらも。人間も言うんだろ、『初恋は実らない』って。時間が、解決してくれるさ」
「……ヴァンも、そうだったの?」
おそるおそる尋ねたわたしに、彼はまさかと笑って肩をすくめた。
「もし、俺がそうだったら、長は俺を選ばなかったよ。この旅に志願した風竜族は、俺もふくめて百はくだらなかった。そのほとんどが、フィオに恋をしていたから、選ばれなかった。俺にとって、フィオは……」
ヴァンは、出会った頃のような恥ずかしがり屋の笑みを浮かべた。
「フィオは、劣等感の塊だった俺を変えてくれた恩人なんだ」
「そっか」
すぐに言葉にするには、複雑な気分だった。
ただ、少しだけ気が楽になったのは間違いない。
マイペースだと言われている風竜のヴァンが、わたしの知らなかった事情まで話してくれたことが、嬉しかった。不思議なくらい、素直に受け止めることができた。
なんだか、急に自分が恥ずかしくなって、パンにかじりついてごまかさずにはいられなかった。ごまかしきれたとは思えないけど。
そんなわたしに、ヴァンはもう一度居住まいを正した。
「フィオ。モーガル……いや、聖王国へ行くの、やめないか?」
「え?」
パンをかじる手が再び止まった。
「今のフィオに確証ない理由を話すわけにはいかないけど、聖王国は危険すぎる」
「…………」
「ごめん、フィオ。でも、ちゃんと考えてくれないかな。真理派が一番多いのが、聖王国だ。始まりの女王の国だからって、世界竜の手がかりがあるって確証もない。明日の出発までに、よく考えてくれ。それでも行くなら、俺もフィオを守るよ。世界竜の花嫁とか関係なく、恩人のフィオには幸せになって欲しいんだ」
じゃあと、立ち上がった彼の顔を、見ることができなかった。
そもそも聖王国へ行くことになったのは、長たちの指示で、わたしの意思ではないからだ。
もちろん、ヴァンもそのことを知っている。
もしかしたら、今日まで彼も何か悩んでいたのかもしれない。
静かに閉められたドアの音を聞いてから、わたしはすっかり美味しくなくなってしまったパンの残りを食べた。
「むぅ、本当にわたしらしくなかったわね」
仲間たちの思いを疑うあまり、何も見えなくなっていたようだ。
聖王国が本当に危険かどうか、今すぐにでもライラに尋ねようと、両頬を叩いて部屋を出た。
ライラはすぐに見つかった。
大きな納屋の中で、あの馬車の積荷を確認していたようだ。
わたしに背を向けている彼女に声をかけようとした時、彼女が死角となっている荷台の奥に向かって投げかけた言葉を聞いてしまった。
「あなたも苦労するわね、アーウィン。フィオのこと、愛しているんでしょう?」
心臓が凍りついた。
もし、荷台の奥にアーウィンがいるなら、ムキになって否定してほしかった。
「僕のエゴだから、苦労も何もないよ。どんなに愛したって、報われないことくらいわかってるし。ライラ、たのむから、フィオに余計なこと言うなよ。フィオのことだから、絶対に……」
「わかっているわよ。わたくしも、フィオのこと好きですもの」
あの生意気なアー坊が、どうして。
どうして、気がつかなかったのだろう。
違う、気がつかないふりをしていただけかもしれない。
わたしなんかと関わらなければ、彼はきっと今ごろまだ見ぬ花嫁を夢見る若者でいられたはずだ。
気が遠くなりそうだった。
目の前が真っ暗になりそうだった。
気がついたら、わたしは与えられた部屋で泣いていた。
「今すぐ、わたしを迎えに来てよぉ、ねぇ」
小袋から取り出して握りしめた黒いウロコは、何も答えてくれない。
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