父と子 〜真実の鍵〜

 アンバーにとって、父の一枚岩のヘイデンは、いつか乗り越え無くてはならない壁だった。


 彼は生まれたときから、地竜族の長の息子だった。

 物心がついた頃から、父のようになるのだと理解していた。

 地竜族の父であり、彼の父でもある一枚岩のヘイデンを、彼は純粋に尊敬していたのだろう。たとえ、実兄の失踪にまつわる根拠なき悪い噂も、風竜族の長を友と呼ぶ奇行など、玲瓏の岩窟でもよく思われていないとしても、一枚岩のヘイデンはよく地竜族をまとめてくれていた。


 リュックベン市の式典の日。

 アンバーの父への信頼が、揺らいだ。

 大事な言いつけと聞かされた用事のすえにたどり着いた果樹園の納屋で見つけたのは、拘束されて弱っていたターニャとヴァン。わけがわからないまま、介抱しているうちに、フィオとローワンを連れてきたのは、生まれる前に失踪したはずの伯父だった。


 そして、初めて知った。

 失われた土竜もぐらの術を見出みいだし、人間社会に紛れ込んでいたことを。

 リュックベン市で真理派が守り育ててきたフィオを襲撃することを知っていながら、その襲撃を利用しようとしたことを。

 式典で、伯父の妻を舞台に上げて群衆を鎮めたことを。


 アンバーは、怒りすら覚えた。

 実の息子ですら、時には駒として利用する父であることは、理解しているつもりだった。

 そのことも含めて、彼は父を乗り越え無くてはならない大きな壁だと見すえてきた。

 理解している、つもりだったのだ。


 仲間たちと別れ、玲瓏の岩窟を目指す彼の翼を動かしていたものは、なんだったのだろうか。


「本当は、フィオが死んでもよかったんじゃないのか」


 玲瓏の岩窟の外の姿である岩山が見える森の中で、彼は一度だけ翼を休めた。

 実のところ、どうしたいのか、彼自身わかっていなかったのかもしれない。


 父の何を知りたいのか、知ってどうするのか、答えの見つからない問いを再び思い巡らせていた。


 果樹園で伯父から聞かされた言葉を、何度胸の内で繰り返してきたことか。


『僕は、弟にすべて押し付けたからね。僕から話せることは何もないよ』


 ただ、父のことを知りたい。知ってしまうのが、恐ろしい。

 なによりも彼にとって恐ろしかったのは、このまま旅を続けることだったに違いない。



 アンバーが、竜の森の東にある玲瓏の岩窟に戻ってきたのは、沈んだ日の名残がかろうじて西の空に留められている頃だった。

 突然戻ってきた彼に驚いた見張り番の地竜から、父の居場所を聞き出した彼は、何があったのかと心配する声を無視して父の元へと急いだ。


 数ある貯蔵庫の中でも、もっとも広い第一貯蔵庫に、ヘイデンはいた。

 人間の姿で、倉庫番のキースと十日に一度の一族の食糧の振り分けの準備をしていた。一族の父とされる長の重要な仕事の一つでもあった。


 眉間にしわを寄せて見上げてきた父に、アンバーは慌てて人間の姿に変化し、頭を下げた。


「父さん、価値のある情報を持ってきました」


 アンバーの声は、とても強張っていたに違いない。

 無言で続きをうながした父が、価値のある情報と言えば関心を持つだろうと、彼は知っていた。だが、フィオナの夢に、どれほど価値があるのか、自信などなかったはずだ。


 ヘイデンのかたわらで見守る羽目になった倉庫番のキースは、気が気でなかっただろう。価値がない、時間の無駄だったと、旅を放棄して帰ってきた息子に、いつ怒りをあらわにするのかと、胃が痛んだことだろう。だが、それは杞憂だった。


 顎をさすりながら話を聞き終えたヘイデンは、かたわらの若い倉庫番を見やる。


「倉庫番のキース、木挽こびきのドミニクに急ぎ伝えろ。手の空いた者、数名連れ、オーナ山脈に異変がないか調べるようにと」


 キースが、走り去る頃には、アンバーもフィオが見た夢が失われたオーナ大隧道だいすいどうを示していたのだと気がついた。

 父のようにすぐ気がついてもよさそうなものをなぜと、アンバーは拳を握りしめ唇を噛んだ。


 二人きりになった広い貯蔵庫で、先に口を開いたのは父のヘイデンだった。


「それで、何をしに戻ってきた?」


 アンバーは、驚きを隠せなかった。父から声をかけられただけでも予想外だったというのに、その声には我が子を心配する響きがこめられていた。その彫りの深い顔にも、心配そうな表情が浮かんでいるのだから、間違いない。

 思えば、そんな父の顔を久しく見たことがなかった。


 口を開けては言葉を探しに口を閉ざす息子が何をしに来たかなど、尋ねなくとも、ヘイデンにはわかっていた。

 遅かれ早かれ、いつかは戻ってくるだろうと、わかっていた。


「来なさい」


 ヘイデンは軽くため息をついて、広い貯蔵庫の奥へと足を向けた。


 後ろをついてくる息子は、賢い。

 もう、悟っていることだろう。こうして旅の途中で戻ってくることを、父が予想していたことを。

 幻滅させてしまっただろうか。

 それもまた、想定内だというのに、ヘイデンの胸は痛んだことだろう。地竜族の長として、一族の父である前に、彼は一人息子を愛する父でもあったのだから。


「……父さんは、フィオにもしものことがあったら、って考えなかったのかよ」


 やっとしぼり出しただろう息子の声は、押し殺しきれなかった怒りに震えていた。

 真っ先に守り育ててきた少女のことを訪ねてくるあたり、彼女のことがよほど好きらしい。と、ヘイデンは驚いた。

 彼女が玲瓏の岩窟に滞在していた二年間、あえて妻のユリアをはじめとしたおんなたちに彼女の世話を任せて、息子と深くかかわらないように注意を払ってきた。旅立つ前にも、自分の花嫁ではないのだから特別な思いを抱かないようにと、諭してきた。

 ヘイデンが答えるまで、五歩は進んだ。彼にしては、時間を要したほうだ。


「もちろん、考えていた」


「だったら、なぜ!」


 たまりかねた様子で、アンバーは父の前にまわりこみ、正面からなぜと訴えた。


「花婿の世界竜に花嫁の存在を知らせるだけなら、他に確実な方法がいくらでもあったはずだ。それなのに……」


「俺は、世界竜族の再来を望んでいない」


 足を止めたヘイデンの答えに、アンバーは信じられないと目を見開いた。


「お前はどうだ? 本当に、心から世界竜族の再来を望んでいるのか?」


 もちろんと答えようとして、アンバーは開きかけた口を閉じた。

 世界竜族の再来を望むのは、四竜族ならば当然のこととしてきた彼は、それが自分の望みだと言うことができなかった。

 自分で考えることもせずに、当然のことと望んできたことに気がつき、愕然としている息子に、ヘイデンはいくぶん口調をやわらげた。


「お前を咎めているわけではない。北の老賢者亡き後、誰も世界竜族を見たものはいないというのに、四竜族は花嫁を守り黒い都の栄光を取り戻そうとしている。お前だけではない、四竜族の誰もがそうだ。……だが、人間たちはどうだ? 古の竜族と呼び、伝説の中のみ語られる竜王に、今さら膝を折ることができると思うか?」


 アンバーは、答えられなかった。いや、答えたくなかった。認めたくなかった。

 少しの間とはいえ、人間社会に関わった彼には、真理派でなくとも抵抗する声を上げる人間たちの姿が容易に想像できてしまったからだ。

 そもそも、自分もまだ見ぬ世界竜族の生き残りに膝を折ることができるのだろうか。


 アンバーは、考えたくなかった。それでも、考えてしまうのが地竜族だ。

 だから、やがて見知らぬからと、再来を望まない理由にはならないことに、すぐにでも気がつくだろう。

 息子が前向きな答えを見つける前に、ヘイデンはため息をつくように後ろ向きな答えをこぼした。


「俺は、真実を知ってしまった。世界竜族の再来を認められない真実を、だ」


「……真、実?」


 ヘイデンは茶色の長衣の下から、首に丈夫な平紐で下げていた鈍く光る金属片を取り出した。


「四竜族の長の証の指輪は、名も無き始まりの竜王から与えられた。だが、その指輪とは別に、我ら地竜族の長に受け継がれてきた物。なんと呼ばれているか、知っているだろう?」


「真実の鍵……です」


 久しぶりのことだっただろう。

 一人息子のアンバーは、ヘイデンにとってよき教え子でもあった。それも、息子が十歳になる頃までのことだが。

 今、アンバーは、自覚はないだろうが、好奇心旺盛な教え子の頃の顔に戻っている。


「そうだ、真実の鍵。知の地竜族の象徴として指輪と一緒に、長に受け継がれてきた」


 その拳ほどの大きさの金属片は、指の太さほどの金属の棒を曲げて角のないひし形をかたどっていた。

 鍵と呼ぶには、あまりにも奇妙な形だが、あくまで知の象徴シンボル。なぜ、その奇妙な形が、鍵と呼ばれているのかという謎は、地竜族の間でも長いこと議論の対象となっていた。

 首から外し、手の上でもてあそびながら、ヘイデンは冷たく笑う。


「鍵には、鍵穴がある。そんなことも、我が一族は忘れてしまったらしい」


「それは……」


 長のみに鍵穴の存在を伝えられてきたということだろうかと、玲瓏の岩窟でも最大の謎とされてきた答えが、そんな簡単なものでいいのか。戸惑う息子に、ヘイデンは軽く首を横に振った。


「おそらく、鍵穴の存在は嘆きの夜よりも前に、忘れ去られたのだろうよ。我らが祖が、隠し守り続けた真実を、見せてあげよう。もっとも、俺のように世界竜族は滅びるべきだと、考えるに至る覚悟があるなら、な」


 アンバーは迷わなかった。

 どのみち、このままでは前へ進めない。父の思惑通りに事が進んでしまったと悔しくもあるが、覚悟を決めるしかなかった。知らなければよかったと後悔するかもしれないが、父の後をついていくしかない。


「行くよ。でも、父さんと同じ考えに至るとは、限らない。僕は旅を続けたいんだ」


「……来なさい」


 ヘイデンはため息を押し殺して、貯蔵庫の奥へと歩を進めた。


 玲瓏の岩窟は、岩山の中の迷宮だ。

 めったに使われることのない古い道も多く、その全容を把握するのは、長でも無理だと昔から言われていた。

 貯蔵庫の棚の影に隠れていた鍵穴へと続く細い道の入り口を、アンバーは存在すら知らなかった。


 松明を片手に、父は息子にどうやって忘れ去られた鍵穴を見つけたのか、淡々と語った。

 次男ということもあって、父に顧みられることのない孤独な幼少期に、こうしたひと気のない場所は、居心地が良かったのだと。だから、鍵穴を見つけたのは、偶然でしかなかったと。見つけたからには、鍵を使いたくなるのは、当然の流れだったと。

 彼は、淡々と語りながら、その手の中で真実の鍵の形を変えていく。


「……指輪と違って、この鍵は常に居間に飾られていたから、誰にも気づかれずに、真実へとたどり着くのは、そう難しいことではなかったよ」


 浮き彫りレリーフすらない、古い道の何もないところで、彼は足を止めた。


 鍵穴は、床と壁の隙間にあった。知っていなければ、決して気がつかなかっただろう。

 身をかがめ、今では鍵らしく見える真実の鍵を鍵穴に差し込んだヘイデンの横顔を、松明が照らす。彼をよく知らない者が見れば、温厚そのものの穏やかな笑み。けれども、息子のアンバーから見れば――


「我が一族が鍵穴の存在すら失うほど秘め隠し続けてきた真実を、その目でしっかり見てきなさい」


「父さん、少しでいいから、その真実がどういうものかを……っ!」


 嫌な予感しかしなかったアンバーが、急いで世界竜族が滅んで当然だと考えるに至る真実を父の口から語らせるべきだったかもしれないと気がついた時には、もう遅かった。

 ヘイデンは鍵を回して、真実への扉が開かれた。

 真実への扉は、床にあった。つまり、音もなくポッカリと空いた穴に、アンバーは落ちていくしかなかった。


「早く変化した方がいい。結構深いからね。それから、明日、暇を見つけて様子を見に来る」


 小さくなる穴の縁から父の声が降ってきた。

 息子に認められていない者が長の指輪をはめるとどうなるか実験台に使われて、酷い目にあった時と、ヘイデンは同じ笑顔を浮かべていたのかもしれない。


「こんのクソ親父ぃいい」


 音もなく扉が閉まる間際に聞こえてきた息子の悪態に、ヘイデンは笑った。


「あの様子なら、俺とは別の答えを見つけるかもしれないな」


 それが、ヘイデンの期待であり、望みでもあった。

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